脅威
割れて飛び散った植木鉢の破片とはみ出した土の茶色。真司は半眼でそれらを見下ろした。
それらはほんの少し前までは形を保っていたはずだった。というのも教室に戻ろうと歩いていた真司の頭めがけて降ってきたからだ。当たっていれば大怪我をしていたのは間違いなく、直前に察知して避けていなければそうなっていただろう。なっていないのが不思議なくらいではある。察知する手段なんてなかったはずなのだから。超感覚でも働かない限り。
「……」
視線を挙げると、教室から出られる小さなバルコニーがいくつも並んでいて、おそらくはその一つに置いてあった植木鉢がおちてきたのだろう。風は強くないが、何かのはずみだろうか。それはわからない。
(超感覚か……)
自分の手に視線を落とした。本当に直前に植木鉢に気づく手段なんてなかったか? あるのかもしれないしないのかもしれない。せいぜい風の音や空気の流れ、どちらも人間に感知できるようなものだったとも思えないが。さらに言えば感知で来たところで身体が動くとも思えないのだが。ただ真司が無事なことは確かだ。
ともあれ彼は頭を掻いてその場を後にした。片付けるとか誰かに知らせるのは面倒くさいので適当に放っておくことにした。ただ、一度だけ視線を感じて振り向いたが、誰の姿も見つけることはできなかった。
◆
「え?」
そのすぐ後、教室まであと少しという廊下の途中で、真司は呼び止められて振り向いた。もう廊下には生徒も少なく女子が一人立っているのみだった。
「あの」
地味な印象の彼女はもじもじとためらう仕草をして、それから意を決したように何かを差し出してきた。
「……?」
ためらいつつも受け取ると手紙……というよりはメモの切れ端のようだ。問いかけようとして顔を上げたが、教室に駆けこむ背中だけしか見えなかった。
取り残されてしばし考える。面識がないことは確かだ。一体何だったのか見当がつかない。いや、全くつかないでもない、が、あまり妥当な推測ともいえない。
「へー」
授業も終わって放課後、メモを読んでいると案の定すみれが食いついて事情を詮索してきた。
「真司くんも隅におけないねえ」
からかうような口調だが彼女もどことなく釈然としない様子だ。
「ホントに知らないコ?」
「ああ」
頷いてあの女子が入っていった教室を思い出す。二つ分は離れているし、それ以前に真司はすみれ以外の自分の教室の生徒とのつながりも薄い。接点がないのは間違いない。
「じゃあ、あれ? 一目惚れ」
「本気で言ってるか?」
「……どうだろ。教室の方には行ってみた?」
「いや。多分もう移動してるんじゃねえかな」
「ふーん。じゃあ行ってみるしかないね」
すみれが指さすメモに再び視線を落とす。
『放課後、化学実験室で』
◆
真司としては一応渋ってはみた。どうしても面倒な予感がしてならなかったのだ。知らない相手からの急な呼び出しなどきっとろくなものではない。何か厄介な勧誘かもしれないし、悪戯の可能性もあり得るだろう。犯罪的な取引もまあなくはない。
それでも一番可能性がありそうで一番ろくでもないのはすみれの言うように一目惚れの恋愛あれこれだ。そんなものどう対処していいかわからない。いやうっすらとは分かるが、わかっていてもそれを実行できる自信はない。行けば何事もなく終わることはできないだろうし、だから結論として行きたくない。それでも足を実験室に向けているのはすみれの強い脅迫があったからだ。
『もし勝手に逃げたら真司くんの部屋のドアは没収ね。それから朝起こすときも顔におっきいカエル落とすから。うちのペットのビッグケリーちゃん。そうだ朝ごはんも作ってあげよっか!』
なぜそこまで念を入れる必要があるのかはわからないが、カエルの襲来は真司を怯えさせるのに十分な脅威だった。ウシガエルの腹にキスして目覚めたいという人間は多分少数派には違いない。
鈍い足をどうにか目的地まで引っ張っていくと、例の女子が実験室の前で待っていた。こちらを見つけて身体を緊張させるのが見て取れる。その眼前までなんとか辿り着き真司は立ち止まった。
沈黙が落ちる。名前も知らないその女子は気まずそうに下方に視線を逃がしているし、真司の方も自分から話を始めるのは違うだろうと思い彼女の言葉を待っていた。が、それが一分ほども続くとさすが気まずさに堪えきれなくなって口火を切った。
「何の用?」
女子はびくりと体を震わせた。
「あの、わたし……」
何か大事なことを言おうとする気配があった。愛の告白か(ろくでもない)それとも他の何かか、何にしろ重大なことを。しかし、その気配は急速にしぼむと小さな声に変わった。
「すみません、こっちへ」
彼女は実験室のドアの方へと歩いていった。訊きたいことはもちろんあったが何かを問えるような様子でもないことを察した。
ドアを開けて実験室に入る彼女に続く。入室数歩、立ち止まる女子に合わせて真司も足を止めた。
で、ここに何が。今度こそ訊こうとして異常に気付いた。
「あの、やっぱりごめんなさい、わたし本当は」
「それは後だ。ここを出るぞ」
真司は慎重に周りを見回しながら後退した。
訝しげな顔をする女子に言う。
「ここはまずい。なんだか」
ガス臭い。
言い終える前に光がはじけた。その衝撃の奔流に女子の姿はあっけなく呑まれた。音は聞こえず、聞こえるまでその場に留まっていたならば真司も彼女と同じ道をたどっていただろう。ドアを開けたままにしておいたのは偶然だが正解だった。後ろ跳びに逃げる邪魔にならずにすんだ。衝撃に追われるように廊下に転がった真司はさらに横にもう一躍し、実験室の中にあった実験器具のなれの果てだろうか、様々に尖った破片がぶちまけられる床から逃げた。
火災報知機がようやく気付いたかのようにけたたましい音を響かせる。真司は呆然としながらそれを聞いていた。ごうごうという音もしていたがよくよく聞けばそれは自分の心音か体内を血が流れる音のようだ。助かった……と思う余裕はなかった。
「何!? どうしたの!?」
背後から聞こえてきたのはすみれの声だ。振り向かずに首を振る。ゆっくりと立ち上がる真司の背中を、すみれはそっと支えてくれた。
(なんなんだこれ……)
胸中でうめく。
ろくでもないことを危惧していたら、もっとろくでもないことが起きた。そのことだけははっきりわかったが。




