三年間記憶をなくしていたら、婚約者の友人がヤンデレ魔王になっていた話
リネットが目を覚ますと、そこは見たこともない部屋だった。
天井には美しい蝶の天井画が描かれており、ふかふかで大きなベッドに、リネットは寝かされている。
ここはどこで、私は誰だっただろうか。
まるで深い深い海の底で長い間眠りについていたように、夢と現実の境が曖昧で、自分という形でさえはっきりとしない。
私は──。
「……起きたのか、悪魔め」
声を聞くだけで心も体も凍り付くような、冷酷な声音がリネットを『悪魔』と呼んだ。
驚いて起き上がろうとしたが、チャリ……という音と共に、手首に痛みが走る。
手首に何かが絡みついている。それは金属製の輪だった。
その輪から鎖がのびて、立派なベッドの木枠へと鎖の先が括りつけられている。
両手ともその状態で、リネットは体を起こすことができなかった。
誰かが、リネットが寝かされているベッドに近づいてくる。
ベッドのスプリングが揺れた。ベッドサイドに男が座った。
「……あなたは……ヴィルフリート様……?」
自分を見下ろす男の顔に見覚えがあり、リネットは『知人』の名を呟いた。
「──悪魔。お前に私の名を呼ぶ許可を与えた覚えはない」
不愉快そうに、苛立たしげに彼は言う。
今にもリネットの首をへし折りかねないほどの殺意と嫌悪がその声音から滲んでいる。
混乱しながら、リネットはその血のように赤い瞳を見つめる。
リネットが知るヴィルフリートとは、彼は少し様子が違っている。
記憶の中のヴィルフリートは、もっと髪が短かった。寡黙だったが、穏やかな口調で話した。
だが今は──リネットよりも二つ年上だったヴィルフリートだが、もっと年上に見える。
リネットの記憶では、彼は十八歳。
それなのに今は、二十歳は越えているように見える。
その黒髪は背中まで伸びている。前髪も長く、顔にかかっている。
やや切れ長の赤い瞳は剣呑な光を帯びて、嫌悪に満ちた視線をリネットに向けていた。
これから戦地に向かうかのような黒い鎧に、獣の毛皮で作ったようなマントを身につけている。
その重厚感のある衣服も、彼の威風堂々とした逞しい体躯を飾るには不足をしているほどに。
まるで──多くの国を滅ぼしたような、暗い瞳をした戦神のような風情の男は、リネットの知るヴィルフリートではない。
目覚めたら、リネットの知る現実が歪んでいたのだろうか。
それともまだ、夢の中にいるのだろうか。
──逃げ出したいと望んだから?
ヴィルフリートは王太子クレオの側近だった。
王国では不吉とされる黒髪と赤い瞳をもつ彼は、ハルベルト公爵家の長男である。
クレオの側に、いつも静かに佇んでいたことを覚えている。
コルネリア公爵家の長女として生まれたリネットは、十五歳の時にクレオの婚約者になった。
とはいえ──クレオとはあまり良好な関係ではなかった。
だから側近のヴィルフリートとも、親しいとはいえない間柄だ。
同じ公爵家でも、ハルベルト家は王家の血筋が色濃く混じっている。
だか、コルネリア家は気位は高いものの落ち目の家だった。
そのため、両親のハルベルト家への嫉妬もあり、余計に交流するような機会はなかった。
それなのに、どうして。
こんなことに、なっているのだろう。
「あ、あの……ヴィルフリート様、どうして私は……一体、何が起こったのでしょうか……?」
これは夢かもしれない。
だから疑問を口にしても無駄だという可能性はある。
それでも聞かずにはいられなかった。
どうしてあなたはそんなに蔑んだ瞳で私を見るのか。どうして、ベッドに鎖で繋がれているのか。
あなたは知り合いに似ているのに、別人に見えるのは一体、何故。
「……悪魔が。幾度そのような態度で私を騙そうとしても無駄だ。リネットを返せ。私のリネットはお前のような女ではない。もっと高潔で美しく孤高で、そして心根の優しい、本物の淑女だった」
「何を、おっしゃっているのでしょうか……?」
リネットは驚いて目を見開いた。
ヴィルフリートがそんなに友好的にリネットについて考えていてくれているなんて、知らなかった。
