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その古びたビルで非日常は続く  作者: ケンプファー
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第2章、開幕(かいまく)です!

チュンチュンと鳴く鳥のさえずりが聞こえる。


多くはないが、硬いアスファルトの路面を素早く転がるゴムタイヤの音、それに加えて一般的な車両から聞こえる低排気量のエンジン音も聞こえる。


そんな穏やかな都市郊外の背景音楽の中で。俺はノンレム睡眠(NREM)の状態から意識を取り戻す。


「う…うーん。」


体がゆっくりと目覚める際に出る自動的なうめき声。喉が渇いて声が上手く出ない。意識はぼんやりと半覚醒状態のようだ。だが、今かかっている心地よい布団の感触と、眩しくないように俺の首元までしか届かない気遣い溢れる日差し、そしてどういうわけか普段よりもだいぶ小さく感じる居心地の良い部屋の三段コンボで。全く起き上がりたくない気分になる。


ぼんやりとした意識は、今燃え盛る俺の睡眠欲求に薪をくべる。なぜか生理現象が起こらない限り、この揺りかごに死ぬまで、果てしない時間残っていたい。幸せだ。


「ピー────ピー────ピー────」


そんな俺の途方もない欲求を、砂の城を崩すように無残に打ち砕く目覚まし時計の音。80デシベルの反復的な、これ以上ないほど不快な人工的な電子音が、俺の脳を強制的に覚醒させる。


時間は午前7時30分。


7時30分?


「あ?」


ちくしょう。


目の前にあるデジタル数字を確認した俺は、体から冷や汗が流れているのを感じた。


遅刻だ。


すぐさま体を稼働させる。揺りかごなんてどうでもいい。早く起きないとだ!!!


素早く寝床を片付ける。さっきから騒音を出し続けているあの忌々しい時計も止める。


「ううっ、なんでアラームが鳴らなかったんだよ…!」


急激な運動に右腕が痛むのを感じる。確かに6時、7時の両方を設定しておいたはずなのに、どうしてあの忌々しい時計は俺を起こさなかったんだ…!


「クローゼット、クローゼットはどこだ?!」 確かにクローゼットがここにあったはずなのに。どうも変わったらしい部屋のレイアウトに、俺の全ての順序が狂ってしまう。なんだこの部屋は。俺は誘拐でもされたのか。一刻を争う。早く体を洗うだけでもしないと。まずはパジャマのままドアを開けて外に出る。


「え?」


一瞬、呆けたせいで口から出た間抜けな声。目の前に今シャワーを浴び終えたのか、タオルで頭を拭いているユイタンがいるじゃないか。


「よう、ミカド。起きたかい?」


「いや…お前がなんで俺の家にいるんだ…?」


何かおかしい。どうしてあいつがこの時間帯にここにいる。しかもあまりにも平然と。


「『俺たち』の家だろ。目を覚ませよ。昨日のこと覚えてないのかい?」


俺の言葉を訂正するユイタン。


「あ────────」


ユイタンの言葉で、俺も現在の状況を理解し始める。


とてつもない出来事があった昨日。俺たちは普段通り会社に出勤し、サカセガワさんの無責任さに嘆きながら、危険な業務を行い、ツカハラ・セイジという少女を救出し、少女のミステリアスな正体。そして少女が投与された薬物について知り、最後にツカハラちゃん、ユイタン、俺。この3人で暮らすことになった。


そうだ。サカセガワさんの一方的な通報で、俺たちは仕方なく会社ビルの2階に住むことになったのだ。となると、非常に幸運なことに、通勤時間はものすごく短縮される。7時30分?いや、7時50分に起きても大丈夫だろう。


