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開戦

 真司は、何もできずに硬直した。すみれが指さす先にいる男を見つめたままどう行動すべきかわからずにいた。視線の先の物理担当教師(・・・・・・)もまた教材や返却プリントを抱えたまま教室の様子に面食らった顔で立ち尽くしていた。


「これは、一体……」


 その態度があまりにも自然だったために真司はさらに攻撃をためらった。先ほどのすみれの言葉が正しいかどうかわからない上に、正しいとしてもすみれの方が真の敵ということもあり得るのだ。

 が。


「わたしを信じて」


 すみれがこちらを見つめていた。雑念のないどこまでも澄んだ瞳。


「信じて。お願い」


 真司は床を激しく蹴り離して教師の方へと突進した。


「――ッらァ!」


 プリントが、ばっ、と空中に舞い上がった。そして、振り下ろした拳は空を切る。普通の人間相手ならばあり得ないことだった。強化されたこちらの攻撃を避けきるなど、間違いなく常人ではない。力の所持者だ。


 横っ飛びに攻撃を逃れた教師はそのまま逃走を始めた。廊下を猛然と駆けて見えなくなる。床には散乱した教材とプリントだけが残された。


 真司は追う前に後ろを振り向いた。戸口から人形と化した生徒たちと、それに囲まれてすみれの姿が見える。


「藤井……」


 真司の声に、すみれは寂しそうに笑った。


「信じてくれてありがとう」


 ざわり、と。嫌な予感がした。彼女に似合わないあまりに切ない表情だったからだ。しかしそれでも敵を追わなければならない。


「……後で会おう! 絶対だぞ!」


 真司はそれだけを叫んで駆け出した。

 すみれは馬鹿だけど馬鹿じゃない。だから大丈夫、何もない。悪いことは何も起きない。そう強く自分に言い聞かせながら。



 廊下の先を逃走する教師の脚はやはり常人のものではなかった。こちらほどでないにせよ身体能力が強化されているとみて間違いないようだ。


 一気に距離をつめようと足に力を込める。急速に敵の背中が近づいてくる。もう少し。真司はその背中に向かって手を伸ばし――とその時、教師がこちらをちらりと振り向いた。同時に真司の横手で衝撃がはじけた。


「っ――!」


 轟音と激震、のみならず鉄筋コンクリートの破片と窓ガラスとが真司に襲い掛かる。真司は前に体を投げ出すことでそれらを避けた。


「く……」


 立ち上がって追跡を再開する。しかしまた爆発が起き、今度は避けきれずに反対側の壁にたたきつけられる。どうやら仕掛けられた爆発物は一つや二つではないらしい。厄介だった。早く決着をつける必要がある。


 階段まで追うと案の定爆発が起きて崩落した。だが真司はすでに方向を変えて廊下の窓に寄っていた。一気に開放しそこから空中へと身を躍らせる。一瞬の落下感。その間に真司は目的の物を見つけていた。


「ほっ!」


 外壁から飛び出ているパイプをつかみ、そしてそれを支点に下の階の窓へと足から突っ込む!

 ガラスが砕ける甲高い音が響いた。着地するとちょうど逃げ込んできた敵の目の前だ。


「くらえ!」


 躊躇ない踏み込みと共に放たれる掌底。空気を裂き焦がし一直線。一ミリの狂いもなく相手の胸の中心に衝撃を叩き込んだ。


 悲鳴らしい悲鳴も上げられないまま教師は吹き飛んで廊下に転がる。


「そこを動くなよ。いいか、これまでのこと全部」


 吐いてもらうからな。その言葉は崩落してきた天井と共に埋まった。


「くっ!」


 まただ。なんとか潰されるのは免れたが瓦礫が邪魔で追うことができない。舌打ちして再び窓を開けて飛び出す。今度は地面まで落下し着地した。


 耳を澄ませて敵の動きを探ると、校内の地図を頭に浮かべて照らし合わせる。


(足音……距離五十メートル以内、方向は……向こう。体育館!)