嫌われているとばかり、思っていたからだ。
嫌われているといっても、もちろん──こんなことをするほどに、ヴィルフリートがリネットを嫌っているとは考えなかった。それはそうだろう。
普通に考えて、知り合いが自分をベッドに繋ぐなんて、どれほど想像力が豊かでも思いつかない。
「リネットの中から出ていけ、悪魔。リネットを返せ。返して、くれ」
苛立たしげに、そして苦痛に満ちた声音で、それからどこか祈るように、彼は言う。
リネットは困り果てた。妙な夢だ。
返せと言われても、ここにいるのはリネットである。
それ以外の、誰でもない。それに、リネットの夢にヴィルフリートが出てくる意味がわからない。
婚約者のクレオならまだ理解できる。
いや、理解はできないか。クレオがリネットをベッドに鎖でつなぐなど、するわけがない。
リネットは──ヴィルフリートだけではなく、クレオにも嫌われていたのだから。
「……ヴィルフリート様。私は、リネットです。これは夢なのでしょう。だって、ヴィルフリート様はもっと髪が短くて、そう、十八歳、だったはず。あなたは、大人に見えます。もしかして、ヴィルフリート様にはお兄様がいたのでしょうか?」
「誤魔化すな、悪魔。リネットのような口調で話すな。お前はもっと頭が悪く、誰にでも尻尾を振り媚びを売る、最低な女だ。クレオたちは騙せても、私を騙すことなどできない」
「あ、あの……」
「リネット、どうか戻ってきてくれ。私に、微笑んでくれ。リネット、私のことを忘れてしまったのか、リネット……っ」
「リネットは私です……!」
リネットは思わず、大きな声をあげた。
いくら夢でも、これはいたたまれない。ヴィルフリートはこんな風にリネットを愛し気に呼ぶような男ではない。これでは、ヴィルフリートに申し訳ない。
あまりにも現実が苦しいから、誰かに愛される夢を見ているのだろうか。
それにしても──鎖につなぐというのは、おかしい。
「おねがい、夢ならさめて……っ、もう望みません、幸せが欲しいなんて。助けて欲しいなんて。望まないから。こんな夢は苦しいわ。ヴィルフリート様はこんな人ではないもの……」
「リネット……君の名を教えて欲しい。君は、誰だ。いま、何歳だ? 君が覚えている最後の記憶は?」
「え……」
「言え、リネット。そうでなければ、私は君を殺してしまうかもしれない。もう耐えられない。君ではない君を見ているのは。君を殺して私も死ぬ。来世で幸せになろう、リネット」
「ま、待って、待ってください……!」
ヴィルフリートは腰にさげている剣を抜こうとする。
本気だ。瞳は真剣そのものだった。
リネットは怯えながら、唇を開く。まだ夢は、さめそうにない。
「わ、私は、リネット。リネット・コルネリア。コルネリア家の長女です。十六歳。最後の記憶は……王立学園に入学して、半年後。自室で、神に祈っていました。どうかここから私を、救って、と……」
「では、君の覚えている一番悲しい記憶は?」
「悲しい記憶は……お母様が、亡くなりました。私が十歳の頃です。それで……妹が、できました。私の大切なものは、皆、妹に奪われました」
ヴィルフリートに話すようなことではない。
それどころかリネットは、こんな話をクレオにさえしたことがない。
リネットの母は、リネットが十歳の時に亡くなった。父は第二夫人を本妻の座に据えた。
元々リネットの母は──王の妃だった。王は心変わりをしたためにリネットの母を捨てて、リネットの父に下賜したのだ。
だが父は母を愛していなかった。リネットが生まれてすぐに第二夫人を家に住まわせるようになった。第二夫人にはその時すでに子供がいた。義妹はリネットと、同い年だった。
第二夫人と腹違いの妹は父に愛されていたが、母とリネットは公爵家の中でずっと肩身の狭い思いをしていた。
心労のために、母は寝付くようになり、やがて死んだ。
その後リネットは、公爵家の中でさらに居場所をなくした。十五の時、「リネットを連れてこい」という王家の命令でデビュタントを果たすまでは、食べ物も服も満足に与えられなかったぐらいだ。
