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その古びたビルで非日常は続く  作者: ケンプファー
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3

少女を連れてきたようですね。

「ヒサトさん、急いでください!ミカドを助けてあげてください!」


事務室のソファに塚原セイジを寝かせた後、ユイタンは大きな声で増援を求めた。そして、鳴り響くユイタンの携帯。


[何事だ。]


それは部屋の中にいたヒサト・ホノカが送ったメッセージだ。短く簡潔な応答。冷たい態度を単純な文章で完璧に表現したヒサトさんのメッセージは、どういうわけか、携帯の画面から冷気が伝わってくるような気がする。


「ミカドの野郎がちょっとひどい怪我を負いました。右腕を刺されたんですが、刃先に何か塗られていたみたいです。」


状況が状況だけに、最大限簡潔に内容を伝えるユイタン。話が終わるとすぐに携帯が再び鳴る。


[分かった。]


ガチャリと開く鉄の壁。ヒサトさんは部屋にあった医療道具をまとめて持ってきた様子だ。


「どれ、見せてみろ。」


冷たい声で言うヒサトさん。本当に久しぶりに聞く声だが、なぜか心配しているような抑揚がわずかに添えられているようだ。


ヒサトさんは私の右腕の状態を、まるで古い遺物でも探索するかのように、綿密に観察する。ナイフが深く突き刺さったせいで、皮膚の下から徐々に広がっていくような焼けるような感覚は既に地獄のような苦痛だったが、ヒサトさんの視線はその奥に隠された原因を見抜くようだ。刃の根元から少し滲み出てくる黄色い粘液。ヒサトさんはその液体を見るや否や判断を下す。


「....ブレーキオイルだね。」


ブレーキオイル。その言葉と共に、私の体を抑えつけていた苦痛は、さらに明確な毒性によって激しくなるようだ。ブレーキオイルは毒性が非常に強いため、皮膚に触れたらすぐに洗い流さなければならないほどの危険物質だ。ブレーキオイルの毒性は、傷が深かろうと浅かろうと地獄のような苦痛をもたらす。


「悪質ですね……」


淡々とした声で言うユイタン。表情は「殺して出てくるべきだった」という本音を外に表しているようだ。


「とりあえず。」


ヒサトさんのその言葉と共に、予告なくナイフを抜き、すぐに過酸化水素を傷口に浴びせる。


「─────!!!」


喉の奥まで込み上げるうめき声。何の通知も受けずに、力を抜いた状態で抜かれたナイフは私の神経に強力な刺激を与える。ブレーキオイルが洗い流されるのを骨身に染みて感じさせる過酸化水素の痛み。ナイフが骨に届くほど深く刺さっていたため、筋肉組織は切断されたと見ても間違いない。ヒサトさんは消毒を終えた後、懐中電灯のフラッシュで骨の状態を確認する。幸いなことに、骨は良好だ。ヒサトさんは縫合手術をしようとする。麻酔なしで。まだ私には試練が残っているようだ。


手際よく動く手。このようなことを一度や二度したのではないようなタッチ。ヒサトさんが医療に従事していたという話は聞いたことがない。ヒサトさんのテクニックは、不必要な動きを省略し、短時間で指定されたセクターを終わらせる。手術用の糸は、まるで自身の身体の一部であるかのように扱われ、針と一体化している。この技術のおかげだろうか。縫合の痛みはそれほど感じられなかった。ただ残留している鋭い痛みと、悪夢のような過酸化水素の痛みだけ。


ユイタンはヒサトさんのテクニックに感嘆の表情を浮かべる。こいつさえもヒサトさんの医術について知らなかったようだ。


縫合手術は完了する。


「しばらく右腕は使うな。」


腕に圧迫包帯をぐるぐると巻きながら言うヒサトさん。手術を終えたヒサトさんの姿は、ナイチンゲールを彷彿とさせる。


「うっ、凄いです…ね。」


その姿に自動的に出てくる私の感嘆詞。尊敬の念さえ感じる。


「では、これで。」


すぐに自身の聖域へと戻っていくヒサトさん。包帯を固定するテープに描かれたオウムの模様は、ヒサトさんの魅力を改めて感じさせてくれる。そして鳴る私の携帯。


[あの女の子は塚原だね?サカセガワには伝えておいたよ。すぐ会社に来るそうだ。]


