冒険者とその先へ・2
「おかえり」
もう一度言って、足元に放られた荷物に手を伸ばし、気がついた。
上衣こそ濡れてはいないものの足元は膝までズボンの色が変わり、泥も跳ねていた。息も乱れてはいないが、短く切って整えられた栗毛からは雫がぽたりぽたりと垂れていた。
「…カサ、差さなかったの?」
「ん? ああ、少しの距離だったしな」
カラカラとレスカトールは濃青の双眸を細めて笑うと、シュウが持ち上げた荷物をひょいと手に机に向かう。机に置くかわりに椅子を引き出し腰掛けた。
「聞いたよ」
ふぅと嘆息すると彼はそう切り出した。
どこか寂しそうに、腹を括ったんだなと問われ、シュウは肯定し、
「この十二年ずっと待ってて、レスカたちにも探してもらってそれでも無理だったんだし。そろそろ、そろそろこっちで生きる覚悟も必要かなーってさ。やっぱり僕が『山本修司』だってことは捨てられないし元の世界のことだって忘れられるわけはない。それに母さんがくれた『修司』って名前は僕の本質を表すものだと思うから捨てちゃいけないんだろうけど」
くすくすと笑って言ってみせる。
この世界での名を得ることは、元の世界への未練を断ち切るある種の儀式のようにシュウは感じる。
「後ろばっかり見てても、ユリスやレスカたちに申し訳ないし。いい加減前を向いて歩いていきたいなって」
笑って告げるシュウにレスカトールはどう考えたのか、うーんと唸って口元に右手の指を持っていく。折り曲げられた指を唇にあてるその仕草は、彼が何かを考えている時だとシュウは知っていた。
「どうかしたの?」
「ああいや……。せっかく前向きになったのにな、と」
言いにくそうに言葉を濁す青年に、シュウはああと頷いた。
レスカトールは知っている。かつて絶対に戻らないとだめなんだと、泣きながらも訴える姿を。元の世界へ戻ることを切望していたことを。
それを知っているからこそ彼と彼らは世界を巡りながらイスターシャである彼が戻ることができる術を探している。
だから、
「聞く」
シュウは即答するのだ。依頼を受けて世界を駆け巡る彼らが、僅かな時間の合間に探してくれていたことを。
レスカトールは目元を和ませると、
「……シアネドが耳にしたって」
と口を開いた。彼の仲間で、魔術が得意な男だった。
「レクナーの研究塔まで魔術師を護衛してたんだ。道中には魔力に惹かれ集まった飢えた魔物がいるからね。その道程で依頼主が言ってたんだと。『レクナーの聖域の奥深く、魔王が持っている本に世界を渡る方法が書かれている』ってさ。その情報源をはっきりさせられなくってヒューが調べてる最中なんだ」
レスカトールは魔王の一単語を口にした際、僅かに眉をしかめた。
それに気がついたシュウは、シュウは乾いた笑いを漏らす。
脳裏に思い浮かぶのは、顔がぼやけ声も曖昧になった家族の姿なのだ。
「……魔の王といえば世界の守護者だ。彼らを表す単語は軽々しく口にできない。まして魔術師だったからな、口にしたっていうのは、可能性があるってことだと俺たちは思う」
レスカトールは深く溜息を吐いた。
「最大の問題は、許可無く聖域に入ったら殺されかねないってことなんだけど」
「だよね……」
シュウも苦笑するしかなかった。
レクナーと呼ばれる大陸はその地表の七割を森林や山が占める。
気が遠くなる程昔の契約により人は許可された一部の土地を除き森や山へ立ち入ることができなかった。許された場所以外を人は聖域と呼び、立ち入りを厳しく制限してきたのだった。
「最近は緩くなってきたらしいけど、まぁ許可がおりるかと言えば」
「その時は仕方がない。ついさっきまで前向きにとか言ってた人間のセリフじゃないけど、家に帰るのを完全に諦めたわけじゃあない」
「……どうする?」
濃青の瞳はまっすぐにシュウの姿を映し出していて。
「連れて行って。レスカトールたちの邪魔にならなければ」
「了解」
返答にレスカトールの濃青の瞳が楽しそうに煌めいて。
「依頼主の願いを叶えるのが俺たち冒険者だ。安全かつ絶対に、望みの場所までお連れいたしましょう」
芝居がかった口調で、楽しそうにそう言った。
「と、言ったものの組合に通しとかないと面倒か」
レスカトールは壁掛けの暦を見やり、ダル、トウェン、ミア――と口にしながら何かを計算し始める。
「難しそう?」
「いや。単純に俺たちの手続きの問題。冒険者組合への通知がないと後々面倒。あとはそうだな、移動手段の確保。転移門にせよ空海路にせよ、使用許可証に入国許可もいるし」
「そんなにあるんだけど、僕がレクナーに行ったときは簡単だったよ?」
自身が行った時を思い返しても何かの手続きで時間を取った記憶もなかった。シュウが隣の大陸へ渡ったのは彼自身の思いつきでしかなく、何かの手続きを事前に行なったということはありえなかった。行きたいと口にしたその翌日、シュウはユリスに連れられてその日のうちに記念館に向かえたのだから。
レスカトールの挙げた必要項目に驚いたと伝えると、彼は納得したようにひとつ頷いた。
「それはシュウがイスターシャだからだ。イスターシャの、異世界からの来訪者への手厚い対応は知ってるだろう?」
それだけ言うと、レスカトールはそろそろ行くよと立ち上がる。
「準備して日程早く伝えるようにする。それじゃ近いうちに、また」
「うん。いつもありがとう」
ひらひらと手を振れば、レスカトールも頬を緩め笑うと同じようにひらりひらりと手を振り、彼は宿を後にした。
「…………」
ぱたんと扉が閉まっても、シュウはひらひらと手を振り続け、溜息を零すとその手をだらりと下ろしたのだった。