始まりは夜
ホラー映画は嫌いだった。というのも現実から遠すぎるからだが、それを言うなら全ての映画が同じく現実から遠いと指摘されてしまうかもしれない。確かにそうだ、と彼は思う。ホラー映画は特に嫌いなジャンルというだけであって自分は映画全般が嫌いだ。現実から遠い。
もちろん同じ理由で小説や漫画、ドラマも苦手だ。現実ではないのに現実のような顔をしている物語は、その中でも特に信用ならない。
そして事実そのままを伝えているふりをしている物語的遺伝子組み換え品はもっと嫌いだった。憎悪していると言ってもいい。妹の死をドラマチックに飾りたてたニュース、ワイドショー、世間の噂の数々。クソが。
とにかく。そういうわけで彼――平川真司は目の前に現れたモノも簡単に受け入れることはできなかった。まあ彼に限らずともほとんどの人間にとっても受け入れるのは無理だったに違いない。それの醜悪さはあまりに現実離れしていたからだ。
真司を見下ろすそれの眼球はおそらく五つ以上はあった。というのも顔と思しき部位にあるそれらは常に流動し位置を変えていて、一目では把握しきれなかったのだ。人間が一目で数えられる物の数は五つほどらしい。だからおそらく五つ以上。
それからぬらぬらと光る角が生えていて、身体は溶け落ち粘液を垂らしながらもなんとか人型を保っている。それはベッドに寝そべっていた真司を覗き込み、笑った。ちゃんと口があってそれだけは人間と全く同じ形だった。
「やあ」
声も人間と同じ。ただ年齢も性別もその声からはわからない。微笑の気配だけが感じ取れる。絶句する真司を置いてけぼりにそれは言った。
「正義の在処を知りたいんだ。教えてくれるかい?」
「そんなものはない」
言葉はするりと口から出てきた。もちろん冷静だったわけではない。それでも答えるべきはよく知っていたのだ。
「そんなものはこの世のどこにもない。少なくともはっきりとした形では」
「そうか……それは困るな」
その何者かは考え込んだようだ。
「……お前はなんなんだ?」
今度の声は先ほどと違いひどくかすれた。
「悪魔だよ」
「悪魔……?」
「そう呼ばれている。らしい。確かに悪を存在の根拠としている」
……何を言っているのかはわからない。が、やはり答えるべきことは知っている。
「この世には悪もない」
「明確な形では?」
「そうだ」
「なおさら困った」
悪魔とやらは身を引いた。真司は恐る恐る身体を起こしてそれを見上げた。
「ちょっと見ない間に妙なことになってるな。この世界に正義も悪もないとなるとぼくはそのうち消えるしかないじゃないか。どうなんだろうそれは。構わないって奴もそりゃ多そうだけどぼく自身は嫌だな、うん」
何やら考えるように部屋の真ん中をぐるぐる歩いている。何について思考を巡らせているのかは謎だがとりあえずその間に真司の判断も固まっていた。逃げよう。
大事なのはタイミングだ。出口のドアまではおよそ四歩。寮なのでその外に出れば助けは呼べる。
よし。
「よしじゃあこうしよう!」
まさに行動を起こそうとしていたところを制された形だった。逃亡に失敗した。ベッドから降りようと縁に伸ばした手が滑って肩や顔を強打しながら床に転がり、つまり悪魔の足下だった。慌てて身体を起こすとぶよぶよの何かが目前に迫っている。たまらずひきつった悲鳴を上げる真司に構わずそれは彼の額に触れてきた。感触はよくわからない。ただ身体が固まり、不快感が、ひどい不快感が嘔吐の気配として喉元に押し寄せた。
「君に力を与える。そうだな、念のため君以外にも二人、力を与える人間を探しに行くとしようか」
光が瞬いた。視神経を刺し貫く無音の痛覚。火花のようなそれは瞬時に広がって視界を覆い尽くす。
「君たちには正義と悪とを示してもらいたい。対義である以上一方を示せば自然ともう一方も定まるはずだ。簡単だろう?」
視界だけでなく真司の身体にも異変があった。内側に熱の球が生じ、膨張し、全ての関節がミチリ、と嫌な音を立てた。
「もちろんタダでなんて言わないよ。上手くやり遂げた者には奇跡を手にする権利をやろう」
(奇跡……の権利)
「願いを一つ叶えてやろうってことさ」
含み笑いをもらし、悪魔は最後の一言で締めくくった。
「汝、その力をもって正義と悪とを峻別せよ」
それを聞き終えると同時、真司の意識は闇へと落ちた。




