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「起きて」

 下方からの爆発に吹き飛ばされ転がりながら、ああそうだよな、と真司は思った。そりゃそうだ。当たり前だ。

 なぜここ、体育館には爆弾がないと思っていたのか。相手も正々堂々かかってくるなどと思っていたのか。


(そりゃそうだ。見くびっているとか嘘ついて、べらべら余計な御託並べてそれっぽい空気作って、挑発までしてたんだ。あるだろ、罠の一つや二つくらい……)


 ようやく視界の回転が止まった。真司はうつぶせに倒れ伏していた。


「く……」


 起き上がろうとして弱弱しくもがく。動いたのは指だけで、それもかすかに床をひっかいたくらいだったが。


「足がズタズタだな」


 先ほどまでの激昂の気配はどこへやら、平静そのものの声がする。


「それでも再生し始めているか。恐ろしいものだ、悪魔の力と言うのは」

「こ、の……!」

「だが残念ながら君には確実に死んでもらわなければならない。たとえどんなに正義と悪の存在を信じていない君でも、万が一にも存在証明を成し遂げないとも限らないからだ。先を越されるわけには絶対にいかないんだよ。すまないね」


 ばん! 手で床を突き離し、その勢いで真司は一瞬で立ち上がった。


「ぐッ!」


 ボロボロの足から激痛が突き抜ける。意識がすべて持っていかれそうなほどの電気信号の奔流。それでもこらえなければならない。痛みすら感じ取れない深い闇に落とされたくなければ。


「君の身体は強いな。ものすごい精神力でもある。悪魔の力は心の力まで強くするのか? ……いや違うか。君の意志は今までも、今も、そしてこれからも弱いままだ。死にたくないから抗っているだけ。君に私は殺せないよ」

「殺す……」

「いいや殺せないな」

「殺、す……」


 わかってはいた。真司に与えられた力は殺す殺すと繰り返すまでもなくそれを実現することが可能な力だ。今はそれができないから駄々っ子のように繰り返すしかないのだ。


 憐れむような泉の視線が真司に注がれる。


「最も君にすまないと思うのは、私は君を殺す事に全く罪悪感を覚えないということだ。君と違って私には正義があるのでね。それを成し遂げるためにすることには罪悪感をさしはさむわけにはいかないんだ。それではお別れの時間だ」


 真司はできる限りの構えを取った。相手の拳銃を見据える。一発くらいなら何とか避けられないこともない。その一発を避けて、反撃の一発で仕留めなければならない。


(できるか……?)


 限りなく難しい。だがやるしかない。自分は、すみれとまた会う約束をしているのだから。こんなところでおっさん相手にくたばっていられるか。


 そんな真司を見据えながら。泉は一歩を引いた。


(……?)


 また一歩、もう一歩。

 訝しく思う真司に泉は言う。


「今の君の闘志にはすさまじいものがある。怪我をしていても、正面からまともにかかっていっては私もただでは済むまい。だから、こうする」


 掲げたもう一方の手には、手のひらサイズ、武骨な形の黒いライターのようなものが握られていた。泉の親指が、その一部を強く押し込む。その瞬間、一際大きな爆発音が頭の上で鳴り響いた。


 衝撃で真司は再び転倒した。低くなった視界で泉がこちらを警戒したまま後ろ歩きに退いていく。


「私の目が暴くのは何も人間の弱み秘密に限らない。物体の構造的な弱点もまた見抜くことができる。ところで建築物というのはね、常にその自重に抗って建っているんだ。バランスだな要は。そのバランスを崩してやるとどうなるか」


 爆発で破損した天井の建材の破片がパラパラと降り注いだ。不気味な軋みの音があたり響く。


「まあそれは君が自分の身体を通して直接感じてくれたまえ」


 体育館の中央で待ち受け誘い出した理由はこれか。真司はようやく理解した。中央というのは言うまでもなく天井崩落から逃れるのに最も距離がある場所だ。


 真司は絶叫した。叫んでもどうにもならないことはもちろんわかるが。それでも天井を見上げ、喉が避けんばかりの声を上げた。


「ではさようなら」


 泉が廊下まで退くと同時、鉄骨が木片の棘が強靭なワイヤーが。雪崩を打って真司の元に殺到した。


(すみれ……真紀……!)


 そして、視界が闇に閉ざされた。



 あれは。あれは三年前のことだ。いや、あれ()三年前だった。その時真司は陸上競技場にいた。


 夏の暑い日だった。天気は快晴、日差しは強く風はない。汗をかいていてもよさそうな天候だったが、真司はほとんど発汗していなかった。集中しすぎていて汗をかくのも忘れていたのかもしれない。違うかもしれない。何にしろ覚えているのはこれらわずかな事実だけだ。他はすっかり忘れてしまった。どんな決心でどんな練習をしてきて本番でどんな走りをしたのか。それらは全く覚えていない。


 全国大会だった。素直に解釈すれば日本で一番を決めようという催しだ。ピアノを捨てて三年間、怠けることなく練習を重ねてようやくここまで辿り着くことができた。だから、絶対に勝ちたかったし勝たねばならなかった。真紀の兄でいるためにはどうしても必要なことだったのだ。


 だが結果から言って、彼は失敗した。彼の出した記録はお世辞にも頂上をとれる者のそれではなかった。もっとも、彼は走っている最中にそのことにもう気づいていたが。見えたのだ、どんどん離れていく妹の背中が。引き離され、遠く、遠く。ゴールラインを越えてから、彼は静かに一筋だけ、涙をこぼした。


