祈りを込めて
ウィルリットは胸の中で眠るローグを愛おしげに見つめていた。
その寝顔は少年のように無防備で、彼女の胸に甘い痛みをもたらす。
掛布団から出ている尻尾が無意識にゆっくりと揺れ、部屋に差し込む月明かりは生んだ影を壁を踊らせる。
眠っていても触られた感触を感じてもぞもぞと動く彼に、ウィルリットは囁くように語り始める。
子どもに昔話を聞かせるような、しかし決して誰にも明かせない秘密を伝えるような声色。
「君は覚えてないかもしれないけど、私は君に救われたんだよ」
ウィルリットの種族、ビーストは定住をほとんどしない。
旅から旅を繋いで生きていく彼らは、その暮らしの中で、商人や詩人、探索者となる道を選ぶことが多い。
明日をも知れぬ不安定な生活に、当時のウィルリットは自分の居場所を見出せずにいた。
そんな彼女の前に現れたのがローグだった。
なぜ彼と話していたのかはもう覚えていない。
しかしそれでも、その場面だけは今でもはっきりと残っている。
「僕、ウィルリットと話すの楽しいよ」
「え?」
父のような商人になれるかわからず、自分の道に迷っていた彼女に向けられた言葉。それは彼女の心の中に、小さな灯火を灯す。
瞬きを繰り返すウィルリットにローグは突然「あっ!」と声を上げて身を乗り出しては瞳を輝かせた。
「詩人! 吟遊詩人だ!」
「え、ええ?」
「ウィルリットの声って聞きやすいし。うん! それがいいよ!」
その言葉はただの子供の思いつきだったかもしれない。
しかし、彼の一言は彼女の生き方を決定付けた。
目の前が明るくなるような感覚。迷っていた道に光が差し、朧気で形がなかった未来の自分が初めて輪郭を持った瞬間だ。
そして同時に思った。
(ああ……またこの顔が見られるのなら)
そうしてウィルリットは詩人になった。
言葉を紡ぎ、物語を語る術を磨いた。
数年後、両親から離れて駆け出しとはいえ吟遊詩人として旅ができるようになったころ。
ウィルリットは約束を果たすかのようにローグのもとを訪れた。
村の端にある小さな家。
木々に囲まれたその家に彼女が訪ねると、少し成長したローグが出迎えてくれた。
しかし、彼の顔には見覚えのない影が落ちている。
「そうか……エグランドさんが」
表情を暗く曇らせながらローグが語ったのは彼の父エグランドの死。
ウィルリットの顔にも影が落ち、耳としっぽが下がる。それを見たローグは慌てて口を開いた。
「でも大丈夫! 父さんほどできるとは言えないけど、母さんと暮らす分には心配いらない。ハルシュたちも協力するって言ってくれてるから」
誰の目にも明らかな強がり。
父親の死を自分のせいだと思い込んでいる子どもの、必死の笑顔。
それでも久々に会った友人には心配をかけさせまいとする優しさが言葉から滲み出ていた。
「……うん。そうだね。ローグはエグランドさんにだいぶ絞られてたし」
彼の心に入った大きなヒビ。
それを完全に埋めることなどできない。
それでもウィルリットは自分にできる精一杯のことをすると決めた。
「色々、話を仕入れてきたんだ。どんなのがいい?」
「あっ、じゃぁ──」
瞬間的に顔を輝かせたローグ。
その表情にウィルリットは胸を痛めながらも安堵を浮かべる。
彼女は一晩中、彼に物語を綴った。
その笑顔が続くように、悲しみが少しでも和らぐように、言葉で彼の心を包んだ。
それからさらに数年後。新しい話を仕入れたウィルリットは、また彼に会うため村を訪れていた。
昔と変わらぬ道を歩いていると、見慣れた姿が目に入る。
「あ、ハルシュ。久しぶりだね」
「ウィルリット! うん、久しぶり」
少し大きくなったハルシュに驚きつつも、ウィルリットはにこやかに尋ねた。
「また色々話を仕入れてきたんだ。
ローグは今の時間は家にいる? ユライカさんは元気?」
矢継ぎ早に出された質問にハルシュの表情が凍りつく。
ユライカ、ローグの母親の名前が出た瞬間、彼女の目に浮かんだものは恐怖に近かった。
言葉が喉に詰まったように口ごもる。
「ハルシュ……?」
──嫌な、予感がした。
冷たい風が背中を撫でたような感覚。
「……その、ことなんだけどね」
ハルシュから聞いた言葉を理解するまでに数秒かかった。
