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昇天(2019l)

作者: 長矢 定

 宇宙開発を特集する雑誌で、必ずと言っていいほど取り上げられるのが“宇宙エレベーター”だと思います。その発案が日本の大手建設会社だからでしょう。静止軌道から強力な素材のロープを地上まで垂らし、それを伝って乗り物が上り下りする計画です。ただ、雑誌ではコラム的な扱いで詳細な記事にはなっていません。素人の私には様々な問題が次々に浮かび、実現可能なの? と疑問を持ってしまいます。

 それより以前から考えられていたのが、天辺が静止軌道まで届く超超超高層なタワー型の建造物“軌道エレベーター”です。こんなモノ、造れるの? という疑問はありますが、ロープ一本よりは頑丈そうで、乗り物としての安心感があるような気がします。なにせ、宇宙から帰るときは地表に向かって真っ逆さまに下っていくことになります。乗っている人は、大丈夫なの? 本当に止まるの? と不安になるでしょう……

 もう一つ、どうしても気になるのが静止軌道までの距離と時間です。三万六〇〇〇キロメートルという長距離です。たとえば、リニア新幹線と同じ時速五〇〇キロメートルの乗り物だと72時間、丸三日かかります。ジェット旅客機並みの時速一〇〇〇キロメートルで考えると36時間、一日半になります。10時間程度の空路でもエコノミー症候群が問題になりますので、椅子に座ったままというわけにはいかないでしょう。そんな長時間の移動は苦痛です。命にかかわるかもしれませんね……


 地表と宇宙を結ぶエレベーター。その発想は良いのですが、運用面での配慮も必要でしょう。それをテーマにして書いたのが本作です。まあ、それでも問題山積みでしょうが、ロケットに代わる手段を何とか実現したいですよね。


●登場人物

■岩倉 雅樹(35)作業ロボット製造メーカーの社員

◇ローザ・ラットン(31)土星有人探査を目指す新米宇宙船乗り

□レゴリー・ローガン(40代)月面開発局、管理官

◇上北 美紀(40)静止軌道施設スペースゲートⅠの運営スタッフ


    プロローグ


 一〇〇〇メートルの高みから下界を眺めた。

 この距離になると、高所恐怖は息を潜める。人の営みを感じる街並みがあれば違う感情が湧き出てきたかもしれないが、広がる大海の風景は冷めた印象があった。着陸を控えた旅客機の窓からの風景と大差ない。

 男は体の向きを変え、顔を上に向けた。

 天井は大きなガラス窓になっており、天空へと伸びる構造物が見える。

 軌道エレベーター。

 そのガイドウエーは、高度三万六〇〇〇キロメートルの静止軌道まで続いている。その先端を見ることなど不可能だ。それでも、他の観光客と同様に天を見上げ、目を凝らす。

 男は肩を揺らして息をする。無造作に頭を掻いた。髪は短く刈り込み整えられている。

 周囲の観光客は、スペースタワーの一〇〇〇メートルの高さに設けられたこの展望室が目的地になる。よくぞ、こんなものを建造した、と驚き、感心していた。だが、男にとってここは旅の出発点だった。

 男は観光客で賑わう広い展望室を出てゲートへ向かう。

 指紋と網膜のダブルチェックを行い“岩倉雅樹”と認証され、ゲートを潜った。支給された下着とジャンプスーツに着替える。着ていた衣類と数点の私物は専用の箱に押し込み、ロックして預けた。それを受け取るのは一年後になる。

 マサキは待合室で時間を潰す。

 その部屋に集った軌道エレベーターを利用する人たちはグループで行動していた。単独で宇宙に出るマサキには、顔見知りもいない。孤独、寂しさ、不安……

 一方で、そうした負の感情を抑え込む大きな期待、希望、興奮があった。

 いよいよ、宇宙に出るのだ。




    一


 それは、ビルディングにあるエレベーターのイメージではなく、列車が直立したような乗り物だ。筒状の車両が垂直に連結していた。先頭が気動車、次に客車が幾つか繋がり、コンテナ貨車が続く。天空へと真っ直ぐに伸びるガイドウエーも上昇と下降の複線化が施されている。

 エアロックを抜けて客車に入ると、階段と一般的なエレベーターがあった。

 岩倉雅樹は迷うこと無く階段を使い、階層構造の客室へ下りて行く。そこは天井が低く、外壁に窓はない。狭い密閉空間に座席が並ぶ。ただ、その配置間隔は思っていたよりもゆったりとしていた。

 既に、ほとんどの乗客が席についている。年配の人ばかりだ。ご婦人もいる。マサキは視線を集めつつ指定の席に向かい、座った。

 アナウンスの指示に従いシートベルトを締めて背もたれを水平になるまで倒す。寝心地の良いシートだ。備え付けのフードが他の乗客の視線を遮り、落ち着く。重力に逆らって上昇するため、仰向けに寝たほうが身体への負担が軽減する。もっとも、このリフターは時速二〇〇キロメートルを少し超える程度の速度しか出さないので、重力に押し潰されるような絶望的な苦しさはない。二時間ほどで高度四〇〇キロメートルにある中継ステーションに到着する予定だ。

 定刻に出発。

 昇り始めは特に振動と騒音が激しい。車体が揺れ、苦しそうな唸りが響く。ただそれは、次第に収まっていった。やがて隣席との会話も可能になり、マサキも座席のリクライニングを戻して身体を固めていた力を抜く。

「乗り心地は、飛行機と大差ないですね」

 早々に、隣の席から初老の男性が話し掛けてくる。

「そうですね……」と頷く。

「でも、気がかりなのは、帰りですよね。地表に向かって垂直に突っ込んでいくことになり、何か小さな間違いがあると地面に激突してしまいます……。妻は、そのことばかり心配していますよ」

 初老の男性の向こう側に座る女性が不安げな表情でマサキの顔を見詰めていた。

「大丈夫ですよ。そんなことにはなりませんから……」

 マサキは笑みを浮かべてそう答えた。もっとも、彼の心の内にもその恐怖が居座っている。払拭できない恐怖だ。もちろん、軌道エレベーターの安全性は保証されている。中継ステーションから地球側は、ガイドウエーに磁気の反発力を利用した減速システムが組み込まれており、降下する車両の速度が規定値を超えないように制御していた。多少の揺れはあるものの、安全・スムーズに地表へ降り立つことができる。

 しかし、とマサキは思う。

 たとえば、安全な乗り物とアピールされてきた航空機でも、これまでに何度も墜落事故を起こし多くの犠牲者が出ている。安全性を強調すればするほど、その陰に危険な因子が潜んでいるのではないかと疑ってしまうのだ。不安になる。

 初老の男性も微笑みを返した。

「まあ、私たちは老い先短い身ですから、それも仕方ないと諦めることができますからね。そんなことは忘れて、この宇宙旅行を楽しむことにします。でも、あなたはお若いですから、そういうわけにはいきませんよね。失礼ですが、おいくつですか?」

「三五歳です」とマサキは答えた。

「お仕事ですか」

「ええ」

「ご家族の方は心配でしょうね……」

 その言葉に、マサキは曖昧に笑った。

「独り身ですから」

「ご両親は?」

「いません」

「お亡くなりになったのですか」

「いえ、会ったことがありません。生きているのか死んでしまったのか、それすらも知りません」

 その答えに、初老の男性はバツが悪そうな顔をする。深入りしてはいけない話だと察した。

「その……、胸のラインが銀色ですね。それは、どんな意味があるのですか」

 と話を変える。

「これ、ですか……」

 支給されたジャンプスーツには胸から背中へと太いラインが描かれている。このフロアに座る人たちは黄色のライン、観光客を示す色だった。年配の人を対象にした西洋のどこかの国のツアーだろう。貸し出されるジャンプスーツは各種サイズが用意されているが、身体にフィットしていない人も見受けられた。厄介なトラブルを避けるため、ネックレスやイヤリングのような装飾品は身に付けることができない。化粧も、塗りたくるような濃いものは使えなかった。用意されている基礎化粧品のみだ。それを嫌う女性は少なくない。リゾートで提供されるような優雅なサービスなども一切なかった。それが静止軌道へ向かう宇宙体験旅行だ。それでも物珍しさと従来に比べ旅費が抑えられていることや、乗り心地が穏やかな軌道エレベーターを利用することから人気がある。その黄色ラインの集団に一人だけ黒縁銀色ラインのマサキが紛れ込んだ格好だ。東洋人であることに加え年齢も異なるため、目立ってしまう。

