第6話:瑛華妃の微笑み
秋の風が、赤い楓を揺らしていた。
黎花は、瑛華妃の住まう雲楼殿へと呼ばれていた。
(ついに……来たのね)
呼び出しは突然だったが、避けて通れる道ではなかった。
沈安の過去を知り、香毒の痕跡をたどった先にいる者――それが、瑛華妃であることは明白だったからだ。
雲楼殿の奥、白磁の屏風と薄紅の帳の間で、彼女は座していた。
瑛華妃は、見目麗しくも、その微笑みには凍るような気配があった。
「あなたが“香房の娘”ね。お名前は?」
「黎花と申します。下女の身ではありますが、香を見ております」
「ふふ……“香を見ております”とは、面白い表現ね」
言葉はやわらかいが、視線は試すように鋭い。
黎花は姿勢を正し、一歩前に出る。
「本日は、妃さまにお伺いしたいことがございます」
「ふふ。質問するために、呼びつけられたと?」
「いいえ。真実をお伝えしに参りました」
沈安の調香帳、紫月の名義。
石蓮子による毒香、そして、幼子の死。
すべてを淡々と、しかし丁寧に語った。
それを聞く間、瑛華妃は何一つ遮らず、ただ微笑んでいた。
「……そう。あなたは賢い子ね、黎花」
「恐れ入ります」
「でも、香というものは不思議なものよ。人の感情に寄り添うものもあれば、命を奪うものもある」
「香は、意図を記憶します。誰が、どのような意図で焚いたのか──香の残り香が、すべて教えてくれます」
「では、こうお訊ねしましょう。もしその意図が、“愛する者を守るため”だったとしたら?」
黎花は目を細めた。
「妃さまが守ろうとされたのは、誰ですか?」
「……陛下よ」
その言葉に、黎花の眉がわずかに動く。
「幼子がいたことで、帝の心が乱れ、皇后がそれを責めた。私が黙っていたら、陛下はすべてを奪われた」
瑛華妃の声は低く、けれど確信に満ちていた。
「だから沈安に命じた。“静かに眠らせよ”と。……あの子の命を奪うためじゃない。むしろ、失っても、陛下に傷が残らぬように、と」
「それが“お妃さまなりの優しさ”だと?」
「……否定するの?」
黎花は視線を落とし、香の調合器具を見つめた。
部屋の隅にあった香爐からは、沈安の作った“眠香”の香りが微かに漂っている。
(この香は、誰かを静かに眠らせる香──だが、“覚める目”を選ぶ)
つまり、量や体質によっては、命を落とす危険がある。
子どもには強すぎた。だが、それを分かっていたはずの沈安が手を加えなかったのは、命じた者に「逆らえなかった」から。
そして――その香の処方を命じた瑛華妃は、すべてを承知のうえで沈黙していた。
「私は、香を読めます。ですが、香は“善悪”を語りません」
「……」
「ただ“事実”を残すだけです。妃さまが意図したものも、沈安の迷いも、そして命を落とした幼子の最後の香りも」
瑛華妃は、初めて口元から笑みを消した。
「あなたのような下女が、そこまで踏み込んでよいものかしら」
「申し訳ございません。でも、私の香の記録には、香毒の痕跡が残りました。それを黙っていることこそ、命じた方への“侮辱”かと」
沈黙が流れる。
やがて、瑛華妃は小さく息をついた。
「……あの子の魂に、謝りたいと思っていたの。だれもそれを許さなかったから。ありがとう、黎花。あなたが言ってくれてよかった」
それは、ようやく見せた“本当の顔”だったのかもしれない。
黎花は静かに一礼した。
「妃さまのお気持ちは、香が証言いたします。どうか……ご自身の心も、香で鎮めてください」
そして、雲楼殿を後にした。
香房に戻った黎花は、沈安の帳面に一筆書き加えた。
「紫月──その香は、命を奪い、心を守った」
香は嘘をつかない。
そして、香を読む者もまた、誠実であらねばならない。
それが、黎花の覚悟だった。