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そしてその日が来た。
昨日一日で大方の引っ越し準備を済ませた晴は、早足で学校へと向かう。
また心臓をドキドキとさせながら化学準備室の扉を叩く。
今回は返事があったので、晴が扉を開けた。
「おはよう、風間さん」
「おはよう」
今日も爽やかな笑顔を向ける幸成に少したじろぎつつ、晴は席に着く。
「ん」
「…あ、ありがとう」
無言で克也が茶を出す。
今日は事前に晴が来る事を知っていたので、用意してくれていたのだろうか。更に克也は晴の前に資料らしき物を置いて、いつもの定位置に戻った。
それを見て大変ご満悦そうな幸成がようやく席に着く。
「ご足労おかけしてすみませんでした」
「…い、いえ」
「何人か絞れましたので、ご報告します」
「はい…」
しかもやたら丁寧な言葉を使ってくる。
そこでやっと晴は、幸成が探偵事務所っぽくしようとしている事に気付く。
恐らく台詞も父親の真似をしている様だが、どう見てもここは化学準備室で、机と椅子は学校のもので、全員学生服で、お茶のコップはビーカーで、といくら何でも無理がある。
しかも無関心であった筈の克也もちゃんと付き合ってあげているのがまた笑えた。
でも結局無愛想だし、ていうか用心棒というより秘書じゃんと心の中で突っ込んだ途端、晴はとうとう堪えきれなくなって、「…ぐふっ」という変な音が鼻から漏れ出た。
「始めてもよろしいですか?」
「は、はい…どうぞ!」
どうやら幸成は晴が噴き出してしまった事に気付いていない様で、ほっとする。色々緩さが気になるが、これがこの探偵事務所の味なのだ。
「そちらの資料をご覧下さい」
そう言われて、晴は克也が置いた資料を手に取った。
手書きで人の名前と、その横にプロフィールの様なものが書いてある。
「候補者を3人に絞りました」
「すごい…どうやって?」
「まず、君が引っ越す事を知り得る状況にいるかいないかで考えました。
さすがにクラスの人達は、君が引っ越す事を知っているんだよね?」
「先生がホームルームで言ってくれてたから、多分」
「そう、それで1番候補だった同じクラスの男子は省きました。
そうなると、もう手がかりはこの手紙だけ」
「もしかして…筆跡で?」
私が恐る恐る問うと、彼はにやりと笑った。
「進級に向けて目標みたいなの書いて、後ろの壁に貼ったでしょ?
それを克也と一緒に照らし合わせて、似た様な字の人を探しました」
何と途方もない作業に晴は開いた口が塞がらない。
確かに依頼したのは自分だが、まさかここまで本格的に調べてくれるとは思わなかったのだ。
「な、なんか…ごめんなさい」
「何故謝るんです?引き受けたのは我々ですから」
「いえ…とにかく謝らせて…」
幸成は首を傾げつつ続ける。
「単刀直入に言いましょう。
似た様な人は居ましたが、全く同じ、という人はいませんでした」
晴ははっと顔を上げる。
「でもかなり近しい人が6人。
そこからとあるツテで、この中から恋人がいるかどうか、意中の相手はいるかどうか調べました。
それで最終的に絞られたのがこの3名です」
何やら妙な言葉を聞いた気がして、晴は「あの、ツテって…?」と聞く。
「ああ、うちの学校のゴシップにやたら詳しい奴がいるんです。
この探偵事務所の噂も、そいつに流してもらいました。
ちなみにあなたに好意を持っている人を知っているかも聞きましたよ。答えはNO、という事です」
幸成は続けて「探偵事務所をやるには人脈も必要ですから」と、もっともらしい事を誇らしげに言った。
