彼の居場所
大量のお湯が張られた湯船からゆらゆらと登る湯気。
それをぼーっと眺めながら昼間案内された屋敷を思い浮かべてローグは大きく息を吐いた。
「貴族の家っていうのはこうも色々大きくしなきゃいけないのか?」
彼が浸かる湯船は10人規模のサイズがあり、洗い場もそれに合わせてかなり広い。
贅沢だが孤独を際立たせているようでローグは落ち着かなかった。
右腕をふと持ち上げた。
エーリャの攻撃を受けた箇所には大きな痣ができており、動かすたびに鈍い痛みが走る。
(これ……折れてなくてもヒビは入ってるんじゃないか?)
組み手が終わったところでユラシルに治してもらうべきだった。
風呂から上がった後にでも頼みに行こうと思い、湯船から上がったところで声がかかる。
「入浴中失礼いたします。
ローグ様、よろしければお体をお流ししますが」
「え、あぁ、それは──」
「その右腕の原因は私にありますゆえ、その謝罪と治療もさせていただきたく……」
断ろうとしたローグの言葉を遮るエーリャ。
扉越しでもわかるほどに有無を言わさぬ物言いだった。
(なるほど。本人が気付かないわけもない、か……)
腕に痛みがあるのはたしかだ。
助けを申し出てくれるのならば、今はその厚意に甘えるべきだろう。
「ああ、じゃ、お願いしようかな」
「失礼いたします」
その言葉に続いて薄着を身につけたエーリャは洗い場に入るとローグの背中を手慣れたように洗い始めた。
「痒いところはありませんでしょうか」
「うん。ないよ。むしろ気持ちいい。
シルトなんて力任せで……ほんと、ちょっと痛かったんだ」
エーリャからローグの顔は見えないがその声は僅かに震えていた。
彼女もユグドラシルの一件は知っている。
ユグドラシルの王、ダスラが現れて暴れ回ったこと。
それを彼が偽王の力を使って止めたということ。
そして、彼が所属していたパーティメンバーが全員死んだということも。
(数年来を共にしていたヒトたちを一度に失ってなんともないわけがない。
おそらくユラシル様がいらっしゃるから……)
本当ならローグには立ち止まる時間が必要だ。
しかし、彼は止まれない。
そうしてしまえばユラシルが悲しむのがわかっているからだ。
だからローグは平静を装って今を過ごしている。否、過ごせている。
「良い、お方でしたか?」
「ああ、背中を安心して任せられるいい男だったよ。
酒飲み仲間だったしな」
そう語る声に震えはなく、その時の情景を思い出しているように感じられた。
エーリャは慰めの言葉を向けるような真似ができる立場ではなく、それができるほど彼らのことを知らない。
かわりに僅かな本心を込めた言葉を返す。
「ふふっ、惜しいですね。
私もこの立場でなければ共にできたというのに」
「エーリャとは……ははっ、不思議と一緒に酒を飲むのが怖いな」
「おや、なぜでしょう」
「んー、なんか視線が怖いっていうか色々と狙われてるって気がする。
……まぁ、気にし過ぎだな。
ごめん。貶すつもりはないんだ忘れてくれ」
なんとなくの印象を本人に語るというのは失礼なことだ。
つい口が滑った自分を戒めながらも感じている恐怖心を忘れるためにも笑い飛ばそうとしたローグだったが、そんな時にか細い言葉が耳に届く。
「鋭いですね」
「え……?」
反射的に振り向いた視線の先にいるエーリャはにっこりと微笑んでいた。
まるで「さっきの言葉は気のせいだ」とでもいうように糸目をさらに細めた笑みを浮かべている。
「エーリャ……さん?」
「敬称は不要ですよ。
それとそろそろ姿勢を戻していただけませんとお洗いできません」
「あ、はい」
わずかな恐怖が首をもたげるのを感じながらローグはエーリャに背中を向けた。
◇◇◇
脱衣所に上がったローグはエーリャから治療魔術を受けてから渡された服を見て問いかける。
「なぁ、俺の服はどこに?」
「勝手ながらお洗濯させていただいております。
私との組み手以前からの汚れも落とすため、少々お時間をいただきます。
そのため、しばらくはこちらをお召ししていただきたく」
