山と海
「どうしてなの……なぜ、私には必要ないものなのに……。」
白史の滝━━。
気分が落ち込んだ時は気付いたらいつもここにいる。この山で唯一、山中を流れる水が溢れている場所であるそこに行けば幾分か心安らぐことが出来る。それは何故なのか分からないが、さらさらと流れる水のように禍事の類が洗い流される気がするからだろう。
その水際で蹲る一人の女性。鮮やかな紫がかった青色の髪をした彼女は二十歳前後であろうか、膝を抱えて顔を埋めているためその表情を窺うことは出来ない。しかしどこか悲壮感が漂っている。
「もう限界かもね……。」
そう呟く彼女。そうして次の瞬間、ゆっくりと立ち上がったかと思うとその滝へと身を投げる。
トプンと静かな音を立てて水の中に沈んでいく女性。水の底は透明な硝子玉のように澄んではいるがその深さを窺うことは出来ない。
滝が流れ落ちているそこは全てを飲み込む領域━━。水が流れゆくその先は何処に行きつくのだろうか、それは誰にも計り知れない━━━━
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「はあ、まだ登るのか」
未だ山道を歩く律。足元は神社の石段のように整理されており麓の獣道に比べれば大分歩きやすくなったものだ。しかし、山を登り始めて数時間…いつまでも歩き続けているため“ことだま”の効果もきれそうである。
「いい加減っ……」
山の麓はとうに超え、登る前に見た山の中腹から生じている霧の中に今はいる。そろそろ人に出会わないものか。いっそのこと動物や苦手な爬虫類でも何でもいい、とにかく生きているものに会いたいものだ。そうしたら少しでもこの自分だけ世界から切り離されたような孤独から抜け出せるのだけど。
孤独感から安心を求める。息も切れぎれでそう思っていたなか、律の耳は微かに聞こえる水の音に反応した。
「水……!」
さらさらと水が流れる音を聞いて予想外の嬉しさに足が速まる。上から聞こえてきた水音を辿り、乾いた喉を即効で潤したいがために先を急ぐ。
「やっと水が飲め……え?」
上へ上へと続く石段______。
それらを登りきって辿り着いたそこはなんと表現したらよいのだろう。
形としては神社の境内のようであるが、足元は丹念に磨け上げられたガラスのように透き通った地面。視界の端にはこれまたガラス製と思われる灯篭が対に置かれている。
それらは山の木々から微かに漏れ出ている光に反射し、まるで雪の結晶のようにきらきらと澄んだ青色に輝いている。
「綺麗………。ここって山、だよね?」
呆然とするのも束の間、感嘆の溜息が漏れる。律が今いるその場所を
一言で例えるとするなら
『山中の海』_____。
先程まで山の中にいたはずが、突然海の中に呑み込まれたような不思議な感覚を覚えさせられる。
誰に尋ねるでもなく確認するように呟き辺りを見渡す律。そしてそんな薄暗くも明るい空間の中に一際色鮮やかに輝くものがあった。
「ペンダント………?」
誰かの落とし物だろうか…。視界の隅、灯篭の側に落ちているそれに近付いてみるとそこにあったのは雫型のペンダント。
「へぇ、これもとても綺麗………っ」
それを手に取ろうと屈み込む。そして雫型のペンダントにばかり気を取られていて気付かなかったあるものに気付いて思わず叫びそうになったが、方手を口に当てることで声をなんとか留める。
(人が倒れている……!)
そこには全身ずぶ濡れの女性が横たわっていた。青みがかった紫の長い髪が彼女の身体に張り付いている。律は脈を計るためその髪を避けてすぐに安否を確認する。
(生きてる、よかった……。けどどうしてこんな所に人が……。)
トクトクと正常な脈拍に安堵する一方、不審感が募る。山の中で出会った人はここで倒れていた意識不明の彼女だけだ。今更ながらではあるが仮にも一国であるというのに何故これ程までに人が居ない……?
「どうしよう、この状況。」
そんな事よりもまずは目の前のこの女性をどうするか、誰かこの渦包の国の人に預けるのが一番であろうか。そう思い女性を抱き抱えようとしたその時だった。
ヒュンと空を切る音が律のすぐ耳横を通り過ぎる。
『……………茅屋の織。』
景色に見とれ、つい危険が伴う異国の地にいることを忘れていた。
瞬時に“雨のことだま”を放ち臨戦態勢に入る。
音を消す_____。
果たしてこの効果はあるだろうか、あそこまで正確な攻撃……いや、牽制か?どちらでもよいが今更見つかっているだろうに臨戦態勢をとっていては遅い。そう自覚はしていても慣れぬ気候の他国にいる上、相手の姿が見えない以上は無闇に動きが取れない。
「神祓殿が何用で我等の国に立ち入るか?」
(……っ、いつからそこに居た?)
この状況をどう切り抜けるか…。考えを巡らせていたらどこからか声が聞こえた。声がすると同時にいつの間にやら周囲を灰色のマント装束を被った集団に囲まれていた。
「……貴方がた渦包の御国のお力をお貸しいただきたく参りました。」
驚きはしたものの、返答を求めたということはこちらの要件を聞き入れる体勢ではあるようだ。その場の空気を読み取り下手な誤魔化しをせず素直に要件を述べる。すると、張り詰めていた空気が一層増し集団の長であろう中年の男性が返答する。
「我等の国の力添えが必要であると?呆れたものだな、そもそもの原因は……。」
「速開殿、この者は他国の者です。それをお伝えするのは……。」
速開___
そう呼ばれた中年の男は何かを言いかけるが傍に控えていた青年にそれを遮られ言い淀むと、律に要件を述べる。
「ああ…………。まあいい、兎に角そこにいる女からすぐさま離れてもらえぬか?」
___そうすれば、主には何も手は出さぬと約束しよう。
律は自分の傍らで意識を失ったままの女性を再度見る。未だ目を覚ます様子は見られない。
(この女性……何者?もしかしたら神祓かと思ったけどそれにしては扱いが違う?まぁ何にせよ、私は彼等と敵対したい訳ではないから大人しくするのが懸命か…?)
彼女を知る人が現れたのだ。速開等に従った方が自身の安全は確保されるようであるし、彼女は彼等に預けるのが一番であろう。けれど彼女を前にすると不思議なことにざわざわと胸の奥が騒ぐ。
「……おいっ、まだか!」
律の返答が遅いためか、痺れを切らしたように男が言葉を発したその時だった。
『___ 比良八荒の舞』
澄んだ女性の声が聴こえたその瞬間、山の上方から強風が吹き辺りを襲う。
「うわっ!風が………!!」
「目が開けられない……っ!」
「飛ばされないよう気を付けろ!奴の風だ!!」
突風に対応しきれず、マント装束の集団は皆々混乱しているようだ。かく言う律も風が頬や身体に鞭打つような痛みにひたすら耐えていた。
パシッ
「え?」
とっさに顔を覆うように出していた腕を突然誰かに掴まれる。そんな間の抜けた声を出す律に言い聞かせるような声が優しく耳元で響いた。
「こっちよ。」
周囲が騒然としている中、誰かに腕を引っ張られながら律は訳もわからずただ闇雲に走った。