義妹は、リネットのものをなんでも欲しがった。
服も、部屋も、ぬいぐるみも。母の形見の、星の形をしたペンダントでさえ。
全て、奪われてしまった。
デビュタントを果たしたリネットが、王太子クレオの婚約者に選ばれたのは、自分が捨てた王妃に対する王の罪滅ぼしだった。
せめて──リネットに地位を与えてやろうと思ったのだろう。
その時は一瞬、幸せになれると思った。
けれど、そんな期待もすぐに打ち砕かれた。クレオと義妹のルーシーが親し気に話している姿を見てしまった時に、もう駄目だと悟った。
ルーシーは、クレオにリネットについての悪い噂を吹き込んでいるようだった。
そして王立学園に入学する頃には、リネットはすっかりクレオに嫌われてしまっていた。
クレオはどこにでも、ルーシーを連れ歩くようになった。
学園のパーティーにも、王家主催の舞踏会にも。婚約者を挿げ替えたのだろうという噂がたつほどに、常にクレオの傍にはルーシーがいた。
悲しみと苦しみで心が張り裂けそうだった。
ルーシーは、リネットから全てを奪っていく。ルーシーのたてた噂のせいで、リネットは友人さえも失った。
ルーシーに、復讐を──。
リネットはそればかり考えるようになった。けれど、結局。
行動にうつすことができず、ルーシーに飲ませようとしていた一時的に仮死状態になる昏睡薬を、自分で飲んだのだ。
「私は死んだのですね、きっと。だから長い夢を見ている。昏睡薬を、飲みました。ここではないどこかに行きたいと願いました。誰も私を傷つけない場所に行きたいと……この夢もいつか、終わります」
「本当に君なのか、リネット……」
震える声でヴィルフリートは言う。そしてリネットの頬に、大切なものに触れるようにして手を這わせると、至近距離でじっと顔を覗き込む。
それからリネットの手に巻き付いている手枷を両方外して、リネットをベッドから抱きあげた。
「リネット、会いたかった! ようやく戻ってきてくれた、私のリネット……!」
「ヴィルフリート様……?」
「三年だ。君は三年……私の元から消えていたんだ」
「どういうことですか?」
「説明はあとだ。まずは着替えよう。湯あみもしなくてはな。食事も準備して……それから、何をしようか。あぁ、君がいてくれるだけで、世界はこれほど美しい。リネット、おかえり。そしてすまなかった。君を守ることができなかった私を、どうか許してくれ」
ヴィルフリートは何を言っているのだろう。
リネットはわけがわからないまま、すっかり大人になってしまった知り合いの妙な言動を聞いていた。
ようやく体が自由になったおかげで、視界が開けた。
リネットが寝かされていた部屋には、床には赤いインクで巨大な六芒星が描かれており、壁には奇妙な文字が書かれた札が何枚も張られている。
テーブルの上には謎の骨が積みあげられて、不可思議な色をした液体の入った瓶が何本も並んでいた。
「ひ……ぇ……」
「どうした、リネット」
「い、いい、いえ、なんでもない、です……」
きっとこれは、夢だ。本当に、おかしな夢。
◆
ヴィルフリート・ハルベルトは、上機嫌で城の中を歩いた。
腕の中には愛しい女性がいる。三年ぶりの再会だった。
ヴィルフリートとリネットの出会いは、リネットが五歳、ヴィルフリートが七歳の時にさかのぼる。
この時はまだ、ハルベルト家とコルネリア家は仲がよく、交流があった。
ヴィルフリートはリネットの兄のような顔をして、大人たちが酒や茶を飲んでいる間、リネットとよく遊んでいた。
「ヴィルにいさま、リネットの傍にずっといてください。お父様は、こわいのです。お母様は、いつも悲しい顔をしています。どうしてか、わかりません」
「……リネット。僕が君を守る」
「ありがとうございます、にいさま」
ヴィルフリートはどちらかというと恥ずかしがり屋で、引っ込み思案な少年だった。
だがリネットは朗らかで、すぐにヴィルフリートに懐いて、いつも後ろをついて歩いていた。