「所属が月面基地だということです」と素直に答える。

「月面! これから月へ行くのですか?」

「ええ、まあ……」

「すごいな、長期の滞在ですか」

「一年の予定です」

「一年ですか。何度も行っているのですか」

「いえ、初めてです」

「そうですか、それは貴重な体験ですね。遠くに青い地球を見て、月の沙漠を歩くんでしょ」

「そうですね。そうした機会もあると思います」

 初老の男性は羨ましそうな表情を見せた。

「実は、私、月へ行きたいと思っていたんです。でも、月はまだ、一般旅行者の受け入れをしていません。その計画は進んでいないようですね……」

 マサキは曖昧に頷く。月面開発は観光より大規模なコンビナート建設に傾いている。そちらが優先されていた。

 地球の環境破壊の実態は深刻さを増すばかりで、早急な対応策が迫られていた。そのため少なからず悪影響を及ぼす重・化学工業などは、環境改善の見地から様々な制約が課せられ生産性が低下しているのが現状だ。この袋小路の打開策として、地球外に生産拠点を移す案が打ち出され、月面が有力候補地となり計画が進められる。それには、ようやく完成し運用を始めた軌道エレベーターの存在が大きな後押しとなった。やがて広大な月の沙漠には無人化された工場が建ち並び、多様な工業製品を生産し地球の市場に向けて出荷する。将来、メイド・イン・ムーンの製品が巷に溢れることになるのだろう……

「月の受け入れを待っていたら、私は年齢をどんどん積み重ねることになります。今回も、事前の医療チェックでお医者さんから、地球に戻ったときの身体への負担を危惧されました。それで、この短期滞在の弾丸ツアーなら何とか参加できることになります。身体が無重力の楽な環境に馴染む前に地上へ戻らないと厳しい状況に陥り、命を短くすることになりかねないと脅されましたよ」

 と初老の男性は苦笑いを見せる。

「月面の六分の一重力の環境に設備の整った保養施設があれば、そっちに移って、のんびり余生を過ごすのですが……」

「あら、私はイヤだわ」と彼の妻が口を挟んだ。

「灰色一色の砂漠しかないのでしょう。殺風景だわ。のんびり暮らすなら温暖で自然豊かな場所でないと干涸らびてしまう……」

 その妻の言い分に男性は顔を顰めた。マサキは二人に笑みを返す。

 人間の身体は、楽な環境に直ぐ馴染む。筋力は低下し骨はもろくなり、心臓も血液の循環に力を使わず怠けてしまう。地球に戻ると脆弱になった身体に大きな重力が覆い被さり、身体のあちこちが不調を来すことになる。そのため身体が弱ったお年寄りなどは、医学的見地から宇宙へ出る許可が下りない。

 一方、宇宙放射線の被曝も懸念の一つだ。宇宙にある居住施設は、これを完全に防御できない。成長期の子どもや、子づくりを控えた若い世代が宇宙に出たことによって放射線被曝の深刻な影響を受けることになるかもしれない。従って、三〇歳未満の宇宙進出を禁じている。軌道エレベーターの完成により宇宙は身近になったが、誰もが宇宙に行けるわけではなかった。

 初老の夫婦は、この先の暮らしについて冷ややかな口論を続けていた。考え方に根本的な違いがあるのは明らかだ。マサキは口を挟むことではないと視線を外す。天空へと昇る車両の中にいるのだ。楽しめばいいのに、と思う。

「すみませんね、みっともないところを見せてしまって……」

 平行線のまま収束し、苦笑いの男性がマサキに言った。彼も笑みを返す。

「そうだ。この宇宙旅行について初歩的な質問をしてもいいですか」

「初歩的な質問、ですか……」

 マサキは困惑する。どのような質問なのかわからないが、上手く答える自信などなかった。

「ええ、妻が感じた疑問なんですが、上手く説明することができないんですよ」

「はあ……。私に答えられるかな……」

 マサキは眉間に皺を寄せる。

「いや、単純な疑問なんです。無重力体験をするのに、なぜ、三万六〇〇〇キロメートルも離れた場所に行かなくてならないのか。以前は、高度四〇〇キロメートルに宇宙ステーションがありましたが、その内部の映像を見ると人がプカプカと浮いていました。無重力です。今向かっている中継ステーションと同じ高さですよね。そこなら二時間で行けるのに、無重力を体験することはできない。なぜか……?」

 マサキは短い髪の頭を掻いた。顔を顰める。

「丸い地球の周りをグルグル回っているからですよ」

 と答えた。初老の夫婦は、二人してポカンと口を開ける。

「重力と遠心力の引っ張り合いです。その二つの力が釣り合ったとき、無重力を体験できます」

「重力と遠心力……」

「子どもの頃、やりませんでしたか? バケツに水を入れ、グルグルと回す。頭の上を回しても水が零れることはない。水は遠心力でバケツの底にへばりつきます」

 マサキは腕をグルグル回す仕草をした。初老の男性が頷く。

「ええ、やったことがあります」

「それですよ。丸い地球の周りを回るわけですから、遠心力が働きます。実は、地表にいても遠心力の影響を受けているんですよ。地球は自転してますからね。遠心力が一番強いのは赤道上の地域です。緯度が上がると遠心力は弱まっていきます。だから厳密にいうと、赤道上にいたほうが体重が軽くなります」

 その話に男性の妻が反応する。

「そうなんですか。だったら、赤道に住まないといけないですね」と笑う。

 マサキも笑みを返した。

「でも、体重の変化に気付く人なんていませんよ。微量ですし、周りのもの全てが一様に遠心力を受けます。自分だけが軽くなるわけじゃありませんからね」

「あら、残念ね」

 その妻の反応に初老の男性も微笑みを見せる。先ほどの夫婦間の険悪さは消えてなくなっていた。

「その遠心力が無重力と関係するのですか」

「ええ。遠心力は回転速度によって変化します。バケツもゆっくり回すとザブンと零れてしまいます。ある程度、速く回さないといけません」

「確かに、そうですね」

「かつて四〇〇キロメートルの高度で地球を回っていた宇宙ステーションは、九〇分で一周していました。その速度でないと四〇〇キロメートルの高度を安定して回ることができません。つまり、重力と遠心力が均衡する速さが一定の高度を安定して回れる速度になります。でも、この軌道エレベーターは地表から突き出た構造物ですから、一回転するのに二四時間かかります。四〇〇キロメートルの高度に対して周回速度が遅い、ということですね。ですから遠心力が足りず、中の人たちは地球に引っ張られてしまいます」

「速度が遅い……」

「地表から突き出た軌道エレベーターは、先へ行くほど周回速度が速くなり、遠心力が強まります。従って、無重力を体験するには三万六〇〇〇キロメートルの高さまで昇らないといけない、ということになります。イメージできますか?」

 初老の男性は、半分しか理解できなかったような顔で頷いた。その隣の妻の顔からも笑みは消えており、怪訝な表情をしている。マサキは目を細めた。このような説明は苦手だ。できれば避けたいと思っていた。

「理屈はともかく、体験することですよね。それに勝るものはありません」

 と初老の男性が言う。場を取り繕うために質問したが、小難しい話をここで聞くのは辛いと思う。

「私も、そう思います」

 そう応えたマサキは小さな息を吐いた。それを見た初老の男性は、彼は観光旅行ではなく長期の仕事に遠方へと出向くのだと気付いた。気軽に話し掛けるのは失礼かもしれないと思い、会話が途切れる。

 しばらくしてマサキは座席の上で身じろぎをした。もう一度背もたれを倒すと目を閉じる。眠くはないが、しばしの安らぎを望んだ。




    二


 岩倉雅樹は、中継ステーションで車両を降りた。

 手荷物はない。手ぶらだ。仕事で必要となる機材などはコンテナに積め事前に送っていた。宇宙へ出る際の私物の持ち込みには厳しい制限がある。それぞれに私物入れとして小振りのポーチが支給されるが、食べ物や化粧品などゴミや汚れになるような物は持ち込めない。原則、施設で提供される物を利用することになる。

 客車に残った他の人たちは、一回り大きな気動車に連結されるのを待っていた。マサキは乗ってきた車両の連結作業を側壁の展望室から眺める。床下と天井部にも窓があり、地表から伸びるガイドウエーと、漆黒の宇宙へと続くガイドウエーの両方を見ることができる。その造りに違いがあった。

 この先を進む気動車は客車や貨車を亜音速で引っ張り、一日半で高度三万六〇〇〇キロメートルにある静止軌道施設・スペースゲートⅠに到着する。長時間の移動になるため飲食や娯楽設備を整えた車両も新たに繋がる。乗客の多くは、その設備を利用しようと待ち構えているはずだ。

「こんにちは……」

 背後から声を掛けられた。振り返ると、赤いラインのジャンプスーツを着た一人の女性が展望室に入ってきたところだった。施設の外、宇宙空間で仕事をする人だ。ここにいるということは三〇歳を過ぎているはずだが、二〇代前半と言われても疑問を持たないぐらい若く見えた。

