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目の男

 正義と悪の証明を成し遂げてみせる。そう悪魔に宣言した男がいる。


 その男の妻は病に脳を蝕まれていた。元は胃のあたりに少しあるだけだった癌細胞が、除去手術後に脳に転移し侵食し始めたのだ。生命維持機能が弱り一歩一歩死に向かっていく彼女を、彼は身を引き裂かれるような思いで見守り続けてきた。


「こうやってできないことが増えていくのね。お婆ちゃんになるまでそんなこと実感することなんてないと思ってたけど」


 歩く力を失った時、彼女は面白い冗談を聞いたようにくすくす笑った。まるで他人事のような笑い方。


「明日は寝たきりになるのかしら。いやねえ」


 そう言ってぽろぽろと涙をこぼした。彼女は自棄になったわけではなかったが、それでもそんな彼女を見ているのはつらかった。


 しかし彼は諦めてはいなかった。彼女も彼に励まされて、同じく諦めていなかった。堪え方は違えども、一緒に堪えぬこうと二人で決めたのだ。いつかはきっと状況が変わると固く信じて。


 だが彼女の意識も癌に踏み荒らされ弱っていく中で彼は次第に摩耗していった。意志と執念だけが鋭く、ただ鋭く尖っていった。


 そしてあの夜。悪魔が目の前に現れ一方的に力を押し付けてきた夜。彼は視界を埋める光の奔流にも意識を失わず堪えきった。意志が限界を凌駕したのだ。どうしても確認しなければならないことがあった。


「私の、質問に答えろ悪魔」

「んー?」


 息も荒く鬼の形相を浮かべる彼に、悪魔はどこか愉快そうな様子だった。


「堪えぬくとは面白い。なんだい人間」

「お前が提示するその奇跡とやら、どの程度のことが実現可能なんだ……?」

「どの程度、か。そりゃまあ奇跡だからね。人の願える範囲ぐらいなら何でも可能さ。愚問だね。ああでも黒い白馬を出せとかは難しいけど」

「重篤な病を癒すことも可能か?」

「当たり前だろ?」


 悪魔は呆れた声で膝をつく彼を見下ろした。五個以上の眼球がぞろりと不気味にうごめいた。


「舐めるなよ人間。そのくらい朝飯前だ」


 その禍々しく恐ろしいまなざしを、彼は真正面から受け止めた。そして睨み。立ち上がる。


「引き受けた」

「お?」

「正義と悪の存在証明。私が成し遂げて見せよう、そう言ってるんだ」

「……いいね」

 

悪魔の口がにたりと歪み、それから一つ、付け加える。


「ただし。奇跡を手にする権利に浴することができるのは一人だけだ。最初に正義と悪を示した奴のみ。それ以外のクズは不要。邪魔なら蹴り落としちゃっても構わないよ」

「分かった。約束は違えるな。絶対だ」

「当たり前さ。まあ楽しみにしているよ」


 悪魔はその一言を最後にその場から消え失せた。


 彼に与えられた力。それは悪魔の目だった。見渡し覗き込み見抜く力。つまりは全てを暴く力。彼はそれを駆使してこの現実に戦いを挑むことを決めた。例えどんな手を使ってでも妻を救うと決めたのだった。


 目の力は静かで、それでいて悪質極まりない。異常なまでの透視能力によって見たものの性質をすべて分解解析してしまうのだ。物理量的なものから人であれば精神的なものまで。その中でも彼が特に注目したのが人間の弱さ(・・)だった。人間の秘密や弱みを引きずり出して利用する。これが彼の主戦術だ。


 目的は最終的に正義と悪の存在証明だが、その前にやっておかなければならないのは競合相手の排除だった。つまり自分以外の悪魔能力者の暗殺。目の力とそれによる戦術で完遂する。


 能力者の判別は簡単だった。どんなものも解析できる目が、ある二人の生徒だけは解析できなかったからだ。おそらく目の解析能力は能力者には効かず、なにも読み取ることができないのだろう。


 そういうわけで相手の情報は全くないに等しかったが、それは些細な問題だった。直接が駄目でも間接的に攻撃を加えればいい。そうやって使える手は全力で使った。そのつもりだったが、植木鉢の一撃もガス爆発もガソリン火災もどれも失敗に終わった。


 新たな手を用意する必要がある。今度こそ確実に二人を始末する手段。多少強引でも間違いなくゲームの盤上からはじき出すことのできる方法だ。


 時間はかかった。しかしそれでもあらかた準備を整えることはできた。校舎のあちこちへの仕込みは終わった。次で間違いなく仕留められる……はずだ。あともう二、三手深く手を打てば確実に。


 彼は何気なくいつものように教室の扉の前に立った。

 しかしこの時彼は完全に失念していた。悪魔の力は悪魔の能力者には効かないという事実を。いや忘れていたわけではないかもしれない。それでも迂闊だった。その特性を利用して敵たちに捕捉されるなどとは考えてもいなかった。


 結果、彼は藤井すみれとその力によって操られた生徒、それから平川真司の待ち受ける教室に無防備に踏み込んでしまったのだった。その止まった教室の中で、動いているのはすみれと真司と男だけだった。すなわちこの三人が力の所持者ということだ。


 そして男が忘れていたもっと重要なことは。自分が常に攻撃側にいられるわけではなく、逆転され追われる側になり得るという、その可能性だった。


「あなたが三人目の、悪魔の力の所持者だ」


 少女の静かな宣告によって、盤上の形勢が一気に入れ替わった。

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