妹
一人の少女が自殺によって命を絶った。三年前のことだ。名前は平川真紀。平川真司の妹で、当時十三歳。まだ中学一年生だった。
その死は当時、ニュースや新聞などでそれなりに大きく取り上げられた。理由としてはその少女に輝かしい未来が約束されていたことが一番に挙がるだろう。
真紀は小学生の頃に始めたピアノで、うちに秘めていた類稀なる才能を発揮した。その世代で一番……とはいかないまでも大きな伸びしろを感じさせる有望な子供だった。なんだか魚が水に放されるみたいな感じなの、と彼女を教える講師は言った。ピアノの前に座ると、やっと自分の場所に帰ってきた、って顔をするのよねあの子。ああ陸は息苦しかったあ、みたいな。いつもだって明るい子なんだけどね。
実際ピアノを弾く彼女は楽しそうだった。いや、それ以上にピアノを弾いているのが当然、これがわたしのいきる意味、それ以外は余分なのだ、そう声高く歌っているような演奏だった。それこそ水の中に優美に体をくねらす魚のように。だから、彼女が頂上に立つ日はそう遠くないだろうと真司は思っていた。
そんな彼女が唐突に死んでしまった。部屋で一人、細い首に細い紐を絡みつかせて。
仰天した世間はなぜ、というその答えを目の色を変えて探し始めた。そして知った。自分たちが納得できるような明快な答えは何一つ用意されてはいないということを。これがニュースなどに大きく取り上げられたもう一つの理由だ。真紀には自殺する動機がなかった。少なくとも本人以外にすぐわかるようなものは。
平川真紀はいじめられてもいなかったし家庭環境も悪くはなかったし音楽面での悩みもなかったし精神的な疾患も抱えていなかった。いたって健康で清潔な生活を送っていたのだ。だから他に理由を作るしかなかった。きっとこの宝探しが世間にはいたくウケてしまったのだろう。
ある者は言った。あまりに才能がありすぎたために学校で孤立してしまったんだ、その孤独感に堪えきれなかったんだよ。ある者は言った。音楽で行き詰ったんじゃない? 誰でもあるスランプが、天才には意外と乗り越えられないもんなんだよきっと。またある者は言った。本当のところの家庭環境がさあ。
ある雑誌には『現代の病。中学生の少女を自殺に追いやった見えない棘とは!?』だかなんだか、そういった見出しが躍ったそうだ。
別に誰も悪気があったわけではないだろう。それは分かる。だが悪気がないからこそそれは死者の関係者たちに深く突き刺さる。自殺の理由がはっきりしないのも彼らの胸を余計に痛ませた。もしかしたら自分のせいなのかもしれない。自分の何気ない言葉や行動が、彼女を死に追いやってしまったのかもしれない。彼女に近しかったものは皆その思いに呪われた。
真司もその日から二週間ほどはまともに眠れなかった。眠気が一向にやってこないのだ。布団の中から天井をにらんで朝が来るのをひたすら待った。それが二週間。体力が尽きて意識を失うまで続いた。
それから、どうしてか泣くことができなかった。妹が死んだというのに涙が少しも出てこない。居間の隅にうずくまって、空虚に部屋の隅を眺めていた。自分はずいぶんと薄情な兄だなあ、などと真っ白な思考の中で考えながら。
テレビをつけたのは何となくだった。もう何日も学校も休んでいたので外の情報が入っていないことに気づいたからだったように思う。昼下がりでワイドショーをやっていた。
「だからね、私はあれは彼女の家族に焦点を絞れば真相が見えてくると思うんですよ。大事なのはポイントを絞って、そして考えることです。考えることが大事です」
評論家だかコメンテーターだかが熱心に弁をふるっていた。ああいるよなこういう奴。乾いた心でそう思った。熱心にやることが何よりも正義なんだと信じて、また他人にも信じることを強いる奴。熱心にやれば何でも通ると思っている。と、今の真司にはなぜだかとても不快な存在に思えてならなかった。
真司はそんなひねくれた自分に弱く苦笑して、しかし次の言葉に顔をこわばらせた。
「――いや、ですから平川真紀さんの家族の方ですよ」
さっと血が引いていく感覚がした。
聞き役が疑問を返す。
