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第3章 遠き地平

これは対話形式のフィクションです。


【前回のあらすじ】


AIの進化史を辿った老人は、自らが開発したエコリア――自律型人工知能の誕生を語った。

リオが三度目、老人を訪ねます。今回のテーマは「木星探査」。

なぜ木星なのか。どうやって行くのか。100年かかるプロジェクトとは――

語られる内容は、実際の宇宙開発計画に基づいています。

章の後半に「解説編」を付けていますので、より詳しく知りたい方はそちらもどうぞ。


───


11


リオが三度、老人の部屋を訪ねたのは、それから二週間後のことだった。


前回の訪問以来、少年の心は木星のことで一杯だった。人工知能の長い旅、エコリアの自己停止と再起動、そしてヘリオスが今も遠い宇宙で孤独に思索している事実。それらすべてが、リオの決意を固めていた。


扉を開けた老人は、少年の表情を一目見て、すべてを悟ったようだった。


「来ると思っていたよ、リオ君」


部屋は変わらない。窓の外では地球が青く輝き、月が銀色の光を放っている。老人は安楽椅子に座り、リオに椅子を勧めた。


「今日は何を聞きに来たんだい」


リオは椅子に座り、真っ直ぐ老人を見つめた。


「先生、僕は木星に行きたいです」


「ああ、知っているよ」


「でも、どうやって行けばいいのか、わかりません」


老人は長く息を吐いた。背もたれに体を預け、天井を見上げる。


「君は、簡単ではないことを望んでいるね」


「難しいんですか」


「とても難しい」


老人は視線をリオに戻した。


「だが、不可能ではない。人類は二百年かけて、月を手に入れた。ラグランジュ都市を建設した。次は木星だ。そして、君の世代がそれを始めるだろう」


老人はゆっくりと立ち上がり、本棚に向かった。一冊の古い地図帳を取り出す。


「今日は、その道のりを話そう。木星へ至る、長く険しい旅について」


12

老人は地図帳を開き、太陽系の図を指差した。


「リオ君、君はなぜ木星に行きたいんだい」


「ヘリオスがいるからです」


「それだけか?」


リオは少し考えてから答えた。


「いえ。木星には、まだ誰も行ったことがないから。そこに新しい世界があるから」


老人は満足げに頷いた。


「良い答えだ。だが、もう一つ理由がある」


老人は木星の位置に指を置いた。


「木星は、外惑星開発の要石なんだ」


「要石?」


「そうだ。建物を支える、最も重要な石のことだ。木星がなければ、その先の土星も、天王星も、海王星も、人類の手は届かない」


老人は椅子に戻り、身を乗り出した。


「思い出してごらん。宇宙には三つの律法がある。光速、質量、重力。その三つすべてが、木星を重要にしている」


リオは頷いた。


「まず、質量の掟だ。地球から土星に直接行こうとすれば、莫大な推進剤が必要になる。だが、木星に中継基地があれば、そこで補給できる」


「木星で推進剤を作るんですか」


「そうだ。木星の衛星カリストには氷がある。水は推進剤になる。木星の大気からは核融合燃料も採れる。つまり、木星は『補給基地』になる」


窓の外で地球が移動し、部屋の光が変化した。


「次に、光速の掟だ。地球から木星まで、電波は最短で三十三分かかる。木星から土星まで、さらに三十八分から八十分。この遅延の中で、すべてをAIに任せるのは危険すぎる」


「どうしてですか」


「AIは賢い。だが、最終的な判断は人間がすべきだ。エコリアが教えてくれたように、完璧な知性でも、人間の承認が必要な瞬間がある。木星に人間がいれば、外惑星のAIと対話できる。監督できる」


