3 「大嶺翼の挑戦状」
煙の中から現れた少女は、何事もなかったかのように悠然と立ち上がり、東屋の下のベンチに座ると、尻餅をついて動けない蒼を見下ろした。
「初めて見る子だ。けど、山ノ上高校の生徒だ。君、何年生かな?」
「一年……転校生の新田蒼だ。今日初めてこの高校に来た」
蒼は立ち上がり、逆に少女を見下ろすようにした。
「なるほどね。だから私が知らなかったのか。
私は大嶺翼。高2。そして私は、トランスセックスシンドローム略してTS症を発症してて。簡単に言えば、ある特定の条件下で、オスになる」
少女は自分の豊満な胸に手を当てて見せた。ブカブカになったジャージの袖が、干した靴下のようにフラフラと揺れている。
「……その、とりあえず、逃げませんか」
蒼は丁寧語に切り替えて、少女になった大嶺に問いかけた。
「この学校の男子生徒全員が『迷い鳥』を探しているんです。迷い鳥っていうのは、この山の麓の女子校舎からやってきたあなたみたいな女子生徒のことで——」
「ああ、ああ、知ってるとも。一旦落ち着いて聞いてほしい。
まず、私は『迷い鳥』ではないよ。
私の正体は確かに女性だが、通っているのは山ノ上高校の男子校だ。そもそも、私がここにきている理由も『迷い鳥』の捜索を先生たちに頼まれたからでね?」
「……えっと」
混乱した頭を整理しながら、蒼は彼女に疑問をぶつける。
「先輩の本当の性別は、女子なんですか?」
「そうだ。あの巨人フォームは、一時的な姿だな」
「じゃあ、なんで男子校にいるんですか?」
「あー。それは……あまり聞かれたくない質問なんだけど……いや、仕方がないね」
大嶺翼は苦虫を噛み潰したような状況で、ベンチの下から一冊の雑誌を取り出してみせた。
「わぁッ!?」
蒼はまた声をあげて後ずさった。彼女が手に持っていたのが、エロ本だったからだ。
「バカ、なんてもの見せてくれるんですか!?」
「ああ、すまない。そんなつもりは——君最近の高校生にしてはかなりウブじゃないかい?」
少し呆れた様子の大嶺翼はベンチの下にエロ本を戻して説明を続けた。
「私たちTS症候群の発症者は、特定の条件下で男女の性別が変わる。
例えば、お湯をかけたり水をかけたり、特殊な配合の薬を飲んだり、頭を悩ませたりとか。
で、その、なんだ。私のTS発動のスイッチなんだが……」
少しだけ翼は蒼から目を逸らす。
「『性的に興奮すること』なんだ……」
蒼は、ポカンとした表情になった。
「せーてきこーふん……?」
それは彼にとって、あまり聞きなれない単語だった。大嶺がベンチの下にしまったエロ本と、気まずそうにしている彼女の顔を見比べて、やっとその意味を理解した。
「それってつまり、その……なんか、ちょっとごにょにょ……みたいな気持ちになると、男に変身するってことですか?」
「そうだ。エロい気分になると、私は男になる」
「バッ……」
バッカじゃねーの? と反射的に蒼は口に出しそうになった。だが、目の前にいる大嶺翼が居心地の悪そうなそぶりをしているのを見て、今度はなんだか申し訳ない気分になった。『症候群』という名前の通り、この先輩だって、好きでこんな体質になったわけではないのだ。
「……でも、先輩の本来の性別って女性なんですよね。ふもとの女子校に行くの、ダメだったんですか?」
「中学に入学して一日目で追い出されたよ。ほら、女の子ってすごいいい匂いするじゃん?」
翼の説明に、一度蒼は首を傾げた。その後、彼女が持っていたエロ本が、男性向けだったのを思い出し、彼女に冷たい視線を浴びせた。
「……変身したんですね? 女子校の中で、あの肉達磨男に」
「仕方がないじゃないか! あの子たち達純真無垢お嬢様みたいな性格でパーソナルスペース狭いんだ!! 胸があたった瞬間もうバキーンよ」
「何がバキーンですか!」
「いい、新田くん。男女なんて関係ないんだ。人類は皆、心の中にちんちんを宿してる」
「宿してねぇよッ! 半数が不所持で半数が外付けだッ!!」
赤面した蒼の叫び声が森の中に響いた。
「……とにかく『迷い鳥』は先輩じゃないんですね」
ひとしきり落ち着いた後、蒼は翼に確認をとる。
「そうだね。『迷い鳥』は私以外の女子だ。さっきも言った通り、私は『迷い鳥』を探すべく、男子校舎からここまで降りてきた」
先生たちがくれたこのエロ本で男に変身してね、と大嶺翼は付け加える。
「だとしても、先輩は隠れたほうがいいと思うんです」
蒼は周囲を見回した。
「今の姿の先輩を見たら、男子生徒が『迷い鳥』と勘違いして追いかけ回すかも」
「それについてはもう手遅れと言っていいだろう。彼らは優秀だ。五分もしないうちに汗まみれの男子生徒たちに見つかって、手厚い保護と、へたくそすぎる口説き文句を浴びさせられるだろう」
