水神の呪い
この章は分量が多めです。登場人物も増えてきましたね……(>_<)
「ベルツ先生……そう上手くはいかないかもしれません」
リュウの小さな、そして真剣な声が病室に響く。
「……えっ?」
「カメリアさんは……やはり難しい状況だと言わざるを得ないと思います。もちろん、明日にでも意識が戻る可能性はあります。しかし場合によってはこのまま目覚めない、ということも考えられます」
「……詳しく説明してくれるか?」
ベルツ氏の言葉に、リュウは説明を始める。病室の中を、再び張りつめたような空気が流れ始めた。
「現在のカメリアさんの状態は、低酸素状態が続いたことに起因する急性意識障害だといえます。つまり、空気を長い間吸うことが出来なかったことによって脳の機能が低下し、意識を失っている状態だと言えます」
「……それはつまり、低下した脳の機能が戻れば意識が戻る、ということではないのかい?もう空気は十分吸えているだろう」
「確かに、脳の機能が回復してくれればカメリアさんの意識はすぐにでも戻ると思います。しかし、もしカメリアさんの脳の一部が既に死んでしまっているならば、なかなか回復は難しいと言わざるを得ません」
「脳が……死ぬじゃと?そんなことがあるのか?脳が死んでおれば身体も死んでしまっておるじゃろう?」
「そんなことはないんだ。脳の中でも一番大事な部分、“脳幹”と言われる部分が生きていれば、人は呼吸することが出来るし、栄養を与えられればそれを消化、吸収することも出来る。最悪、脳幹が死んでいたとしてもしばらくの間心臓は動き続ける。もちろん脳幹が死んでいれば自分で呼吸も出来ない状態だから何もしなければすぐに身体も死んでしまうがな」
少し話がそれるが、これが「脳死」と「植物状態」の違いである。
「脳死」とは脳の中枢といえる“脳幹”も含めた全ての脳の機能が停止した状態のことを指す。「脳死」状態になると、呼吸は停止し脳波も平坦になる。この状態になると、現代の医療で治療することは不可能であり、言い方は悪いが完全に「機械に生かされる命」となってしまう。
一方で「植物状態」の場合、脳幹の全部もしくは一部が生きているのである。脳幹は自律神経やホルモンの調整を行う器官であり、ここが無事である以上、呼吸や消化などを自力で行うことが出来る。さらには刺激に対して反応したり、目を開けてキョロキョロとあたり見回したり、声を発することもある。また「植物状態」の場合、損傷していた脳幹以外の部分が回復するなど意識が戻る可能性もある。
「カメリアさんは自分の力で呼吸をすることが出来ているから、少なくとも脳幹の機能は生きている。だけど半日以上意識が戻らないことから、何かしら脳が損傷を受けている可能性が高い。それはすぐに回復する程度のものかもしれないし、二度と意識が戻らないほど重症な可能性もある」
リュウの言葉にベルツ氏もアダルジーザも暗い顔をして口をつぐむ。そんな中、沈黙を破ったのはソフィアだった。
「……なおせる?」
「……こうすれば治る、という治療法は……残念ながら無い。頭に『回復』の魔法をかけながら回復を待つしかないな。」
「死んでいる脳が『回復』蘇るのか?」
「言葉足らずだったな。とりあえず……脳が損傷を受けて、機能を停止している状態だと理解してくれ。本当に脳が死んでしまっていて、もはや回復しないこともあるし、停止しているだけで機能が回復する可能性もある、という感じだ」
「なるほど……機能を停止しているだけならば『回復』によって再び動きだすという可能性がある。一方で脳が死んでしまっているならば、残念ながらいくら『回復』をかけても意識が戻ることはない、ということだな?」
「そういうことです。あと、脳は場所によって働きが違います。だから、脳の一部分だけが回復して意識を取り戻しても、他の部分が回復しなかった場合、身体に障害が残ることも考えられます」
「障害……?」
「例えば半身がマヒしたり、言葉が出にくくなったり、といったことですね。どの部分が損傷するかによって出てくる障害は変わってきます」
「……いずれにせよ厳しい状態、というわけだな。リュウ君の見立てでは、早期回復の可能性はどれくらいある?」
「こればかりはなんとも……正直予想がつかない状態です」
「長くかかることも十分にある……と?」
「そうですね……」
「そうか……マズイな」
