第4話:沈黙の侍女と仮面の侍医
春桃が意識を取り戻したのは、夜が明ける直前のことだった。
黎花は小さな香房の一角を片づけ、即席の療養室をしつらえていた。
「……ここは……」
「目を覚ましたのね。喉、まだ焼ける?」
春桃はかすかにうなずいた。
彼女の舌は乾き、声は絞り出すようにしか出せなかったが──それでも、黎花の問いに少しずつ答え始めた。
「その夜……、焚いた香が、普段のものと違うと……思ったの」
「香の蓋が変わっていた?」
「はい。開けてみたら……甘い匂いに、少し……刺激が混じっていて……。恐ろしくなって……瑛華さまに言おうと……」
「けれど、言えなかった」
「部屋の外で、誰かが待っていたの……顔は見えなかった。けれど──」
春桃の声が震えた。
そして彼女は、指を唇に当て、もう一度言った。
「香を持っていたのは、侍医様でした」
翠蓮宮付きの侍医、名を沈安。
寡黙で、どこか陰のある男だった。医術の腕は確かだが、女官たちからは「何を考えているかわからない」と怖れられている。
黎花はすぐさま、沈安に面会を求めた。
「侍医どの。ひとつ、確かめたいことがあります」
「なんでしょう」
「瑛華様に処方された香の配合について。正式な診断と、処方記録を見せていただけますか」
沈安の目が、微かに揺れた。
そして、帳面を取り出し、静かに差し出す。
だが黎花は、それを一目で看破した。
「“この筆跡”、あなたのものではありませんね」
記録の文字は、あまりに整いすぎていた。
現場で手早く記す侍医の筆ではない。
「誰かに書かせましたね。……しかも、数日前に、まとめて」
沈安は、長い沈黙の末、低く呟いた。
「私は、命じられた通りの処方しか出していません」
「命じられた……誰に?」
「……それは、言えません」
背後で、障子が音もなく開いた。
現れたのは、翠蓮宮の宦官頭──**高任**だった。
「やめたまえ、黎花どの。これ以上は、妃の名誉を傷つけかねない」
「高任様……」
「香のことなど、後宮の誰も気にしてはおらぬ。死んだのはたかがひとりの赤子と、今は消えた侍女。お妃さまが心安らかに過ごすことこそ、陛下の望みだ」
(……“静かに死ね”ということか)
黎花は、じっと沈安を見た。
男の瞳の奥には、微かな迷いと──かすかな“恐れ”があった。
(この人は……“見てしまった”側だ)
その晩。
黎花は香房の帳面を手に、一人きりで再確認していた。春桃の証言、沈安の偽造記録、焚かれた香の成分。
香に仕込まれていたのは、龍脳ともうひとつ、**極微量の石蓮子**だった。
石蓮子──薬理的には鎮静効果があるが、幼児には重度の呼吸抑制を引き起こす。
つまり、それを焚かれた赤子は──
「眠ったまま、死んだ……」
故意か、それとも試薬の誤使用か。
いずれにしても、処方した者が“知らなかった”では済まない。
黎花は、そっと蝋燭の火を吹き消した。
その直後、香房の扉の外で──かすかな足音が止まる。
「誰……?」
返事はない。
代わりに、戸の隙間から滑り込んできたもの──それは一通の小さな巻紙だった。
開くと、ただひとことだけ書かれていた。
「侍医は、見せかけの駒。裏で香を操るのは“青陽殿”に仕える女官」
青陽殿──
そこは皇后がかつて住まい、現在は誰もいないはずの空き殿だった。
(空き殿に、まだ人が……?)
香炉の蓋は替えられた。香は差し替えられた。帳面は偽造された。そして、赤子は沈黙の中で死んだ。
だが今、そこに“目に見えぬ手”が確かにある。
「次は、そこだね──“青陽殿”」