「月へ行かれるのですか」

「ええ。あの便に乗って、今到着したところです……」

 と反射的に応えた。戸惑いからか笑いが零れ、誤魔化すように言葉を繋ぐ。

「実は、宇宙に出るのは初めてなんです」

「初めてで、月へ行くのですか」

「ええ。月面作業ロボットのメンテナンスに出向くことになりました。民間企業の社員なんです」

「そうでしたか……。リフターの乗り心地はどうでした?」

「快適でしたよ。郊外を走る列車に乗っているように感じましたね」

 その応えに女性は微笑む。

「アジア系の方ですね。お国はどちらです?」

「日本です」

「日本……」

 マサキが頷き返す。こうした反応には慣れていた。

「極東の小さな島国ですよ。人口も少なく、目立たない国ですね」

「そうですか……」

 かつては経済大国として世界を席巻していた時代があったというが、それは単なる歴史の話で、今は気に留める人もいない小国に過ぎない。彼女も馴染みはないのだろうと表情から察した。

「勤めているのはサンライズ・ワークマシンという企業ですが、ご存じないですか」

 その名を聞き、彼女の表情が和んだ。

「ええ、知っています。私が育った街でも、あちこちの作業現場でサンライズのロボットを見掛けました。このタワーの建設や保守においてもサンライズの作業ロボットは活躍していますよね。当然、月面でも使われているということですか」

 それにマサキが頷く。

「月面は、これまでとは異なる環境ですからね。ロボットのトラブルも想定外のものが出てきます。ただ、壊れた機器を簡単に地球へ送り返すことはできませんから、人のほうが現場に出向き、そうしたトラブルの原因を探って対応することになります」

 若い女性は納得顔で頷いた。

「サンライズのロボットは細かな作業を器用に熟すと、評判がいいですね。日本の企業でしたか」

「ええ、国を支える数少ない産業になります。日本は昔からロボット事業に力を注いできましたから……」

 一応、民間企業の体を成しているが、国の関わりも深い。準国営的な経営で、時に厄介な問題が起こることもある。日の出の勢いで国の再生を牽引するようにという願いから名付けられた企業名だった。

「失礼しました。イワクラ・マサキといいます」

「ローザ・ラットンです」

 と彼女は片手を差し出し、握手を交わした。

「よかったら、話し相手になってもらえませんか」

「ええ、もちろんです。初めての宇宙ですから、聞きたいこともあります」

「私も、宇宙に出たのは初めてなんですよ。何日か早いだけですから」

「そうでしたか。私よりお若いですよね。二〇代ということは、ないでしょうが……」

 会ったばかりで年齢の話をするのは無礼だ。しかし、気になることが口を吐いた。

「三一歳です」

 とローザは何気に答える。

「三一。それは、素晴らしい」

 年齢制限を過ぎ、早々に宇宙へ出る。それは優秀な人材であることの証だった。マサキは無条件に尊敬する。

「座りませんか」

 ローザは展望窓とは反対の壁際に視線を投げた。ベンチが設置してある。マサキは頷く。ベンチに並んで座ると正面の窓から連結作業を眺めることができる。

「中継ステーションでの作業は殆どをロボットが担当し、主な監視や確認作業も地表からの遠隔操作で行っていると聞きました。ここは必要最小限のスタッフで運用しているはずですが、赤ラインの方の仕事があるのですか」

 宇宙空間での作業は危険が伴う。従って、大抵はロボットが作業を担っていた。マサキは仕事の関係から、そうした事情を理解している。

「私が新米だから、ですよ。あれこれと経験を積む必要があります」

 マサキは頷く。しかし、彼の疑問の答えにはなっていない。

「どういった仕事のために、ここにいるのですか」

 その問い掛けにローザが笑みを見せた。

「人体実験、ですよ」

「人体実験?」

 マサキの怪訝な顔を見て、ローザは声をあげて笑った。

「気にしないでください。悪気の無い嫌みですよ。評価試験に取り組みます」

「評価試験?」

「ここに緊急用の脱出カプセルがあるのは、ご存じですか」

「ええ。地球降下式、収容人数が数名の小型カプセルですよね。研修で習いました。昔のロケット時代に採用されていた帰還カプセルと同じタイプと聞きましたが……」

「使い方も習いましたか」

「簡単な座学ですよ。中に入ってハッチを閉じ、椅子に掛けてベルトを締め、脱出スイッチを入れる。後は、大気圏突入時の激しい衝撃にひたすら耐える……。そんな程度です」

「その実証試験です。何年かに一度、耐用年数を迎えるカプセルを交換する際、その一つに乗って緊急脱出が無難に行えるのか試すことになります。つまり、私は、それに乗り込む実験動物ですね」

 マサキが頷く。

「そういうことですか……」

「志願者が少ないのが悩みのようですが、私は船乗り志望ですから地球降下も経験しておいたほうが都合よい、ということになります。後々の仕事に有利になるというのが通説なんですよ」

「通説、ですか……。火星船の乗務を希望しているのですか」

「そうですね。できれば、土星有人探査に加わりたいと思っています」

「土星!」

 マサキは驚き、ローザの顔を見る。若く温和な顔立ちの彼女から、そうした勇ましい話を聞くとは思っていなかった。

「土星有人探査の計画は、進んでいるのですか」

 そのマサキの問い掛けに、ローザは顔を顰める。

「まだ、表立った動きはないようですね。でも、探査船の設計は何度も手直しが行われているようです。この軌道エレベーターの運用が始まり、数年あれば軌道上で有人探査船を建造することができると言われていますからね。そのチャンスがあるのなら、逃したくはありません」

 と言い、笑みを見せた後で彼女は真顔になった。

「土星探査の気運が高まるかが、大きな問題ですね」

 土星の一つ手前の惑星、木星有人探査が行われたのは一世紀も前のことだ。危険なミッションに挑んだ隊員は、犠牲者を出し、辛うじて成功させた。それもあり、次の土星探査を進めることに二の足を踏んでいる。宇宙進出よりも身近な生活の問題解決に力を注ぐことを人々は望んでいた。そうした時代の流れを打ち砕こうとするのが、軌道エレベーターの建設・運用事業である。

 ただ、マサキの表情に疑念があった。土星探査に挑もうとする心情が理解できない。

「興味がないようですね……」

「いえ、何というか、現実味がありません。純粋にお尋ねしますが、なぜ、土星探査なんですか。人類未到だから?」

 ローザはニコリと笑った。

「それも、ありますね。でも、きっかけは、子どものときに大きな環のある星に魅了されたからです。だって、不思議でしょう。神秘的だわ……。だから、あの星の近くに行ってじっくり見てみたい、と思うようになったの」

 細かな氷が形成する薄く大きな環。接近するにつれ、遠くで輝く太陽の光をキラキラと反射する光景が見えるのだろうか……

「確かに、神秘的ですね」

 その反応に、ローザは微笑む。嬉しそうな表情だ。

「それに、土星の衛星タイタンには濃い大気があるわ。月よりも大きな星よ。そこに降り立つことも探査計画に組み込まれるでしょうね」

「そうですね。わざわざ出向くわけですから、当然、タイタンには降りたいですね……。でも、土星までは遠い。リスクも大きい……」

「尻込みしていても仕方ないわ。チャンスがあるなら、私は迷わず手を挙げます」

 マサキは目を丸くする。情熱というか、執念というか。このような女性がいることに改めて驚く。

「そのために脱出カプセルに乗って降下するわけですか」

「そうね。そうした経歴が土星探査の選考で、幾らか有利に働くと期待しているのよ。まだ配属が決まってないのも理由の一つね。こんなことでビビっていたら土星なんかに行けないでしょ」

「そうですね……」とマサキは表情を強張らせた。

「怖くはないですか」

「怖い……」ローザは上目になり、思案した。

「そうね、怖いわ。でも、恐怖は大切だと思うの。そこで身体を震わせ、縮こまってはダメだけど、冷静に警戒して状況を正確に把握すれば正しい判断を導き出すことができると思うわ」

 それを聞き、マサキは鼻から長い息を吐いた。土星を目指す、などと口にする人は心の持ち方一つとっても違うのだろう。息を吐いた後で笑みを見せる。

「何というか、吹っ切れた感じです」

 それを聞き、ローザはピクリと眉を震わせて眉間に皺を寄せた。

「吹っ切れた?」

「ええ、正直に言うと、心の片隅で怖れていたんです。月へ行くことを。行きたくて手を挙げたわけではなく、成り行きで月面赴任が決まったようなところがあったんですよ。だから、どこかでビビっていたんです」

 これは業績によるご褒美ではなかった。

 本格的な月面開発は着手して間がない。月では様々な形体をした作業ロボットがうごめき始めた状況だ。月面の居住施設は必要最小限で、駐在する人数も少ない。その中で、作業するロボットの不具合対策に一名の現地要員枠が設けられた。繊細な作業を担うサンライズ・ワークマシンのロボットを重要視する傾向にあったが、他のメーカーの製品についても支援しなくてはならない事情もある。いろいろな都合や思惑、面倒が絡み、月面赴任の人選に手間取る経緯があった。

