善悪証明
風の音を聞いていた。屋上の床面に並んで座り、フェンスに背中をゆったり預けて。手をつなぎ合い、肩にもたれかかるすみれの頭の心地よい重みを感じる。今、空に少しだけ近いこの場所にいるのは自分たち二人だけだ。淡い青色の向こう側を眺めながら、どれくらい時間がたっただろうか、わからなくなった頃に真司は口を開いた。
「俺はさ。正義も悪もないと思ってた。どっちもこの世に存在してなくて、どっちも形があいまいで。まあ今でも一応そういう考え方もありなんだろうとは思うけど」
「……うん」
すみれが頭をもたせかけてきたまま器用にうなずく。肩が少しこそばゆい。
「でもさ、そうじゃないって思う人もいる。泉先生は、奥さんを助けるためにすべてを捨てるって決めたらしい。どんな犠牲も罪も罪悪感の痛みもいとわないって。正義はあるんだって」
「わたしと同じだね」
すみれは真紀の死に責任を感じ、また真司への好意のために、自分を犠牲にしてでも真司が善悪証明を完成させる助けになろうとした。
「どうしても叶えたい願いがあったってことだな。それによって人は正義の超人にもなれる。でも……」
「……なんだか、切ないね」
ぎゅっ、と。すみれは少しだけつないだ手に力を込めた。
「俺たちはこうやって踏みとどまれたけど、あの人は向こう側へ行ってしまった」
「助けることはできないの?」
「彼に善悪証明を譲ろうと思うんだ」
「証明できるの?」
「多分。自信はないけどな」
真司はそう言いながらもある程度の確信を持って続けた。
「正義と悪は、人の営みの中にある。逆に言えばその中にしかない」
「……つまり?」
「人の認識の中にしかないということだ。もっとわかりやすくすると……人間がいなくなるとそこには存在できないもの、ということだ」
「人の頭の中だけにある……」
「そうだな。そういうことだ。例えば昔な、ある川沿いの上流と下流にそれぞれ一つずつ村があったんだ。あるとき雨が全く降らなくなって、上流の村は限られた水をすべて確保しようと川をせき止めてしまった」
「下流の人たちが怒るね」
「ああ。だからその人たちは水を手に入れようと上流の村を襲ったんだ。どっちも死にもの狂いだったからな、すごい数の死人がでたらしい」
「どっちが勝ったの?」
「さあな。そもそも勝敗がつかなかったかもしれない。全員死んでしまったかもしれない。でもそれよりもここからは別のことがわかるんだ」
「別のこと?」
「正義と悪の形だ。上流の村にとってはこうだった。自分たちは家族や仲間を守るために正義を行って、下流の奴らはそれを妬んで奪いに来た悪者らだ」
「下流の人たちにとってはこうだった。上流の人たちは自分たちだけの保身に走った悪者で、自分たちはそれを正す正義だった……」
「集団集団で、また個人個人で、その頭の中で。正義と悪はその姿を、立ち位置を変えていく。正義を確定することは難しいし悪もまた同じだ。そしてきっと例えば人間がこの地球上からいなくなったとして。そこにはもう正義も悪もないんじゃないかな」
「それじゃあ、正義と悪は……やっぱりないの? 証明できないの?」
「いや。ある。と思う」
「どうやって?」
頭をこちらの肩から上げて見上げてくるすみれ、その瞳を見つめ返す。澄んだ黒い宝石のようなそれは、息をのむほどきれいだなと、そんな場違いなことを思った。
「その先の答えは、俺たちより必要としている人がいるはずだ。その人に教えてやろう」
「……うん。そっか。わかった」
すみれはうなずいて立ち上がった。その手に引き上げられるように真司も立ち上がった。
いつの間にか日は傾いて、地平の近くまで落ちている。しばらくすると夕焼けが見えるだろう。だが見えるようになる前に行かなくてはならない。