[ありがとうございます、ヒサトさん。]


簡単な返礼を伝え、ソファへ近づく。


塚原セイジ。


拉致された後、強制的に未知の薬物を注入された悲運の女児。辛い経験をしたせいか、ぐっすり眠っている様子だ。少女の眠った姿は、いかなる妨害工作にも屈せず、睡眠という難攻不落の要塞の中で微動だにせず与えられたことを行っているかのように、まるで銅像のような姿をしている。


「塚原セイジね… ツカハラ… ツカ…(柄)?」


いつの間にか私の後ろに近づいてきたユイタンは、何か名前が馴染まないのか、この少女にも奇妙なニックネームを付けようとしているようだ。


「柄か… 実権を握っている?うーん、鍵を握っている… オッケー。こいつはこれからは『キー(鍵)』だ。」


満足したような表情を浮かべるユイタン。


やはり奇妙な経路で繋がった、奇怪なニックネームだ。「キー」だなんて、この哀れな少女と何の関連があるだろうか。変なニックネームで呼ばれることになる少女に黙祷を捧げる。過酷な労働を終えた私たちは、机に座って安物のインスタントコーヒーと共に休息をとる。


「そういえばさ、ミカド。お前、当分仕事は無理だろ?」


コーヒーミックスに角砂糖を叩き込みながら言うユイタン。


「多分そうなると思います。死ぬほど痛いですよ、これ。」


右腕の痛みは、これから数週間は続くだろう。


「結局死ななかったから憂鬱だわ。いっそ死んじまえばいいのに。」


冗談めかして言うユイタン。


「どう考えてもあなたのギャグセンスは底辺ですね。」


「そうだな、まあ。しばらく仕事をサボる動機ができたから羨ましいぜ。残りの人数で仕事しなきゃならんから、チコリさんは強制的にここに残らなきゃいけないのかな〜」


クスクスと笑う邪悪な笑い声。ユイタンは恐らくサカセガワさんを困らせるつもりでいるようだ。


「ヒサトさんもいらっしゃるじゃないですか。」


小声でユイタンに言う。


「うーん、ヒサトさんもいるけど、まあ、俺は別に────」


ユイタンも小声で… 「ドォン!!!」

ユイタンの言葉を遮った大きな音。音の根源はヒサトさんの部屋だ。どうやって聞こえたんだ。ヒサトさんはどうやらユイタンの曖昧な発言に機嫌を損ねたようだ。鉄の扉という要塞の隙間から殺気が感じられる。


「───────特に関係なく上手くやれると…思うんですが……」


ユイタンは急いで路線変更するという機転を利かせる。ブルブルと体を震わせながら。「あんな殺気は初めてだ…」と身の毛のよだつ表情を浮かべる。


おとなしく休息を取ろう。


30分後。ガチャリという扉の音と共にサカセガワさんが入ってくる。ひどく疲れ果てた様子で、憂鬱そうに自分の席にドサリと座る。


「退勤した人間を呼び出すとはね。まったくとんでもないな〜」


サカセガワさんのため息が混じった不平の声。苦労したのは私たちなのに、無報酬で、さらには息抜きを邪魔されて憂鬱そうな姿は、本当に憎らしく感じられる。ああ、でも拉致犯の後始末はしてきたようだから、息抜きではなかったのか。


「業務目標は一応達成したようだが… 彼女の状態を見てみよう。」


サカセガワさんは塚原セイジに近づく。注意深く眠るソファの中の少女を観察するサカセガワさん。


「どんな薬物を注入された?チコリ、何か分かるか?」


一瞬だが、サカセガワさんの体がビクッとする。


ユイタンの質問に応答しないサカセガワさん。私とユイタンは違和感を覚える。初めて見るサカセガワさんの真剣な姿。塚原セイジに集中しているのか、穴が開くほど見つめる。


数分後、サカセガワさんは何かを思い出したかのように小さく頷く。席から立ち上がり、古い収納棚からプラスチック製の棒状の物を持ってきた。


「その棒は何ですか?」


純粋な好奇心から出る質問。サカセガワさんは真剣なトーンで私の質問に答えてくれる。


「ただの検査キットだ。血を少し抜かせてもらう。」


[私も使う用事がある。頼む。]


