プロローグ
その何の変哲もないただの木の扉が、なぜだか一瞬輝いて見えた。
花金。世の多くのサラリーマンは街へ繰り出し、同僚たちなどと共に酒を嗜む。
しがない平社員である自分、風間爽太も同様にお世話になっている先輩社員を伴い居酒屋でそれなりに酒を飲み、店を後にした。
「まだ飲み足りねえなぁ。爽太、二軒目はどこにする?」
「先輩はお酒強いんでいいですけど、自分はもうかなり酔いが来てますよ…」
下戸というわけではないがそこまで酒が強いわけでもない。正直、ウワバミレベルに酒を飲む先輩には付き合いきれない。
「あ?何言ってんだよ、これからだよこれから」
「いやぁ…先輩もう勘弁して下さいよ…」
普段はとても面倒見の良い先輩だし、飲みの金も多分に出してくれるような人だ。
ただ酒が入るといつもこうなるのだけはいただけない。
「ん…?」
なぜだか一瞬、何の変哲もない木のドアが輝いて見えたような気がしてそちらに気を取られた。
「どうした爽太。Bar『フォーマルハウト』…?良いんじゃないか。お前が気になるならそこにするとするか。」
「え、いや、先輩?」
返事をする間もなく先輩はどんどんそのドアに進んで歩いていく。
少々酔って覚束ない足を動かし必死にその後ろを追いかけたのだった。
入ったその先はまるで小さい頃思い描いた様な大人の世界そのものだった。
程良く暗い照明。長いバーカウンター。たくさんのお酒が飾られた棚。カウンターの奥には何やら木の樽のようなものまで寝かされている。
「いらっしゃいませ。お二人様でしょうか?」
一つの皺もないワイシャツに黒ベストを華麗に着こなした女性が先輩に問う。
「ああ二人で。テーブルでも大丈夫か?」
「でしたらこちらのテーブル席へどうぞ。ご注文は後ほどお伺いしますか?」
「とりあえず生で。爽太はどうする?」
「えっ、Barってビールもあるんですか!?」
カクテルを静かに傾けるイメージしかなかった俺は思わず驚く。
「何だ爽太Barは初めてか?」
不思議そうに先輩は問う。
「ええ実は…」
「なるほど、初めてBarにいらしたお客様でしたか。はい、生ビールもございますよ。カクテルだけでなく、ビールやウイスキー、ハイボールといったお酒全般をご提供させていただいております。」
店員のお姉さんはにこやかに説明してくれる。
「でしたらソフトドリンクとかもあります…かね…?」
「ええ、カクテル以外のメニューはこちらにありますので御覧いただければ。」
そこそこ酔いが来ている自分には朗報だ。ここはソフトドリンクで…
「だーから爽太お前は酒が弱いんだよ。こういうのは飲んで強くなるもんだ。お姉さん、何かこいつに強めのカクテル作ってやってくれる?」
目論見は即崩れ去る。先輩、酒が絡むとこれなのは悪いところだよなぁ。
「ええと、お客様如何致しましょう?」
心配した目線で見つめてくれるが、こうなると断り様はない。
「ではカクテルで。とは言っても全く詳しくないのですが…」
「それでしたら、モヒートは如何でしょう。ミントが入っておりますがミントはお嫌いではないですか?」
「はい、大丈夫ですよ。」
いつも酔ってもなんだかんだ帰れているが、今日もちゃんと帰れるだろうか…そう思いながら気を引き締めてモヒートとやらの到着を待った。
「お待たせしました。モヒートと生ビールです。」
突き出しの豆菓子をポリポリやってた俺たちに先ほどの店員さんは酒を二つ持ってくる。
「わぁ…これがモヒートなんですね」
長くて細いグラスに透明な液体と、緑のミントとライムが良く映える。見ているだけで美しい。
「お気に召しましたら同じものをご提供させていただきますのでご遠慮なくお申し付けください。」
普通の店ではあまり聞かない文言に俺は首をかしげる。Bar独特の文化だろうか。
「さぁ爽太飲むぞ、乾杯」
先輩も雰囲気はしっかり読むのか、グラスを軽く付き合わせ静かに飲み始める。
綺麗に飾られたグラスを崩したくない上、あまり酒を追加で飲みたくないが嫌々ながらも俺も杯を傾ける。
薄い。まるでミントの味のついたさっぱりとした炭酸水のような…いやこれはただの炭酸水…?
カウンターに立つ店員さんの方に目をやると店員さんはにっこり微笑むのであった。
その日、酒を機嫌良く飲む先輩に付き合い“モヒート”を飲んだ俺は無事帰りの途についたのだった。
とっさのことながら助け船を出してくれた店員さんにお礼を言うために今度また一人でゆっくり伺おう。
Barにも少し憧れがあった俺はそう心に決めたのであった。