申し訳なく思っている晴に対し、幸成はとっても楽しんでいる。
「この3名の名前を見て、何か思い当たる事はありますか?」
「…ごめんなさい、ないです」
晴は本当に男子と会話をする事がなく、自分と同じクラスくらいの人しか名前は分からない。
それ以外となると、よっぽど話題にあがる人くらいだ。
「そうだと思いました。
あなたは勿論、例のツテも知らない程の密やかな想いだった様ですからね。
そこで提案なんですが、実際に会ってみませんか?この人達と」
「え!」
突然の展開に思わず大きな声が出る。
「この3名の内2名は現在校内で部活動中。
もう1名は知り合いだったので家に行ける様に手筈を整えました」
「え、あ、あの」
「別に話したりとかはしなくていいです。
部活の邪魔をする訳にはいきませんし、相手の視界に入る様にあなたの姿を見せて、どう反応するかで判断します。
あ、俺の知り合いとは対面してもらいますけど」
ラブレターを送った相手が突然目の前に現れるのだ。絶対に何かしらの反応をする筈と幸成は睨んでいた。
「分かり、ました…」
「ええ、よろしくお願いします」
そして3人は化学準備室を後にした。
候補者1
5組 大橋 海
・吹奏楽部(練習場所は1年3組)
・依頼人とは全く関係性も面識もなし
3人は1年生の教室で練習しているという1人目の候補者の元へ向かっていた。
「彼は本当に字面が似てるっていうだけだ。
恐らく違うだろうが、念のため確認しておこう」
「は、はい」
違うだろうと言われていても、ほぼ初対面の人に会いに行くのだ。晴は緊張していた。
学年棟に近付くと、様々な楽器が混ざり合った音が聞こえ始める。
「でも、いきなり行ったら誰だってびっくりするよね。どうやって確かめよう」
「彼が練習してる1年3組前のテラスを、ゆっくり歩いてもらえる?
俺たちは反対側から彼の反応をこれで見てるから」
そう言って2人が双眼鏡を取り出す。
「す、すごいね…」
「でしょ、父さんから借りてきた」
「勝手にな」
すかさず克也のツッコミが入る。
晴は呆れつつ、お願いだから壊さないでねと願いながら、候補者がいるという教室を目指して歩き始めた。
2人は早速双眼鏡で対面の教室にいる大橋を探す。
すぐに見つかり、後は晴がその前を歩いてくれるのを待つだけとなった。
遠くからでも分かるくらいガチガチの様子で歩いている晴。思わず「緊張しすぎだ」と幸成は笑いながら呟いた。
そしてついに、晴が例のクラスの前を通り始める。
「…どうだ?克也」
「風間が通ったのは気付いてくれた様だが、すぐに目を戻した。あれは完全に興味ゼロだな」
「俺もそう思う。じゃあやっぱり大橋くんは違う、という事で」
小走りで帰ってきた晴にそう伝える。
3人は次の候補者の元へ向かった。
候補者2
4組 丸山 高良
・野球部
・依頼人と同じ階のクラス
・好きな人がいるらしいが、誰かは分からない(ツテ情報)
・真面目で硬派
「次は最有力候補。
筆跡が完璧に一致しない事だけが引っかかるけど、情報だけ見るとかなり期待出来そうなんだ」
「あ、いたぞ。あれが丸山」
同じクラスだという克也が、丸山を指挿した。
グラウンドで部活動中の丸山は、腰を低くしてノック練習をしている。
3人はグラウンドを一望出来る教室から覗いていた。
「ショートか。花形じゃん」
「しかも強打者だとよ」
それから2人はぶつぶつと何か話し始める。野球の事はさっぱりの晴は、2人の話にとりあえず相槌を打っておいた。
「それじゃあ風間さんは」
「丸山くんの視界に入る様に歩けばいいんだよね!
