記憶喪失
旅籠屋の夕食は玄関すぐの廊下、その右手奥にある畳が敷かれた大広間で集まって食べることがこの旅籠屋の決まりだ。
ローグとユラシルの前に並ぶのは素朴ながらも温かみのある食事たち。
粟と麦を混ぜた粥は湯気を立て、野菜のスープからはほのかな出汁の香りが漂う。メインの肉は、甘辛いタレにしっかりと漬け込まれ、香ばしく焼かれていた。
ユラシルは粥を一口食べるとすぐに顔を綻ばせる。
「美味しい……」
「だろ? ここの飯は本当に美味い」
「はい! なんだかポカポカします」
味も見た目も派手ではない。
初めて食べたのにも関わらずじんわりと懐かしさが広がる、そんな優しい味だった。
タレに漬けられた肉もちょうど良い濃さと固さで食事を進ませ、そんな口を休ませるような野菜のスープは口当たりの良いものとなっている。
食事に舌鼓を打っていたユラシルがふと隣を見ればローグが酒を盃に注いでは傾けていた。
「ん? 飲むか? ちょっと酒精が強いけどまぁ飲みやすいぞ」
「あ、えっと、私は……私、は」
そこから先の言葉が出てこず、ユラシルはそのまま黙り込んだ。
ローグの質問に思考がスープから上がる湯気のように揺らぐ。
(──お酒を飲める歳だったけ?)
そんな単純な疑問がまるで石を投げ込まれた水面のように次々と波紋を広げていく。
──そもそも、歳はいくつなんだろう?
──なぜ、ユグドラシルに1人でいたんだろう?
小さな違和感。そういうこともある、と流していたものが明確な形となりユラシルはその表情に影を落とした。
「私、年齢がわかりません。そもそも、なんで1人でダンジョンにいたのかもわからないんです」
深刻な表情で吐かれたその言葉がとぼけているのではないことはすぐにわかった。
ローグは先ほどまでの和かな表情を盃を傾けて消すと静かな口調で問いかける。
「ユラシル、君ができるのは?」
「魔術と蟲を操ること……」
「それは誰から教わった? ユラシルという名前もだ」
「わかりません。ただ漠然と覚えてたって感じで。名前は、頭の中に浮かんで……誰に名付けてもらったのかは」
「なぜユグドラシルに?」
「気が付いたらそこにいて、ただ逃げなきゃって思って……」
「何から逃げなきゃいけないと思ったんだ?」
「それは……」
わからないと言いながらも答えを返し続けていたユラシルだったが、最後の問いには言い淀んだ。
(私は、なにから逃げようとしてたんだろう?)
自分へ問うがやはり答えはない。
ただ漠然と「ユグドラシルから出なければならない。逃げなければならない」という感覚だけがあった。
意識を向けてようやく薄っすらと浮かんできたのは漠然とした──敗北感。
(私は……なにに負けたんだろう?)
完全に黙り込んでしまったユラシルを一瞥して肉を口に放り込んだローグは盃に酒を注ぐ。
(記憶喪失、か)
ローグは盃を傾けながら、目を細めた。
表面上は落ち着いているものの、頭の中では様々な可能性が浮かぶ。
(仲間は相当酷い殺され方でもしたか? トラウマで記憶を失う……そういうことはある。
いや、それにしては変だ)
ローグは探索者として数々の悲劇を目の当たりにしてきた。
恐怖や衝撃で一時的に記憶を失うことはあるが、ユラシルの場合はなにか違和感が残る。
侍らせる蟲がいないのは全滅したと考えられるが、魔術師ならば何よりもまず【触媒】だ。形は様々で定番どころは杖や魔導書。
有能な魔術師は指輪やネックレスなどの小さなアクセサリーでも問題ないと聞くが、必要なのは間違いない。
しかし、ユラシルはそんなアクセサリーすら持ち合わせていない。どこかで落としたような素振りも見せていない。
服は丈夫そうでかつそこそこ値が張りそうなものなのにも関わらず、触媒だけ持っていないというのは不自然だ。
(これじゃまるで最初からなにも持っていなかったみたいだ)
浮かんだそれを一蹴するようにローグが盃を空にしたところで男性の声がかかる。
「宿は質素なんだが飯と酒は美味いなぁ」
「ははっ、違いねぇ!」
2人が自然に会話に入ってきたことに少し驚いたユラシル思考を現実に戻したが、なんと返せばいいのか分からずローグの方を見た。
彼は向けられた視線に安心させるように小さく頷いて慣れたように返す。
「そんなこと言ってると女将さんにどやされるぞ」
「そりゃおっかねぇな。やめやめ」
「そうだな。この話題はやめだ」