リネットと二人で過ごすことはとても楽しく、彼女を守らなくてはいけないと、幼心に思っていた。
だから──。
「叔父様。もっとリネットと、奥方を大切にしてください。叔父様が浮気をしていると、父も母もよく言っています」
それは、正義感からだった。
ヴィルフリートは、公爵を皆の前で糾弾したのだ。
茶会の場は凍り付き、リネットは何か感じることがあったのだろう、大きな瞳からぼろぼろ涙を零した。
「他人の家の事情に口を出すとは、ずいぶんな育て方をしているな、ハルベルト公爵」
「あぁ、すまない」
「リネットが可哀想です」
「リネット、何か言うようにヴィルフリートに吹き込んだのか? まだ幼い癖に男を手玉に取るとは、全くおそろしい」
コルネリア公爵は椅子から立ちあがると、泣きじゃくるリネットの頬を思い切り叩いた。
小さなリネットが床に転がるのを、ヴィルフリートは信じられない気持ちで唖然と見ていた。
見ていることしか、できなかった。
コルネリア公爵の妻が、リネットを庇う。公爵は苛立たし気に「もう二度と顔を見せるな、ハルベルト公爵」と言い捨てて、部屋を出て行った。
リネットに駆け寄ろうとしたヴィルフリートは、父に引きずられるようにして馬車に押し込められると、コルネリア邸を後にした。
ヴィルフリートの父母は「お前は間違っていない」と言った。
だが同時に「言っていいことと悪いことがある」とも言った。
所詮は他人だ。立ち入れない問題は多くある。その後、ハルベルト家はコルネリア家と関わることは二度となかった。ヴィルフリートのせいで、両家の仲は拗れてしまった。
ヴィルフリートはリネットに対する親愛と罪悪感に苛まれながら過ごした。
彼女を守ると誓ったのに、リネットはヴィルフリートのせいで殴られた。
風の噂では、リネットの母は死に、浮気相手が正妻となったらしい。コルネリア家でのリネットの立場を思うと、今すぐ連れ出してしまいたいほどだった。
何度か両親に掛け合った。リネットを自分の婚約者にして欲しいと。
だがそれは駄目だという。ハルベルト家の父は知っていたのだ。王が罪滅ぼしから、リネットをクレオと結婚させようとしていることを。
リネットのデビュタントの日、久々にリネットと会った。
美しく成長した彼女に、ヴィルフリートの胸は高鳴った。同時に、罪の意識で締めつけられた。
一言、謝りたかった。だが──リネットは、ヴィルフリートのことを覚えていなかった。
近づいて挨拶をしようとしたヴィルフリートを一瞥して、ぱちりと一度瞬きをしたあとに、軽く会釈をして視線を逸らした。
それは、幼馴染に向ける視線ではなかった。
そこには何の感情も、こもっていなかった。
彼女は五歳だ。忘れて当然だ。それに、コルネリア公爵に殴られたのだ。
その衝撃で、記憶を封じ込めてしまったのだろうと、ヴィルフリートの父は言った。
きっと近づかないほうがいいのだろうと、ヴィルフリートは判断をした。だから──ずっと、我慢をしていた。どれほど愛しくても。どれほどその手に、頬に触れたくても。
彼女はクレオのものだ。ヴィルフリートのものには、ならない。
王立学園に入学すると、どういうわけかリネットの悪い噂が流れ始めた。
クレオは彼女の妹に夢中になり、リネットのことを嫌うようになった。
「リネットがどんな女か知っているか、ヴィルフリート。ルーシーを小馬鹿にし、彼女の食事にゴミを混ぜるのだという。何度も足をかけられて怪我をし、ドレスを切られ、教科書も燃やされたのだそうだ。とても許せない。俺はルーシーを守らなくてはいけない」
「……左様ですか」
義憤に肩を怒らせながらそんなことを言うクレオを、ヴィルフリートは冷めた目で見ていた。
リネットが、そんなことをするわけがない。
ヴィルフリートはいつも、リネットを目で追っている。
彼女がどんな人間かは、誰よりもよく知っていた。
どうすればいいのかと、悩んだ。このまま何もせずにただ、待っていていいのか。
だがルーシーはリネットの悪い噂を広げはするが、直接リネットに危害を加えるようなことはしない。