行ってくる!!」
そう言うとあっという間に下に降りて行った。
「何か気合い入ってんな、風間」
「丸山くんがエースって知って嬉しかったのかな」
そう男2人が呟いているとは知らず、晴は自分が頼りっぱなしな事に気付いて、ただ積極的になろうとしていただけだった。
グラウンド側に出ると右側にバックネットがあり、その裏側を真っ直ぐ行けば、丁度体育館へ続く道に繋がっている。
ここを通って体育館に行く感じにすれば、ノック練習で正面を向いている丸山の視界に入るし不自然ではない筈だと思い、晴は歩き始めた。
「あ、来たぞ。風間」
今回が1番の有力候補なのだ。何か反応があることを祈りながら2人は見守る。
「……反応ないな」
「…うーん、今回も違うのかな…あ、休憩に入るぞ」
晴がバックネットを通り過ぎるあたりで丁度休憩に入った。
丸山が小走りで鞄が置いてある所まで行く。
そして到着するなり鞄を開いた丸山の手が、ぴたりと止まった。何かをじっと見ている。その視線の先には。
「お!丸山、風間に気付いたぜ!しかもじっと見てる」
「来たか?ついに来たのか?」
思わず興奮する2人。
丸山はぐっと水分を補給すると、晴の方へ駆け寄った。
「来たー!ビンゴ!!やっぱり俺の読みは正しかった!!」
「おいおいまじかよまじかよ」
案の定、丸山は晴に声をかける。
驚いた表情の晴。そして次の瞬間、嬉しそうに笑った。
「あ、もしかして付き合う感じ?」
「さあ…」
てっきりお断りの返事をするものだと思っていた2人は少々驚く。
折角ラブレターをくれたのに知らない間に居なくなってしまうのが申し訳ないから、一条達に探してもらおうとしたのだと勝手に思っていたのだ。
「行こう。先に戻ってようぜ」
そう克也に促され「…そうだな」と、一条も呟く様に同意する。
2人の邪魔をしちゃいけない、そう思って静かに化学準備室に戻ろうとした時、誰かが階段を駆け上がる音がした。
「はあ…はあ…」
「か、風間さん!?」
するとそこには、さっきまで楽しそうに丸山と話していた筈の晴が立っていた。
「ち…がった…はあ…はあ」
「な、何?」
「丸山くんじゃ…なかった」
「「は?」」
息を落ち着かせた晴からもう一度聞くと、晴はすっかり忘れていたが、丸山も同じ小学校だったらしい。
ただ丸山も途中引っ越しており、中学を機にここに帰ってきたため、忘れていたのだ。
そして晴が引っ越す事を噂で聞いて、真面目な丸山は最後の挨拶にと声をかけてくれたのだった。
「つい嬉しくてちょっと長話しちゃった、ごめんね」
「あ、いや。うん」
怒涛の展開に未だについていけてない一条はとりあえず返事をする。
そして3人で化学準備室に向かいながら、「丸山くんじゃないのか…」とがっくりした。
候補者3
1組 柊 真也
・帰宅部
・依頼人とは全く関係性も面識もなし
大橋の時と同様、字面が似ているというだけの候補者であり、案の定晴と対面しても特に反応も得られなかったため省略。ここで完全に振り出しに戻る。
3人は柊の自宅を出て、家路についていた。
「また最初からか…」
「何か、ごめんね」
「いや、俺の力不足だ。気にしないで」
「でも…ごめん」
晴はよく謝る。なら最初から頼まなきゃいいのに、と克也は思っていた。
でも幸成は気にしていない様だし、何よりやっと舞い込んできた依頼だからか気合いが入っている。
ただ、昨日学校が閉まるギリギリまで筆跡調査をした事が水の泡になってしまった事に関しては、少々くらっている様だった。
「やっぱり下級生も調べた方がいいかな…」
「え、もしかしてまた筆跡を…?」
「それしか手がかりないから」
「じゃあ私にもやらせて!」
「でも、君は依頼人だし」
「金曜日はさすがに家にいる様に言われてて、明日しかチャンスないの。
お願い、私にも手伝わせて?」
幸成は難しい顔をした。そして鞄の中のスマホをチラリと見る。
「まだ今は15:00か…学校が閉まる18:00までまだ時間がある。…じゃあ、これからでいいなら一緒に手伝ってくれる?」
