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虚ろな痛み

 真司の朝の目覚めはウシガエルのボディプレスによりもたらされた。顔への衝撃とぬめぬめと湿った腹。思い出すのはあの悪魔の感触で、到底爽やかな目覚めとはいかない。不機嫌顔で身体を起こすと、ベッドの脇にいたすみれが満面の笑顔でトーストののった皿を差し出してきた。


「おはよう。どーうぞ」


 あの爆発から二日。すみれはどちらの日にもやってきて、部屋に忍び込み、カエルを真司の顔に投下し、朝食を作った。ただのいたずらとも思えるが、これが彼女なりの心配の仕方なのかもしれない。


 部屋に洗面台はないので一階におりて顔を洗いながら思い出す。真司はあの後やってきた警察や消防関係者からの聴取を受けた。大したことは話していない。呼び出しを受けて実験室に行ったら爆発に巻き込まれたとだけ話した。呼び出しの目的も訊かれたがこれはわからないで通した。実際本当のところはわからないままだったし聴取側も何となく推測はしていただろうが確証もないまま変に追及することはできなかったのだろう、たいした時間もかからずに話は終わった。


 警察は事故と事件の両方で捜査しているようだ。ガスによる爆発なら警報機が作動しなかったのはおかしいしそこに生徒二人が居合わせ巻き込まれたとなると事件性があることも十分考えられる、ということだろう。その方向で何か進展があればまた聞き取りがあるかもしれない。今度は多少強い聞き方をされることもあり得る。

 が。真司の気分を重くしたのはそのことではなかった。


『君が気に病む必要はない』


 あの女子生徒の死亡を告げた後の聴取担当者の言葉だ。それから聞き取りの終了を告げた。真司はしばらく動くことができなかった。


(そんなことは言われるまでもない)


 胸中で毒づく。手が洗面台の縁をつかんで軋ませる。言われるまで気づかなかったのだから言われるまでもない。だが言われてしまったのだから気づかざるを得ない。俺はあの子を助けることができなかった。


 助けられる可能性があったかどうかは微妙なところだ。異常に気付いた直後に爆発が起きたわけであるしそこから行動しても女子生徒と自身の両方を無事に生かすのは不可能だったに違いない。だから気に病む必要はないのだろう。が、そんなことは関係がない。真司には彼女を助ける意思がなかったのだから。


 これが悪か。そう胸の奥に訊ねる。分からない。なぜならその時のそれはとっさの判断であってじっくり考えた上で同じことを考えるかはわからない。では悪ではないのか。これもわからない。とっさに助けようと思えないことは正しくないのかもしれない。


 だが本当に重要なのは真司がその女子生徒本人についてではなく妹のことを思い出したために気落ちしていたことかもしれない。これこそあるいは悪たりえるだろう。

 部屋に戻ってトーストをかじりながらすみれに訊ねる。


「なあ、真紀はさ」


 すみれの顔が少し曇った。妹の話をすると、彼女はいつも少し沈む。が、構わず真司は続けた。


「真紀はどうして……いや、真紀が死なないですむ道って、本当になかったのかな」


 すみれは答えなかったし真司も答えを求めて訊いたわけではなかった。さながら答えがないことの確認のようでもあり、それによって少し安心もしたかもしれなかった。


 正義も悪も存在は不確かだ。助けられず、また助けられなかったことを悔いないことは悪かもしれないがそうではない可能性も消えてはくれない。罰する者は存在せず、存在するのは不正確な正しさのみ。あの夢の悪魔は正義と悪の峻別を求めるが、そこまでの距離はどこまでも遠い。


 聴取担当者は、死亡した女子生徒の名前も教えてくれた。黒田恵。真司はもう一つ分、気を暗くした。それを聞かされるまで彼女の名前は知らなかったし、知らないことに気づきもしなかったからだ。



 当然だが実験室は使えなくなっていた。まだこまごまとした調査が行われているようだったが離れた場所から眺めていることについては特に禁止されなかった。遠目にも廊下側の壁が傷みいくつもひびが入っているのが分かる。中も火災が起きたせいで建材が焼け焦げ、あるいは融け落ちていた。それだけ確認して真司はその場を後にした。


 外のベンチに座って真司はパンをかじり始めると自然と視線は空を向く。心を侵食しようとする重いものを振り払っていると次に浮かぶのは前々からの違和感だ。


(俺はあの時どうやって……)


 疑問だった。自分がどうやってあの爆発を逃れたのか。実験室の中に完全に入ってしまっていてなぜ脱出することができたのか。いや答えは簡単ではある。問題はその答えが本当にあり得るのかどうかだ。身体能力が人間の限界を超えたので可能でしたという答えがだ。


『君に力を与える』

(そういう、ことなのか?)


 冷たいものが背中を伝い落ちた。小石を拾って立ち上がる。向こうにはネットに囲まれたグラウンドがある。


 真司は小石を思い切り投げ放った。空気を貫く小さな音を立てて小石は向こうに飛んでいき、すぐに見えなくなった――いや。真司の目はそれを捕捉し続けていた。

 小石はネットの隙間を抜け、さらに飛び、狙っていた反対側のポールに命中して小さな音を立てた。その音も真司の耳は逃さなかった。


 どさりとベンチに腰を落とす。どうやらあの悪魔は夢ではなかったようだ。力を押し付けられたことも。こんなものを気軽に人に手渡して悪魔は一体何がしたいのか。いやあれは言っていた。正義と悪を示せと。


「ってのは……一体どういうことなんだよ」


 弱く舌打ちして再び立ち上がる。足下がおぼつかないような、頼りない気分を抱えながら。


 この力に早く気づいてもっとうまく使えばあの女子生徒、黒田恵を助けられたかもしれない、そんなことを思いついてしまい、真司はさらにやるせない心地になった。



 そういえばすみれはベンチに来なかったなと。そのことに真司が気が付いたのは教室に戻ってからだった。毎日一緒というわけではないので不思議にも思わなかったのだが、授業になり教師が出席確認をしたところでようやく異変に気付いた。


「あれ、藤井は早退か?」


 振り向いて確認したが確かに彼女の席に姿はなかった。

 早退の話は聞いていないし授業をすっぽかすような性質ではないので妙だとは思った。それは教師も同じだったようだ。確認するためにクラスメイトに声をかけたが知っている者はいなかった。彼女は真司ほどではないが他の生徒に距離を置かれている。


 教師は腑に落ちない様子だったが一応授業は始めることにしたようだった。真司は机に突っ伏して寝る体勢に入った。妙な不安を胸に抱えながら。

 と、ふと感じるものがあって顔を上げる。ちょうどこちらを見ていた男子生徒と目が合った。なんとかいう……まあ名前は覚えていないがおとなしそうな生徒だ。真司を見る目はその容貌にたがわず気弱そうで――


(……?)


 いやそれよりも少しばかり怯えが過ぎるように見えた。

 彼はさっと視線をそらすと黒板の方を向いた。だがこちらを探る気配はまだ残っているように思えた。


 なんだかわからないまま真司は一通り観察を続け。特に何もわかりそうになかったので顔を腕にうずめて睡眠に戻った。

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