クレオに進言し、彼の婚約者をルーシーに変えさせて、そしてリネットに結婚を申し込んだらどうか。
父と相談をして、根回しをすませて──などと考えているうちに、あんなことになってしまった。
「クレオ様、ルーシー、今までごめんなさい!」
リネットがクレオとルーシーに向かい頭をさげている場面に、ヴィルフリートは出くわしたのだ。
「私、今まですごく嫌な女でした。ずっと羨ましかったんです、ルーシーのようにお父様に愛されたかった。クレオ様に愛していただきたかった。だから、ルーシーに意地悪をしていました。でも、もうやめます。私はクレオ様の婚約者の座から降ります。どうか二人で幸せになってください!」
元気よくはきはきと、謝罪と共に婚約破棄の申し出を、リネットはしていた。
驚くクレオと、呆気にとられているルーシーに深々と頭をさげると、リネットは二人の元から去っていった。
それから──リネットは人が変わったようになった。
いつもは背筋をまっすぐ伸ばして上品に歩いていた彼女だが、廊下を平然と走り回るようになった。
屈託なく笑い、誰にでも優しく接し、堂々と話しかけた。
やがて彼女の周りには多くの人があつまり、ルーシーやハルベルト公爵でさえ彼女に優しくするようになった。
クレオも──ルーシーではなくリネットを、婚約者として溺愛しはじめるようになった。
リネットは反省をして変わった。今のリネットならば、王妃に相応しいなどと言うクレオに、虫唾が走った。
だってあれは。
どう考えても、偽物だからだ。
だから──クレオの卒業式の後、リネットとクレオの結婚式が行われている最中に、ヴィルフリートはリネットを攫った。
「どういうつもりだ、ヴィルフリート!」
「殿下。偽物のリネットと結婚をするなど、馬鹿なことをなさる。この女はリネットではない。私のリネットではない別人が、あなたはいいのだという。そんなものは真実の愛でもなんでもない」
「気が触れたのか?」
「私は正気だ。リネットを取り戻したければ、好きになさるといい。だがその時、私は王国の敵となる。私は私のリネットを取り戻す。愚か者には愚か者が似合いだ。あなたにはルーシーで十分だろう」
リネットを攫い、変わりに花嫁衣装に着替えさせて縄で縛ったルーシーを床に放り投げて、ヴィルフリートはその場を去った。
ルーシーの縄には、彼女の悪行を全て書き留めた告発状を共に入れておいた。
今までリネットが行ったという悪辣な所業は、全てルーシーがリネットに対して行ってきたものであると。
そして──それに気づかずリネットを糾弾していたクレオも同罪である。
リネットの部屋には、自死をするために用意をしたのだろう昏睡剤があった。
あなた方が傷つけたから、リネットは壊れてしまった。心が壊れて、別人が中に入り込んだのだ──と、ヴィルフリートはその手紙に書き残していた。
それから、ヴィルフリートはリネットを用意をしておいた古城に閉じ込めた。
魔術の研究に没頭をし、魔性の者が出没するという禁足地に足を踏み入れた。
魔性の者が蔓延る古城を、襲い掛かってくる人とも動物とも知れない者たちを斬り倒して根城にすると、どういうわけか禁足地に住まう者たちから『魔王様』と呼ばれるようになった。
だが、そんなことはヴィルフリートにとってはどうでもいいことだった。
リネットを鎖につなぎ、ひたすらにその誰かもわからない中身に、出て行けと言い続けた。
「私は何も悪いことをしていないわ、リネットを助けてあげたの! リネットは悪女になって、処刑をされてしまうところだったのよ」
「そうなる前に、私が救い出していた。お前は必要ない。お前はリネットではない。出て行け、悪魔。リネットを私に返せ」
「あなたのことも知っているわ。あなたは、攻略対象者の中でも闇落ちヤンデレ魔王って呼ばれていて……怖いから近づかないようにしていたのに……!」
リネットの中身は、ここではない別の世界から来た誰かなのだと言う。
そしてここは、乙女ゲームの世界で、ヴィルフリートのことも『攻略対象』だと言った。