言った男性はローグとユラシルを見て問いかける。
「なぁ、兄ちゃんたちは探索者かい?」
「ああ、そうだ。そういうあんたらは?」
「俺らはただの旅人さ。色んなところに行って色んなところの飯を食って酒を飲む! そんなのが目的のな」
「ふーん。ただの……ね」
小声で呟かれたローグの目が鋭く光った。
ユラシルはそう感じたがまるでそれを「気のせいだ」とでも言うかのようにローグは柔和な表現を浮かべる。
「今までどんなところに行ったんだ?」
「ん? そりゃな──」
そうして男3人は酒を呑み交わしながら和やかな雰囲気で会話を始めた。
◇◇◇
夕食を終えて部屋に戻ったローグとユラシルは互いに水を飲んで一息ついていた。
「悪いな。なんかほったらかしみたいにしちゃって」
「あ、いえ、その……お話とても面白かったですし」
答えたユラシルはそのまま黙り込んだ。
今は自分が記憶喪失だという現実を必死に噛み砕くことで精一杯なのだろう。
こういう場合の対処法などローグは知らない。少し遠くから見守る方がいいのか、積極的に関わる方がいいのか。
思考の沼にハマり始めたことを自覚した彼は首を横に振る。
(……ダメだ。このままじゃ俺まで滅入ってくる)
どういう距離感を取ればいいのかはわからないが、少なくとも自分も落ち込んでいるようことがユラシルにいい影響をもたらすとは考えられない。
そう結論付けたローグは膝を叩くと立ち上がって提案した。
「んじゃ、風呂行くか」
「お風呂ですか……?」
「ああ、気分は乗らないだろうけど、だからこそ体の疲れだけは取ったほうがいい。明日からは帝都に向かう準備をしなきゃいけないわけだしな」
一瞬断ろうとしたが、その言葉を飲み込んだユラシルはゆっくり頷く。
ここで悩み続けていても答えは出ない。
ならば彼の言うとおり体の疲れだけでも癒しておくべきだろう。
彼女は旅籠屋の女将から借りた着替えを持ち、迷路の中にある思考を引き連れてローグの案内で風呂場へと向かった。
◇◇◇
普通に使う分には余裕があるが、水風呂までする余裕はない。そんな事情からこの旅籠屋の風呂は蒸し風呂だ。
広々とした部屋の壁の一枚、その下側は長方形にくり抜かれ、そこから蒸気が流し込まれていた。その蒸気に直接当たらないように少し離れた位置に長椅子が複数置かれている。
しっとりとした熱を充満させている室内にはユラシルだけがいる。彼女は1人膝を抱えてなにもない壁をじっと見つめていた。
「私、これからどうなるんだろう……」
自分という存在も謎だが、今一番の不安といえばこれからの生活だ。
ローグに帝都まで案内されるのは決まっているが、そこから先はわからない。
彼の言葉にそのまま従うならばどこかのパーティに入ることになるのだが、正体がまるでわからない自分をローグのように受け入れてくれるものなのか。
「正体……か」
先の方が尖った形をした耳に触れ、自分の膝を見つめる。
ノーマや他の種族とも違うエルフ特有の形の耳と白い肌。
それを持つだけで周りからはエルフだと判断されるのだが、記憶がないという現状はユラシルにその認識を阻害させるに十分だった。
目を閉じて記憶を探るが、やはりそこだけ後からくり抜いたかのようにぽっかりとなにもない。
親の声や顔どころかどこで生まれて、何故ダンジョンにいたのかもわからない。
数少ないわかっていることは名前と自分が使える魔術と蟲を侍らせる方法ぐらいなもの。
「はぁ……」
(ローグさんとは違う綺麗な手……)
深いため息をついて見つめる自分の両手。とても探索者として生きていたとは思えないほどに細く綺麗な白い手。
自分で握りしめてみたが柔らかく、きめ細やかな肌はどこか生まれたばかりの赤子のような印象さえ受けてしまう。
「まるで生まれたばか……り」
そこでふとその考えに至る。
浮かんだそれを「ありえない」と一蹴しようとしたが、口はそれよりも早く言葉を紡ぐ。
「まるで、魔獣みたい」
長く探索者をしていたなら、小さな傷跡の1つくらいあるはずだ。
しかしユラシルの手はきれいなものだった。腕もそうだ。足や体のどこを見ても傷跡らしいものはなく肉付きも探索者にしてはあまりにもない。
蒸気が静かに流れる中、ユラシルはゆっくりと両手を握る。
「私、いったい──ナニ?」
ユラシルには握っている自分の手が恐ろしいなにかにしか見えなかった。