長期の治療となると栄養管理などが難しくなってくる。また、身の回りの世話など親族にかかる負担も大きなものになる。まして彼女は孤児院を支えている人物だ。彼女が長期間いないとなれば子供達の世話をする人も探さなければいけない。確かに長期の治療は厳しいな、とリュウが考えていると、ベルツ氏から予想もしていなかった話が飛び出してきた。
「実は……カメリアさんの姓、モールというのは彼女の母上の姓なんだ。彼女の父の名はアルバーノ・ミルネタ。……現ミルネタ伯爵だ」
「……はっ?」
あまりのことにシルベスト病院一同、口を開けたまま固まってしまう。
「彼女の母は……クリスティナさんはいわゆる妾という立場の女性だった。それ自体はそう珍しいことではないんだが、クリスティナさんは義理堅い人でね……奥様よりも先に身籠ってしまったことをたいそう気にかけていた。仮にその後、奥様に子が授かったとしても当然カメリアさんの方が年が上になる。その場合に、良からぬことを考える連中が、カメリアさんを担ぎ上げて後継者争いを始める可能性を憂慮していたんだ」
この世界において、長子が家を継がなければならない、というルールは存在しない。それぞれの家の当主が後継者とする者が次期当主となる。そこには生まれた順も、男女の別も関係ない。あまりないケースではあるが、正妻との間に出来た子があまりにも能力に欠けると判断された場合に、妾の子が次期当主になるケースも無いわけではない。平たく言えば、後継者には誰でもなれる、それゆえに後継者争いが起きてしまう。今回のケースでいえば、例えば「妾の子とはいえどもやはり長子が後を継ぐべき」といった主張を捻り出してカメリアを次期当主に担ぎ上げ、彼女が後継者争いに勝たせることで自分も要職に就く、といったことを考える輩が出てきてもおかしくは無い。
「そうはいっても万が一奥様に子供が出来なかった場合、カメリアさんも大事な世継ぎ候補の一人だ。そもそも妾には確実に領主の世継ぎを残すため、という意味合いも含んでいるわけだからね。実際、その後4年間ミルネタ伯爵に子供は出来なかった。さらに言うならばミルネタ伯爵はもちろん、奥様もカメリアさんを大切に大切に育てたらしい。これはひとえに奥様とクリスティナさんの人柄だろうな。こうして、伯爵の周辺でも『カメリアが次期当主になるのでは』という空気が広がってきたタイミングで、奥様に子供が出来たんだ」
「なるほど……一度そういう空気になってしまった以上、後継者争いに担ぎあげられる可能性が高い、というわけですか。分からなくはないんですが、カメリアさんはまだ4歳とかですよね?考えすぎな気もするんですが……」
「私もそう思うよ。もっと言えば、カメリアさんを生まれてくる奥様の子に仕えさせると明言することで、カメリアさんを担ぎ上げようとする輩を牽制することも出来たのではないか、とも思う。まぁ何はともあれ、結果としてクリスティナさんは、奥様の子供が無事に産まれて、落ち着いたタイミングで伯爵家を出た。それ以降は、孤児院を経営しながらカメリアさんを育て上げ、カメリアさんが18歳の時に病気で亡くなった、というわけだ」
「……」
ベルツ病院の一室を、沈黙が包む。当のカメリアは、いまだ眠ったように静かに横たわっている。
「このことはくれぐれも内密にして欲しい。私は何度か伯爵家まで出向いて治療する機会があったからこの事実を知ることになったんだが、クリスティナさんが伯爵家を出る際に、くれぐれも彼女達の身の上を他の者に明かさないことと、彼女達を陰ながら支援することを伯爵から依頼された。その約束は守らないといけない」
「よかったんですか……私たちに話してしまって?」
「正直に言わせてもらうと、かなり迷った。しかし、カメリアさんが意識を取り戻す様子がないことを見て、決断した。すでに伯爵家にはカメリアさんが水難にあって意識不明だという旨の連絡をしてある。明日、伯爵家の人間がこちらに出向くということらしいが、どうなるか私にも予想がつかない。もし『意識が戻らない原因が分からない』などと言えば、それに付け込んで彼女を害そうとする奴らが身元を引き受けようとしてくるかもしれない。私としては、それはどうしても避けたかった。そしてそのためには、彼女の病状を正確に分かりやすく説明できる人物が必要だ」
「なるほど……つまり明日伯爵家の方がいらした時に、私も説明の席にいればよろしいのですね?」
「よろしく頼む。私では細かい病状について質問されれば答えられないかもしれないからね。あとは出来るだけ私の元で治療できるよう説得してみるよ」
そういうとベルツ氏は、少し疲れた顔で微笑んだ。
※