「そうでしたか……」

「でも、ここまで来てビビっていても仕方ない。開き直らないといけないですね。ラットンさんの生き様を見習い、吹っ切ることにします」

「あら、嬉しいわ。ローザと呼んでください」と笑う。

「脱出カプセルで降下するのは、いつですか」

「一回延期され、来週行う予定なの」

「延期?」

「降下予定地の天気がよくなかったのよ」

「天気? 緊急用の脱出カプセルなのに?」

「そうね、ちょっとした矛盾よね。でも、これは評価試験なの。いろいろな根回しが必要なのよ」

「根回し?」

 マサキは眉を顰めた。知らない事情ばかりだ。

「降下したカプセルから地上の救助隊に引っ張り出してもらうことになるけど、天気が悪い中での作業は大変でしょ。だから、穏やかな日に試験を行うと決められているのよ。それに引っ掛かったの」

「地表側の都合ですか」

「ええ、延期するのは仕方ないけど、人員を再配置するのに手間が掛かってしまう。他にも航空機に注意喚起し、場合によっては航路を変更してもらわないといけないから手配に時間が掛かり、天気が回復しても直ぐには試験ができない……」

「厄介ですね」

「そうね、面倒ね。軌道エレベーターは多くの国が協力して造り、運用しているから、とりたてて急ぐ理由のない試験などは、あちこちに気を配り、根回ししないといけない。それが実情なのね。私も初めて知ったわ」

 マサキは渋い表情で頭を撫でた。そうした話は、どこにでもあるに違いない。

「その間、ここで待機することになるのですか」

「そうよね。二時間で地上に行けるのだから、仕切り直しをすればよいと思うけど……」

「中継ステーションの運用スタッフは、シフトを組んで数日間の勤務の後に地表へ戻っていると聞きました。二時間程度なら大した移動時間じゃないですからね。地表で待機すればいいのに……」

「そうね。だからここにいても、遊び相手がいない。退屈なのよ。仕切り直しで地上に戻すと、手間取ったことを理由に逃げ出すかもしれないと心配したようね。だったら、この機会に上の施設を覗いてみたいと言ってみたけど、重力環境の変化が体調に影響するのを懸念されてしまったわ。試験では、私の身体データも取らないといけないの。で、結局、この場で待機することになってしまった。やることも特にないから、こうしてブラブラするしかないの。意気込んでいたけど、私は実験動物扱いなのね。失敗したわ」

 とローザは乾いた声で笑う。マサキも顔を歪めて、それに同情した。

「でも宇宙では、物事が予定通りに進まないことは珍しくないでしょ。そんなときに焦ったり慌てたりしても仕方ないわ。どっしりと構えるべきね」

「なるほど、どっしりですか。私もこの先、それを忘れないようにします」

 マサキがそう言い、二人は笑みを交わした。会話が途切れる。

「動きがないですね」

 しばらくしてマサキが言う。彼の視線は展望窓の先に向いている。連結作業は、事前に運ばれていた貨車を幾つか繋いだところで目に見える動きがなくなっていた。連結は終わったのかもしれないが、出発までは、まだ時間がある。

 マサキはベンチを立ち、展望窓に歩み寄った。眼下と直上を交互に見る。

「上と下ではガイドウエーの構造も違いますね」

「そうね。気動車は別ものだから、当然ね」

 ローザも、そう答えながら窓際に進んだ。マサキと並んで窓の向こうを眺める。

 上り下りの複線仕様になっているのは同じだが、円筒形のガイドウエーを構成するレールが、地球側は極太の一〇本、静止軌道側が細めの一二本で造られている。加減速区域であるため幾つもの機器・装置が周囲に組み込まれており、その構造物の見た目から大きな鳥かごのように見えた。

「上のガイドレールが一二本なのは、亜音速のスピードを出すからですか」

 とマサキは一つの疑問を口にした。

「特別に詳しいわけではないけど、一二本のレールを円形に配置して磁気の反発力でリフターを中心位置に押さえつけているそうよ。ここから先は、亜音速のリフターとガイドウエーは非接触なの」

 マサキが期待した話とは違う答えだ。非接触であることは知っていたが、彼は頷く。

「乗り心地は、地球側のリフターより良いそうですね」

「私も、そう聞いているわ」

「そうか、まだ乗っていないのか」

「ここから何度も眺めただけ。高度四〇〇キロメートルで足止めよ。重力も少しは小さくなっているはずだけど、正直言って、そこまで敏感じゃないみたい。地表との違いを感じないわ」

「そうですね。私も鈍感なようです。四〇〇キロメートルの高さをグルグル回っている感覚は、ないですね」

「次の貨物便に乗り換えてリトルマーズに立ち寄るの?」

「ええ。月の低重力に備えて、三分の一の火星重力環境で身体に馴染ませます」

 軌道エレベーターを上昇することで重力が小さくなっていくので、火星重力と同じ高さに居住施設が新設された。リトルマーズと呼ばれ、無重力や月の低重力で働いた人が地球に帰還する際にその施設で何日か過ごし、身体を重力に馴染ませることが第一の目的になっている。

「リフターの出発を見るつもりですが、それまでここでじっと待っていても仕方ありません。できれば、その間にここを案内して欲しいのですが……」

 マサキは丁寧にお願いをする。

「もちろん、喜んで」

 とローザは微笑みを返した。




    三


 軌道エレベーターの高度四〇〇キロメートルにある中継ステーションは、ターミナル施設の周囲に居住区画が貼り付くような造りだった。

「ターミナル施設の広さに比べて居住スペースは狭いし、簡素なの」

 施設の案内を引き受けたローザ・ラットンが、そう話す。

 それに頷いた岩倉雅樹は、静かで冷たい印象に驚いていた。この場所を運用する人員は極めて少ない。施設内を歩き回っても出会うことは稀のようだ。ここで待機するようにと指示されたローザを気の毒に思う。孤独で退屈、潰されてしまうのではないかと心配する。それでも、土星有人探査を目指す彼女にとっては、乗り越えなくてはならない一つの試練になるのだろう。あるいは、既に人選が始まっているのではないかとマサキは思った。

「でも、ここからの眺めは特別ね」

 外壁部に展望窓が組み込まれている。大きな弧を描く地球の姿が迫っていた。

「凄い……。キレイだ」

 資料映像で何度も目にしている風景だが、窓を通して肉眼で見ると圧倒的な存在感がある。大迫力だ。

「展望窓は各所にあるわ。暇だからブラブラ歩き回って見ているのよ。でもここは、スペースタワーに組み込まれた居住施設でしょ。周辺しか見ることができないのが残念ね。昔の宇宙ステーションは九〇分で地球を回っていたから、地表の風景が流れるように移り変わっていたでしょうね」

 マサキは上の空で頷いた。なぜ、この高さにターミナル施設を造ったのか。目の前に広がる風景を見て慣れ親しんできた高さだからか、と思う。

「地球は、思い描いていたイメージより、ずっとキレイに見えますね」

「そうね。この範囲はキレイに見えるわね。でもそれは、人の目が上辺だけしか見ることができないからだと思うわ」

 マサキの意識は、スッと現実へと引き戻された。

「そうですね……」と応える。

「実際は、問題が山積みだわ。地球環境は乱れ、数多くの生き物が絶滅へと追いやられている。全て、人類の身勝手な行いが原因ね」

「地球環境の再生は、先送りできない問題です」

「月面コンビナート計画も、それを目的としているのでしょう」

「そうですね。賛否はありますが……」

「人類の愚行を宇宙に広げる気なのか、という意見ね」

 マサキは小さく頷く。月面開発に否定的な意見は、それだけではなかった。

「でも、地球環境の再生は、コンビナートだけでなく人間をどこかにごっそり移さないとダメでしょうね」

「移住、ですか。火星を第一の候補地と考えているようですね」

 それにローザが唸る。

「月より幾らか増しなんでしょうね。だからリトルマーズを造り、観光で来た人たちが立ち寄るようにして身近に感じてもらおうという戦略なのかな。でも根本的に、大多数の人は地球から離れることができないと思うわ」