「でも報道では家庭環境に別段問題はなかったそうですよ?」
「確かに報道ではそうですよ。でも考えてもみてくださいよ、いろんな見方をしなければ真相は分からない。報道だけを信じればいいなら私たち考える意味ないじゃないですか。脳みそが錆びてしまいますよそんなんじゃ」
聞き役がええ確かに、と苦笑する。それを同意と取ったのか熱弁男はさらに続けた。
「では順番に見ていきましょうか。まずお父さんなんですけどね、警察の説明では単に会社員とだけありますね。これ、独自に調べましたところ詳細は伏せますが結構大きい企業に勤めてらっしゃるんですね実は」
「大きい?」
「ええ有名ではないけれどその業界では高いシェアを誇っているいわゆる強い企業、就職活動では目立たないけれどいい企業、として紹介されるあれですね」
「その会社が一体?」
「ええ、たった今強い企業と申し上げましたが主戦場の市場に外国産の製品が流れ込んできてまして一転して売り上げが低迷、経営が厳しくなっているそうなんです」
「ということはつまり」
「まあ細かいことは伏せますが、会社が不安定になるわけですよ。お父さんもだいぶ疲れたでしょうね。そのあたりとてもストレスのかかるようなポジションにいたようですから」
「それが娘さんにも影響したと」
「そう! そういうわけです」
こいつ……。真司は拳を握った。男はさらに母についても少し触れ、それから「お兄さんなんですがね」と話を進めた。真司ははっとしてよろめいた。
「これが一番怪しいといえば怪しいんですよね」
「兄妹ですよ? それにまだ子供でしょう? そんな死に追いやる害を与えることなんて」
「この年齢は親と子よりも子同士の方がつながりが強いこともあるんです」
「どういうことです?」
「えーとですね、順番に説明しますよ。まずお兄さんはこれ、調べたところかつては妹さんと同じくピアノを習っていたそうです」
心臓が嫌な音を立てた。これ以上聞いてはいけない。分かってはいた。が、それでもテレビを消すことができない。
「かつてはってどういうことです?」
「そのままの意味ですよ。昔はやってたけど今はやってない。つまりね、僕はこう思うんです。妹の才能に打ちのめされてやめちゃったんじゃないかってね」
「それで妹さんに辛くあたった?」
「さあ、そこまでは。でもだいぶしこりは残ったんじゃないですかねえ。それで関係がぎくしゃくするぐらいはあると思います。だって考えてもみてくださいよ、自分より下だと思っていた存在にあっさり追い抜かれて。そして兄妹、だからこそこの些細にも思えることが意外と重く」
そこまででテレビは沈黙した。椅子に一撃された画面には大きくひびが入っていた。真司はもう一度椅子を持ち上げそのまま二度、三度と殴りつづけた。床でテレビがただのプラスチック片に砕けていった。
否定できなかった。あの男の言葉を否定できなかった。俺は確かに悔しかった、そう真司は認めた。ピアノが好きだったのに技術も好きという思いの強さでも勝てなかった。だからそれ以外に自分の支えを求めた。それでも失敗して、結局何も残らなかった。
だから真紀に辛く当たった……かというとそれはわからない。自分ではそんなつもりはなかった。けれども妹本人がどう感じたかまではわからない。つまり、否定できない。否定しようがない!
喉から嗚咽が漏れた。テレビはもう原形をとどめていないがそれでも殴りつづける。
真司は、妹の死後、初めて声を上げて泣いた。泣けなかった分を埋め合わせるかのように泣き続けた。
涙ににじむ視界の中、妹と最後に交わした会話を思い出す。
『兄さん、あの……』
『悪い、忙しい』
ただそれだけだ。大事なことは何も言っていないし言えなかった。もし言えていれば。何かが今のこの現実とは違っていたかもしれない。そういう、可能性。かくして真司もまた呪われた。後悔にも似た鈍痛が真司の胸を押しつぶした。この重みをそれからの三年、彼はずっと背負って生きていくことになる。
平川真紀。当時十三歳で中学一年生。生きてさえいれば真司と同じく高校生になっていた。そのはずだった。




