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終わりも夜

 悪魔とは何か。それを問うことは神の存在を問うことと同じくらいには難しい。神学や哲学、あるいは悪魔的な犯罪を対象とする心理学やらが扱う領域になってしまう。だが真司たちの前に現れたそれについては一応説明することが可能だ。


 一言でいえば、それは正義と悪の境界線だった。人の認識の中で神という概念が死を迎えたときに現れた。人々の中で固く信じられていた正義と悪が、その輪郭を崩してぼやけたとき代替品として現れた境界線だった。それは人に似た人格を持っていた。


 その存在により人が善悪の区別を失うことはなかったが、しかしそれでも次第に境界線は侵食されていく。そしてあの日、悪魔はそれ以上の崩壊を防ぐためにある三人の人間を選んだ。他の人間と比較にならないほど強く正義と悪について関わっていた三人を。そして命じる。正義と悪とを峻別せよ、と。そのために力を行使せよ、と。


 力。現世には存在しない超常の力だ。妹と対等の位置に立つために肉体の力を求めた者には身体能力を強化する力。愛する者を思い通りにしたいと無意識に思っていた者には魅了の力を。愛する者との明日を見通したいと強く願った者には、見通し見抜く力を。


 彼らはそれぞれの力でそれぞれのやり方を持って戦い、ようやくたどり着いたようだ。正義と悪の、境界線の在処に。悪魔は実った果実を刈り取りに、ついに動き出した。



 悪魔は舌なめずりでもしそうなほどに深い笑みを浮かべていた。その口元を見つめながら真司はさらに構えを強く険しいものにしていく。後ろのすみれも同じく警戒している気配が伝わってきた。泉すらも体に緊張を走らせたことが見て取れた。それぞれの能力が極大を極めている今だからこそ分かる。この存在の脅威度は計り知れない。


「おいおい、何をみんな怖い顔してるのさもっとフランクに出迎えてもらっても構わないよ? こう、クラッカーと花火をそれぞれ十個くらいずつ持って一気に使って、はーいサプラーイズ的な。いやなにがびっくりかは知らないしそれ意表突くつーか音の威力のゴリ押しだけど」

「悪魔……」


 それの言うことをまるっきり聞き流して泉がうめく。悪魔はひょいと首を傾げて彼に目をやった。


「ん、何? 気に入らなかった?」

「いや」

「じゃあやろうよ。サープラーイズ! イエー!」

「……」


 悪魔がなにやら騒いでいるうちに泉は三歩ほど、悪魔に向かってゆっくり距離を詰めた。隙なく身構えて、そして言う。


「悪魔よ、私は善悪証明を完成させた! 聞け!」

「お、マジ? 聞く聞く」


 悪魔が途端に静かになって彼の方を向く。


 泉は続けた。


「善悪証明、それはこうだ。絶対的な正義も悪もこの世にはない。すべては相対的であり個としての善悪はない。しかし関係としての善悪は存在する。善悪は! 個が関わり合う中に、静かに、そして確かに存在している!」


 一気に言い切って、和泉は沈黙した。


 悪魔もまた黙ったままだった。数秒ほど間があった。数時間ほどとも思えたが。悪魔は再び口を開いた。


「合格だ」


 泉の背中から一瞬力が抜ける。


「だが同時に失格だ」


 真司の視界から泉が忽然と消え失せた。鈍い打撃音とともに。


「!?」


 真司の目でも何も捉えられなかった。後ろで少し遅れてすみれの小さな悲鳴が聞こえた。右方を見やると離れたところに泉が転がっているのが見えた。すさまじく強い力で打ち据えられたといった様子だ。


(……なんの力に?)


 ぞっとして自問する。到底理解できそうにないが。


「まいったね、興ざめだよ」


 悪魔はそう言って首を振る。そしてゆっくり真司の方へと近寄ってくる。


「他人が出した答えをまるで自分が導いたかのように得意顔で披露するってなんとも気分が悪いじゃないか。ねえ?」

「知っていたのか」

「そりゃ悪魔は知ってるよ。悪魔イヤーは地獄耳、ってね」

「それなのになんで泉先生に答えさせた。なんで無駄に希望を持たせた!」

「その方が面白いからだよ」


 きっぱりと悪魔は言う。ギリ、と奥歯が嫌な音を立てて軋んだ。


「ま、そういうわけであの男は失敗だ。回答と奇跡の権利を剥奪。ああそうそう、与えた力も没収だ」

「てめえ!」


 真司は飛び出す。悪魔めがけて――ではなく。


「先生!」


 真司は泉の、拳銃を持つ右手を押さえてとどめた。


「止めるな! 死なせてくれ……!」


 涙を流しながら泉が言う。


「私は妻を助けられなかった。死なせてくれ……」

「駄目です!」

「お願いだ……私は罪を犯しすぎた。正義を失った今……とても堪えられない……」


 泉の顔は涙と鼻水でぐしゃぐしゃだった。何もかもを失った顔だった。


「それでも駄目です……すみれ!」


 叫ぶと同時、泉の力が抜ける。悪魔の力を失った今、泉には魅了が効く。


 穏やかな顔で気を失った泉を横たえた。


「……先生、お疲れ様です」


 真司は立ち上がった。激しい怒気を体にまとわせて。


「悪魔」

「うっす。君だよね、本当の正解者」

「ああ」

「約束だ。願いを一つ、叶えてやろう」

「ああ……」


 真司は悪魔を睨み据えながら頷いた。


 願い。たったの一つ。対して、叶えたいことは、叶えたいだけならいくつもあった。妹を生き返らせたい。妹がいたはずの今を見たい。失った時間を取り戻したい。黒田恵だってそうだ、あんな終わり方をしないで済んだ可能性を見たい。今回のことで壊れた諸々を直してもらう、もしくはそうだ、なかったことにしてもらうのもいいかもしれない。すべてをリセットして、今度は間違えないようにゆっくりと歩くのだ。


(でも……)


 真司は閉じていた目を開く。振り向くとすみれがいて、真司の目を見返してくれている。


(こんなことでもなければ、得られなかったなにかもあるんだ)


「答えを聞こうか」


 真司は頷いた。


「ああ」


 ゆっくりと歩み出る。悪魔までは五歩。


「俺の望みは」


 四歩。


「いやお前に言いたいことは」

「ん?」


 三歩。


「――俺たちから力を回収して、とっとと目の前から消え失せろってことだっ!」


 真司は地面を蹴った。


 悪魔は逃げようとしたかもしれない。だが両側から抑えられては逃げようがなかっただろう。すみれの魅了兵隊による拘束だ。


 そして。


「おおおおおおおおッ!」


 真司は最後の一歩を踏み込んで。悪魔の横っ面を、持てる力のすべてを振り絞って、殴りぬいた。

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