38.削がれていく(フルール)
「……今日は薔薇の気分じゃないわ。違うのにして」
「かしこまりました」
テーブルに置かれたお茶の匂いが気に入らなくて、ミレーに入れ直すように命じる。
ミレーは元貴族令嬢なだけあって、社交界の情報を知るためにはちょうどいいのだが、
もともとは侍女を使っていた側である。
お茶を入れる、湯あみの手伝いをする、などの侍女としての働きはいまいちだった。
「どうして今日は人が少ないの?」
「……それが、急に辞めるものがいたようで、
屋敷内がバタついているようです。
ミランも昨日の昼に実家から呼び出されたとかで辞めてしまいまして」
「ミランも?呼び出されたって何?」
ミランはここのところ気に入って使っていた侍女だった。
お茶を入れさせてもドレスや手土産を選ばせても、何をさせても上手だった。
それなのに他の侍女とは違い、女神の加護の力を欲しがらないのも気に入っていた。
いつだったか、どうして欲しがらないのか聞いたことがあったが、
「わたくしは美しいものを見るのが好きなのです。
フルール様にお仕えできるだけで満足ですわ」
と言っていたために、そういう人間もいるのかと納得したが。
「ミランも元貴族のようです。
父親が借金したまま失踪してしまったとかで。
今回、嫁ぎ先が決まったと呼び出されていましたが……。
あれは売り飛ばされたのでしょうね」
「まぁ、売り飛ばされる?」
「嫁ぎ先を聞いても、お母様の指示に従うだけだからと言っていました。
貴族家に嫁ぐのであればフルール様に報告してから辞めるでしょうし」
「そうなの……それは残念だわ」
せっかく女神の加護を求めない従順な侍女が手に入ったと思ったのに。
売り飛ばされてしまったのであれば仕方ない。
最近ミレーも他の侍女たちも女神の加護を欲しがってめんどくさくなってきた。
これから側妃とエミールを使って、
もっと社交界に力を持つ夫人たちを味方につけなくてはいけないというのに。
「あ、あの……フルール様?」
「なぁに?ミレー。私は考え事で忙しいのだけど?」
「あ、はい。もうしわけありません」
どうせまたおねだりだろう。
何度か女神の加護で治癒してあげたが、ミレーとしては十代の頃にもどりたいのだろう。
侯爵家の嫡男と婚約していた頃に。
どうやらその元婚約者は別の者と結婚したのはいいが、子ができなくて困っているらしい。
よりを戻して愛人になるのか、侯爵夫人の座を奪い返すつもりなのかはわからないけれど。
肌や髪のつやを良くしても、元の顔立ちは変わることはない。
女神の加護を使ったとしても、私のように美しくなるわけじゃないのに愚かだわ。
それにしても屋敷の中が騒がしい。
人が辞めたことで侍女が不足しているというのなら、数日で補充できるだろう。
私にいい顔しないから好きではないが、優秀なベンという執事がいる。
お父様は仕事も全部ベンに任せてしまっているようだけど、それだけ優秀だってことだろう。
新しく入れさせたお茶はやっぱり美味しくない。
違う侍女を呼ぼうかと思ったけれどやめた。
ミランがいないというのなら、他の誰を呼んでも同じようなものだろう。
今度、夫人たちの誰かにおねだりして、
美味しくお茶を入れられる侍女でも用意させようと思いながらお茶を飲み干す。
それから三日だっても屋敷の中は落ち着かなかった。
お母様と夕食を取っていたら、顔色を変えたお父様が食事室に飛び込んできた。
「……どこにもいない」
「お父様、遅いから先に食べてたわ。いったいどうしたの?」
「ベンが、ベンがどこにもいないんだ!」
「ベン?」
「ベンって、執事のベン?領地のほうに行っているのではないのですか?」
どうしてベンがいないだけで騒いでいるのだろう。
お母様もお父様の騒ぎようが理解できないようで、首をかしげて領地にいるのではと聞いた。
ベンはお父様の代わりに領主代理に指示をだしていたはず。
領地に顔を出しに行っていてもおかしくはない。
「違う……ここのところ使用人の数が少なくて困っていた。
他の使用人に聞いてみたら辞めたというのでな?
ベンに新しいものを雇うように指示しようとおもったんだが、どこを探してもいない。
……執務室に行ったら、手紙が置いてあったんだ」
「手紙、ですか?」
「……ここの執事を辞めさせてもらうと。五日前の日付だった……」
「は?辞める?そんな勝手に辞められるのですか?」
侯爵家の執事を辞めるだなんて、お父様の許可も無しに許されるのか?
そう思って聞いたのに、お父様はへなへなと座り込んだ。
「あいつは……ベンは……俺とは契約していない」
「え?」
「ベンは父上と契約していたんだ。その父上ももう亡くなっている。
執事としての契約はもう終了しているんだ……あいつは無償で残ってくれていたから、
それでいいんだと思って再契約していなかった」
「はぁ?ただ働きさせていたのですか?あのベンを?」
さすがにお母様も呆れたのか、お父様を責めるように強く言う。
お祖父様が亡くなったのは私たちが三歳の頃。十三年も契約しなかったんだ。
ただ働きで執事をしてくれてたなら、そのままずっと働いてくれていれば良かったのに。
逃げちゃったのなら仕方ないけれど。
「お父様、お母様、いなくなってしまったものは仕方ないじゃない。
新しい執事を雇えばいいわ」
「……ああ。雇えるだろうか」
「雇わなかったら、お父様が働けばいいでしょ?」
「無理だ……一度もやったことがないんだぞ?」
「じゃあ、頑張って新しい執事を探すしかないわね」
「ああ……そうだな」
お父様は落ち込んだ表情のまま部屋から出て行く。
「食事はいらないのかしら?」
「……それどころじゃないのよ。フルールは気にしなくていいわ」
「はぁい」
まぁ、そうよね。私が気にすることじゃないわ。
すぐに新しい執事が来て、この人手不足も解消するでしょう。