俺は安堵する。


「ふう……。なるほどな、だからいつもより部屋が変に感じられたわけか。ツカハラちゃんは?」


「キーちゃんは先に行ったよ。トイレが空いたから、シャワー浴びなよ。俺は上に行くさ。」


テーブルの上の食パンを持って食べているユイタン。いや、それより。


「なんで俺のアラームが鳴らなかったのか心当たりはないか?」


根源的に俺を混乱させた忌々しい時計について尋ねる。


「うん、見たら僕のと入れ替わってたんだよ。僕は会社から家が近いから5分で着くんだ。だからいつも7時半に起きるんだけど、君のおかげで2時間早く起きちゃったよ。」


上手く使ったといった様子で話すユイタン。ああ、こいつ。殺してやろうか。


「じゃあ、僕が先に上にいるね。君の分の食パン焼いといたから、食べておいでよ〜」


タイミング良く俺の業火を避けていくユイタン。ユイタンは3階に上がっていく。


「はあ……。そうか、そういうことだったな。」


もう一度、3人で同居することになった事実を脳裏に刻み込み、体を洗いに入る。


「狭すぎるだろ、まったく。」


東京の都心にある小さなホテルのように狭い洗面所。家に3人も住んでいるのに、洗面所はこれ一つだなんて。憂鬱だ。


……それでも温かい水はちゃんと出るし、水圧も適度なようなので、洗面所の機能だけはきちんと果たしているようだ。


「こいつ、食パンに何を塗ったんだ…」


体を洗い終えた俺は、ユイタンが焼いた食パンのセンスに嘆息している。いや、感嘆とでも言うべきか。


色々な種類のジャムを食パンにぶちまけて作った悪夢のような食べ物。ベジマイトのような初めて見るジャムもあり、様々な色のジャムが狭い食パンの上を占領しようと孤軍奮闘しているような感じだ。いくつかのジャムは場所を占めることを諦めたのか、食パンの横から流れ出し、皿にひたひたになっている。


「うっ……甘すぎる…」


過剰な糖分により歯が一瞬で腐ってしまいそうな気分になり、身震いする。血糖値ショックが来るかもしれない。普段何を食べているんだユイタンは。早死にしてしまうぞ。


ともかく、苦しい食事を終えて3階に上がる。


ガチャリ、とオフィスのドアを開ける。


「こんにちは……ん?サカセガワさん、今日はどうしてデスクに座っていらっしゃるんですか?」


ほぼ6ヶ月ぶりにデスクに座ったサカセガワさん。しかも仕事に関係するらしい書類まで見ている最中のようだ。昨日、無責任ゲージが限界を突破したせいで、今日は正常化されたのだろうか。


「……仕事したくなかったのに……どうして怪我したんだよ、ハリマくん〜」


ぐったりして、ほとんどデスクに張り付くような格好を取りながら俺に不平を言うサカセガワさん。俺が右腕を怪我したせいで、サカセガワさんが空いた俺の席を埋めているということか。


「報いだよ、報い。だから無償で僕らを送り出したのかい?ざまあみろ、チコリ。」


ユイタンは大きく笑いながらサカセガワさんを嘲笑っているようだ。


「うう……嫌だ。嫌だよ。仕事なんてしたくない…」


深いため息をつきながらデスクに突っ伏して書類を見ているサカセガワさん。本当に、サカセガワさんの面倒くささが俺にまで侵食してきそうだ。


「あ…では、俺は何をすればいいんでしょうか?」


右腕のせいで仕事に出られないとしたら、今俺は何をすべきだろう。何をすれば良いのかよく分からないので、とりあえず社長であるサカセガワさんに意見を求めてみる。


「……ツカハラちゃんの面倒を見てくれ。二人でどこか出かけてくるとか…。」


なぜか羨ましそうな目で俺を見つめるサカセガワさん。「本来は俺がこうするはずなのに…」といった表情を浮かべている。


しかし、


この業務の難易度は、今まで俺が処理してきたどの業務よりも難しい。少なくとも俺にとってはそうだ。 一度も女児の面倒を見たことなど俺には当然ない。そもそも子供の世話をしたことがない。男児なら、かろうじて共感性や、好みが被るかもしれないという、いくつかの希望に賭けてみることはできるが、 女児は?女の子は何が好きなんだろう?どこに行けばいいんだろう?何をさせて遊んであげればいいんだろう?俺の好みと重なる可能性はどれくらいあるんだろう?それより、何時間一緒にいなければならないんだろう?


目の前をかすめていく数多くの問題点。目の前をかすめていく数多くの可能性の末路。


何だ?左目が見せているのか?


いや、違う。


これはただ、『ツカハラ・セイジと時間を過ごせ』という単純だが致命的な業務が俺の意識を全て侵食したことによって現れる幻覚のようなものだ。


─────どうやって面倒を見てあげればいいんだ…


俺は頭をソファの方へ向ける。 当然、そのソファにはツカハラちゃんが座っている。純粋な目をしながら。俺が視線を向けたことに、少し首をかしげるツカハラちゃんが。座っている。


俺は再び頭を戻す。サカセガワさんを見ながら。


「あ…その…。俺、一人で子供の面倒を見たことがないもので…。うーん…。ちゃんと見られるでしょうか…。」


少し震える声で、サカセガワさんに救援を求めながら話す。


しかしサカセガワさんは。


「仕方ないだろう〜ん、ヒサト?」


サカセガワさんの言葉が終わるや否や、サカセガワさんの携帯が鳴る。


[嫌だ。昨日も言っただろう。]


やはり冷たいヒサトさん。


「うーん……これを見ろよ。仕方ないだろう?これも仕事なんだから、ちゃんと遂行してくれよ〜」


自分の携帯を見せながら首を横に振るサカセガワさん。


ああ、このなんていう災難だろうか。


明らかに右腕を犠牲にしたことには、報償を与えるべきではないのか?