「勿論!」
「俺はパス」
2人の間を割る様に、克也が手を上げてそう言った。
「おい、用心棒」
「お前が勝手にそう決めただけだ。それに今回の件で物騒な事なんて起きないだろ。
てか普通に予定あんだよ。弟達の面倒頼まれてて」
そう言うと克也は「じゃあな」と言って行ってしまった。
2人はしばし呆然と克也の背中を見守った後、「俺達も行こうか」という幸成の言葉を皮切りに学校に戻った。
「見てほしいポイントを言うね」
「うん」
一年生の教室にも進級に向けての目標を掲げた例の紙が貼ってあり、今回もそれを利用させてもらう事となった。
「この手紙の人は紙の大きさに対して詰めて小さく書きがちだ。だから全体を見てその様なものを見つけたら、今度は筆圧の濃さを見て。結構強めなやつだよ。
それから漢字の遍と傍の間も詰まり気味で全体的に縦に細長い」
昨日散々この手紙とにらめっこしたのだろう、すいすいと出てくるポイントに晴は関心する。
そしてコピーしたというもう一枚の手紙を持って、手分けして始めた。
「ねえ、この校舎裏の桜の木って有名なの?」
しばらくにらめっこしていたら、幸成がふと呟いた。
一瞬自分に言われているとは思わずスルーしそうになったが、ここにいるのは晴だけだ。慌てて返答する。
「私もよく分からないけど、昔からそこはうちの学校の告白スポットらしいよ」
「へ〜知らなかった」
そこから二人はぽつぽつと他愛のない話をしながら作業を続ける。
1クラス大体15人程。4組までいくとゲシュタルト崩壊してまるで記号の様に見え始めた。
少し休憩しよう、と言って2人は椅子に座る。ちなみに今の所、似た様なものは見つかっていない。
「風間さん、どこに引っ越すの?」
「岡山県。丁度受験のタイミングで引っ越しなんて、最悪だよ」
「本当だ。しかも遠い」
2人はすっかり会話が続く様になっていた。
晴は珍しく饒舌になる。
「お姉ちゃんはもうこっちの大学に行ってるからこのまま残るし、私も残りたいって言ったんだけど流石に中学生だから駄目って言われて。
しかもどさくさに紛れて、お姉ちゃん彼氏と同棲するのよ」
「お姉さんいるんだ」
「そう。ちょっと歳が離れてるけどよく相談に乗ってくれるし、ずっと付き合ってるその彼氏さんも私の事を妹みたいに可愛がってくれるの」
「じゃあ、寂しくなるね」
「……うん」
たっぷり溜めた様に出た相槌に、幸成は少々焦った。
不安定な時期にいきなり縁のない土地へ行く事になったのだ。寂しくなるのは当たり前だった。
「続けよっか」
晴がそう言って立ち上がる。
その背中を見ていたら、幸成は思わず口から出ていた。
「風間さんが俺達に依頼してくれて良かった。
初めてのお客様という事もあるけど、俺多分、ずっと忘れないよ」
晴の動きがぴたりと止まる。
そしてゆっくり振り返ってにこりと微笑んだ。
「うん、私も。勇気を出して良かったよ」
幸成はその言葉に素直に嬉しさを感じ、晴に釣られて微笑む。二人は再び作業を開始した。
結局全てのクラスを回る事は出来なかった。それに目ぼしい人物もおらず、やがて学校は閉まってしまった。
「ごめん、多分間に合わないと思う」
帰り道。幸成は呟く様にそう言った。
「ううん、いいの。気にしないで」
晴はそう言ってにこりと笑う。自分でも絶対に見つかるという自信はなかったが、幸成はぜひ完遂したかった。
初めての依頼でもあるし、何より晴はもうすぐここからいなくなるのだから。
「日にちも短かったし、それにこんなに情報がない中調べてくれて嬉しかった」
「…だけど」
「いいのよ、本当に」
やけに晴は満足気だった。
幸成は何となく面白くなくて、頭の中で何か策はないかと頭を働かす。
「ね、一条くん」
「ん?」
「…やっぱり、何でもない。じゃあね!」
「…え、あ、うんじゃあね」
何だったんだ、と聞く暇もないまま晴は走り出してしまう。
その背中を幸成は呆然と見送った。