キーダルフにて・4
『ええっと、ごめんなさい、なんて言ってるの』
『あ、ごめん。ちょっと、色々と驚いてて』
『山本さんにお聞きしたいのですが、ここはどこですか? 言葉は通じないし……』
不安そうな少女ユウリに、シュウは言葉を詰まらせ視線を彷徨わせる。
言うだけなら簡単なのだ。
ここは地球でも日本でもない違う世界だ、と。
けれどそう言ったところで誰が信じようものか。
何より懸念しているのは、シュウの日本語能力だ。
せいぜいが八年程度。母語とはいえ語らう相手もなく語彙能力なんてたかが知れている。
今でも頭の中で反芻しあっているか不安に思いながらの会話を行っているくらいだ。
『大丈夫ですか……?』
『ああ、うん。心配かけてごめんね』
沈黙するシュウを心配するようなユウリに笑いかけて、それからコホンと咳払い。
『ここは日本じゃないし、多分地球のどこでもない。ここの人は、えーっとシルエスト・アーレイアって呼んでいる場所で、それで日本なんて地名は誰も知らないんだ。信じたくないならそれはユウリの勝手だけど』
一息に吐き出して、疲れたと小声でつぶやく。
『……本当に?』
『夢とかドッキリ企画とかだったら、幸せだよね』
答えて、たどたどしい一音ずつ発音を確かめるような話し方で説明を重ねていった。
言葉も歴史も文化も違う世界であること。
頻繁ではないが一定の間隔で、シュウやユウリのように他の世界からこの世界へ迷い込む人間がいること。
そういった人間は、出身地を問わずひとまとめに<イスターシャ>と、日本語で言うならば「言葉の通じない者」と呼ばれ、現代においては手厚く保護されることを。
『うまく説明できなくてごめん。状況はわかった?』
『言いたいことは、だいたい。つまり、アリスとかナルニアみたいな感じなのでしょう? 霧の向こうは不思議な世界でした、って』
『うん、それに近い!』
兎を追ってきたわけではないけれど、雰囲気的には似てるなと、そんなことを考えた。
『それじゃあ、携帯も通じないか』
ユウリは手元の携帯に視線を落とすとため息をつく。
白い外観の携帯は折り畳み式のもので、閉じたそれを握る手が少し白くなっていた。
顔色も少し悪い。どこか落ち込んでいるようなそんな雰囲気だった。
『これから、どうなるのかな』
『……とりあえず、なんていうのかな、身元? の登録かなぁ。今はだれかわからない状態だし』
『山本さんは?』
ふいに呼ばれて、シュウははにかんだ。
こちらに来てから、山本と名字で呼ばれたことがほとんどないからだ。
『ぼく? ぼくは』
口を、開いた時だった。
ノックと共に入室許可を求める聞きなれた声。
『ごめん、ちょっとまってて。ツァーレ』
どうぞと呼びかければ、遠慮がちにレスカトールたちが入ってくる。
一番最後に部屋に入ったのは、あの青年だ。
「お疲れ様、大丈夫だった?」
「一応なんとか無事に、ね」
シュウの言葉にシアネドは肩をすくめて答える。
他の面々も皆疲れたような表情を浮かべ、解放されたことにどこかほっとしている様子だった。
ユイファンは二人掛けの椅子に真っ先に腰をおろし、ぱっと顔を輝かせクッキーに手を伸ばすと、「疲れたねぇ」とユウリへ話しかけた。
それを見てレスカトールは座ろうと促し、使用人が持ってきた予備の椅子に件の青年が腰かけ、ユウリの正面にシュウが、その隣にレスカトールとシアネドが腰かけた。
使用人は紅茶を配ると退席していった。
事情聴取に参加しなかった二人のイスターシャのために、各々簡単な自己紹介をし、シュウはユウリのために日本語に通訳した。
頭に怪我をしていた青年はカザリ・エストゥールという名で、シアネドと同じ精霊を使役する魔法使いなのだという。最初に出会ったときに身に着けていたくすんだ赤色の布帽子は、今は鞄の上に投げ置かれている。シュウよりも少し明るい黒髪に、黒に近い蒼色の瞳をしている青年で、左目の下に刻まれた刺青が白い肌で異様な存在感を示していた。
「あの騒ぎの調書の件についてはまぁ宿で報告する。お咎めも何もなく無事に終わったよ」
シアネドは簡単に、取り調べはおわったことを告げ、それから興味深そうに瞳を細め、ユウリへと視線を向ける。
「それよりも、そっちのイスターシャの問題のが先だ」
シアネドの視線の先ではユウリが俯いて座っていた。
「保護の件だよね」
「そういうこと」
保護されたイスターシャは、通常シューデの町へ向かい、そこでイスターシャとしての登録を行う。それにより、イスターシャであると身分を証明され、各種恩恵を受けることができる。
シアネドが言うのはその手続きのことだ。
『さっきの身分登録のこと? 戸籍みたいなもの?』
『今だと誰かわからないから、外国に行けないんだ。だから、登録する。多分、ユウリの言うのが近いと思う』
簡単に翻訳してやれば、わかったとユウリは了承する。
それを皆に伝え、ユウリと冒険者たちとの間を通訳して取り持ちながら、明日朝一番にカザリがユウリを連れて出立することを決定した。
「それで、だ」
口を開いたのはカザリだ。
予備の椅子に座った彼は、腕を組みため息交じりに通訳の一時停止を求め、続けた。
「通例だったら、この場にいる人間だと俺がその子、ユウリだっけ? 彼女を連れて行くのが筋なんだけど、今回はその言葉が通じてるから」
「つまり、どうせ手続き終わるまで長くても三日くらいでしょ? 意思疎通できる人がそばにいると安心するだろうし、手続き終わるまで同行しませんか? っていうお伺いなのよ」
どうかしらと、斜向かいにすわったユイファンが小首をかしげる。
「あくまで俺らの意見なんだけどね。その点は全部シュウの判断に任せる、お前だって早く聖域に行きたいだろうし」
レスカトールは、くしゃりとシュウの黒髪を撫でて笑う。
「なーんだ、そんなこと」
見知らぬ世界に放り出された、その不安をシュウは良く知っている。
はじめて日本語を見かけたときの感動も、絶望も。
シュウは泣いたのに、取り乱すそぶりを見せない少女が、内心不安には思っているであろうことも。
「もともと僕は同行するつもりで話してたよ。だから当然一緒に行くよ」
今更だよと付け加えてけろりと笑う。
言葉の通じない心細さなんて味わいたくはない。
だからこそ、もうひとりのイスターシャに同行することを承諾したのだ。