「地球にしがみつく人ばかり、ですか」

「地球環境を考えるなら人口をガクンと減らさないといけない、という考えもあるわね」

「その目的のために、世界戦争を企てる危ない連中がいるとか、いないとか……」

「どうなるのかしら……。ここから地上を眺めると暗い未来ばかりが頭に浮かんでしまう。嫌だわ。バラ色の未来が出てこない」

 マサキが大きな溜め息をつく。

「火星が悪いわけではないですが、観光客もここに来て、足下の星を見詰めたほうがいいのかもしれませんね。地球をどうするのか。人類の未来をどう考えるのか……」

「そうね……」とローザは肩を揺らした。

「この話はやめましょう。気が重くなるだけだわ」

 マサキが頷く。一方で、こうした些細な先送りが問題を大きくしてきたのだ、と心で呟いた。だからといって、自分に何かができるわけでもない……

「でもここは、他に案内をするような見所がないのが悲しいわね」とローザは笑う。

「脱出カプセルを見ることはできませんか。座学でサラッと習っただけですから、実物を見たことがありません」

 ローザが残念そうな顔をした。

「普段はカプセルの中を見ることができないのよ。ハッチがロックされてるの」

「ロック? 何かあったとき、直ぐに乗り込むことができるのですか」

「非常事態が宣言されれば、ロックは外れるわ」

「非常事態宣言? それって誰が出すんですか」

「一番は、ここを管理しているコンピューターね。状況を把握して素早く脱出を促す……」

「やはり、コンピューターですか」

 そこに不信感があるわけではないが、重要な判断の全てが機械任せになっていることに時折疑問を持ってしまう。それが最も無難な手段になるのだろうが、人類の未来はそれでいいのかと危ぶむ自分がいた。

「ここの管理室や、地上の管制センターからも非常事態宣言は出せるわ。私が気になるのは、それよりもカプセルに乗り込んでからね」

「どういうことです?」

「脱出カプセルの定員は五名よ。素早くカプセルに乗り込めたとして、ハッチを閉じ、脱出ボタンを押せるのか……。まだ空席がある、人が残っている、と躊躇したために命を落とすかもしれない。カプセルの中で息絶えるのは、悲しいでしょ」

「確かに、判断が難しいですね。何とかカプセルの所まで来たのに出た後だったら、絶望です」

「脱出カプセルは各所にあるから、そっちに望みをかけることになるのでしょうが、非常時に適切な判断ができるのか、大きな課題ね」

 マサキは長く息を吐く。

「気が重くなりますね。私のような民間人が月へ行くことに疑問や不安がありましたが、そうした差し迫った状況については、なるべく考えないようにしていました。私としては、この先、厳しい場面に直面しないことを願うしかありませんね」

「ごめんなさい。不安を煽るような話をして……」

 深刻な顔をするローザを見て、マサキは頬を緩めた。

「まあ、何とかなるでしょう。月面赴任に私が選ばれたのは人間としての根本が脳天気だからと言われました。自分では、結構深刻に悩んでいるつもりなんですが」

 その話と表情に、ローザは微笑む。

「それに、私が月の沙漠に埋もれて命を落としたとしても、体制に影響はありません。私の代わりは何人もいますからね」

「そんなこと言わないで……」と彼女が暗い顔をする。

「悲しむ人がいるでしょ」

 マサキは残念そうな顔をした。

「いえ、いませんよ。もう一つ、身寄りのない孤独な男だということも加わっていると思います」

「身寄りがいない……」

「ええ、私、人工出生なんです」

「人工出生……」ローザの表情が曇る。

「提供された精子と卵子、それと母胎装置を使って生まれてきた人間です。ですから、両親や親類縁者はいません。結婚していませんし恋人もいませんから、会社は気兼ねなく辺鄙な場所に一年間も送ることができる、ということですね」

 と言い、マサキは笑って見せた。

 人口減少に歯止めが掛からない日本は、国力が低下し社会崩壊の危機に直面する。そこから国を再生する一つの手段が、積極的に機械化を進めることだった。様々な作業を機械、コンピューターに任せることで社会の安定を図る。これを推し進めた結果、日本は機械なくしては成り立たない国になってしまう。日本国民は機械に養ってもらっているのだ。人が行う仕事や作業が無くなるなか、勤勉・実直といった、かつての日本人の印象は消え去ってしまった。国民はクリエイティブな仕事に取り組むという理想と、才能や努力の欠如から突きつけられる現実とのギャップに、多くの人が気力を失った。活力が低下し、人口減少を止めることができない。

 この窮地から脱出する手段も、機械に頼ることになる。

 人工出生による人口調整は、人口減少を止めるべき対策であると同時に、外国人の流入によって危ぶまれることになった純血日本人の保護も目的にしていた。ハーフのほうが容姿や運動能力の点で純血日本人より勝る、というのが一般の認識だった。そこで純血の精子・卵子を用い、集団養育によって国の将来を背負う人材を育む計画が進められた。マサキもそうした子どもの一人だ。

 この取り組みに関心を示す国もあったが、一方で非難の声も少なくない。そうしたなか、日本の人口は減少から微増へと転じている。一応の目的は達成したことになる。

 しばらく会話が途絶えたが、ローザが重くなった口を開いた。

「何か食べませんか。人間、お腹が満たされれば幸福感が得られます。暗い話題を吹き飛ばすには持って来いでしょ」

「そうですね。食事で誤魔化すことにしましょう」

 マサキは展望窓の風景を一瞥してから、ローザについて歩き出した。

 こぢんまりとした食堂にも人影はなかった。二人はコンパクトにパッケージされた食べ物を選び、調理器の中に入れる。飲み物を用意し、出来上がった食べ物を持ってテーブル席に向かい合って座る。

「観光客の中には、食事に対する不満を口にする人がいますね」

 そう言って一口食べ、大きく頷く。

「味そのものは、悪くないと思います」

「静止軌道への観光が一般に開放されたけど、まだ費用が高額だわ。裕福な人は、ちゃんとした服装でフォークとナイフを使う食事でないと満足できないのよ、きっと」

 彼女も、見た目だけでは何かわからない物を口にした。

「物資の輸送は頻繁に行われているので、地表で食べている物を運ぶことは可能ですよね。費用は高くつくかもしれませんが……」

「そうね。でも、非常時の対応を第一に考えているのでしょう。何かのトラブルが起きたときのために備えないといけない」

「トラブル、ですか……」

 ローザは微かに顔を顰めた。楽しい話をするのは難しいと思いつつ口を開く。

「軌道エレベーターの計画では、赤道上の均等な場所に三基のタワーを建設することになっているわ。宇宙との連絡を密にし、どこかで何かのトラブルが発生してもフォローできる体制をつくらないといけない。でも現状は、何とか一基のタワーを完成させたところで計画が停滞してしまった。二基目の建設は、用地の確保もできていない……」

 計画に加わった国はどこも巨額な建設費用の捻出に苦慮していた。莫大な費用がかかるものを幾つも造るのではなく、身近な生活支援にお金を回して欲しい。人々の切迫した要望を無視することはできなかった。

「もし、軌道エレベーターの運用に支障が出るような事態になったら、宇宙に出ている人たちは孤立し地球に帰ることができない。物資の補給も滞る。生命を脅かす危険な状況よ。そうした事態を想定し、食糧も日持ちするものを備蓄しないといけない……」

「それが、コレですか」

「宇宙はリゾートではないわ。無重力を体験しようとする人たちも、その点は承知しないといけないでしょ」

「そうですね」

 とマサキは頷き、食事を続けた。土星有人探査を目指しているのだから、彼女の意見が厳しいのは当然だろう。お気楽な観光客に苛立っているのかもしれない。ただ、この先一年間、マサキはこの栄養補給とも言える義務的な食事を続けなくてはならない。食べ物の拘りは少ないほうだが、覚悟を新たにしないといけないと思う。

 しばらく食事に専念した後でマサキが尋ねた。

「カプセルで地球に降りてから、どんな仕事に就くのですか」

 ローザは口元を歪めてから、それに答えた。

「まだ決まっていないわ。でも新米の船乗りだから、どちらにしても下働きになるわね。月の往還船に乗れたらラッキーだけど、最初は、たぶん、軌道清掃船かしら」

「清掃船? 宇宙ゴミのですか」

「そうよ」

「でも、軌道上の宇宙ゴミはタワーを建設する際に全て撤去したと聞いていますが……」

「全て、と言うのは間違いね。減ったのは確かだけど、今も小さな物が相当数漂っているのは事実よ。小さくてもタワーとの速度差が大きいから、ぶつかると大変だわ」

 その話を聞き、マサキは顔を顰める。

「軌道上の掃除って面倒なのよ。慎重に撤去しないといけないわ。安易にやって崩したりしたらゴミが増えることになってしまう……」

「大きなゴミは、既に撤去したのでしょ?」

「昔の遺物はね。タワーの建設に加わった国はロケットの打ち上げを控えるようになったけど、参加しなかった国のなかには、当てつけに打ち上げを続けているところもあるわ。情勢不安定な地域は、未だに軍事衛星を打ち上げているのよ。そうしたロケットや人工衛星がゴミとなって軌道を回り続ける。こっちとしては軌道上の物体を監視してタワーにぶつかりそうな物を早急に撤去することになるわ」