理解した瞬間、ウィルリットは荷物を放り出すように残して、村の外れにあるローグの家に走り出していた。
「はぁっ! はぁっ!」
汗が走ったことによって生まれているのか、それとも恐怖なのか判然としない。
早鐘を打つ鼓動が足を動かす力を生んでいるのか、それとも絶望から逃げようとしているのかわからない。
呼吸が苦しい理由などもはやどうでもいい。
「ローグッ!!」
ウィルリットはローグの家の扉を吹き飛ばす勢いで開け放った。
バンッ、という大きな音に目を丸くするローグは、驚きつつも肩で息を繰り返すウィルリットに優しく声をかける。
「ウィ、ウィルリット? 久しぶり、すごい慌ててるけどどうかしたか?」
駆け寄って顔を覗き込むのは、たしかにローグだ。
声も、表情も、昔から知る彼のままだった。
ただ、その目だけが違う。
生気のない、どこか虚ろな瞳。
人形のような、空っぽの容器のような目。
「あ、ああ……」
ウィルリットはその場に崩れ落ちるしかなかった。
その日の夜、ウィルリットはハルシュの家にいた。
「ローグ、ね。おじさんが亡くなった時は泣いてたんだけど、おばさんが亡くなった時は泣かなかったんだ。
私の前でも、泣かなかったんだよ」
「……ハルシュ」
「私、もうどうすればいいのかわからなくて!
いつも通りなのに、全然いつも通りじゃなくて怖いの!」
ハルシュの震える声に、ウィルリットはなにも言えなかった。
あれはよくない壊れ方だ。
ローグは自責という真綿で自分の首をゆっくりと絞め続けている。
心の中で、少しずつ消えていく彼をどうすれば救えるのか。ウィルリットにはわからなかった。
それでも1つだけ確信していた。
──あのままでは本当にローグという存在が死んでしまう。
どうにかしなければならない。彼の心をこの世界に繋ぎ留めなくてはならない。
その夜、ウィルリットは決心した。
「ローグ、その……私も初めてなんだ。うまくできるかはわからないけど、でも今は私だけを見てほしい」
──ローグと体を重ねた。
それでも、彼の壊れた心を癒すことはできなかった。
自分の無力さに打ちのめされ、ウィルリットは逃げるように村を離れた。
それからしばらくして、偶然にも帝都でローグと再会する。
シルトとトラスロッドという新しい仲間を紹介する彼の顔はウィルリットがよく知るもので、瞳にも光が灯っていた。
(良かった。もう大丈夫だ)
にこやかに所々物騒な話を続けるローグにウィルリットは心底から安心して笑みを浮かべる。
過去の罪悪感も今はただ彼の幸せを願う気持ちに変わっていた。
そうして吟遊詩人という職業で安定して生活できるようになったころ、ウィルリットは再び帝都を訪れた。
酒場を巡ってもローグの姿を見つけることはできず、「まぁ元気にやっているんだろう」と思っていた矢先のこと。
「え!? お前、ローグの知り合いか!?」
ハーフエルフの女性、メリスから聞いた話にウィルリットは目を見開いた。
ユグドラシル暴嵐。
彼の仲間たちの死。
気が付けば荷物をまとめてディザン王国へと向かっていた。
そうしてたどり着いてローグの顔を見た瞬間、ウィルリットは全身から力が抜けいくのを感じた。
あまりのことに気を失うような感覚。絶望を味わったはずなのにローグの目にはまだ光がある。
新しい仲間に囲まれてあの頃と同じ笑顔を浮かべる彼がそこにいた。
月明かりを背にしながら現在に意識を戻したウィルリットは眠るローグのぬくもりを確かめるように抱きしめる。
彼女の中に存在する様々な感情──愛おしさ、安堵、そして言葉にならない悲しみ。
「君を苦しませたくない。でも私には、君の旅を止める術がない」
ただ、悔しかった。
大好きなヒトの手を取れないことが悔しかった。
どれほど愛していても、その心をまた救えなかったことが悔しかった。
「でも、だからせめて、私の祈りが君を助けますように」
ウィルリットは眠るローグの唇と自分の唇をやさしく重ねる。
それは別れの口づけのようでもあり、永遠の約束のようでもあった。
「どうか、良きヒトの世で」
そうしてウィルリットは目を閉じてその夜を終える。
月の光が2人を優しく包み込み、静かに照らしていた。