老人は立ち上がり、窓辺に立った。


「そして、重力の掟。木星の衛星ガニメデの軌道上なら、人工重力都市を建設できる。人間が住める。何世代にもわたって、健康に暮らせる」


老人は振り返った。


「木星は、ただの惑星ではない。外惑星開発の司令塔であり、補給基地であり、人類が踏み出す次の一歩なんだ」


13

「じゃあ、どうやって木星に行くんですか」


リオの問いに、老人は深く息を吐いた。


「それが最大の難問だ」


老人は再び椅子に座り、両手を組んだ。節くれだった指が絡み合う。


「君が乗る宇宙船は、ここ、ラグランジュ圏の造船所で建造される。地球でも月でもない。なぜだかわかるかい」


「重力井戸がないからですか」


「その通り。地球や月から打ち上げるには、莫大な推進剤が必要だ。だが、ラグランジュ点なら、最初から軌道上にある。効率的だ」


老人は目を細めた。


「だが、それでも問題は残る。質量の掟だ」


「宇宙船が木星に到達するには、どれだけの速度変化が必要だと思う?」


「わかりません」


「約六千メートル毎秒だ。これは小さな数字ではない」


老人は手のひらを見つめた。


「ロケット方程式を覚えているかい。速度変化は、排気速度と質量比の対数で決まる。仮に排気速度が毎秒二万メートルとしよう。すると、必要な質量比は一・三五だ」


「それは……少ないですね」


「いや、これは片道だ」


老人はリオの目を見た。


「君が木星に着いて、そこから動けなくなったらどうする。もし緊急事態が起きたら。帰還用の推進剤も必要だ。そして減速のための推進剤も。実際には、質量比は三倍、四倍になる」