「もう一度変身出来ませんか?」
「無理。なんかもう、先生たちに渡されたエロ本、見慣れちゃって……わかるだろう?」
「同意したくないです」
「カマトトぶりやがって……まあいいだろう」
大嶺翼は慌てるそぶりもなく、ダボダボの袖からのぞかせた細い指を顎の下に添えた。
「男にはなれないが、この本来の姿だからこそ、やれることがある。考えることだ。
まず、男性体から女性体に戻ったことで、今の私は集中力が7倍だ」
「んなわけないでしょ」
「あるさ。男性体に変身している私は、脳味噌の七割で女の子のことを考え、二割で心臓を動かし、一割で思考しているからな」
「だとしたら先輩は普通の男よりかなりバカな方の男なんじゃないですかね」
「なんとでも言うがいい」
大嶺は悠然とした笑みを浮かべた。
「私はもうすでに、ほとんどの謎を解き終わった」
蒼は目をぱちくりさせた。
「謎? っていうのは……『迷い鳥』がどこにいるのかって話ですか?」
「そうだ。そもそも、今回の『迷い鳥』騒動はおかしな点が多いんだ」
大嶺は、袖をまくり、指を一本立てた。
「まず一点。女子校舎からの行方不明者がいない。基本的に『迷い鳥』は山のふもとの女子校からこちら側へ迷い込んできた女子生徒のことを指す。この場合必ず、山の上の男子校とふもとの女子校の間で、教員間の綿密な連絡の取り合いが行われ、少なくとも学校側は『誰を探すのか』が分かった状態で捜索を始める。教員陣の指示で動く私もそうだ。
でも今回は『誰を探すのか』を、先生方から伝えられてないんだ。教員陣も『迷い鳥が誰かを把握していない」
「じゃあ『迷い鳥』発生自体が嘘ってことですか?」
頭を捻りながら蒼は尋ねたが、大嶺翼は首を振った。
「ありえない。パトロール犬のラッシーは君も見ただろう? 彼の女の子の痕跡を見つけるセンサーと興奮度は、目の玉よりも敏感で、時計のように狂いがない。森に女子が足を踏み入れたが最後、5分以内にその痕跡を見つけて遠吠えをあげる。彼がこの森の中で生徒のネクタイを見つけた以上、可愛い山之上高校の女子がこの森にいたというのは、動かせない事実なんだ」
「あの犬ですか……」
蒼は改めて、あの腰をカクつかせた犬を哀れんだ。
「二点目は、時間だ。捜索を開始してだいぶ時間がたつが、まだ女子生徒は見つかっていない。なんやかんやで、男子校の連中は優秀だ。『迷い鳥』は平均的に三十分程度で発見される。だが、いまだに見つかってない」
「分かった! その女の子はネクタイだけ落として、もう自力で学校に帰ってるんだ」
閃いた蒼が声を上げたが、大嶺翼は首を振った。
「後出しで申し訳ないが……実は、男子校と女子校の授業の時間は一時間づつずれているんだ。女子の方が一時間早く始まって一時間早く終わる。
ラッシーがネクタイを見つけたのは男子校の昼休みが終わる頃、女子校で言うところの、五時間目が終わったタイミングになる」
それは蒼にとっては初耳の情報だったが、腑に落ちる話でもあった。今朝女子校舎に行きそうになって追い払われた後、吉岡に担がれて山を登り、その後教室で女性についての授業をしたが、それでも一時間目が始まるまでにかなり時間があった気がする。
「でも特に矛盾ないですよ? 女子校の昼休みのうちに『迷い鳥』の女の子が森に入って、ネクタイを落としてして帰った後、一時間くらいしてラッシーがネクタイを見つけて遠吠えをあげたってことです」
「ありえないね。あのラッシーが、一時間近くも女子の侵入に気づかないわけがない。長くても15分以内には、ラッシーは『迷い鳥』に気づいて遠吠えをあげるんだ」
実は動物好きな蒼は、その話を聞いて沸々と怒りが湧いた。
「なんだか俺、あの犬を育て上げた生物部が許せなくなってきました。もっと素晴らしい名犬になる素質があったかもしれないのに……!」
「そう言ってやるな。2年前の『迷い鳥』発生の時、あの犬のおかげで森に迷い込んだ認知症のおばあちゃんを五分以内に保護できたんだから」
「ぐっ……いい名犬だ」
実はおばあちゃん子な蒼の怒りはしゅんと萎んだ。
「じゃあ、どういうことなんです? 一体今回の『迷い鳥』は何者なんですか? 女子校の五時間目の授業中、突如森に現れ、今に至るまで姿を隠してるってことですか?」
「さぁてね。でももう真実を掴むための手がかりは十分揃ってると思うよ?」
大嶺翼は挑発的な笑みを浮かべた。
「君も考えてみたらどうだい? 私と違って『普通の男よりバカじゃない方の男』だと君が思うならね」
この小説は本格派を目指しております。
読者の皆様でも謎が解けるよう、書かせていただきました。
ぜひチャレンジしていただき、ご評価をいただければと思います。