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幼馴染

 ドアがノックされる音で真司は目を覚ました。カーテンの隙間から差す日の光がちょうど目に当たっていて眩しい。だがあの晩の目の奥に叩き込まれた光と違って今朝のそれはやわらかで心地よかった。


 上等とはいいがたい、寝ていると背中の痛くなるベッドから身体を起こす。虚空を見上げ、それからぼんやりと思考にひたる。三日が経ち、そろそろあの晩の実感は薄れてきているように思った。


 再びノック。先ほどより強め。


 あれは何だったのだろう、とその三日間考え続けた。あの朝も、目が覚めたとき床に転がっていたこと以外に異変もなく、その後も何事もなかったが、とはいえただの夢だったとはとても思えない。実感が遠のいても吐き気と痛み、違和感、それらはしっかりと記憶に刻まれている。身体に痕が残っているわけでもないが、それが否定の証拠にならないことはなぜだか確信していた。


 さらに強めのノック。


 そして、あのアレは何と言っていたか。悪魔? 正義と悪? と、それらを示す力? ありふれた現実とはきわめて縁遠い語の数々だったことははっきり覚えている。


 悪魔。そんなものはいないだろう。神とともに死んでしまった。正義と悪。そんなものはないだろう。存在を信じているのはあるほうが都合がいい人間だけだ。正義と悪を峻別する力。そんなものはやはりない……はずだ。


(あってくれてもいいんだけどな)

「ねえ! いるんでしょ! 開けてよー!」


 来訪の合図をとっくに通り越してもはや攻撃性しか感じ取れないノック音の向こうから幼馴染の声がした。

 真司はやはり黙って居留守を決め込んだ。まあ無駄だと分かってはいる。それでもしばらくは一人の時間を確保できる。耳をふさいでさえいれば、だが。


「ほっ!」


 先ほどとは毛色の違う音――ガキッという小さいがやや破壊的な音――がしてドアが開いた。


「やっぱりいるじゃん、なんで返事しないの! いつも言ってるのに。学校行くよ!」


 顔をのぞかせたのは真司と同じ高校に通う制服姿の少女だ。藤井すみれ。怒って髪が逆立っている……と見えなくもないがただの癖毛らしい。どんな手を尽くしてもなぜだかなだめられないのだと嘆いていた。とはいえ間違いなく怒ってはいるだろう。


「……ああ、いや、ぼーっとしてた」

「ぼーっとしてたのは見ればわかるよ。でも返事はちゃんとしてよね」


 手を腰に、厳しいまなざしで見下ろしてくる彼女に真司はあくびまじりに答える。


「分かった。気を付ける」

「それ、毎回言ってるよ?」

「そうだな。気を付ける」

「……ちゃんと聞いてる?」

「気を付ける」

「もう!」


 そのあたりで適当に諦めて真司はベッドから腰を上げた。すみれは諦めないだろうしならば最悪引きずられて登校することになる。


「じゃあ準備ができたら来てね。下で待ってるよ」


 すみれはそう言って部屋を出て行った。


「あまり待たせたら今度こそドア壊しちゃうからね!」

「……うーす」


 遠ざかる声に呟き返しながらドアに寄って鍵を調べた。真司が入居したときにはもう壊れていて、乱暴にすれば鍵がかかっていてもこじ開けるのはそう難しくないが修理は頼んでいない。前の住人が直さなかった程度の不便であるし、どうせ盗られて困るものなどなかったからだ。

 とりあえず今回の打撃も耐えぬいた鍵に感心しながら、真司は着替えを始めた。



『早く起きてよお兄ちゃん』


 そういえば同じような具合に妹に起こされていた時期があった。あれは兄さん呼びになる前だから小学生の頃か。しっかり者の彼女は兄にも同じようなしっかりさを求めた……かどうかはしらないが、とにかく毎朝飽きもせずに起こしに来てくれた。いつまでも妹の世話になりたくないと思った真司が自分で起きるようになってその慣習もなくなったが。


 なんでもできる妹で、人に好かれる明るい娘で。何より彼女は常に正しかった。自慢に思った時期もあり、疎ましく思った時期もあり、妹が現実からいなくなった今は、どう思えばいいのかもわからない。


 ただ、正義たる彼女を見捨てた、あるいは彼女に見捨てられたこの現実の正当性を、真司はいつだって疑っている。


『兄さん。あの……』

『悪い、忙しい』


 疑っている。



「ほらぁ早く!」


 幼馴染の急かす声に走るスピードをわずかに上げる。と言っても寮から学校の距離はそれほどない。ただ高台にあるので坂道に抗うための労力はいる。

 先に立って声を上げていたすみれは、それだけでは駄目だと気づいて真司の後ろに回った。


「ほらわっせわっせ!」


 背中を押し上げる力に寄りかかりながら校門をくぐった。

 誰もいない。校舎からも物音一つしない。既に九時を過ぎて授業が始まっているのだろう。遅刻だ。すみれがため息をついた。


「まただよ……」

「ご愁傷」

「誰のせいだと思ってんの」

「俺なんかほっときゃいいだろ」

「真司くんだけ楽するなんてなんかむしゃくしゃするじゃん」

「なんだそれ」

「分からなくていーい……どしたの?」


 早々に会話から意識をそらして周りを見回し始めた真司を不審に思ってかすみれが訊いてきた。曖昧に返事して校舎の一点に目をすえる。窓に人影。その何者かはこちらをじっとうかがっている。その視線は鋭く――


「どうしたのってば!」


 ぐいっと引っ張られて視界がぶれた。舌打ちして幼馴染を睨むとその倍の強さで睨み返された。


「早く行くよ」

「分かってるよ」


 駆け出すすみれの背中を追う前に振り向くが、先ほどの窓には既に人影はなかった。

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