 絶対に逃がすわけにはいかない。真司は脚に全力を注ぎこんで駆け出した。



 体育館に駆け込むと、敵は素直にその中央で待っていた。


「……」


 何の変哲もない、ただの男だ。平凡な物理担当教師……確か名前は泉達郎。あまり金をかけているわけでもなさそうな地味な眼鏡が特徴と言えば特徴か。若いというほど若くもないようだがかといって歳がいっているようには全く見えない。今までわざわざ考えたこともないがおそらく三十の前半から半ばほど。


 街で見かけても風景に溶け込んで全く目立たなそうであるし事実教師としても影の薄い印象しかなかった人物だが、しかし今は一度目にしたら一生忘れることのできないであろう眼光を放っている。鋭い殺気。または狂気。冷たい意志の力の発露だ。


 その手の拳銃も目と同じくらい無機質な敵意でこちらをにらんでいた。


「……!」


 真司は横に跳んだ。刹那、元いた空間を銃弾が引き裂いた。


 次弾が飛ぶ前にけりをつける。そう決めて飛び込もうとした足元を銃弾が跳ねた。つんのめるように再び足が止まった。


「正義と悪を峻別せよ」


 真司ははっとして泉を見やった。彼は隙なく拳銃を構え、言葉を続ける。


「君に正義はあるのかな」

「そんなものはない。この世のどこにも」


 迷いなく真司は答えた。

 それを聞いて泉が小さく笑う。


「君も悪魔に会ったんだろう? そして力を授かった。なら聞いているはずだ。正義と悪とを示した者は奇跡を求める権利を得ると」

「ああ、聞いた」

「ならばなぜ君はそんなことを言う」

「ないものはないからだ」

「見て確認でもしたのかね?」


 そこまで答える義理はなかった。話の間に間合いを測り呼吸を測り、足裏の重心を微妙に調整していた。


 そしてぴたりと全てが一致したところで真司は飛び出そうと――


「もしかして妹のことがあったからかね?」

「っ!」


 完璧に意表を突かれた。足が居ついてしまい銃弾を避けられなかった。えぐられた太腿から血が噴き出す。驚異的な治癒能力が徐々に傷をふさいでいくがしばらくは全力では動けないだろう。


「ほう。君の力は単純に身体能力の強化のようだ。私にはそのような再生力はないからな」


 あっさりと看破された。自らの劣勢を悟り、真司の胸にじわりと焦りが生じる。それでもせめて回復のための時間は稼ぐ必要があった。


「お前は……」


 真司の声に、つまらなそうに彼は答える。


「ああ。私は目だ。なんてことはない、目による分析解析能力だ」

「分析解析……?」

「そう、それで相手の情報を根こそぎ引き出す」

「ずいぶん……簡単にバラすんだな?」


 ふん、と泉が鼻息を漏らす。


「君には慎重に対応する必要を感じない。認めよう、私は君を見くびっている」

「……」

「まあそんなことはいい。それより答えろ。君は正義はどこにもないという。では悪ならあるのかね?」

「それも同じだ。どこにもない。どちらも明確な形では存在していない」


 泉はそれを聞いてしばらく吟味の間をはさんだ。それから再び口を開いた。


「君の妹はピアノの名手だったと聞いている。いやその卵か。まあどちらでもいい。いずれは名手になっていたのだろうから分ける意味はないからな。君もそれなりにうまくなっいたんじゃないかな。続けてさえいれば今頃は」

「なっ……」

「まあいいか。ピアノをやめた君は中学生になってからは別の方面で才能を開花させた。陸上競技の単距離走だったかな。そこで君は目覚ましい記録をたたき出し続けた。だが結局最後の最後で君はまたもしくじった。頂上に立つことができなかったと聞いている。君の妹が自ら命を絶ったのはちょうどその数日後だったか」

「ちょっと待てよ……」


 真司は激しい混乱と共につぶやいた。なんで、なんでこの男がそんなことを知っているんだ?


「私の目の力は他の悪魔能力者には通じないようだ。あの……藤井すみれだったか、あの生徒の『支配』もしくは『魅了』と思われる力も同じだろう。そのせいで私の正体は看破されてしまったわけだが……」

「ならなんで俺のことを知っている!」

「簡単だ。学生ならば少しは自分の頭で考えろ。君のことをよく知っていてかつ悪魔能力者ではない者から引き出せばいいんだ」


 真司のことをよく知っていてかつ力の所持者ではない……いやそんな人間はいない。この高校にいて真司と同じ中学出身の生徒なんてすみれぐらいだ。そんな真司の様子を見て泉は苦笑した。