「おかえり。兄さん、あの……」


 家に帰り着くと真紀が声をかけてきた。いつもの端正な顔にいつより少しだけ心配そうな表情を浮かべて。


 正しい。その時真司が思ったのはその一言だ。この妹は正しい。全国大会の結果については競技場に直接見に来ていた父が既に家に伝えていただろう。だから真紀も知っている。そして彼女は、彼女が知っているだろうことを兄が知っていることも知っている。そのうえでこの気の使い方だ。いつも通りどうしようもなく正しい。


「悪い、忙しい」


 それに対して自分は何と間違っているのだろうと真司は思う。声のいらだちを隠すこともできずに部屋に逃げ込んで戸を閉め切った。しばらく立ち尽くした後、床にへたり込み震える息を漏らす。息は嗚咽に変わり、涙が流れ、静かに夜がやってきた。しおれた気分のままその後の数日を過ごし。そしてもう忘れようと決めたその最後の日に、真紀が死んだ。


 葬儀は家族だけの非常に小さなひっそりとしたものになった。世間の好奇の視線があまりに強すぎたためだ。


「真紀……」


 焼かれて白い骨になってしまった妹に囁く。涙は出てこない。あまりに唐突すぎて全く何もわからないような、目で見ているのに理解できていないような、そんな不思議な気分だったのだ。


 そして。ワイドショーを流していたテレビを叩き潰し泣きはらしたあの日。彼はその残骸の上に膝からくずおれた。荒い息をついて、それを整えようと無駄な努力をして。


 彼が気づいてしまったのはまさにその瞬間だった。


 衝撃が頭に弾けたような気がした。腹を思い切りけりつけられたように感じた。


 目を見開くと同時、吐き気が喉元に押し寄せて彼は激しく嘔吐した。涸れたはずの涙が再び目の奥から熱くしみだしてくる。


「俺は……俺は……!」


 気づいたのだ。妹が死んで、自分が心底ほっとしている(・・・・・・・・・)ことに。


(なんだよこれ……!)


 いや、本当は分かっている。自分は自分を脅かすものがいなくなって安心したのだ。もう妹と比べられることはないのだと。

 さらに大きな吐き気が来て胃液を絞るように床にぶちまけた。


 そして思った。あれだけ正しい妹が死んで安心する自分というのは何なのだと。間違いなく正義ではない。しかし喜べるほど悪でもない。妹の死を悪気なく宝探しゲームにして喜ぶ世間も同様だ。そして世界は、宇宙は、一個人の死になど興味ない。


 だから、この世には正義はない。悪もない。彼はそれを思い知ったのだった。


 ――いつの間にか暗闇に浮かんでいた。遠く果てまで揺らめくその温かい黒の海で、真司は遠い妹に語りかけた。


(なあ真紀。お前がいなくなって三年がたったよ。あれからいろいろあった……と言いたいところだけど大して何かあったわけでもないか。でも家にいるのはつらかったから寮のある高校に進学したんだ。失敗した陸上の実績が役に立ったのは皮肉だった。奴ら俺がとち狂ってまた陸上はじめないかと期待してたらしい。笑えるだろ? 俺にはもう何も残っていないってのに)


 声は暗闇に吸い込まれて消える。誰かに聞かせたいわけでもないからそれでいい。そんな気分なのだ。


(真紀。悪魔が俺に言ったんだ。正義と悪を示せって。示せば願いを叶えてやるって。でもこれっておかしいよな。だって俺にとって正義はいつだってお前なんだ。お前がいないと証明できないんだ。お前が生き返らない限り不可能、でも生き返らせるのには証明をしなきゃいけない。とんだジレンマだよ)


 その皮肉に自分一人で苦笑する。


(なあ。お前は生き返りたいか? もし俺が頼んだら生き返ってくれるか? ……無理か。お前が死んでほっとした奴の頼みなんか、駄目だよな。悪かった。……そうだな。悪かったよ。ごめん。ごめんな。俺たちみんな、お前を理解できなくてごめんな。一人にしちゃってごめんな)


 涙が、あふれてくる。泣くのは三年ぶりだ。あれ以来真司は一度も泣いたことはなかった。


 真司はなおも絞り出すようにつぶやいた。ごめんな……


「兄さん」


 はっとして顔を上げる。懐かしい顔がそこにあった。


(真紀……)


 妹は命を絶った当時の姿のままだった。


(真紀!)

「兄さん」


 妹はすっ、と真司の方に手を差し伸べた。顔に触れ、涙を指で拭き取る。


「起きて、兄さん」



 真司はかっと目を見開いた。

 額に突き付けられていた拳銃を左手で振り払い右手を放つ。肉を貫く感触をその指に感じた。


「ぐっ!」


 声がする。泉の声だ。太腿を貫かれた彼は、よろめいて後退した。


 真司は一瞬の後事態を理解した。自分は地面に仰向けに倒れていたようだ。周りには建材の残骸が山と積み重なっていた。

 思い出す。自分は体育館ごと潰されたはずだった。


(なんで生きている……?)

「恐ろしいな、人間というのは」


 傷口を押さえ、苦悶の表情を浮かべながら彼は言う。


「君はあの崩落を、全て技術で乗り切ったようだ。避け、いなし、弾き飛ばす。それを気の遠くなるような集中力でこなして、生き残ったわけだ。馬鹿みたいな話だな」

 何も言えない。身体にもほとんど力は残ってはいない。それでも、立ち上がることはできた。何者かの支えを感じた。

(真紀)

「君の再生力は規格外だ。対して私はそうではない。この場で退いて時間がたてば不利になるのは私の方だな。だからとどめは刺しておきたかったが……無理そうだ」


 構える真司をにらみながら彼は言う。


「ここは退く。だが必ず殺す」


 振り向き、ゆっくりと去っていき……姿を消した。


 真司はそれを見届けて、今度こそ気を失って倒れ伏した。

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