湖畔の朝 2
建物の中にはタミリアの気配がなかったので、ギードは外に出た。
夏の盛りでも夜明け前の一番ひんやりとした空気の中、タミリアが湖に向かって立っていた。
「タミちゃーん、それ以上は危ないから動かないで」
エルフには夜目がある。暗闇でも多少は動けるのだ。しかし彼女は人族だ。
間もなく夜が明ける。それまでは彼女から目を離せない。一応は戦士である彼女のことだから、湖に落ちることはないとは思うが、じっとしていてくれと心の中で祈る。
振り返る顔はやはり少し緊張しているようだ。
「さっきの魔法の揺らぎ、あれ、ギドちゃん?」
「ああ」
眷属達に教わった魔法のおさらいをしていたと話す。
「そう。なんか変な感じだったからー」
異質な魔法を感知して目が覚めたようだ。さすがに魔法に関しては実力者である。
タミリアにいわせると、どうやらギードの魔法は、精霊魔法とも人族の魔術とも違うらしい。
そもそも魔力を使う術式は、使う者を選ぶ。術者自身の質や魔力量に関係していると思われた。
まあ、精霊を介して使えるようになった魔術を、エルフ自身が使うというのは確かに珍しい。
エルフの場合は、普通、魔法を行使するのは精霊の仕事なのだ。そのために補助魔法が中心になる。
そのまどろっこしいところをギードはすべて取っ払う。エルフ自身が魔法を使えば済むと。
以前、スレヴィとの一戦を覚悟したギードに、コンは両親から頼まれていた魔力の偽装を解いた。
お陰で今のギードは、持って生れた本当の魔力量に、四体の精霊の魔力まで上乗せされている。おそらく無尽蔵に魔法を使える状態だ。その状態だからこそ、出来ることである。
エルフの魔力量は確かに人族よりは多いが、一定の魔力を精霊に与えて行使する精霊魔法と違って、魔術はその威力や難易度によって必要な魔力量が変わる。
その魔力量の制御が得意なのがハクレイなのだが、タミリアはとにかくいつも全力全開である。そのために脳筋魔術師などと呼ばれていたのだ。
藍色の、腰まである長い髪が風に揺れる。あの細い体型のどこに、あの恐ろしいほどの剣技と魔力が詰め込まれているのか。
人化しているとはいえ、ドラゴンであるユランとの模擬戦闘で、彼女はまた強くなっている。
もうそろそろ投げ飛ばされるのも命がけになるな、とギードはこっそり思っている。
「でも、本当にその格好でいいの?」
ギードは両手を広げ、自分の姿を改めて見回す。いつものエルフの商人の姿だが、たぶんタミリアが危惧するのは正装の件だろう。
「あー、うん。いざとなったら取り出すけど、基本使わない方針だから」
両親がギードに残した遺産。それが『古代エルフ族の正装』という裾が膝丈まである上着で、公式の場では重宝している一張羅だ。その上、本来の力を偽装しているギードに対し、それを解除するカギになっていた。
普段のギードはエルフではあるが、その容姿は全体的にくすんだ色合いをしており、身長もタミリアと同じくらいで、能力も普通のエルフ以下になっている。
ところが、正装を着込んだギードは、まるで別の何かになったように容姿が変わる。
おそらく、赤子の時に眷属を付けずに普通に育ったなら、そうなったであろう姿らしい。何でも古代エルフ族に先祖がえりしたような風貌だと最長老に言われている。
要するにイケメンといわれる部類に入る。
こっちの方が精霊に好意を持たれ易いので、多くの協力を得ることが出来る。そのため眷属のコンなどは必死に正装の姿の方を薦めて来る。
しかしギードはもうすでに長い間、ぼんやりとしたこのエルフの姿で過ごし、これが本当の自分の姿だと思っているし、最強の眷属達がいるので、これ以上、他の精霊の協力を必要とすることはないと思う。
だから、この姿で『固定』したのだ。
眷属達を集めての会議で最近の議題は、正装の補助魔法をどこまで再現できるかということだった。
三体の最上位精霊からの加護、そして古の水の精霊の加護。それでこの服以上の性能になれば、公式の場以外では必要なくなる。
容姿については、ギードは必要だと思っていない。どうせ中身は変わらないのだから。
「いちいち取り出して着るのが邪魔くさい」と本音をぶちまけて、眷属達に他に手はないかと聞いてみた。
「容姿に関係なく魔力が解放されているのだから、あとは性能、補助魔法だけなんだよね」
耐熱耐寒、これはおそらく火系魔法で、魔法防御、物理防御、この辺は土魔法で代用できそうだった。
「えっと、清潔や浄化、状態保存などは水魔法でも何とかなります」
「ああ、そうなんだ。助かるなあ」
今まで水魔法はあまり見たことがなかったから、水のルンがいてくれてありがたい。
魔力の偽装も、イヴォンさんから双子にもらった認識阻害の帽子の魔法を模倣している。これは魔法陣なので、何でもいいので身につけるものに刻んでおけばいい。
「じゃあ、普段着にこれらの魔法を固定すればいけるんじゃね?」
ということになったのである。
着替えに新しい服を手に入れたとしても、これらの補助魔法をかけ直すことは出来るだろう。
そういうわけで、『正装』は荷物の中に封印された。
風のリンが何か自分が出来ることはないかと考え込んでいるが、彼女はギードの代わりに土産物店をがんばってくれているので、それで十分だと労った。
「そんなにおかしい?」
改めてギードはタミリアの前でくるりと一回りしながら尋ねる。暗いので、タミリアには見えるわけがないのだが。
日頃からイケメンにしといた方がいいのだろうか。やっぱりタミリアも女性だからなー。
「ううん、私はその、こっちの方が好きだけどね」
暗くてもギードには、頬を染めた優しい笑顔の彼女がはっきりと見える。
タミリアは、ギードの丸まった背中の後ろ姿が好きなのだ。庇護欲、弱い物を守りたいという気持ちが強いタミリアには、戦闘を好まず、性別を感じさせないギードはまさしく『守る対象』なのである。
ま、ギードにすればどんなに強くなったとしても、タミリアに敵うとは思えなかった。
「ギドちゃん、そろそろ限界ー」
闇の中、静かに近付いていたギードにタミリアが小さな声で呟く。
ギードは笑顔でタミリアの手を取る。空が明るくなり始めていた。朝陽の中の彼女は美しい。
顔が自然と近付いて口付けをしようとしたところで、タミリアの手が動くのを察知した。
「おーなーかーすーいーたぁーー」
凶暴化した妻に放り投げられたのは建物の方角で、ギードは壁に足を向けて衝撃を殺し、地面に降りる。
うん、普段着、強化しといてよかった。
「お腹空いたの!」
あー、昨日の夕食はコンが作ってくれたはずだけど、やっぱり足りなかったかー。
前言撤回。お腹が空いて目が覚めたらしい。