「厄介ですね……」

「そうね、困りものだわ」

 マサキは、軌道エレベーターにトラブルが起きて運用に支障が出る事態が、単なる想定で済まないような危機感を覚えた。

「軌道の利用について、早く一つにまとまればいいのでしょうが……」

「難しいのでしょうね。いろいろな思惑がうごめいているから。地球が政治的に一つになることって、あるのかしら」

 軌道上も穏やかではない。そうした地球の煩わしさから逃れるには、もっと遠くに行かないと駄目かもしれない。ローザはそのために土星を目指しているのだろうか。マサキはふと、そう考えた。

 簡素な食事を終え、二人は高速リフターの出発を見るためにターミナル施設の展望室に戻った。時間になると、客車と貨車を連結した大型の気動車がゆっくりと動き出す。亜音速にスピードを上げるのは中継ステーションから十分に離れてからだ。のんびりと進むリフターをマサキは気長に眺めていた。

「そんなに、おもしろいの」

 そう言われ、マサキは吹き出す。

「おもしろい、と言うか、アレが静止軌道まで行くんだと思うと、何だか感激しますね。でも、宇宙船乗りなんでしょ。私なんかより、ずっと興味があると思いますが」

「興味がないわけじゃないけど、ここから見送っても仕方ないわ。やっぱり乗らないと」

 その言葉にマサキは頷く。当たり前のことだ。

 二人は、出発したリフターが漆黒の宇宙に溶け込むまで眺めてから展望室を出た。施設内をブラブラ歩きながら話を続け、マサキが乗る貨物便の乗車時刻まで時間を潰した。話し相手を失うからか、寂しげなローザに見送られてマサキは貨物便に乗り込んだ。

 リトルマーズ行き貨物便には、初期型の気動車が使われている。性能面では、ほとんど差はないが人員輸送も補助的な目的だったため、狭く簡素な造りの居住区画がある。そこに乗り込んだのはマサキ一人だけだった。運行は機械任せのため、リトルマーズ到着までの丸一日を一人で過ごすことになる。ただローザと話したせいか、これは最終的な試練だと感じた。ここでめげていては月面で働くことなどできないだろう。

 もっともマサキは、寂しさに対して鈍い人間だと感じていた。それはやはり、生い立ちが関わっている。人工出生で計画的に生まれ、集団養育で国家の将来を重視した教育を受けた。高性能の機械によって長時間作業が可能になり、総合的に安価となった労働力を得て、あくせくと働かなくても穏やかで豊かな暮らしができるようになった日本。その中で、国を支えるため一心に働く一握りの人……

 人口減少は先進諸国が抱える問題でもある。

 ローザ・ラットンという女性がどこの国の出身なのか聞かなかったが、年齢制限を過ぎて早々に宇宙へ出たということは、出産に対して一応の義務を果たしたと推測できた。若くして何人か子どもを産んだのか、卵子を何度も提供したのか……

 マサキが人工出生であることを告げたときのローザの表情を思い出す。現代において体外受精は特別な手段ではない。不妊治療として一般的に行われている。何らかの理由で自身の卵子が使えない人は提供された他人の卵子を用い、子を得ることになる。ローザが宇宙へ出る女性の条件として、宇宙放射線の影響がない健全な卵子を提供しているなら、それが不妊治療に回されることもある。当人の知らないところで我が子が生まれ、すくすくと育っていく。その可能性が頭を過ぎり、複雑な感情が滲み出た表情になったのではないのだろうか……

 マサキは、華々しい宇宙進出の陰に横たわる厳しい現実をあれこれ考えながら、孤独で退屈な貨物便での一日を過ごした。




    四


 身体が軽い。

 重力は地表の三分の一。身が軽いと心も軽くなる。

 岩倉雅樹が乗った貨物便のリフターは、火星重力と同じになる位置に新設されたリトルマーズに到着した。この施設は高度四〇〇キロメートルの中継ステーションより規模が大きくずっと充実している。無重力の宇宙施設や六分の一重力の月面で働いた人々が、地球へ戻る前にここで身体を慣らすことになっていた。また、静止軌道の施設で束の間の無重力体験をした観光客も、帰りにこの場で過ごすことになる。

 手続きを終えたマサキは、ぎこちない歩きで広いホールに出た。一人きりで貨物便に乗ってきたこともあり、賑やかさに面食らう。様々な火星の映像があちこちから押し寄せ、多くの展示物が並ぶ。火星の世界に浸れるアトラクションもあった。ただ、ホールにいる人は少なく、ジャンプスーツのラインは青色ばかりだ。おそらく静止軌道の無重力施設を運用するスタッフだろう。彼らはオフになるとリトルマーズまで下りて身体を重力に馴染ませることになっている。それもあって静止軌道とリトルマーズの間は旅客リフターの便数が多かった。

 マサキはホールを歩きながら頭の中で時間を計算する。

 中継ステーションまで一緒だった観光客の一団は静止軌道へ直行した。あと数時間で到着するだろう。そこで一〇時間、無重力を体験した後、身体が重力の辛さを忘れる前にリトルマーズへ下りることになる。ここは騒がしくなるはずだ。そうなる前にゆっくりと見て回りたいと思う。

 ホールを抜けた先で、マサキは足を止めた。トレーニングルームだ。ガラス越しにマシンを使い汗を流す人たちを眺める。オフの運用スタッフだけでなく、長い任期を終えて地表に戻る人もいるのだろう。一年後、マサキもここで弛んだ身体に負荷を加えることになる。宇宙へ出るのはいいが、地球に戻ることは一苦労だ。手間も掛かる。まだ無重力すら体験していないのに、気が重くなってしまう。

 マサキは溜め息混じりの息を吐いてから、再び軽やかなステップで足を進めた。割り当てられた個室を覗く。

 狭い。

 ベッドと机だけで一杯だが、壁に組み込まれた設備で一通りのことはできる。マサキは早速、リトルマーズに到着したメッセージを作成し、会社へ送った。

「イワクラ・マサキさん、ですね」

 施設を一通り覗き、広い食堂の片隅でポツリと食事をしているときに背後から声を掛けられた。四〇代の男性、彼も黒縁に銀色のラインだ。マサキは食事の手を止め、反射的に飛び上がるように立ち上がった。

「いえ、座って食事を続けてください。私も食べることにします。ご一緒してよろしいですか」

「ええ、もちろんです」

 その返事を聞き、彼は微笑んでからディスペンサーの所へ向かった。マサキは、自分と同じ黒縁銀色の人物に会うのは初めてだった。出会うのは月面に着いてからだと思っていたので不意をつかれた。彼の動きを目で追ってしまう。

「レゴリー・ローガンです」

 食事を用意し、マサキの対面に座った男性が名乗った。

「月へ向かうところですか、それともお帰りですか」と尋ねる。

「帰るところです。本当は、上で、のんびりしたかったのですが、早く地上に戻るようにとお達しがありまして、ここへ直行ですよ」と答え、食事を始める。

「大変ですね……。月では、どんなお仕事をされていたのですか」

「視察です」

「視察?」

「月面開発局で管理官をやっています」

「管理官……」

 マサキの表情を目にして、ローガンは笑う。

「視察といっても、とんぼ返りです。同じ船の帰りの便で戻ってきました。特に問題があったわけではなく、定例の見回りです。規則通り、ここで足止めになりましたが、私の場合は宇宙滞在が短かったので、メディカルチェックに問題がなければ早めに地上へ降ろしたほうがよい、という判断になりました。次の地上に向かう便に乗ることができます」

 マサキが頷く。間もなくここに来る観光客が地上へ帰るときに便乗するのかもしれない。自分が座った席が空いているはずだ。

「そうでしたか、ご苦労さまです……。あの、私に、何かご用があるのでしょうか」

「いえ、そうじゃありません。あなたが月面に出向く話は聞いてましたので、ここで会って話ができるのではないかと思っていました。お見かけしたので声を掛けた次第です。ご迷惑でしたか」

「迷惑だなんて、とんでもない。月の様子を教えていただけたら、ありがたいですね」

 月往還船の運行は予定が組まれているが、重要な物資の到着が遅れ、船への積み込みができなかったときなど出発が延びることがある。また、緊急の事態に対処するため出発が早まる可能性もあった。一方で月面に向かう人員の都合には厳しい一面が見受けられる。乗船する人が何らかの理由で遅れた場合、船が待っていてくれるとは限らない。従って、月面に向かう人は早めにリトルマーズに入り、待機することになっていた。これが早々に軌道エレベーターを昇る一つの理由だ。マサキが地上施設で待機しているとき、観光ツアーを乗せる便に空席が一つあることがわかる。急遽、便乗することが決まり、慌ただしく地上を発っていた。早め早めに上を目指す方針だ。

「月の様子ですか。何が、不安ですか」

「不安というより、戸惑いですね。月面で暮らすための研修や訓練に加え、向こうで行う仕事についても詰め込むことが沢山あったので、何となく全てが中途半端な気がしています。中継ステーションからここまで貨物便にたった一人で乗るということも、直前に知って驚きました。もしかして、月往還船も一人になるのですか」