ヒサトさんが送ったメッセージを読んだサカセガワさん。注射器で微量の血液を3回採取する。最初の検査。プラスチックの棒の中に入っていく血液。棒は無反応の状態だ。以前と変わらない様子を維持している。2回目の検査。サカセガワさんはもう一度棒の中に血液を流し込む。しかし、やはり無反応。


結果が悪いのだろうか。サカセガワさんはため息をつく。


「......使用されたか。」


意味深な言葉と共にサカセガワさんの表情が暗くなる。


「使用...とは?」


「2回の投与でも棒は反応を示さなかった。つまり、これは……」


言葉を詰まらせるサカセガワさん。


「記憶消去剤だ。およそ10年間の記憶情報を根こそぎ消し去る。記憶喪失とは根本的に違うものだ。記憶喪失は、今は過去の記憶が思い出せないだろうが、記憶情報として保存され、片隅に存在を隠している。そして、失われるのは個人に関する記憶だけで、社会的な記憶は失われない。社会生活を送る上では問題がないということだ。しかし、記憶消去剤は違う。最初から『なかったこと』に変えてしまうのだ。個人的記憶はもちろん、社会的な記憶まで。一つ残らず消し去る。人格まで変わり得る薬物だ。」


薬物の機能。


単純だが、最も非道徳的な機能。


10年間の記憶を消し去る。


瞬く間に流れ込んできたその圧倒的な真実の前で、私とユイタンはどんな反応も示すことができなかった。私の喉はまるで巨大な岩で塞がれたように息苦しく、ユイタンの顔からは血の気がすっかり引いているのが見えた。


「10年」。その単語が私の頭の中で巨大な響きとなって広がる。10歳の少女の10年。ある人にとっては短い時間かもしれないが、塚原セイジの全てである10年は、どの人の人生と秤にかけても、引けを取らない重みを持っている。一人の少女の人生が詰まった人生が、世界から、「なかったこと」にされてしまうなんて。これは単に記憶を消すことを超え、一つの存在の根本的な「人生」そのものを冒涜し、破壊する残酷な行為だ。


言葉は、哀れみという難攻不落の門に阻まれ、出る気配さえ見せない。どんな表情をすればいいのか、何を言えばいいのか、想像すらできない。恐らく、あの哀れな少女に真の慰めを表せるのは、彼女の存在を最初から知っていた神だけだろう。私たちはただ、その残酷な真実の重みに押し潰され、じっと立っているだけだ。


事務室の雰囲気は急激に陰鬱になる。重い沈黙は、まるで事務室を巨大な密閉空間にしたかのように、呼吸することさえ難しくする。


サカセガワさんはソファの横の椅子に座り、微動だにせず深い考えに沈んでいるようであり、ユイタンはさっきから窓の向こうの無関心な都市の風景だけを見つめている。私の右腕の痛みは相変わらずだったが、その苦痛さえ、今感じている精神的な重圧に比べれば贅沢のように感じられる。怪我をした部位に手を置いてじっとしてから、もう4時間が経った。


世界は無関心にも、事務室の暗い雰囲気とは対照的に美しい夕焼けを広げている。赤い光が窓を通して長く伸びてきたが、事務室の床に落ちた影は、むしろさらに濃くなるような気がする。


その時、全員の携帯が鳴る。短く鳴る振動音は、むしろこの極度の静寂の中で爆発音のように大きく聞こえる。団体チャットルームに投稿された長文のメッセージ。


その発信者は他ならぬヒサトさんだ。彼女の普段の様子とは似合わず、メッセージからは明白な切迫感と動揺が伝わってくるようだ。私たちは凍りついたような手でそれぞれの携帯を持ち、メッセージの内容を読み始めた瞬間、事務室に残っていたかすかな最後の平和は、粉々に砕け散るように消える。


[塚原セイジについて調査してみたが、何かおかしい。どの国にも塚原セイジという人物の基本的な情報すら存在しない。そしてさっき採取した血液で遺伝子検査も実行してみた。ヒトという生物の結果と違う。DNAの配列が正常じゃない。]


「は… サカセガワ。これも薬物の機能なのか?」


冷淡に言うユイタン。


しかしサカセガワも目に見えて動揺している最中だ。


「いや… いや、そんな機能はない。単に、単純に記憶だけを消し去るもののはずだ…」


これはどういうことだ。

次回(じかい)もどうぞお(たの)しみに!

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