『言葉の屑拾い』
締切という名の断頭台が目前に迫った夜のことだ。私は駅前の煤けた硝子箱――すなわち喫煙所の片隅で、「言葉の屑拾い」と称する奇妙な男に遭遇した。
男は、何十年も使い古したような革鞄を小脇に抱え、まるで路傍の石ころでも愛でるかのような手つきで、虚空を撫でていた。彼の指先が宙を掻くたび、そこには見えざる蜘蛛の糸のようなものが絡みつく。彼はそれを、和紙を扱うように丁寧に折り畳んでは、鞄の闇へと吸い込ませてゆくのだ。
「貴様、そこで何を拾っている」
紫煙の向こうから私が問うと、男は歪な笑みを浮かべた。その笑声はあまりに希薄で、笑いという概念の抜け殻のようだった。
「あなたが捨てた言葉ですよ」
捨てた言葉。そんなものが、この薄汚い駅前の雑踏に沈殿しているというのか。
私は小説を書く。来る日も来る日も、身を削って文字を吐き出し、それを捏ね、あるいは切り刻み、屑籠へ放り込む。捨てた言葉ならば、確かに屍の山を築くほどあろう。だが、それが亡霊のように街を彷徨っているとは、いささか詩的すぎる冗談だ。
男は私の懐疑を冷ややかに見透かし、鞄から一枚の紙片をつまみ出した。白紙ではない。そこには既に、見覚えのある筆跡で文字が躍っていた。
『彼女の眼は、凍てついた冬の湖面の如く――』
その一文を目にした刹那、私は全身の血が逆流するごとき羞恥に襲われた。
それは確かに、数日前に私が書き、そして抹殺した一行だ。削除キーひとつで虚無へ葬り去ったはずの、あの忌々しい比喩だ。
「回収するのです。消された言葉は、行き場を失ってこの街の隙間に澱む。誰かが拾わねば、別の誰かの口腔へ滑り込む。するとどうです、その人間は、その言葉を自らの思考が生み出したものだと信じ込んでしまう」
男は紙片を鞄に戻しながら、事も無げに言った。
「盗作という現象は、案外そうして起こる。悪意などない。ただ、漂流してきた言葉が、他人の舌に馴染んでしまうだけのこと」
喉が焼けるように渇いた。灰皿の中で、誰かの吸い殻が、最期の呼吸のように赤く明滅している。
「では、貴様は盗作を未然に防ぐ防波堤だとでも言うのか」
「いいえ。私は言葉を『返却』するだけの商売です。本来の持ち主にね」
「持ち主……」
「あなたです」
男の眼窩の奥が、暗く光った。それは、私が私自身であることを証明せよと迫る、尋問官の眼差しだった。
帰宅後、私は机にしがみついた。締切は午前九時。呪いのように刻一刻と迫る。
私は書きかけの原稿を開く。だが、液晶画面に映る文字の羅列が、酷く薄っぺらな記号に見える。硝子一枚隔てた向こう側に、私の文章がある。触れられない。温度がない。
カーソルを動かすと、あの一行だけが、生々しい傷口のように脈打った。
『彼女の眼は、凍てついた冬の湖面の如く――』
消したはずの一行。屑拾いが持っていたあの言葉。
息を詰め、続きを紡ごうとする。指が石化する。言葉が出てこない。いや、身体が拒絶しているのだ。その一行は『私の言葉ではない』と、私の細胞が叫んでいる。
私は悟った。あの一行を消したのは、比喩が拙劣だったからではない。書いた瞬間、その表現を「どこかの誰かから借りてきた」ような、薄気味悪い既視感に襲われたからだ。だから消した。潔癖さゆえではない、恐怖ゆえに。
借り物の言葉。拾った言葉。手垢のついた言葉。
私は巨大な問いに捕縛された。
――私の言葉とは、一体何だ?
