第5話:青陽殿に棲むもの
朝靄の中、黎花は一人、青陽殿へと向かっていた。
すでに役目を終え、空き殿となったはずのその場所は、なぜか香の残り香を帯びていた。
(やはり、誰かが……ここを使っている)
扉は錆びていたが、内側には手の届く範囲だけ、埃が払われた跡がある。
壁沿いの棚、香材の小瓶、陶器──そこには明らかに最近使われた形跡が残っていた。
そして、床板の一部が、わずかに軋んだ。
「……地下室?」
古びた床板を外し、覗き込むと、香の気配が濃く漂う細い階段が現れた。
明かりを頼りに降りていくと、そこには――
地下には、調香と毒物の研究に使われていた工房があった。
かつて皇后の「御香師」が用いたとされる場──今は忘れ去られ、闇の中に閉ざされているはずだった。
その最奥に、古びた木箱があった。
黎花は手袋をはめ、ゆっくりと蓋を開けた。
中には、綿密な記録帳が数冊。
その表紙には、こう記されていた。
『香毒調整記──青陽殿配下・紫月記』
(紫月……?)
黎花が知らぬ名だ。だが、そこに記された配合は、現代の後宮では禁じられたものばかりだった。
──石蓮子を香に溶かす方法。
──龍脳と合わせて、呼吸を緩やかに止める配合。
──そして、「児にのみ効く香」。
記録の最後に、朱の筆で一文だけ、書き加えられていた。
「これは沈安の名では記せぬ処方なり。すべて、紫月の手とせよ」
「……沈安……あなたは……」
その日の夕刻。
黎花は、香房の裏手にある井戸のそばで、沈安に静かに声をかけた。
「青陽殿、行ってきました」
「……そうですか」
「“紫月”という名、あなたの帳面にも記されていませんね。でも、処方はあなたの癖が残っていた」
「……あれは、昔のことです」
「昔、あなたは“香毒師”として皇后のもとに仕えていた。……違いますか?」
沈安は沈黙した。
「石蓮子の調香は、常人には不可能。でも、青陽殿の“あの記録”に書かれた方法は、香にまぎれさせ、妃の部屋に運ぶに足るものでした」
「それでも私は……殺すつもりではなかった」
沈安の声がかすれた。
「香の処方は、瑛華さまの御意でした。……“子を静かに眠らせよ”と」
「でも、結果は“永遠の眠り”だった」
「私は……あの子に、何の恨みもなかった」
沈安の眼差しは、かすかに濡れていた。
後宮にあって、男はただの道具──命じられた処方を書くしか、術がなかった。
「だから、あの帳面に記した。“紫月”の名で」
「その名は、あなたの“罪の仮面”だったのですね」
黎花は、香房に戻ると、調香器具のひとつをじっと見つめた。
その小さな器は、石蓮子と龍脳の痕跡を今も微かにとどめていた。
香というものは、不思議だ。
誰かの記憶を呼び起こし、誰かの命を奪い、誰かの嘘を暴く。
そして黎花の耳に、あの宦官・高任の声がよみがえった。
「“お妃さまが心安らかに過ごすことこそ、陛下の望みだ”」
それは命令か、それとも脅しだったのか。
沈安の手は、確かに「意志」で動いていなかった。
(でも……香は、すべてを記録している)
香の香りに記された配合、残留する成分、そして、それを用いた者の意図。
「私は、香の記憶を辿る」
そう決意して、黎花はそっと目を閉じた。