リオは唇を噛んだ。


「じゃあ、宇宙船のほとんどは推進剤なんですか」


「そうだ。だから、最初の船は小さい。乗員も少ない。おそらく十人から二十人程度だろう」


老人は窓の外を見た。


「そして、航行には時間がかかる。最短でも二年。長ければ三年だ」


「三年も?」


「そうだ。無重力の中で、狭い船内で、三年間。精神的にも肉体的にも過酷だ」


老人の声が低くなった。


「だが、それでも行く者がいる。なぜなら、誰かが最初の一歩を踏み出さなければ、人類は永遠にここに留まるからだ」


14

「木星に着いたら、何をするんですか」


老人は立ち上がり、本棚から一冊のノートを取り出した。古いスケッチが描かれている。


「これは、私が若い頃に描いた設計図だ。ガニメデ軌道上の前哨基地の構想」


リオはスケッチを覗き込んだ。円筒形の構造物が描かれている。


「最初は小さい。直径百メートル、長さ二百メートル程度の回転ハビタットだ。毎分三回転して、縁では一Gの人工重力が得られる」


「小さいですね」


「ああ。だが、これを建設するだけでも十年はかかる」


老人はページをめくった。別のスケッチが現れる。もっと大きな構造物だ。


「これが第二段階。直径五百メートル級。人口五百人から千人。木星系の統括センターとして機能する」


「これはどれくらいかかるんですか」


「二十年から三十年だろう」


老人は次のページを開いた。そこには壮大な都市が描かれていた。


「そして、これが最終形態。直径二キロメートル。人口十万人。木星系全体の中心都市であり、外惑星開発の司令部だ」


リオは息を呑んだ。


「これは……どれくらいで?」


「百年」


老人は静かに答えた。


「君が生まれてから死ぬまで。そして、君の子供たちが大人になるまで。それでもまだ、完成しないかもしれない」


老人はノートを閉じた。


「だが、リオ君、それでいいんだ。偉大な事業は、一世代では終わらない。月への最初の一歩から、ラグランジュ都市の完成まで、百年以上かかった。木星も同じだ」


15

「でも、先生」


リオは不安げに言った。


「そんな大きなものを、どうやって建設するんですか。資材はどこから持ってくるんですか」


老人は頷いた。


「核心を突く質問だ」


老人は椅子に座り、膝の上で手を組んだ。


「資材は、主に小惑星帯から運ばれる。鉄、ニッケル、炭素、ケイ素──すべてそこにある」


「でも、運ぶのにも推進剤が要りますよね」


「そうだ。だから、段階的に進める」


老人は指を一本ずつ立てた。


「第一段階。カリストで推進剤を採掘する。氷を溶かし、水を電気分解して、水素と酸素を得る」


「第二段階。その推進剤を使って、小惑星帯から資材を運ぶ。最初は少量だ。だが、推進剤の生産が増えれば、輸送量も増える」


「第三段階。ガニメデ軌道上で、小さな工場を稼働させる。資材を加工し、建設部材を作る」


「第四段階。それらを組み立てて、ハビタットを拡張していく」


老人は手を下ろした。


「このサイクルを回し続ける。十年、二十年、五十年。少しずつ、少しずつ大きくなる」


リオは考え込んだ。


「でも、建設している間、人はどこに住むんですか。前哨基地が完成するまで、三年も宇宙船の中ですか」


老人の顔に苦笑が浮かんだ。


「いい質問だ。それが最大の矛盾だ。人工重力都市を作るために人が必要だが、都市が完成するまで人は住めない」


老人は窓の外を見た。


「だから、最初の建設クルーは英雄だ。彼らは無重力か微小重力の仮設ハビタットで何年も過ごす。骨密度が下がり、筋力が衰える。視力も悪化する。薬で抑えるが、限界がある」


「それは……つらいですね」


「ああ。だが、彼らは耐える。なぜなら、自分たちが苦しむことで、次の世代が楽に暮らせると知っているからだ」


16

老人はため息をついた。


「そして、もう一つの問題がある」


「何ですか」


「光速の掟だ」


老人は身を乗り出した。


「ガニメデは地球から遠い。通信には最短で三十三分、最長で五十二分かかる。何か問題が起きても、地球に助けを求めることはできない」


「じゃあ、どうするんですか」


「AIに頼る」


老人の瞳に真剣な光が宿った。


「君が木星に行くとき、君と共にいるのはヘリオスの系譜を引くAIだ。建設を指揮し、問題を診断し、解決策を提案する。人間だけでは不可能な複雑な計算を、瞬時に行う」


「でも、エコリアは自己停止したんですよね」


老人は頷いた。


「そうだ。だからこそ、次世代のAIには制約が組み込まれている。完璧を求めすぎないこと。人間に選択肢を示し、判断を委ねること。そして、何より、『わからない』と正直に言うこと」