 ローガンは笑みを浮かべながら口の中の食べ物を呑み込んだ。

「大丈夫ですよ。船長もクルーも乗り込みます。宇宙船ですからね」

「そうですか、よかった。四日間も一人だというのは、ちょっとした恐怖ですからね。頼れる人がいてくれるなら、安心です」と笑う。

「月への往還は慣れた仕事のようですし、航行中はそれほど忙しくないようですからクルーが相手をしてくれるはずです。まあ、暇潰しでしょうね」

「私も暇を持て余すでしょうから、ちょうどいいですね」

 ローガンは笑顔で頷いた。

「聞いているかもしれませんが、月面の居住施設は狭いですからね。ゴチャゴチャと物が散乱していますし、男所帯で匂いも染みついています。観光客を受け入れているココとは大違いですよ。その点は覚悟してくださいね。理想を言えば、居住施設を拡充してからロボットのメンテナンスに取り組むべきなのでしょうが、思い通りに進みません。余計な負担を掛けることになりました。それは謝らないといけませんね。すみません、ご迷惑を掛けます」

「いえ、謝らないでください。こちらも早期の着手を望んでいましたし、狭い施設に無理矢理潜り込むようなことになり、迷惑を掛けるのはこちらのほうだと思っています」

「そう言っていただけると、助かります。いろいろと不備があるかもしれませんがサポートに心掛けますので、一年間、頑張ってください」

「ええ、ありがとうございます」

 初対面の挨拶と意欲を確かめ、二人はしばらく食事に専念した。

「その……、今更こんなことを聞くのは、失礼かもしれませんが……」

 ローガンが、言葉を選ぶようにして尋ねた。

「何でしょうか」

「作業ロボットのメンテナンスというのは、そんなに重要なのですか。まだ手を付けて間もないですから作業規模が小さく、ロボットの種類や数も少ない状況です。故障も頻繁に起きているわけではありません。地球からの遠隔処置で対応できていると思っていました」

「それは、そうですが……」

 マサキは食事の手を止め、少し思案した。何をどう話せば、この管理官は納得してくれるのだろうか。

「メンテナンスと言っていますが、個々のロボットに発生した不具合を修繕することより、作業ロボット全体の品質・性能向上を目的にする取り組みになります。たとえば、今回の取り組みの一つとして、動作能力の最適化があります」

「動作能力の最適化……」

「ええ、作業ロボットは地球で設計され、製造されますが、使用する場所の環境に合うよう動作能力を調整して出荷します。つまり六分の一重力、真空という全く異なる月面環境で作業をすることになりますが、やはり動きがぎこちないというか、馴染んでいないのが実情です。たとえば、力加減が最適化できていないので、作業が荒っぽいというか、無駄な動きをするというか……。まだ、未熟なんですね」

「未熟、ですか」

「月面に行かれているなら、月に降り立ったときに自身の動きに違和感を覚えたことはありませんか」

「違和感ですか。確かに、地球での動きとは違いますね」

 その答えにマサキが頷く。

「月面のロボットは、低重力の経験がない人たちが設計・製造に携わっています。当然、現場ではしっくりいかず、動きがぎこちなくなります」

「なるほど……」ローガンはその指摘に初めて気付いた様子だった。

「そのために、メーカーの人が月に行く、ということですか」

「そうですね。月面動作のコツのようなものが掴めればいいと考えています。月面環境用に設計した幾つかのセンサーをロボットに組み込み、データ収集を行って動作の分析をする。早い時期に着手すれば、月面施設の建設が本格化する時までに動きのよいロボットを間に合わせることができるかもしれません。そうなれば造りの質や効率の点でも、よい結果が得られるのではないかと考えます」

 それを聞き、ローガンが大きく頷いた。

「重要な取り組み、ということですね。やはり、専門家の話を聞くと納得できますね。私のところにきた資料では専門用語が羅列し、やたらと数式が多かったりして理解に手間取ってしまいます」と乾いた声で笑う。

「勉強になります。初歩的なことを聞いてすみませんでした」

「いえ、とんでもない……」

 マサキは管理官の顔から視線を外した。あるいは、とうに理解していることをあえて問い掛け反応をみたのではないのか。そんな疑いを持ってしまう。何となく苦手な相手という意識が心の中に生まれていた。


「お食事ですか、どうぞこちらに」

 翌日になると無重力体験弾丸ツアーの一団がリトルマーズにやってきた。たちまち食堂は、お茶を飲みながらお喋りをする賑やかな談話室になっていた。マサキは地表からのリフターで隣に座っていた年配の夫婦に声を掛けられた。

「すみません、ご一緒させてもらいます」

 マサキはそう答え、空いていた対面の席に腰を下ろした。

「どうでした、無重力は?」

 と尋ねてから食事を始める。

「楽しかったですよ。身体が浮く感覚は、病み付きになりますね」

「病み付き、ですか」

「でも、日常生活には不便ですね」と妻が言う。

「油断をして動き過ぎると嘔吐しかねませんし、トイレが億劫になります。特に女性は大変ですね」

 と真面目な顔で言った夫は、直ぐに笑顔を見せた。

 彼らが静止軌道施設に滞在していたのは、一〇時間と短い。長いと様々な不便が浮き彫りになり幻滅してしまう。短いと感じるが、体験にはちょうどよい滞在時間なのかもしれない。ただ自分は、月面に到着するまで無重力の環境で過ごさなくてはならない。食事は少しずつ小まめにとり、身体が浮くと喜んでクルクル回ったりしないよう注意することだ。嘔吐などの粗相をして往還船の乗員に迷惑を掛けたりしてはいけない……

「やはり、星の上で生まれ育った我々は重力がないと不都合なんですね。それが実感できたのは大きな収穫ですよ」

 その話を聞いたマサキは一つ頷き、食事を続けた。

「でも、地球の重力は強すぎですね。ここに立ち寄り、それが身に染みます。体力が衰える世代にとっては、三分の一重力は快適ですね。火星移住が実現するのは、いつになるでしょうか」

 宇宙進出の早い時期から火星移住の話が持ち上がっているが、未だに実現していない。その一番の原因は、距離と時間だろう。二年二ヵ月の会合周期のタイミングで、九ヵ月間の飛行を行ってようやく火星に到着する。これでは補給物資一つ送るのも大変だ。火星定住者の命が危ぶまれる事態にも対応できない。

 現在支持されている移住計画は、火星の衛星に月面と同様の無人コンビナートを先に造るというものだ。近くに生産工場があれば、物資の確保も容易になる。大規模な居住施設の建設も捗るだろう。火星移住を実現させるためにも月面コンビナート計画を成功させないといけない。

「ロビーにある映像ブースをご覧になりましたか。火星の風景がパノラマで映し出されます。確かに砂と岩しかない殺風景な荒れた場所ですが、ピンクの空に青く見える夕焼けは幻想的ですね。大気がない月面では見ることができない景色です。その意味でも移住に適した場所です」

「あら、そうかしら。私はイヤだわ……」と妻が口を挟む。

「水平線に広がる赤い夕焼けの方がキレイでしょ。心に染みるわ。重力が小さく、身体への負担が少ないからといって、何も無いあんな遠くへ行くことはないでしょ。イヤだわ」

 この件に関する夫婦の意見は平行線のままのようだ。火星に住んでみたい、地球を離れるのはイヤだ、どちらの意見もそれなりに理解できる。ただ自分が火星に行く場合、ロボットメーカーの現地担当として出向くことになるのだろう。今回の月面赴任と同じだ。マサキはそんなことを考えながら夫婦の会話を遠くに聞き、食事を続けた。

 二人の話は、自分たちが生きている間に火星移住が始まることはないだろう、という予測で収束を迎えた。マサキもそう思う。お金と手間を掛け、そこまでやる理由が見当たらない。火星に移住しなくてはならない、という大きな動機付けがないと人は故郷の星からは出ないと思う。

 それでもマサキは、今回の月面赴任が未来へと繋がる重要な仕事だと信念を持っていた。月面に大規模コンビナートを造る。それは全世界、全人類に関わる未来を切り開く、壮大な取り組みだ。

 誇りを持ち、希望を抱き、全力を尽くす。

 マサキは食事の手を止め、決意を新たにしていた。




    五


 リトルマーズに三日滞在してから亜音速のリフターに乗り、更に一二時間上昇した。

 岩倉雅樹は高度三万六〇〇〇キロメートルの静止軌道にある施設、スペースゲートⅠに降り立った。……イヤ、無重力なのでフアフアと浮き、エアチューブの内壁を伝うようにして施設へと入った。

