マリアの信頼
この世界において、ケガをしても病気をしても治療法は一つ、それは『治癒魔法』と呼ばれる二種類の魔法である。
ケガをした部分や、痛みを感じる箇所に手をかざして『回復』の魔法をかける。
身体が弱ってしまっている時は、『病魔退散』の魔法で病気を身体から追い払う。
この二つの魔法を極めることが治癒師になる条件で、この二つを極めれば大半のケガや病気は治る。
これが世間の常識であり、リュウ自身も最初はそう思っていた。
しかし彼はこの世界で治癒師として経験を積むうちに、治癒魔法の本当の効果を知る。
『回復』
細胞を活性化させる魔法。
例えば切り傷にこの魔法をかけると、血液の中の細胞と皮膚細胞が活性化することでみるみる傷が治る。
『病魔退散』
全身の免疫力、抵抗力を強化する魔法。ゆえに体内の毒素が強化された抵抗力よりも強い場合は、治らない。
もちろん二つとも素晴らしい魔法である。
しかし、この二つだけで全ての病気は治せない。
例えば内臓が破裂してしまったら?
いくら細胞を活性化しても、さすがに破裂した内臓は戻らない。
例えば体細胞では殺せない種類のウイルスに感染してしまったら?
いくら魔法で抵抗力を強めても、ウイルスを殺すことが出来ず死んでしまうだろう。
それゆえリュウは、魔法以外の治療法と治癒魔法を組み合わせることで、より多くも患者を救おうと考える。
しかし、そんなことを出来るのはリュウしかいない。
なぜならこの世界の人々の中に、「魔法以外の治療法」など存在しないからだ。
しかしリュウはこの「魔法以外の医療」を熟知している。
5年前、彼は医療が当たり前に存在する国からこの世界に転生した。
そして元の世界でリュウは、現役バリバリの医師であった。
※
話はマリアの虫垂炎の手術前の時間に戻る。
マリアの母の説明によると、
・腹痛は2日前からで、当初から微熱があり現在はかなり高熱である。
・特に右わき腹あたりを押さえて痛がっている。
・病院に連れて行き、治癒師に『回復』の魔法をかけてもらったが、効果はなかった。
とのことであった。当のマリアは痛みからか意識が朦朧としている。
痛みの強い右のわき腹をゆっくりと押し、押す時と離す時のどちらに痛みを感じるか尋ねると、かすれた声で「はなしたとき」と返ってきた。
以上より総合して、リュウはマリアの症状を「重度の虫垂炎」と判断した。
右のわき腹を押した際、離す時の方が強い痛みを感じるのは「反跳痛」と呼ばれる虫垂炎の典型的な症状である。また右わき腹の痛みや発熱なども、虫垂炎の特徴に合致することから、病名は虫垂炎であると判断できた。
そして、虫垂炎とは先に言ったように虫垂が炎症を起こすことで発症する。
すなわち、炎症の段階ならば『回復』の魔法で十分に治せるのである。
にも関わらず、『回復』の魔法が効かなかったというのはどういうことか?
考えられるのは次の2点。
①診察した治癒師の腕が悪く、魔法としての効果がなかった。
②炎症が進んだことで虫垂が壊疽、もしくは破裂し『回復』の魔法で治せる領域を超えた
マリアの母がリュウに告げた治癒師の名前をリュウは知っていた。
その治癒師は腕も確かであり、人格的にも問題ない人物である……とすれば②の可能性が高い。
そして、虫垂が壊疽、もしくは破裂しているならばすでに腹膜炎を併発している可能性もある。そうであるならば、生命に関わる。
しかし、これをマリアの母が理解できるように説明するのは至難の業である。
そもそも彼女の頭の中に、腹を開いて中を治す、という治療法は存在しない。テレビドラマで江戸時代にタイムスリップした現代の脳外科医が最初に手術をした際に、患者の家族と揉めていたがそれと一緒である。
無許可で腹を切るわけにはいかない、しかしなるべく早く手術をしなければいけない。
迷った結果「手術とは、お腹を開いて中の悪い部分を直接治す、という方法です」とシンプルに説明したのだが、結果は失神というものだった。
「お母様!お母様しっかりしてください!」
リュウはマリアの母を激しく揺すり、声をかける。その声に母は意識を取り戻した。
「こ……この悪魔っ!」
『悪魔』、『人殺し』……この世界に来てからリュウが何度となく浴びせられた言葉である。
リュウも慣れたものでこの程度の罵声には眉一つ動かさない。もっとも最初は気の毒なほど落ち込んでいたのだが……。
「お母様、私はマリアちゃんを助けたいのです。マリアちゃんは『回復』の魔法では治せません」
「でも……そんな……お腹を切るなんて!」
「大丈夫です。腕を少し切っても死なないように、お腹を少し切っても死ぬことはありません」
「魔法で……魔法でなんとか治してください!」
「ベルツ先生の魔法でも治せなかったんです。娘さんの病気は魔法では治せません」
興奮している母親をさらに興奮させることのないよう、リュウはゆっくりと冷静な口調で諭す。
母親は娘の苦しそうな顔見て、そして悲痛な顔で黙り込んでしまった。
どうすれば娘を救えるのか、必死に考えているのだろう。しかし、現状娘が助かるには、目の前にいる悪魔のような治療法を囁く男にすがるしかない。
でも悪魔に娘を委ねる決意がどうしてもできない。
「……おかあさん」
掠れた声がベッドから聞こえてきたのはその時だった。
「だいじょうぶ……。せんせいがきっと……たすけてくれるよ」
「……!」
何が彼女にリュウを信じてさせたのか、リュウには分からない。
しかし、リュウは救われたような気持ちになった。必ずこの信頼には応えなければならない。
母親は口元を手で覆い、涙を流しながら娘を見つめる。
そして、再びリュウの方に向き直った。
「絶対……絶対マリアを死なせないと約束してください」
『絶対』
それはリュウにとって禁句だった。
もちろん常に「絶対助ける」という気持ちで治療する。
しかしいくら医者の腕がよくても、いくら最善の処置をしても、患者が死ぬ時は死ぬのである。
この世界に転生する前、彼が普通の医者であった時、彼は『絶対』という言葉を絶対に使わなかった。
しかし……
「分かりました。絶対にマリアちゃんを助けます!」
この世界に来て、彼の中で『絶対』は禁忌ではなくなった。
『絶対』と言わなければ誰も手術なんかさせてくれない。その結果失われた生命があった。
『絶対』に助けなければ、誰も信用してくれない。ゆえに彼には一度の失敗も許されない。
そんな壮絶な、それでいていつも通りの重圧の中で、マリアの手術は始まったのだった。