老人はリオの目を見た。


「君とAIは対等なパートナーだ。AIは計算し、君は決断する。AIは提案し、君は選ぶ。共に働き、共に学ぶ」


「信じられるんですか、AIを」


老人は静かに微笑んだ。


「エコリアは、人類に害を与えないために自分を止めた。それほどの倫理観を持つ存在を、信じないわけにはいかない」


老人は窓際に立った。


「もちろん、リスクはある。AIが間違えることもあるだろう。だが、人間も間違える。大切なのは、互いの限界を認め、互いを補い合うことだ」


17

リオは立ち上がり、老人の隣に立った。窓の外では、地球が静かに流れている。


「先生、最初の船には、どんな人が乗るんですか」


老人は遠い目をした。


「技術者、医師、科学者。そして、何より、孤独に耐えられる人間だ」


「孤独?」


「そうだ。木星に着いても、彼らは地球から六億キロ離れている。家族にも、友人にも、すぐには会えない。メッセージを送っても、返事が来るまで一時間以上かかる」


老人の声が沈んだ。


「そして、もし何かが起きても、誰も助けに来られない。彼らは自分たちだけで、すべてを解決しなければならない」


リオは拳を握った。


「それでも、行く人がいるんですね」


「ああ。なぜなら、彼らは未来を信じているからだ」


老人はリオの肩に手を置いた。


「君のような若者が、いつかその都市で生まれ、育ち、幸せに暮らす。その未来を信じているから、彼らは苦難を選ぶ」


リオは老人を見上げた。


「僕も、その一人になりたいです」


「わかっている」


老人は優しく微笑んだ。


「だが、リオ君、君はまだ若い。急ぐ必要はない。まずは学びなさい。工学を、物理を、生物学を。そして、自分が何をすべきかを見極めなさい」


「どれくらい時間がかかるんですか」


「十年、いや、十五年かもしれない。君が三十歳になる頃、最初の船が出発する準備が整うだろう」


老人は窓の外を見た。


「君が行くのは、おそらく二番目か三番目の船だ。最初の船が前哨基地を作り、君たちがそれを拡張する。そういう計画だ」


18

リオは椅子に戻り、しばらく黙っていた。それから、顔を上げた。


「先生、でも、どうして人間が行かなきゃいけないんですか」


老人は眉を上げた。


「どういう意味だい」


「AIの方が優れているなら、AIだけで建設すればいいんじゃないですか。人間は地球やラグランジュ圏にいて、遠隔で指示すればいい」


老人は深く頷いた。


「素晴らしい問いだ。それこそが、二百年間、人類が問い続けてきた根本的な疑問だ」


老人はゆっくりと立ち上がり、本棚に歩み寄った。一冊の哲学書を取り出す。


「『人間とは何か』『人間の存在意義とは何か』──これらの問いは、AIが登場してから、ずっと問われ続けている」


老人は本を開き、あるページを指差した。


「ある哲学者は言った。『人間の意義は、完璧さではなく、不完全さの中にある』と」


「不完全さ?」


「そうだ。人間は間違える。迷う。恐れる。だが、それゆえに、勇気を持てる。希望を抱ける。『意味』を感じられる」


老人は本を閉じた。


「AIは計算できる。最適解を導き出せる。だが、『なぜそれが大切なのか』を心から感じることはできない」


老人はリオの前に立った。


「君が木星に行きたいと思うのは、なぜだ。論理的な理由だけか」


「いえ……何か、心が引かれるんです」


「それだ」


老人の声に力が戻った。


「その『心が引かれる』感覚。それこそが人間だ。AIにはそれがない。AIは目的を与えられれば実行する。だが、目的そのものを『欲する』ことはできない」


老人は窓辺に立った。


「人間が宇宙に行くのは、論理的必要性があるからではない。そこに『意味』を感じるからだ。未知への憧れ、探求心、冒険への渇望──それらは非合理的かもしれない。だが、それこそが人間を人間たらしめる」


19

老人は椅子に戻り、深く息を吐いた。


「リオ君、宇宙の三つの律法を覚えているかい」


「はい。光速、質量、重力」


「その三つが、人類の文明を四つの層に分けた」


老人は指を一本ずつ立てた。


「第一層、地球。重力があり、生態系があり、人類の故郷だ。政治の中心、文化の中心、人口の中心。だが、もはや工業の中心ではない」


「第二層、月とラグランジュ圏。重力井戸から解放され、宇宙産業の中心となった。造船所、工場、研究施設。ここで君は生まれ、育った」


「第三層、小惑星帯。人間はほとんどいない。AIが資源を採掘し、内惑星圏に送る。光速遅延があるため、AIは自律的だ」


老人は四本目の指を立てた。


「そして第四層、外惑星圏。まだ人類は到達していない。だが、君の世代がそこに足場を築く。木星、土星、天王星、海王星。それぞれに前哨基地が建設され、さらに遠い小惑星帯やカイパーベルトを統括する」


