迷宮樹ユグドラシル
ルイベ帝国帝都の北東にそびえる、天と地を繋ぐかのような巨大な大樹──【迷宮樹ユグドラシル】。
内部は木のうろのような空洞になっており、上へ続く道や階層がある【樹】と地下に伸びる【根】に分かれている。
自然にできたものではなく何らかの意図があると推測されているが、その全容はいまだ明かされていない。
ユグドラシルの調査が進まない理由の1つが、そこに生息する魔獣の存在。
無尽蔵に発生し、通常の生物を超える能力を持つ彼らが立ち入る者たちの前に立ちはだかっているのだ。
しかし、魔獣の皮や肉、骨、体液は資源でもあり、加えて植物も驚異的な速度で成長するため、ユグドラシルは無限の資源供給地として帝国を支えている。
そんな無限の夢と死が交差する場所のそこへ果敢に踏み込む者たちがいた。
彼らへの敬意とある種の蔑称として、いつしか【探索者】と呼ばれるようになっていた。
探索者は基本的にパーティで行動する。最低でも3人、多くて8人。
「はあっ! はぁっ!」
そのため、ユグドラシルの中にある鬱蒼とした森をエルフの少女が1人走ることはありえないことだ。
「ッ!?」
伸びた根に足を取られそうになったところを急かすように木々の間を重いなにかが跳ぶ音が響く。
足元の泥が跳ねるように心臓も激しく脈打ち、興奮した獣の鳴き声がせわしなく追い立てる。
少女の背中の中ほどで切りそろえた金色の髪が荒々しく揺れ、若草色の瞳が必死に光を反射する。
(迂闊だった……! 群れが通り過ぎるまで待つべきだった!)
奥歯を噛み締め、走る。
長い腕と鋭い爪、枝から枝へと楽々跳び移れるほどの跳躍力を持つ猿型の魔獣──モラシュルは依然、彼女を追い立てていた。
8体のモラシュルたちは枝から枝へと狂気じみた速さで移動し、わざとらしく音を立てながら追い詰めている。
まるで獲物の恐怖を楽しむかのように、時折鋭い笑い声が上がった。
「キキッ!」
その内の1体が鮮やかな動きで前方へ大きく跳躍、彼女の進路を塞ぐように着地。光る黒い瞳には獲物を捕らえた満足感が浮かんでいる。
「……ィキキ」
少女は肩で息を繰り返しながら恐怖で瞳を見開いた。
(このままじゃ──)
──殺される。
彼女の確信を肯定するように目の前に立ったモラシュルが飛びかかった。
反射的に地面を転がった直後、彼女の頭があった場所をモラシュルの爪が切り裂き、木の幹をえぐる。
「ぅっ、くっ!」
かろうじて取れた受け身を取り、立ち上がった少女は再び走り出す。
行くあてはなくとも逃げるしかない。諦めるわけにはいかない。
これほど絶望的な状況でも、恐怖に体を固くさせながらも彼女が思考を止めることはなかった。
(どうにか撹乱して隙を作らないと……せめて1体でも注意を逸らせれば!)
その時──
「頭を下げろ!」
──鋭い声が響いた。
思わずしゃがみ込んだ瞬間、頭上で空気を割く鋭い音が通り過ぎる。
直後、モラシュルの胸に矢が突き刺さった。
「ギャッ!?」
一瞬の断末魔を上げたそれは鮮血を飛び散らせながら地面に転がる。
突如訪れた状況の変化に少女はもちろん、モラシュルたちもあっけにとられて動きを止めた。
「すごい……一撃で急所を……!」
エルフが感嘆の声を溢した直後、先ほどと同じ鋭い声が彼女の意識を殴る。
「なにをぼんやりしてる! こっちに来い!」
声の主は1人の青年だった。
黒い短髪に黄色のメッシュが一束。鋭い茶色の瞳には緊迫したものがありながらも冷静なものがある。
彼はすぐに次の矢をつがえ、今まさにエルフに飛びかかろうとしていたモラシュルの頭を狙う──
「ちっ!」
──時間はない。
しかし本能的に放たれた矢は乾いた音を響かせ、モラシュルの頭を貫いた。そこで少女はようやく我に返り、彼のもとへ駆け寄った。
その姿を一瞥、すぐに声を響かせる。
「耳を塞いで、目を閉じろ!」
命令口調だったが有無を許さない言葉に少女は迷うことなく従った。
それを一瞥することもせず青年は腰のポーチから小さな筒を引き抜き、狙いを定めて投擲。モラシュルの1体は鋭い反応を見せて青年に飛びつこうとしたが、遅い。
次の瞬間──閃光。
続いて「キーンッ!」という甲高い音が森を駆け抜け、強烈な光が周囲を染める。
「ギャッ──!!」
強烈な光に包まれたモラシュルたちの悲鳴が森に響き、それに続いて混乱したモラシュルが何体か地面に落ちる音が続いた。
「きゃっ……!」
状況を確認しようとした少女だったが、誰かに腕を引かれるままに走り出すしかできなかった。
手を引かれるままに走り出して数分。幸運なことにあれから魔獣に遭遇することなく森を抜けることはできた。
「はぁ……っ!」
緊張が解けた息を少女が漏らす。
そのまま腰を下ろした彼女を横目に、青年は大きく息を吐いて木に背を預けた。
「お前、モラシュルの縄張りに入りやがったな?」
「うっ……」
少女は言い返すことなく気まずそうに目をそらした。
言いたいことは山ほどあったが、ふざけていたわけではない様子を感じ取った青年はそれ以上の追及せず、ただ釘を刺す。
「モラシュルは単体なら脅威じゃないけど、群れになると話は別だろ」
「……すみません」
少女は尖った耳をしょんぼりと下げた。そこに不服そうなものはなく、心底から後悔している。
無謀なことをしていた割にずっと素直な反省の姿を見て青年はバツが悪そうに頭を掻いた。
「まぁ、無事だったんだ。次から気をつければいい」
「はい。本当にありがとうございました!」
ともあれ危機は脱したとなれば考えるのは次の行動。
「これからどうするか……。見た感じ装備品は全部なくなってるみたいだし、村に行って補給したほうがいいかもな」
青年の言葉を受けてしばらく考え込んでいた少女が躊躇いがちに申し出る。
「あの、もしよかったら……村まで送っていただけませんか?」
そこには不安の色が滲んでいた。
モラシュルの群れに追われ命からがら逃げ伸びたのだ。心細くなることも不安を覚えることも当然のこと。
青年は昔の自分と彼女を重ね合わせると背もたれにしていた木から離れて少女に笑みを向けた。
「いいよ。俺も今日は村に帰る予定だったからな」
そこでようやく彼女の名前を聞いていないことに気が付いた青年、ローグは咳ばらいを1つ。
「俺はローグ。君は?」
「あ、私は……ユラシルです!」
「ユラシルか。短い間だろうけど、よろしくな」
「はいっ!」
張り詰めていた緊張が解け、少女の若草色の瞳が柔らかく綻んだ。