だが、そんなこともどうでもよかった。リネットさえ、返してくれたらそれで。
そして──リネットを閉じ込めて二年。
ようやくリネットが、戻ってきてくれた。あの偽物ではない、本来のリネットだ。
「ヴィルフリート様、どうして……」
「君は私を、ヴィル兄様と呼んでいた」
「……ヴィル兄様」
「すまなかった、リネット。君をもっと早く救っていたら、君が思いつめることにはならなかったのに。だが、これからはずっと一緒だ、リネット。誰かが君を私から奪うというのなら、私はそのものを殺す。徹底的に、殺す。いたぶり、破壊し、心臓を潰す」
「ひ……っ」
「どうした、リネット」
「……な、なんでもありません」
リネットが、リネットではなくなったことを気づいたのは、ヴィルフリートだけだった。
今まで手をこまねいて見ていた。自分は彼女に近づかないほうがいいのだと、思い込んでいた。
(だが──本当にリネットを愛しているのは、私だけだ)
ようやく、気づくことができた。
だからもう二度と、誰にも奪わせたりしない。
◆
リネットは──ヴィルフリートに優しく髪を洗ってもらいながら、恋とは違う意味でドキドキしている心臓に手を当てて心を落ち着かせていた。
ヴィルフリートによって、湯あみのために浴室に連れられてきた。
それまでこの城の中の者たちと、何人かすれ違った。
彼らは頭から角がはえていたり、獣の耳がはえていたり、ぷにぷにした何かだったり、二足歩行する猫だったりした。
一体ここはどこで、ヴィルフリートはどうしてしまったのだろう。
「リネット、なんて綺麗な髪だ。ずっと触れたかった。私の宝物」
上機嫌で、ヴィルフリートはリネットの髪に指を入れている。
その仕草は、本当に優しくて、心地いい。
ヴィルフリートが定期的に死ぬの、殺すの、言わなければもっといい。
「……ヴィルフリート様」
「リネット。……違う。呼び方が違う。やはり元に戻っていないのか、リネット。どうすればいい? 私は君を殺すしかないのか」
「ヴィル兄様……っ」
「うん。なんだろう?」
「あ、あの、思い出しました。……昔、私がヴィル兄様に大切にしてもらっていたこと。それは私の唯一の優しい記憶で……だから、心の奥に大切にしまっていたんです」
「リネット……もうしまわなくていい。これからたくさんの記憶を作っていこう、二人で」
「は、はい……」
リネットは目を閉じる。
目を閉じると、真っ暗な空間に一人で立っていた。
そこには見知らぬ少女が、椅子に座っている。
「……助けてって聞こえて、あなたの中に入ったの。でも、もう嫌。これから頑張ってね、リネット。とりあえず処刑はもうされないし、あとはこの男に殺されないように頑張って」
「あなたは……」
「じゃあね、リネット」
その少女はひらひらと手を振ると、椅子から立ちあがった。
リネットの脳裏に知らない記憶が過る。
ここは乙女ゲームの世界で、リネットは処刑をされる悪役令嬢だったこと。
断罪を回避するために、リネットの中身の少女が努力をしてくれたこと。
けれど──ヴィルフリートだけは、リネットが体の中からいなくなってしまったことに気づいた。
彼は『闇落ちヤンデレ魔王』と呼ばれている。
独占欲と執着心が強く、嫉妬深い。一歩間違えると、愛する女性を殺して自分も死ぬような男である、と。
「……リネット、愛している。私のリネット。ずっと一緒だ。もし君が私の元から逃げるというのなら、私は君を鎖でつながなくてはいけない。私をそんなひどい男にしないでくれ、リネット」
「ヴィル兄様……逃げたりしません。あなたが私を見ていてくれて、嬉しいです」
リネットには、三年間の記憶がすっぽりと抜けている。
もしかしたらこれは、死ぬ間際に見る夢なのかもしれない。
夢を見続けているのかもしれないけれど──それでも。
これが夢なら、しばらくこのまま覚めないで欲しい。
「ヴィル兄様……お願いです、無暗に人を傷つけないでください。私は、あなたの傍にいます。ずっといますから」