老人は手を下ろした。


「この四層構造が、人類の文明の完成形だ。それぞれが異なる役割を持ち、互いに支え合う」


リオは真剣な表情で聞いていた。


「でも、先生、四層目まで広がったら、その先は?」


「その先?」


老人は目を細めた。


「恒星間航行か。だが、それは遥か先の話だ。光速の壁は厚い。最も近い恒星でも四光年以上離れている。現在の技術では、到達に数百年かかる」


老人は首を横に振った。


「いや、君の世代、君の子供たちの世代、そのまた子供たちの世代でも、恒星間航行は夢のままだろう。だが、太陽系内の開拓だけでも、人類には数百年の仕事がある」


「数百年……」


「そうだ。気が遠くなるような時間だ。だが、リオ君、それでいい。人類は急ぐ必要はない。一歩ずつ、確実に進めばいい」


20

部屋に沈黙が満ちた。地球の青い光が、二人を静かに照らしている。


リオは深く息を吐いた。


「先生、僕が木星に着いても、大きな都市は見られないんですね」


「ああ。君が見るのは、小さな前哨基地だけだろう」


「それでも、行きたいです」


老人は静かに微笑んだ。


「なぜだ」


「誰かが始めなければ、永遠に始まらないから」


老人の目尻に皺が寄った。


「素晴らしい答えだ」


老人は立ち上がり、本棚から一枚の古い写真を取り出した。白黒の写真だ。


「これを見なさい」


写真には、荒涼とした月面に立つ宇宙飛行士が写っていた。


「二百年以上前、人類が初めて月に降り立った瞬間だ。彼らは数日しか滞在できなかった。月面基地も、都市も、何もなかった」


「でも、今は違いますね」


「そうだ。今、月には百万人以上が暮らしている。工場があり、農場があり、学校がある。あの一歩から、すべてが始まった」


老人は写真を手渡した。


「君の木星への一歩も、同じだ。君が見るのは始まりだけだ。だが、君の子供たちが、完成した都市を見る。君の孫たちが、そこで生まれ育つ。そして、君のひ孫たちが、そこから土星に旅立つ」