暁闇の頃、私は憑かれたように駅へ走った。屑拾いがいるなら、今しかない。街が覚醒し、言葉が人々の雑踏に紛れてしまうその前に。
喫煙所に、男はいた。相変わらず亡霊のように空気を撫でている。
私は駆け寄り、その鞄をひったくるように掴んだ。
「返せ。俺の言葉を、すべて」
男は抵抗しなかった。むしろ慈悲深い僧侶のように、静かに鞄を開いた。
中には、夥しい数の紙片が詰まっていた。メモ帳の切れ端、レシートの裏、付箋。どれにも文字が走り、どれもが私の筆跡で記されている。
私はそれらを、賭場の札のように冷たいタイルの上へぶちまけた。私の捨てた言葉たちが、星座のように路上に散らばる。
そして私は戦慄した。
そこに転がる言葉の多くが――全く身に覚えのない内容だったのだ。
『僕は海に恋をしたのではない。海という響きに恋をしたのだ。』
『謝罪に疲弊した人間は、まず呼吸を止めることを選ぶ。』
『君が笑うと、世界が少しだけ“赦された”ような錯覚に陥る。』
書いた記憶などない。だが、筆跡は紛れもなく私だ。
混乱と恐怖が入り混じり、私は男を睨みつけた。
「これは、俺が捨てたものではない」
男は首を傾げた。
「あなたが捨てましたよ。あなたが『書き』、そしてあなたが『消した』。放棄したのはあなただ」
「覚えていない。こんな文章、書いたはずがない」
「覚えていないのは、あなたがそれを『自分の肉声ではない』と判断し、無意識の淵へ蹴落としたからです」
その宣告は残酷だった。私の中に検閲官が住んでいて、私という人間から真正な言葉を奪い続けているというのか。
「ならば……何が自分の言葉で、何がそうでないか、どうやって決めるというんだ」
屑拾いは鞄の底から、最後の一枚を取り出した。それは紙ではなく、薄刃のカミソリのような金属板だった。文字は刻まれていない。だが、私が覗き込むと、鏡面から脂ぎった文字が浮き上がった。
『あなたの言葉は、あなたが痛みを覚える場所にこそ宿る。』
私は息を呑んだ。その文字は、視覚ではなく、直接神経に突き刺さってきた。
「痛みを、覚える場所……?」
「あなたが守りたいと願う柔らかな場所。触れられたくない古傷のある場所。そこから滴り落ちた言葉だけが、あなたのものです。逆に言えば、痛みを伴わぬ言葉はすべて拾い物だ。いかに巧みで、美辞麗句で飾られていようとも、それは誰のものでもいい、空虚な音に過ぎない」
私は乾いた笑い声を漏らしそうになった。そんな単純な試金石があるなら、文学などという苦行はもっと容易いものだ。だが同時に、腑に落ちる恐怖もあった。傷口を抉らねば、己の言葉は手に入らないというのか。
「痛い言葉を書けば、どうなる」
男は静謐な声で告げた。
「あなたが、あなたの所有者になれるのです」
その日、私は締切を破った。編集者からの催促の電話が十数件、着信履歴を埋め尽くしたが、私は無視した。
部屋に籠もり、持ち帰った紙片を机の上に広げた。ひとつ拾うたび、心臓に小さな針が突き刺さる。読むたび、かつて私が殺した「過去の自分」が、恨めしそうに私を見上げる。
夜。私は紙片の山と対峙し、選別を始めた。
巧拙ではない。痛いか、痛くないか。それだけだ。
痛みを伴うものだけを残し、痛くないものは容赦なく捨てた。
手元に残った紙片は、驚くほど少なかった。だが、その少なさこそが、逆説的に信頼の証だった。
それから私は、残った紙片を並べ替え始めた。それは物語を構築する作業ではない。傷跡の縫合順序を決める手術だった。
私はその夜、初めて理解した。「書く」という行為は、創造ではなく、排膿に近いのだと。書くとは、内なる痛みを外へ引きずり出し、それに名前を与え、孤独という牢獄から解放することだ。
三日三晩ののち、一篇の短編が完成した。題名は『回収』。
編集者へ送ると、返答は即座に来た。
――これは売れます。いや、売れる売れないの話ではない。読まれるべきだ。読まれなくては困る。
私は画面を見つめた。賛辞であるはずのその言葉が、どこか恐ろしかった。「読まれなくては困る」。それはつまり、私が読者の傷口に指を突っ込むような、共犯関係を結ぶ文章を書いてしまったということだ。
それ以来、私は駅前へ足を運んでいない。あの言葉の屑拾いが何者だったのか、知る由もない。
けれど時折、街を歩いていると、ふと空気の中に、自分の捨てた言葉の残骸が漂っている気配を感じることがある。
その時、私は手を伸ばす。
拾ってしまうのだ。
そして、それが痛いかどうかを確かめる。
もし指先が痛んだなら、私はその言葉を懐の財布へしまう。
高価な宝石の領収書のように、決して失ってはならぬ証拠として。
そして帰宅し、机に向かい、その言葉を開く。
私の中に棲む検閲官が「やめておけ」と囁くその前に。
書くのだ。
痛みが、私の本当の名前を呼んでいるうちに。
――完
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