ヴィルフリートがリネットを見ていてくれたことは、純粋に嬉しい。
今はまだ、状況をほとんど理解できていないけれど。
もう少し、この夢の中で生きたいような、気がした。
だってあの時──リネットの人生は終わったと、思っていたのだから。
◆
ルーシーを恨んでいた。
「お姉様のお部屋、とても素敵。私にくださいね」
彼女がそう一言くちにするだけで、リネットの場所はなくなった。
「お姉様、そのドレスとても素敵。お姉様がうらやましい。私とお母様は、ずっと日陰にいたの。お姉様と、死んだ……レインのせいで」
母の名を、ルーシーは呼んだ。リネットの母は伯爵家の娘だった。
国王とは恋愛結婚で、身分差のために母は王妃になることを拒んだようだが、国王からどうしてもと言われて絆されてしまったらしい。その三年後、国王は母に飽きた。
子が生まれないことを理由に捨てられて、コルネリア公爵に下賜された。
優しい母だった。いつも悲しい顔をしていたが、リネットには惜しみない愛情を注いでくれていた。
「お母様の名を、軽々しく呼ばないで……っ」
「誰か助けて! お姉様が私に暴力を……!」
ルーシーを咎める度に、ルーシーは大騒ぎをした。
その度に父はリネットに折檻をした。物置小屋に押し込められて、そのうち──部屋も服も、食べ物も、満足に与えられなくなった。
「お姉様、そのペンダント、とても素敵。私に似合うわ、きっと」
「これは、駄目。これは、お母様の形見だから……」
「寄越しなさい。お姉様には似合わない。お父様に殴られたいの? 一週間食事を抜きにしましょうか。残飯でも漁りなさいな、汚いネズミみたいに」
リネットが大切にしていた母の形見でさえ、ルーシーに奪われた。
彼女は使いきれないほどの、宝石のついた装飾品を持っているのに。
どうして──欲しがるのだろう。星のペンダントは、母が幼いリネットにプレゼントしてくれたものだ。本物の金でできているわけではなく、本物のサファイアでもないけれど。
それは母が、幼いころに母の母から──リネットの祖母からもらった宝物だと言っていた。
取り返そうとしたリネットは、ルーシーに突き飛ばされて階段から転がり落ちた。
何もかもを奪われて、唯一リネットが縋っていた王太子の婚約者という立場も、ルーシーによって失った。
復讐をしてやる。そればかりを考えるようになり、リネットは──昏睡剤を、とある商人から手に入れた。
一過性に意識がなくなるという薬だ。本来の使用方法は、不眠の治療。眠れないのだと相談をして手に入れた薬である。
分量を間違えたら、一生眠り続けるという。
ルーシーの飲み物に混ぜて、彼女を──眠らせよう。
例えば乗馬の授業の最中に深い眠りについたら落馬をして、事故に見せかけて殺してしまえるかもしれない。
そんな残酷なことを考えるほどに、リネットは追い詰められていた。
昏睡剤をルーシーの飲み物に入れようと決めた日の夜だ。
リネットは、その小瓶を握りしめて、自室のベッドに座り神に祈っていた。
「おそろしいことをしようとしている私を、どうかお許しください」
許されるはずがない。人を殺そうとしているのだから。
でも、と。ふと思う。
そんなことを、しても。結局は誰も、リネットを愛さない。リネットは、哀れなほどに一人ぼっちだ。
「……あぁ、そうか。そうね、そうだった。私が死んでも、誰も泣かない」
こんな世界、滅んでしまえと思う。
けれど同時に、自分一人が死ぬのと世界が滅ぶのは同じことだと思う。
「お母様の元に、行こう」
ルーシーに復讐をして、その後──自分はどうなるのか。
罪を犯して処刑をされたら、天国には行けない。母と会うことができない。
だったら、罪を犯す前に死んでしまったほうがよほどいい。
そう思い、リネットは小瓶の薬を一息に全て飲み干した。
とろりとした液体が胃の中に落ちていく。同時に、瞼が重くなる。呼吸が苦しくなる。意識が白く濁っていく。
もうきっと、眠りから覚めないのだろう。
そう思いながら、リネットは意識を手放した。
──これが、リネットの最後の記憶だ。