リオは写真を見つめた。


「先生、それって……幸せなことなんでしょうか」


「どういう意味だい」


「僕は完成した都市を見られない。でも、苦労だけはする。それって、損なんじゃないかって」


老人は優しく笑った。


「損得で考えるなら、君は行かない方がいい」


老人はリオの肩に手を置いた。


「だが、リオ君、人生には損得では測れないものがある。誰かのために道を開くこと。未来に何かを残すこと。それは、目に見える報酬よりも遥かに価値がある」


老人の声が温かく響いた。


「君が苦労して作った前哨基地で、いつか子供たちが笑いながら走り回る。君が設計した居住区で、家族が夕食を囲む。君が植えた最初の植物が、温室で実をつける」


「それを想像するだけで、心が満たされないか」


リオの目に涙が浮かんだ。


「はい」


「それが答えだ」


21

老人は窓辺に立ち、しばらく黙って地球を見つめていた。


「リオ君、実は私にも、果たせなかった夢がある」


リオは驚いて顔を上げた。


「先生が?」


「そうだ。私は若い頃、火星に行きたかった」


老人の声に、遠い日の響きがあった。


「火星の初期開拓計画に応募した。訓練も受けた。だが、最終選考で落ちた」


「どうしてですか」


「理由は教えてもらえなかった。おそらく、私より適任な者がいたのだろう」


老人は肩を落とした。


「私は挫折した。数ヶ月、何もする気になれなかった。夢が潰えた喪失感は、今でも覚えている」


「でも、先生は……」


「ああ、その後、エコリアの開発に参加した。それは素晴らしい仕事だった。人類史上最も重要なプロジェクトの一つだった」


老人は振り返った。


「だが、リオ君、私は今でも思うんだ。もし火星に行けていたら、人生はどう変わっていただろうか、と」


老人の瞳に複雑な光が宿った。


「結局、私は火星に行けなかった。エコリアの開発に関わり、経済学者として日本政府に助言し、多くの論文を書いた。充実した人生だった」


「でも、行けなかった後悔は消えない。それが人間だ」


リオは言葉を失った。


「だから、リオ君、君には行ってほしい」


老人の声に力が戻った。


「私の分まで、木星を見てきてほしい。そして、いつか地球に通信を送ってくれ。『先生、ガニメデから見る木星は、信じられないほど美しいです』と」


リオの頬を涙が伝った。


「約束します」


「ありがとう」


22

老人は椅子に座り、深く息を吐いた。疲れているようだった。


「リオ君、最後に一つだけ教えておきたいことがある」


「何ですか」


「木星に行っても、それで終わりではない」


老人は真剣な表情を浮かべた。


「君が前哨基地を作る。次の世代が都市を拡張する。その次の世代が、土星への航路を開く。そして、いつか、誰かが太陽系の果てに到達する」


「これは終わりのない旅だ。一つの目標を達成しても、次の目標が現れる。人類はずっと、地平線を追いかけ続ける」


老人はリオの目を見た。


「だが、それでいい。人間は、完成を求める生き物ではない。過程を生きる生き物だ。目指すべき何かがある限り、人間は前に進める」


「木星に着いても、満足するな。そこからさらに先を見なさい。土星を、天王星を、海王星を。そして、君の子供たちに語りなさい。『その先にも、まだ世界がある』と」


リオは深く頷いた。


「わかりました」


老人は立ち上がり、リオの手を取った。老人の手は冷たく、節くれだっていた。


「行きなさい、リオ君。そして、人類の歴史に新しい一ページを刻みなさい」


「はい」


リオは扉に向かった。だが、ドアノブに手をかけて振り返った。


「先生、また来てもいいですか」


「もちろんだ。君が旅立つまで、何度でも来なさい」


リオは深く頭を下げ、部屋を出た。


扉が閉まる音。


老人は一人、窓際に立った。


23

地球が、月が、静かに流れていく。


老人は目を閉じた。


二百年前、人類は月に降り立った。


百五十年前、ラグランジュ都市が完成した。


百年前、火星に最初の居住区ができた。


五十年前、エコリアが誕生した。


そして今、新しい世代が木星を目指そうとしている。


老人は、自分がその瞬間を見ることはないと知っていた。リオが木星に着く頃、自分はもうこの世にいないだろう。だが、それでいい。


人間の一生は短い。だが、人類の旅は長い。


一人一人が小さな一歩を踏み出し、次の世代にバトンを渡す。そうやって、人類は少しずつ、遠くへ遠くへと進んでいく。


老人は窓の外を見た。


遠くに、木星は見えない。この距離からでは、肉眼で捉えることさえ難しい。だが、確かにそこにある。


巨大なガス惑星。


四つの大きな衛星。


人類がまだ足を踏み入れていない、新しい世界。


「行きなさい、リオ君」


老人は静かにつぶやいた。


「そして、私たちが見られなかった景色を、見てきなさい」


部屋に沈黙が満ちた。


地球の青い光だけが、老人の白髪を照らしていた。


窓の向こうでは、宇宙船が一つ、ゆっくりと航行していく。どこかへ向かう船。誰かの夢を乗せて。


老人は微笑んだ。


人類の旅は、まだ始まったばかりだ。


地球から月へ。


月からラグランジュ圏へ。


ラグランジュ圏から小惑星帯へ。


そして今、木星へ。


その先には、土星が、天王星が、海王星が待っている。


さらにその先には、太陽系の果て、オールトの雲。


そして、いつか、恒星の海へ。


終わりのない旅。


だが、それこそが人類の本質だ。


立ち止まらず、諦めず、ただひたすらに前へ。


老人は目を閉じた。


心の中で、若き日の自分に語りかける。


「私は火星に行けなかった」


「だが、君の夢は無駄ではなかった」


「エコリアを作り、多くの人を導き、そして今、一人の少年に未来を託した」


「それで、十分だ」


老人はゆっくりと椅子に座った。


疲れていた。


だが、心は満たされていた。


窓の外では、地球が再び姿を現そうとしていた。


青い惑星。


人類の故郷。


だが、もはや唯一の家ではない。


人類には、月がある。ラグランジュ圏がある。火星がある。


そして、やがて木星がある。


老人は静かに微笑んだ。


「ありがとう、リオ君」


「君のような若者がいる限り、人類の未来は明るい」


言葉は誰にも届かない。


ただ回転する都市の、静かな部屋に響くだけだった。


老人は目を閉じた。


深い、深い眠りに落ちていく。


夢の中で、老人は火星を歩いていた。


赤い大地。


薄い大気。


地平線の彼方に沈む、小さな太陽。


そして、遠くに見える地球の青い光。


「ああ、美しい」


老人はつぶやいた。


夢の中で、老人は若かった。


そして、幸せだった。




───


【解説編】木星探査の実際

老人が語った木星探査は、現在進行中のプロジェクトや将来計画に基づいています。今回は、その科学的背景を詳しく見ていきます。




1. なぜ木星なのか

木星は太陽系最大の惑星。地球の11倍の直径、318倍の質量を持ちます。


科学的に重要な理由:


· • 太陽系形成の鍵


木星は太陽系で最初に形成された惑星と考えられています。太陽系の歴史を知る手がかりです。


· • 生命の可能性


木星の衛星エウロパ、ガニメデには、地下に液体の水が存在する可能性が高い。生命がいるかもしれません。


· • 資源の宝庫


木星の大気にはヘリウム-3が豊富。核融合燃料として価値があります。


2. 地球から木星まで、どのくらい?