善意から行った行動というのなら責めることはできない。
その服を見つめていたローグは少しの懸念を覚えながらもそれを着た。
紺を基調とした黄色の刺繍で精巧なレリーフが編み込まれた服は羽織がなくとも十分に高級感を醸していた。
姿鏡の前に立ち、そんな服に身を包んだ自分を見てローグは苦笑いを浮かべる。
「これ、俺が着られてないか?」
「いいえ。とてもお似合いですよ。
そのまま舞踏会に出られそうなほどに」
「ううん……そうかなぁ」
例えそれがお世辞だとしても褒められて悪い気はしない。
しかし、この儀礼的な服装は落ち着かない。
何より体全体を軽く締め付けられているような感覚が合わない。
それが表情に出ていたようでエーリャも苦笑いを浮かべた。
「申し訳ありません。
急がせますが夜までは我慢していただくほか」
「いいよ、急がなくて。
落ち着かないけどここなら戦うことはなさそうだし」
一度手を合わせたことで実力を知り、信頼できたローグの表情には心配の色はない。
それどころかエーリャや今洗濯をしているであろう者たちを労っている。
そのことに少し驚きながらも喜びを感じながらエーリャは一礼した。
「……承知しました。
では、少々お時間をいただきましたが屋敷をご案内いたします」
そういいながらエーリャが開いた扉の先にはユラシルとアーミュだけでなくルミリの姿もあった。
「あ、ローグ!
よかった。その服とっても似合ってるわ。
ね、ユラシル」
「え、あ、はい……とても」
突然振られたユラシルは少し言葉を詰まらせながらも同意の言葉を返した。
(似合っている。本当の貴族みたいに。
ローグさんにはこういう場所の方がいいのかもしれない。
ううん。戦場でないならばどこでも……)
戦場でなければ、アディターの力を使うことが絶対にない場所ならば彼はヒトより少し劣る程度の生を過ごせるだろう。
そこが彼の居場所としては良いはずだ。
そう思うが彼がそれを望むかどうかという疑問が同時にユラシルの中で形になっていた。
(ローグさんがそれを望む、わけが……)
思考の海に沈んでいくユラシル。
彼女の顔には本人が自覚していない内に影が落ちていた。
そして、ローグはそれを見逃すことはなかった。
「ユラシル?」
しかしその理由を問いかける前にルミリがその手を取った。
「屋敷を案内するってアーミュたちから聞いたわ。面白そうだったから私も一緒に着いてって案内してあげる」
「そ、それは大変光栄なことですが、よろしいのですか?
他にご予定があるのでは……」
「ないわ!」
胸を張って答える一方でルミリの視線はわずかに泳ぎ、ローグと目を合わせようとはしない。
少しの間を置いてローグはエーリャとアーミュを見た。
その視線を受けて苦笑とともにアーミュが答える。
「お勉強のお時間ですが、それをずらすということで」
その言葉はローグへと説明するものではなく、どこか念を押すような言い方だった。
加えてエーリャの本当に見ているかわからない視線を向けられてルミリがたじろぐ。
「お、お客様を持て成すのは屋敷主人の妹としては当然のことでしょう?
お勉強よりも大事なことよ!」
「その屋敷主人代理であるバートラ様より仰せつかったのが我々なのですが?」
即座に出されたエーリャの容赦ない言葉にもはや涙目すら浮かべそうになっていたルミリを見てローグが慌てて仲裁に入る。
「い、いいじゃないか。ほら、いつもと違うことがあると勉強にも集中できないし、それだと時間効率も悪い。
だから今日は目を瞑っても……いいんじゃないか?」
いつも何かと理由をつけて抜け出していなければこの筋で通るはず、と思っているローグを見て2人のメイドはそれぞれ息を吐いた。
「いつも何かと言って、下手をすると何も言わずに抜け出すこともあったりするんですが」
「ええ、お客様であるローグ様のお言葉であれば本日はそのように」
ほっと胸を撫で下ろすルミリを横目にしてローグもまた彼女たちの苦労が窺い知れてため息を吐いた。