ところが、報償どころか。試練だなんて…。


サカセガワさんをちらりと睨みつけ。ツカハラちゃんのところへ近づく。姿勢を低くして目線の高さを合わせた上で。


「うーん…ツカハラちゃん、俺と一緒にお出かけしないか?」


最大限優しい口調で、最大限温かい笑顔で、緊張感をどうにか隠す。


「......」


ツカハラちゃんは黙ったままだ。ただ純粋で一点の曇りもないきれいな目で俺を見つめているだけだ。


ツカハラちゃんが沈黙する時間が長くなればなるほど、さっきの幻想の残像が見えるのを感じる。体がだんだん硬直していくのが感じられる。どうか返事だけでもしてくれツカハラちゃん…


しばらくして、ツカハラちゃんは恥ずかしそうに体を何度か動かしてから。


「……いい…よ。」


ああ、ついに。


俺は心の中で既に歓声を上げ、花火まで打ち上げた。望んでやまなかった返事が!しかも肯定の返事が…!!飛び跳ねるほど嬉しい。第1段階を越えた…!


俺の後ろではサカセガワさんとユイタンが顎に手を当てて、微笑ましい表情で眺めている。


「どこか、行きたい所はあるか?」


第2段階、行きたい目的地を特定する段階に移る。もう一度優しい口調で尋ねる。


「……行きたい…所…?」


ツカハラちゃんは本当に純粋な疑問で答える。


大変だ。第2段階でつまずくのか。再び硬直する。冷や汗が流れ始める。あの幻想の残像は俺に襲いかかるための始動をかける準備をする。


「……別に、どこでも、構わない…よ。」


これは第2段階を越えたのか。『どこでも』だなんて、あまりにも包括的で、さらに大変なことになったようだ。 女児が好きな場所はどこだろう?遊園地?水族館?動物園?おもちゃ屋?映画館? ああ、ちくしょう、どこがベストチョイスなんだよ…!


まずは最も心当たりのある場所を選ぶ…!


「遊園地でも行くか?」


当たれ…!


「…遊園地?それ、何…?一度も行ったことない…んだけど…。」


少し首をうなだれるツカハラちゃん。


ちくしょう。失敗した。遊園地に行ったことがないとは。大変だ。


「水族館は?」


頼む!水族館…!!


「水族館……?それも、よく分からない…よ…。」


本当に大変なことになった。こうなったら、質問変更だ…!


「うーん…ツカハラちゃんは、何をしたい?」


「私……?好きなもの……特に…分からない…よ。」


ツカハラちゃんの頭はさらに下がる。


俺は焦る。あまりにも焦る。これは本当に危ない。早く、決断を下さなければならない…!


「……とりあえず、街に出てみるか……」


思わず口から出た独り言。そしてツカハラちゃんはそれに反応して。


「街…?」


顔を上げ、尋ねるツカハラちゃん。


「ああ、ただオフィスの近くの通りにも、遊ぶ場所はあるんだ。歩きながら何をすればいいか考えようってことだったんだ。」


俺は第2段階を越えられなかったせいで、少し気の毒そうな表情を浮かべながらツカハラちゃんに答える。


だが、ツカハラちゃんは小さな声で。


「…いい…よ。」


「ん?」


独り言に良いと言うとは思わなかった。街を歩くことなんて本当に日常的な行動じゃないか。遊園地、水族館のような遊びとは次元が違う小さな体裁なのに、こんなことに肯定だなんて。ツカハラちゃん、ひょっとして俺の金を節約するためにそんなことをしてくれたのか?もしそうだとしたらツカハラちゃんはあまりにも利他的だ…!


ともあれ第2段階を越えたじゃないか!俺は自分自身に拍手を送り歓呼する。


ツカハラちゃんはそんな俺を訝しげな目で見ていた。


うむうむ、ここまでだ。変なやつだと誤解されたくない。


姿勢を再び正して。


「よし。とりあえず、出かけるぞ、ツカハラちゃん。」


俺とツカハラちゃんは外出準備をする。


「行ってらっしゃい、ミカド〜」


ユイタンの見送りを最後に、俺たちは街へ出る。

次回(じかい)もどうぞお(たの)しみに!

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