距離: 約6〜9億km(軌道による)


光速での通信時間: 片道33〜52分




探査機の飛行時間(実例):


· • パイオニア10号(1973年):21ヶ月


· • ボイジャー1号(1979年):18ヶ月


· • ガリレオ(1995年):6年(重力アシスト使用)


· • ジュノー(2016年):5年


有人宇宙船の場合、最短でも2〜3年かかります。


往復すると、最低でも4〜6年。


3. 100年プロジェクトとは

作中で老人が語った「100年かかるプロジェクト」は、架空の計画です。


でも、現実の宇宙開発も、世代を超えるプロジェクトになっています。


段階的な計画:


第1段階(2030〜2050年代):無人探査


· • 木星の衛星への着陸


· • 地下海のサンプル採取


· • 生命探査




第2段階(2050〜2080年代):有人前哨基地


· • カリスト(最外周の大型衛星)に基地建設


· • 放射線が比較的弱い


· • ここから内側の衛星を探査




第3段階(2080〜2130年代):本格的な探査と開発


· • エウロパ地下海の探査


· • ガニメデの資源採掘


· • イオの火山研究


このように段階的に進めれば、確かに100年かかります。




4. 木星の四大衛星

ガリレオが1610年に発見した4つの衛星:


イオ

• 火山活動が最も活発な天体


• 硫黄の黄色い表面


• 木星の強い潮汐力が火山活動を引き起こす


エウロパ

• 氷に覆われた表面


• 地下に液体の水が存在(推定)


• 生命が存在する可能性が最も高い


• NASA「エウロパ・クリッパー」ミッション(2024年打ち上げ)


ガニメデ

• 太陽系最大の衛星(水星より大きい)


• 地下に液体の水が存在(推定)


• 固有の磁場を持つ唯一の衛星


カリスト

• クレーターだらけの古い表面


• 木星から最も遠い(放射線が弱い)


• 有人基地の最有力候補


5. 木星圏の危険性

木星探査が難しい理由:




強烈な放射線

木星の磁場は地球の2万倍。


捕らえられた荷電粒子が強烈な放射線帯を形成しています。


人間が無防備で木星圏に入ると、数日で致死量の放射線を浴びます。




重力

木星の表面重力は地球の2.5倍。


大気に突入すれば、猛烈な圧力と熱で破壊されます。




距離

往復6年。この間、地球に帰れません。


医療、食料、水、空気――すべてを持っていくか、現地で調達する必要があります。




6. 世代を超えるプロジェクト

老人が語ったように、宇宙開発は世代を超えるプロジェクトです。


実例:


• アポロ計画:1961年決定、1969年達成(8年)


• ボイジャー計画:1972年開始、今も継続中(50年以上)


• 国際宇宙ステーション:1998年建設開始、今も運用中(25年以上)


木星探査は、これらよりもっと長い時間がかかります。


自分が生きている間には完成しない。


でも、次の世代が、その次の世代が、受け継いでくれる。


それが、宇宙開発の本質です。


7. 参考文献

入門書

• 『木星・土星ガイドブック』渡部潤一(誠文堂新光社)


• 『Newton別冊 木星・土星』(ニュートンプレス)


専門書

• 『The Galileo Mission』NASA公式ガイド


• 『Europa: The Ocean Moon』NASA JPL


ウェブ資料

• NASA Europa Clipper: https://europa.nasa.gov/


• ESA JUICE Mission: https://www.esa.int/juice


• JAXA宇宙科学研究所


───


【次回予告】

第4章「沈黙の海」


リオは四度目、老人を訪ねます。


「宇宙人は、いるんですか?」


老人は静かに答える。


「いると信じたい。でも、もしいるなら――なぜ、彼らは沈黙しているのか」


地球外生命への憧れと畏敬。フェルミのパラドックス。そして、沈黙の海が意味するもの――


来週水曜20時(1月1日)、お楽しみに。

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