歩き出したすみれに手を引かれるようにして続く。
「俺、自分なんてどうでもいいって思ってた。真紀に嫉妬して、見捨てて、ほっとした自分なんて死んでしまえばいいと思ってた」
不意に漏らしたつぶやきに、すみれは振り向かずに即答してきた。
「駄目。生きていて」
「……でも」
「だってわたしは生きていて欲しいもの」
そして半分だけ振り返って悪戯っぽく言う。
「わたしの言葉と真紀ちゃんについてのこと、どっちが大事?」
◆
繋いでいた手は途中で放した。名残惜しかったが仕方ない。これからは戦いの時間なのだから。
校舎を出て振り返る。もうあちこちが崩れてボロボロで、今後使い物になるのかどうなのかもわからない。
「卒業、したかったね……」
「できるだろ」
「でもさ」
「大丈夫だって。不相応な背伸びさえしなければ、なんだってできるさ。大丈夫」
すみれはまだ不安そうだが、とりあえずは反論してこなかった。
グラウンドに出る。日が暮れて、しかしライトが点灯しているので足下に困ることはない。白く照らされる砂の地面の中心に、一人分の影が落ちていた。
「待たせてすみません、泉先生」
歩み寄り、五メートルほどの間を空けて対峙する。すみれは数歩下がって後ろだ。構えはしない。泉も拳銃を手にもっているが同じく構えてはいない。
「……いきなりなんだ。私に敬意を払うべき点を見つけ出したとでもいうのかね」
「わかりません。けれど、これが一番ふさわしいんじゃないかと思うんです」
泉は納得したわけではなさそうだが、それでも追及してくることはなかった。
「それで、君に約束を守る気はあるのかね」
「ええ。もちろん」
「では聞こう。正義と悪の存在証明とは?」
「人が正義と悪を模索し続ける、その行為の中にあります」
「……ふむ?」
「人にはそれぞれの正義と悪があります。厳密に見ればその一つ一つはすべて細部が違っていて、どれをとっても同じものはありません。それゆえ人は争います。それぞれの正義をぶつけ合い、押し付け合うために」
「それで?」
「俺たちもまた同じように争いました。俺は善悪などないという正義を。泉先生は大事な人のためにそれ以外を捨てるという正義を。すみれは大事な人のために自分を捨てるという正義を。どれが最も、そして本当に正しいということはないと思うんです。それらはそれぞれの頭の中にしかない」
ギリ、と。泉が奥歯をかみしめる音がはっきりと聞こえた。やはり気に入らなかったのだろう。それでも何も言わずにいてはくれたが。
「けれど、ならば正義と悪とがないかというと、俺は違う気がしてきました。正義と悪は、それら個別の正義がぶつかるところ、せり合うところ、そこにある、と」
「……? 言っている意味が」
「三権分立ってあるじゃないですか。立法、行政、司法。理屈としてはあれと同じです。あれもどれか一つが絶対正義ではありません。あの均衡の中に、正義が、悪が、あるんです。現れるんです。俺たちの場合は、俺たちの対立の中に」
「……」
泉はいまだ疑いのまなざしを向けてくるが、それでもやはり反論はしてこなかった。しばらくの間を置いて、彼は言った。
「分かった。使わせてもらおう」
奥さんによろしく。胸中だけで告げる。大事な人に、どうかよろしく。
そして。唐突に声が響いた。
「ふわぁーあ。待ちくたびれたよ」
はっとして声のした方に目をやると、醜悪な異形がそこにいた。先ほどまでは間違いなく何もなかった場所に、何ということもない様子で立っていた。
「悪魔……」
「よっす。久しぶり。そろそろ聞かせてくれるんだろうね、善悪証明」
その五つ以上の眼球が、ぞろり、と音を立てて三人の方を向いた。
真司は知らずのうちに、だが躊躇うこともなく、それに対して身構えた。
悪魔の口が、にたりと笑った。