上機嫌でにこにこしながらリネットの口に薬膳粥を押し込んでくるヴィルフリートの説明では、どうやらリネットの中には三年間、別の人間が入り込んでいたらしい。
その『誰か』が入り込んでいたリネットは、明るくて朗らかで、皆に優しくて。
皆からの人気者だったのだという。
きっとそれが、リネットの頭の中にいたあの少女なのだろう。
リネットが眠りについている間ずっと、リネットとして頑張ってくれていたのだ。
彼女はルーシーと和解をし、クレオと和解をし、クレオと結婚する間際であったらしい。
「ヴィル兄様……あなたの話を聞く限り、私よりも彼女のほうがよほど、リネットでいたほうがよかったのではないかと思います。国のためにも、皆の為にも」
「何故そんなことを言う? この国がリネットを否定するというのなら、私はこの国を滅ぼそう。安心して欲しい、リネット」
「あ、安心できません……」
「私のリネットは、君だけだ。他の誰でもない。不遇の身でありながら、努力を続け、優しさを捨てなかった。君が死を選んだと知ったときの私の絶望がどれほどのものだったか、君にはわからないだろう」
「……まさか、こんなことになるなんて思いませんでした」
「もし君が眠り続けてしまったら、私は君を死ぬまで傍において、毎日世話をしただろう。そのほうが余程幸せだった。別の人間が入り込んだ君は、君の形をした何かだ。骨と皮と肉が君の形をしているというだけの、別人だ。だがその体が君のものであるかぎり、あれを殺すことなどできなかった」
あの少女は──多分とてもいい人だと、リネットは思う。
ヴィルフリートに監禁をされてとても怖い思いをしただろう。申し訳ない。
「とはいえ、最早全て終わったことだ。君は戻ってきてくれた。本当の君を愛しているのは私だけだ。リネット、もう悲しい思いも苦しい思いもさせない。私は君さえいてくれたら、他の人間がどうなろうがどうでもいい。幸せになろう、二人で」
「ヴィルフリート様、あなたには立場が……」
「そんなものが重要か? 愛する女性を失いかけたのだ。立場、地位、名誉。そんなもの、君の存在に比べたら塵のようなもの」
「あなたのご家族は……」
「縁を切った」
「え……」
「というのは嘘で、壮健だ。私と共に禁足地に来ている。部下や使用人、領民たちも。私の怒りと悲しみに賛同した者たちだ。好きにさせている」
ヴィルフリートはさして興味がなさそうに言って、それからリネットの口にスプーンを押し込んだ。
リネットが薬膳粥を食べる姿をうっとりと眺めているヴィルフリートは、これ以上ないほどに幸せそうだ。
「クレオ様とルーシーはどうなったのですか? コルネリア家は……」
「君を攫って二年だ。その間、クレオは君を取り戻そうと禁足地に攻めてきたので追い払った。ルーシーは君への仕打ちを知られて、クレオに捨てられたようだな。コルネリア家は元々没落しかけていただろう。王家からも見捨てられて、今は見る影もなく落ちぶれたようだ」
「そうなのですね……」
「リネット、私以外の人間が気になるのか? 君の関心が私以外に向くというのなら、私は私以外の人間を一人残さず殺す必要があるな」
「い、いいえ、いえ、あの、私の心はヴィル兄様だけで、いっぱいです……っ」
おそらく、ヴィルフリートは本気だ。
リネットは焦りながら、ヴィルフリートを甘えるように上目遣いで見つめる。
ヴィルフリートは照れたように頬を染めて「その顔は、反則だな」と小さな声で呟いた。
リネットは誰かに愛されたいと願っていた。
だが──こんな風に、窒息するほどに重たい愛情を向けられることになるなんて。
あの少女の「殺されないないように頑張って」という言葉が脳裏をよぎる。
それでもこうしてもう一度生きられることが、なんだか少し、嬉しかった。
お読みくださりありがとうございました!
多分これからリネットちゃんによるヴィルフリート様の介護がはじまります。
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