「彼女が悲しむな」

「彼女?」

「黒田恵。聞き覚えはないか?」


 真司を実験室に呼び出した女子生徒だ。死亡して、もうこの世にはいない。


「覚えている顔だな。それなら少しは浮かばれるか」

「あんたまさか……」

「黒田恵は私の駒だった。私が彼女の秘密を握り、君を呼び出させ、そこを爆破した。その彼女の秘密というのが、君だよ、平川真司」

「それは、どういうことだ」

「君にこれを言うのは少し酷かもしれないが、彼女はそうだな、そのままの言葉で言えば君のストーカーだ。君に心酔し、つけ回し続けていたんだよ。君は知るよしもなかっただろうがね」

「……ストーカー?」


 妙な言葉が飛び出して、真司は耳を疑った。


「そうだ。彼女は君の『走り』のファンだった。それが高じて君を追ってこの高校まできたそうだ。君は眼中になかっただろうがね。それでも彼女は君のことを追い続け、見つめ、時には忍び込んだりもした。君の部屋の扉は鍵がなくても入ることが可能らしいな」


 そういえばこまごまとしたものがなくなっていることがたまにあった。単純になくしたのだとばかり思っていたが……


「確かに彼女のやったことは許されることではなかったかもしれない。だが彼女の心中は察してあまりあるものがある。意中の人の隣にいつも別の良い人がいるのだから」

「黒田さんを利用して、巻き添えに殺したのか」

「背中を押してあげたんだ」

「……?」

「積極的に前に出ることのできない少女の恋を、ストーカー行為を相手にばらすぞ、それが嫌なら呼び出して告白しろ、と後押ししてやった」

「脅迫だろうが!」

「そうだな」


 あっさり認めて泉は首を傾ける。

 真司は恵の最期の表情を思い出していた。あの時言おうとしていたのは、つまりはそういう……そういう、ことか。


「あの六人もか」

「どの六人だ?」

「ガソリン火災の六人だ!」

「ああ。当たり前だろう。聞かずともわかることをなぜ訊いたね」


 挑発されている。気配で察した。しかしそれでも相手を睨む目に、さらなる力がこもるのを抑えられない。


 脚の傷が癒えるまでもう少し。


「まあそんなことより」


 ばっさり切り捨て泉は続ける。


「そういうわけで私は君のことを知っている。君の妹のことを知っている。彼女の自殺のことは当時少しだけ耳に挟んでいた。黒田恵からさらに詳しい情報を得た後はさらに詳しく調べた。その結果君の心中が少しわかった」

「黙れ」

「君は自責の念に囚われている。自分のせいで妹が死んだと思っている」

「黙れ、うるさい」


「だから君は自分を正義とは信じていない。妹を見捨てた、もしくは妹に見捨てられた人間たちも君にとっては同様に正義ではない。君にとって正義なのは妹だけだ。そのため君の世界に正義はない。あるのは悪だけだ。しかし悪しかないならば、対義の正義がないならば、悪は悪たりえない。曖昧模糊としたものしかそこにはない」

「うるさいッ!」


 だん! と床に足を叩きつけ怒鳴る。太腿の傷は完治した。真司は突進すべく身構えた。最速で潰す。まっすぐ行って引き裂いてぐずぐずの肉塊にすりつぶしてやる! 力は一切抑えない!


「笑えるね。ちゃんちゃらおかしい。君の世界には正義も悪もない。だがそれをすべてと信じこむなど。わたしの世界には正義がある。悪がある。私は妻を救いたい。そのためならば何でもするし誰でも殺す。教師でありながら生徒をだまし利用し殺し汚い人間と通じて爆発物、拳銃……これら汚い道具を手に入れもする。そしてそれでもそうであっても目的を果たす。それが、正義で……それ以外のすべてが悪だ! 私は一切を躊躇わない! 来い、善悪の境を知らない大馬鹿者が! 貴様なんぞ地獄に叩き落としてやる!」


 轟音が。足元で弾けた。真司はそれをどこか遠くに聞いた。足が床を蹴り離した音。時間が異様に引き延ばされ、全てがゆっくり流れていく。敵が、同じくゆっくりと、目の前に鼻先に迫ってくる。拳を腰だめに構え、鬼の形相のその顔に、その中心に――


「……!」


 その顔が不意に不気味な笑みに変わるのを見て、真司は自分の失敗を悟った。


 足元から踏み込みとは別の衝撃が突き抜けた。


 斎藤淳の言葉を思い出す。


『あれは、悪魔だ』

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