朝が来た。しかし、カメリアの様子は何も変わらなかった。ローテーションを組むことで、それぞれが睡眠時間を確保しながら夜通しカメリアを看ていたが、幸いなことに容態が悪化することはなく、そして残念なことに意識が戻ることもなかった。
「よし……<回復!>」
朝一番で、リュウが回復の魔法をかける。大脳と小脳、それぞれの機能が回復するように脳細胞を活性化させることをイメージしながら、魔力を集中させる。しかし、魔法をかけ終えてもカメリアの様子に変化はなかった。
「ダメか……気長にやるしかないですね」
「うむ……だけどこのままだと彼女の体力がどんどん落ちていくんじゃないか?飲まず食わずの状態が続くわけだし」
「そうですね……ひとまず水分補給については早急に処置します。もうすぐ帰ってくるはず……」
「せんせ!もってきた!」
「おっ!おかえり。ありがとうな」
息を弾ませながら戻ってきたソフィアを「よしよし」と撫でると、気持ちよさそうに目を細めた。
「ほう……これは……なにかな?」
「これは『点滴』と呼ばれる装置です。端的言えば、この針を通して血管の中に水分などを補給するためのものですね」
「……これまたなんとも奇妙なことをするんだな」
我ながら大雑把な説明だとリュウは思う。しかし点滴の仕組みについて説明すると、かなり時間がかかってしまう。特に、我らが親方コニーとリュウが血を吐くような思いで調整した際のこと(大人なら15滴で1mℓになるようにする……しかしmℓという単位がこの世界には無い!)などを熱く語ってしまいそうになる。今はその時ではない。
「せんせ。じゅんびできたよ?」
「よっしゃ!……やってみるか?」
「……!」
注射、点滴の練習なら何度もした。その度にリュウの腕が犠牲になってきたのだ。今こそその犠牲の対価が結実する時なのである。
「意識は無くても痛みは感じていることもある。しっかりやるんだぞ?」
「……わかった」
緊張の一瞬……ソフィアは顔を真っ赤にし、息を止めながら点滴針を静脈に向けて刺す。血管を突き抜けてもいけないし、浅すぎてもいけない。場合によっては血管を破ることもある。これらは、リュウのいた世界ではほとんどの研修医が経験する失敗であり、当然ソフィアもリュウの腕を使って経験していた。
外筒と呼ばれる、針を覆う柔らかい管が血管まで達したことを確認し、針を抜く。すると、外筒を通って血が噴き出してくる。そこに点滴を繋いでやり、しっかり落ちるかどうかを確認して……
「で……できたっ……!!」
「よし!えらいぞソフィア!完璧だ!」
解放感と達成感で、ソフィアは涙を流して喜んでいる。やはり患者さんの腕に点滴をうつのは緊張したのだろう。穴だらけになったリュウの左腕も喜んでいるはずだ。
「とりあえずこれで水分は大丈夫です。あとは栄養ですが……こちらで準備します」
「分かった。また準備ができたら、どのようにして行うかを教えてくれ」
「分かりました」
ひとまず朝の処置が終わり、一同は食堂へと向かう。ベルツ病院には住み込みの弟子が何人かいるため、共用スペースである食堂は広い。ちなみに、ベルツ氏自身は隣にある自宅で生活している。弟子達が用意してくれた朝食にありつこうとリュウ達が席に着いた瞬間、ドアを叩く音がした。
「ごめんください!ベルツ先生はいらっしゃいますか?」
「ふぅ……のんびり朝食も食べられないな」
ベルツ氏は苦笑いを浮かべながら席を立ち、玄関の方へと向かう。何事が話している声が聞こえたかと思うと、急ぎ足で戻ってきた。
「リュウ君……厄介なことになった」
「……どうしたんです?」
「フィオーレ教会から使者が来た。どうやらカメリアさんが水難にあったと聞きつけたらしい」
「なっ……!?」
カメリアは教会からの呼び出しに応じて出掛け、何者かに魔法で眠らされたうえで川に捨てられた。教会からの呼び出し状は、カミーユも確認しており本物であったとのことだ。単純に考えて、教会関係者が彼女を殺そうとした可能性は十分にある。もちろん証拠は無いし、教会の名を語った第三者の犯行の可能性もあるが、それでも教会の人間をカメリアに接近させるのは抵抗がある。
「カメリアさんは信心深く、常に教会に祈りを捧げに行っていた。しかも彼女は孤児院を経営し、恵まれない子供達を助ける、という善行も行っていた。そんな彼女が事故にあったとなれば、何もしないわけにはいけない。少しでも手助けがしたい、とのことだ」
「断るに断れませんね……。とりあえずアダルジーザを起こしてきます。エルフの目があれば、何か良からぬことをしてきたとしても阻止できるでしょう」
