エピローグ・そして朝が始まる
穏やかな朝だった。窓から静かに差し込む朝の日は柔らかく、空気もあたたかで優しい。真司はあまりの心地の良さに目を覚ますことを拒否して睡眠欲に屈服した。わずらわしい騒音もなく、ビッグケリーのボディプレスもない。彼の睡眠との蜜月を邪魔するものは何もない。だから、彼は飽きるまで眠り続けるつもりで寝返りを打った。
しかし。
「しーんじ、くんっ!」
「おぶぅ!」
ボディプレスを受けて真司は悲鳴を上げた。ウシガエルの、ではない。すみれのだ。
「おはようハニー! 今朝の目覚めはいかがです?」
「みぞおち痛くて吐きそうってとこかな……」
のしかかり顔を覗き込んでくる彼女に囁き返す。実際みぞおちが痛い。いまもすみれの体重が乗った肘でゴリゴリとえぐられている。だが、そう不快でもない。
あの日からもう一か月だ。悪魔を退けた夜から。悪魔を滅せたとは思わない。なぜならあれは善悪そのものだからだ。人がいる限り、人が人としてある限り滅ぼせるわけがない。だが一矢は報いてやった。たったの一殴り。だがそれでいい。
「真司くん、今日は学校ある日だよ?」
「ああ、知ってる」
「知ってるならなんで起きてないの?」
「布団が俺を放してくれなくて」
「そんな言い訳きくと思う?」
「割と」
言うとすみれは小さく笑った。
「何それ。わたしよりも布団ちゃんを取るの?」
「どうしようか迷ってる」
「困るよ。真司くんはわたしの彼氏なのに」
「いい男にはいい女がたくさん寄ってくるんだよ」
「それもすっごい困る。わたしから離れられないようにしてあげるんだから」
すみれはそう言って、すっと顔を近づけてきた。柔らかい唇の感触。伝わってくる体温。たっぷり十秒のキスの後、すみれはようやく解放してくれた。
「ごちそうさまでーす!」
「……こちらこそ」
すみれは一度ぎゅっと真司を抱きしめてからベッドから降りた。心地よい重みが身体からどいて、真司も追いかけるように起き上がった。
「じゃあ行こうか!」
数日前、ついにすみれが壊してしまった部屋のドアをくぐり、二人は連れ立って朝へと繰り出した。
◆
あの出来事の前後でいくつか変わったことがある。真司とすみれの関係が最初の一つだが、そのほかにもまだいくつか。
まず学校は続けられることにはなった。爆弾による破損箇所は多く、また大きいものの、使える教室は使えるので修繕工事を行いながら授業は続けるそうだ。体育館についてはどうしようもなく、新しいものができるまで数年十数年単位で時間がかかるので市民体育館までバスを出して対応するそうだが。とにかくこれで卒業はできそうだね、とすみれは嬉しそうに笑った。
次に。学校の破損や街の異変は思いのほか世間に衝撃を与えたようで、様々なニュースや特集番組が組まれたりした。何らかの過激派組織が学校を爆破し何かしらのテロ行為を行った、というのが大方の見解で、真相を知っている身からするとなんだかなあ、なのだが、それでもまあ前より怒る気にはならない。
「学校の破損、損害については私たちがきちんと記事にして世間へと正しく伝えます」
真司に取材を申し込んできた(と言っても真司は取材された生徒の一人にすぎないが)記者がそう言った。その目は真剣で、正義と言うものの形をしっかりと考えたことはなさそうなものの、それゆえの真摯さと熱が感じられた。
「お願いします」
依頼の、そして感謝の意を込めて、真司は深く頭を下げた。数年来の怒りや憎しみが、少しは解けた気がした。
そして変わったこと、最後の一つ。
「失礼します」
真司とすみれは、小声で言って入室した。病室のベッドには女性が一人寝ている。目は閉じて意識はない。無数のチューブが体のあちこちにつながっていて、もう長くないことは何となくわかった。分かってしまった。
彼女の前の椅子に座る男性が振り向いた。
「……泉先生。お久しぶりです」
彼は真司の顔を見て、疲れた顔で小さくうなずいた。
廊下に出て三人。
「君たちには迷惑をかけたな」
床を見つめたまま泉が言う。真司は首を振った。泉には見えなかったろうが気配は伝わったのだろう。彼は余計肩をすぼめた。
「年甲斐もなくあれだけ息巻いていてこれだ。恥ずかしいよ」
「後悔してるんですか?」
「それは……いや、確かにそれはないな」
泉は微苦笑を漏らす。そして言葉を換えた。
「妻はもう長くないそうだ。今週が境になるだろうと言われた」
「……」
「彼女はよくやってくれたよ。この一か月。私と一緒に歩いてくれたんだ。感謝してもしきれない」
「……ええ」
「だから、彼女が死んだら、私も一緒に行こうと思う」
真司も。すみれも。驚きもしなかったし、意外にも思わなかった。ただ、寂しい、それだけを思った。
「そう、ですか」
「遺書を残すよ。まだ私のせいで拘束されている生徒がいる。彼らには謝っても謝り切れないが、それでもせめて報いられるよう努力はするつもりだ」
「ええ」
「君たちには、何もできないな。もらってばかりだ。返せるものがない」
「いいえ」
真司は相手の目を見て言った。
「俺は、先生と出会えてよかったです。本当に良かったです」
そしてすみれを促して病院の出口へと歩き始めた。彼女の手を取りぬくもりを感じながら。
背後から押し殺した泣き声が聞こえた。それでも二人は歩き続けた。
◆
寂しさが、まだ背中に張り付いている。それを振り払うようにすみれが明るい声を上げた。
「真司くん、今日はどこへ行こうか、デート」
「今日は……墓参りかな」
「墓参り?」
真司は頷く。
「そろそろ行ってもいいんじゃないかと思ってさ」
「……?」
「黒田恵だよ」
すみれは、あっ、という顔をして、それから少し暗い顔になった。
「……そっか」
「いつかは行こうと思ってた。遅くなっちゃったけど」
すみれはしばらく沈んだ様子だったが。
「……そっか。うん。そっか。そういうことなら、行かないとね!」
努めて明るい様子で真司の横に並んだ。そして一緒に歩き出す。
――正義について彼は思う。それは存在するかどうかもわからない。あっても人を幸せにするとも限らない。だが、それは人と人とのつながりの中にある。人の営みの中にある。だから。だからどんなに絶望しようとも信じられずとも――
「真司くん!」
「うわっと!」
いきなり腕にしがみついてきたすみれによろめきながら、真司はゆっくりと前に進んでいった。
(終)
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