嘘つきかあさん 正直むすめ
母は嘘つきだ。いつも嘘をついている。今だって、ほら。
「晴美、お茶っ葉は流し台の下だよ」
私がお茶を準備している姿を見て、平然と嘘をつく。
茶葉の入った缶は、食器棚の右端に置かれているのを私は知っている。
お盆で久しぶりに実家に帰ったからと言って、茶葉の場所まで忘れている筈が無いのに、母はそれでも嘘をつく。
「お母さん、お茶っ葉の場所は食器棚でしょ。嘘つき」
私がそう言うと、母はヒャヒャヒャと笑って「あんれ? そうだったかね? ボケ老人の言う事なんて間に受けるんじゃないよ」
決まってそう言うのだった。
私は母のつく嘘が大嫌いだ。
昔から嘘ばかりつく母だったけれども、母は私に正直者で在る事を求めた。
言われるまでも無く、母と違って私は正直に生きていくつもりだった。
そんな私も一度だけ嘘をついた事がある。
遊び呆けて門限に間に合わなかったとき、初めて嘘をついた。
その嘘がばれた時、母の平手打ちで私の頬は紅葉に染まった。
「二度と嘘をつくんじゃないよ!」
母の暴力に食ってかかろうとして、そこには泣きながら怒って顔を赤くした母が居た。
母の顔を見て、私は今後嘘をつかない事を誓ったのだ。
あの時の母の顔は、酷く苦しそうに見えた。
「あれ、晴美ちゃんじゃないか。帰ってたのかい」
「和尚さんお久しぶりです」
母と一緒に、小さい頃に亡くなった父の墓参りに来ていた。父の事は覚えていない。
「祝言の時以来かい? 小さかった晴美ちゃんがこんなに立派になって」
そう言って子供の頃から変わらない、優しい笑みを私に向けてくれる和尚さん。
「そう言えばご家族の方は?」
「ついこの間離婚したよ」
「ええ!?」
「ちょっとお母さん! 嘘をつかないで。夫は忙しいようで。今回は帰っていません」
一体何を言うんだと慌てて訂正を入れた。
「そうだったのか。とみ子さんビックリするじゃないか」
とみ子とは私の母の名前だ。
「あんれ? そうだったかね? ボケ老人の言う事なんて間に受けるんじゃないよ」
何時もと変わらないふざけた母の態度に、いい加減堪忍袋の緒が切れた。
「和尚さんにまで嘘をついて、私嘘をつく人が大嫌いなの!」
「……そうかい」
母はそれだけ言うと私に背を向け、桶を持って父の眠る墓へと一人歩いて行った。
「晴美ちゃん。あんまりお母さんの事嫌っちゃ駄目だよ」
和尚さんは何時だって母の味方だ。母に対して怒った所を私は見た事が無い。
「和尚さんは母に優しいですよね。でも、嘘ばかりつく母に私もう耐えられなくて」
和尚さんは少し寂しそうな顔をして、切り出した。
「晴美ちゃんももう大人になったし、言うべきなのかもしれないね」
「え?」
「お母さんはね、本当は嘘なんてついたことの無い、誠実な人だったんだよ」
驚いた。嘘をつかない母なんて、私には信じられなかった。
「十五、六年程前に、とみ子さんが慌ててお寺に来た事があった。理由を聞くと、娘に嘘をついてしまったと言った」
「私に嘘、ですか?」
「小さい頃、とみ子さんにお父さんの事聞いた事無かったかい?」
「……あっ」
思い出した。子供の頃父親が居ない理由を母に聞いたのだ。
その時の母は、今思えばひどく困惑していたように思う。
母の答えは、『偉い人で、今は会えないけれども立派な人』だった。それを聞いた私は父が英雄のように思えて、それから幾度となく父の事を母に質問していた。
「君のお父さんを私は良く知らない。でも、とみ子さんが晴美ちゃんに教えたく無いような人だったんだろうね。だから、晴美ちゃんに生まれて初めて嘘をついた。嘘を隠し通す為に嘘の上に嘘を塗り固めて、そうしているうちに嘘をつく事が身体の一部になってしまった」
一度の嘘は、坂を転がる球の様に加速してゆく。
そうして行くうちに、母は嘘をつく事に耐えられなくなったに違いない。母は嘘をつけるほど器用な人では無かったのだ。
その為に嘘を身体の一部とした。
母は正直者の自分を殺して、嘘つきという自分を作り上げた。
「……私のせい?」
「本当はとみ子さん本人から聞くべきことなんだろうけど、今のとみ子さんはきっと本当のことは言えないだろうし」
和尚さんに一礼すると私は走り出していた。
母のもとへ、さっきの事、今までの事を謝らないと。私を守ろうとしてついた嘘が全ての原因だ。心の中は母への謝罪で溢れていた。
「お母さん!」
母は父の墓前の前でお線香を焚いていた。
私を殴り飛ばしたお母さん。私に正直者で在れと言ったお母さん。あの時大きかった母の姿は、今はとても小さく見えた。
「お母さん」
謝ってはいけない。
謝る事は、自分を殺してまで私を守ってくれた母を否定する事になる。
今まで育ててくれた母に感謝を。
「今までありがとう。そして、これからもよろしくね」
今の私の正直な気持ちを母にぶつけた。
母は驚いたように目を丸くすると、顔を背けて言った。
「私はあんたなんか大嫌いだよ」
「そっか、でも私はお母さんの事大好きだよ」
「……ボケ老人の言う事なんて間に受けるんじゃないよ」
呟くように言った母の言葉は、けれども私にはしっかりと聞こえたのだった。
ファイル整理してたら2013年頃に書いていた短編が出てきたので、多少手直しして出してみることにしました。