「そうだな。私はとりあえず彼らを客間に通しておくよ」
二階で寝ていたアダルジーザを叩き起こす。「レディなのだからもう少し優しく起こせ」とのたまうアダルジーザに、「着替えたらさっさと来い」と伝えて、一足先に病室へと向かう。すると程なく、話し声と足音が廊下から聞こえ来た。
「それではこちらへどうぞ。……彼が先ほど申し上げたリュウ・シルベスト先生です。腕も良く、勉強熱心な先生で、いつも協力してもらっています」
病室の入り口に人影が3つ現れる。一人はベルツ氏で、あとの二人は見知らぬ顔だった。
「シルベストです。朝早くからお疲れ様です」
「これはご丁寧に。フィオーレ教会司祭、アンドレ・デュナンと申します。こちらは2等治癒師のシスト・フェルミです。教会所属の治癒師で、3月程前からこのミルネタ伯爵領に赴任してきております」
「シスト・フェルミです、よろしくお願いします」
フェルミと呼ばれた男が一礼し、こちらに顔を向ける。煌めく金髪に淡いブルーの瞳、彼はエルフだった。
実はエルフの治癒師は非常に珍しい。治癒師として開業するには、教会が行う試験を受けて資格を得る必要があるのだが、これを受けるエルフがほとんどいないのである。他に割のいい仕事があるからか、それともわざわざ試験を受けるのが面倒臭いからか……理由は定かではないが、とにかくエルフの治癒師は珍しいのである。
「ありがとうございます。しかし……失礼ですがなぜフィオーレ教会の方が?フィオーレ教会といえば言わずとしれた大教会。言葉は悪くて恐縮ですが……一個人の病気の治療にわざわざ出向かれることなどあまり無いと思いますが?」
あからさまなリュウのカマかけに、ベルツ氏の顔が一瞬歪む。しかし教会から来た二人は、全く表情を変えず、挨拶をしたときの和やかな表情を崩さなかった。
「おっしゃる通りで、フィオーレ教会はその位置づけから伯爵領の教会の統括や伯爵様との協議などの仕事を主としており、個人の救済には手が回らないのが現状です。しかし、本来我らは人々に寄り添うべき存在。病に苦しむ方がいれば、その方を神のご加護たる魔法の力で助けたて差し上げたいと常に願っているのです。私はその一助が出来れば、と考えております」
思わず見惚れてしまいそうになる笑顔で語るフェルミに、デュナン司祭が続く。
「しかし、残念ながら教会としても全ての悩める方を救うには手が足りません。実を言うと、この度こちらにお邪魔させていただいたのも、事故に逢われたのがカメリア・モールさんだったからです。彼女は教会で修行こそしていませんが、敬虔な信者で、さらには教会では救い切れない貧しい子供達を養う、という善行を行ってらっしゃる方です。彼女のことを“金色の聖女”と名付けたことは私の誇りです。ですからカミーユさんから彼女の悲報を受けた際は非常に驚き、そして悲しみました。人の命に優先順位は無いですが、それでも教会としては絶対に失いたくない方なのです」
二人の話を聞いて納得した表情を浮かべていたリュウだが、内心では大いに訝しんでいた。
(この話が本当なら……教会は彼女を“金色の聖女”なんて名前を付けてマスコット扱いしていた。そんな相手をわざわざ殺そうとするか?彼女が孤児達を絶対に信者にならないように教育していた、とからなら分かるけど、それならもっと早くに目をつけられていただろうし……。可能性としては、教会にとって急に孤児が必要になった、ってところか?)
表情を変えずに思考をフル回転していたリュウの耳に、爽やかな春風のような声が届く。
「しかし……どうやら私にも治療は難しいかもしれません。どうやらカメリアさんは、『水神の呪い』にかけられてしまったようですね」
フェルミがその秀麗な顔を少し歪めながら静かに語り始める。
「彼女は水の神に魅入られたのでしょう。もはや彼女の中に魂は存在していません。意識が戻らないのもそのためでしょう……。残念ですが、彼女の身体を魂のある場所に還してあげるのが一番よいかと思います」
その発言に、リュウの身体が震える。
「それは……つまりはカメリアさんの身体を川に沈めろ、ということですか?」
「お気持ちは分かります。しかし……魂と切り離され、身体が苦しんでいる様子が私には見えるのです。エルフには人よりも様々なモノが見えることはあなたもご存じでしょう?」
フェルミは沈痛な顔で瞳を閉じる。
「ほぅ……最近のエルフは魂の有無まで分かるようになったのじゃのう」
声が聞こえたのは、その時だった。
次話で伯爵家の人間が登場します。三つ巴の攻防になってしまうのか……?