 マサキは手続きを済ませて広いロビーに出た。無重力の施設だけに、球形の空間のあちこちに人が漂っている。マサキは面くらい、壁のグリップを握りしめ周囲を見回した。キョロキョロと。

「岩倉さん……」

 マサキを呼ぶ声に驚く。スラリとした体形の女性がこちらに漂って来る。

「ようこそ。上北美紀、です」

 彼女はマサキより幾つか年上に見えた。落ち着いた雰囲気の知的な美人だ。出迎えのようだが、これも聞いていない。壁に到達した彼女は姿勢を変え、マサキと向き合い会釈をする。

「ここの運営の仕事をしています」

 それは彼女が着ているジャンプスーツの青ラインからわかることだった。運営のどんな仕事をしているのか? それよりも気になることがある。

「どうして? 私の出迎えですか」

 ミキはニコリと笑った。チャーミングだ。

「そうですね。移動しながらお話しします。まずは、お部屋を確認しましょう。部屋番号は何ですか」

「……Cの21です」

 と到着時の手続きで割り当てられた部屋番号を告げた。

「Cですか……。向こうですね。突っ切ることにしましょう」

 ミキはそう言って手を差し伸べた。握手ではないようだ。戸惑っていると彼女はマサキの手を握り、壁を蹴って広いロビーへ飛び出した。引っ張られたマサキも宙を舞う。ビックリしたが空を飛ぶ感覚に新鮮な感動があった。女性に手を引かれ宙を飛ぶ……ふいに、子どもの頃に観た映画で似たようなシーンがあったことを思い出す。

 二人は広いロビーを突っ切って通路の一つに吸い込まれるように入っていった。

「ドンピシャ、ですね。私一人だったらできない芸当ですよ」

「ここでの仕事が長いですからね」

「どれくらいですか」

「五年になります。もっとも、地上とココを行ったり来たりしてますが」

 手を引かれたままマサキは頷く。

「私も、人工出生なんですよ」

 とミキが生い立ちを言う。マサキは、その可能性が高いことを承知していた。母親から生まれ、育てられた人が世界を相手にする競争社会に出ることは少ない。両親は芸術や文化にかかわる仕事に就くことを望む。それが彼らの価値観だ。人工出生の人間とは違う。高度三万六〇〇〇キロメートルにあるスペースゲートⅠで働く日本人がいるのなら、その人は人工出生の生い立ちだろうと思っていた。

「日本の民間人が月へ行く、ということでゲートⅠでのお世話をするように言われました。日本政府の根回しですよ」

「日本政府……」

 思わぬところで国家権力が出てきた。気合いを入れて月へ行け、ということか……

 ミキは慣れた動作で何度か通路を曲がる。ずっと手を繋いだままだ。

「Cの21、ここですね」

 正方形の扉の前で止まる。同じ扉が密集し幾つも並んでいる場所だ。マサキは彼女の手を離し指紋認証で扉を開けた。頭から飛び込むように個室へ入る。細長い形状の部屋だ。蜂の巣を思い浮かべる。リトルマーズの個室より狭いがベッドや机はない。無重力だから広く使える。壁に無重力用の寝袋が取り付けられており、対面にコンピューターの汎用端末が組み込まれていた。シンプルな造りの部屋だ。奥まで行って、ぐるりと見回してから扉の向こうで待つミキのところへ漂って行く。

「寝袋に入って、フアフア浮きながら眠るのが楽しみですよ」

 そう言うマサキに、ミキは微笑みを返した。

「ゲートⅠを案内します。どこか、気になるところはありますか」

「そうですね……。せっかくだから、あちこち見て回りたいですね」

「それじゃ、隅から隅まで案内しましょう。もちろん、一般立入禁止の場所は行けませんが……」

 マサキは顔を歪めるようにして笑い、個室を出た。

「ジタバタするかもしれませんが、移動するコツを掴みたいと思います」

 彼女の手の感触が残っているが、いつまでも女性に手を引かれていてはみっともない。ミキが頷く。

「では、ゲートⅠで一番重要な場所から見ていきましょう。こっちです」

「重要な場所?」

「行けば、納得しますよ」

 そう言ってミキは壁を手で押し通路を進んだ。マサキも真似るようにして後を追う。左右、上下、ナナメと通路を進むと、マサキの空間認識が混乱してしまった。無重力の移動に気を取られたこともあるが、ミキがメインストリートではなく、入り組んだ最短距離を選んだことが大きな原因だろう。どこにいるのかわからない。個室に戻る道筋もさっぱりだ。方角すらわからない。ミキがいないと迷子になる。懸命に後を追った。

 到着したのは広い展望室だった。何人かの見学者がいる。ただし、窓から見えるのは地球ではなく、複雑に入り組んだゲートⅠの施設が広がっていた。

「外周部の宇宙船ドックよ」

 マサキは、なるほどと頷く。確かに重要な施設だ。このどこかから月へ向かう船に乗り込むことになる。船着き場の機能だけでなく、船の建造、点検・整備などをこの施設を使って行っていた。目が慣れてくると、ドックの構造物の向こうに係留された船の姿が見えてくる。その周囲を動く作業ロボットにも気付く。マサキは無意識のうちに自社製品を探していた。

「ゲートⅠはエレベーターのガイドウエーを中心にした円盤形状の巨大な建造物だけど、その中身はスカスカなの。円盤の全てに施設があるわけではないのよ。この先、必要となる施設を順に増設していくことになるわ。その中で、一番進んでいるのが外周部の宇宙船ドックなの。重要性がわかるでしょ」

 その説明にマサキは無言で頷いた。様々な目的に合わせた宇宙船が幾つも必要になる。静止軌道の各所に人工衛星を設置・点検・整備・回収を行う作業船。低軌道へ出向き、地表の観測や調査を行う船。遙か下の中継ステーションで出会った土星有人探査を目指しているローザ・ラットンが新米船乗りとして乗り込むことになるかもしれない宇宙ゴミ清掃船も、ここを拠点にしている。

「あそこに月往還船があるわ。わかる?」

 マサキは彼女が指さす方に目を向けた。武骨な外観、着陸脚を踏ん張るように取り付けた特徴のある姿だが、彼女に言われるまで気付かなかった。

 あれに乗って月へ行く……

 マサキの身体が震える。武者震いだと信じたい。




    エピローグ


 岩倉雅樹はスペースゲートⅠでも三日を過ごし、補給物資を満載した月往還船に乗り込んだ。予定通りの運航になる。船長と二人のクルーが歓迎してくれた。他に乗船する人はいない。

 ゲートⅠでお世話になった上北美紀が見送ってくれた。中継ステーションに続き、女性に見送られるのは二度目になる。悪くない気分だ。ただ、この先一年間は女性と会うことはない。乗り込んだ往還船を含め、月はむさくるしい男社会だった。

 ともかく、出発だ。

 四日後には見上げることしかできなかった月に降り立つことになる。緊張、不安、期待、興奮……。吹っ切ったつもりだったが、様々な気持ちがマサキの心で入り乱れていた。華奢な座席にシートベルトで身体を固定し、ロケットの加速に身を委ねる。もう、ジタバタできない。最初の加速が終わり予定の軌道に乗ったことが確認されると、座席を離れる許可が出た。マサキはシートベルトを外す。

 月往還船は物資輸送を主目的に設計されていた。月面へ物資を降ろすためのクレーンも装備している。従って居住区画は後付けされたように入り組み、手狭でゴチャゴチャしていた。それでも立派な展望窓が取り付けてある。外壁にポッカリ空いた穴へ頭を突っ込むと船体の側面から上方と周囲三六〇度が見回せた。数名が頭を入れることができる大きさだが、船長やクルーは出航後の作業があるようだ。マサキが独り占めする。月へ向かう民間人に気を遣ったのかもしれない。

 半分ほど欠けた地球は目に入ったが、さっきまでいたスペースゲートⅠが見当たらない。ありそうな場所に目を凝らしたが、その姿を見つけることはできなかった。巨大な建造物だが、宇宙の尺度では吹き飛ぶような小さなものになるのだろう。それは人間の存在にも通じると思う。

 気を取り直し、姿勢を変えて青い地球を正面に見た。この距離からだと丸い地球の全体が見える。じっと見詰めていると急に寂しい気持ちになった。故郷との繋がりがグイッと引っ張られ、プチンと切れたような虚しさだ。涙で地球が滲む。ホームシックなのか?

 それほど愛着があるわけではない、と思っていたが、いざ離れると孤立感が強くなる。実際、月面はそういう場所だと思う。一年間務めることができるのか心配になった。心細い。

 指先で涙を拭ったマサキは気を吐いた。

 情けない。こんな弱気でどうする。マサキは船首方向に顔を向けた。目的地の月を探す。しかし、どうやらそれは船体の陰にあり、見ることができないようだ。

 マサキは小さな溜め息を一つ吐き、座席へと戻っていった。


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