第3話:消えた侍女と香炉の謎
黎花が次に向かったのは、死んだ赤子に仕えていた側妃・瑛華の居所──**翠蓮宮**であった。
「お前が……噂の“辺境の鑑定士”ね」
瑛華はその名に違わぬ美貌の持ち主だった。
整えられた紅の衣、絹のような黒髪。
だが、黎花が最も注目したのは──その声のかすれだった。
「お咳が?」
「夜になると、特に……香を焚いても、この喉は戻らないわ」
それは、以前焚かれていた白芷と杏仁の香の副作用だ。
彼女は知らぬまま、体を蝕まれていた。
黎花は、香炉をひと目見せてくれと頼んだ。
女官が持ってきたのは、銀製の小ぶりな香炉だった。だが──
「これ……昨日と“違う”香炉です」
黎花は即座にそう断言した。
前日の検分で見た香炉には、細工の蓋に瑠璃の細工があったはず。だが、今目の前にある香炉は、蓋が新しい。
「取り替えたのですか?」
「いえ、そんな……誰も触れてはおりません」
怯える女官の背後で、瑛華が静かに言った。
「……女官のひとりが、昨晩から姿を消したのよ。春桃という名の」
「春桃は、香の管理も任されていた女官です。焚く香、入れ替え、器の清掃まで」
翠蓮宮の中庭に座った黎花の前で、別の女官が言った。
「おかしいと思い、探しましたが、寝室にあったのは……髪飾りだけ。扉には、内側から閉めた跡はありません」
まるで──誰かに連れ去られたような痕跡だった。
「香炉の蓋が変えられたのも、そのときか……」
春桃が何を知っていたのか。あるいは、何を見てしまったのか。
(香の構成と香炉を変える……証拠隠滅以外に考えられない)
だが、それをなぜこのタイミングで?
赤子の死を隠すためなら、もっと早く香炉は消えていたはずだ。
その夜、黎花はひとりで香炉の灰を水に溶かし、薬膳棚の奥から精製布を取り出した。
成分を抽出するために──独自の方法で濾過する。
ほんの数滴が、皿に残る。
鼻を近づけた瞬間、黎花は息を止めた。
「……沈香じゃない。“龍脳”が混じってる」
龍脳は高貴な香。気を清め、頭痛を癒すと言われるが──
(これを白芷や杏仁と一緒に焚いたら、揮発性は跳ね上がる)
赤子が苦しんだのも当然だった。
薬効の相乗ではなく、毒性の増幅。
翌日、黎花は劉誠に報告を上げた。
「これは事故じゃない。香の構成が変えられたのは意図的。春桃がそれに気づき、口封じに連れ去られた」
「証拠は?」
「香炉の蓋が変わっていた。焚かれた香の灰からも成分が違うと判明しました」
劉誠は小さく唸った。
「春桃を見たという者は?」
「……いません。でも、おそらく彼女は“閉じ込められている”だけです。殺す必要まではない。まだ、情報を吐かせたい段階でしょう」
「どこだと推測する?」
「香炉が戻されたということは、犯人は翠蓮宮に近い場所にアクセスできた人物。夜間に人を運び出せるだけの権限も」
「……高任か?」
「可能性は高いです。けれど、まだ早い」
黎花は立ち上がった。
「“次の香”が焚かれる前に、春桃を見つけ出さないと、また誰かが殺されます」
その日の黄昏。
黎花は、禁じられた区域──香華殿の地下のさらに奥、古い倉庫の鍵を開けていた。
ここは、昔使われた香薬の試薬室。
帳簿には使われていないとあるが、微かに“火の気配”が残っていた。
扉の奥に──声が聞こえた。
「……水……、誰か……」
かすれた声。
そして、埃の中に倒れたひとりの侍女の姿。
──春桃だった。
だが彼女の唇は、青黒く、震えていた。
「もう……香が、体の中に……」
その一言を最後に、彼女は意識を手放した。
黎花は春桃の衣を脱がせ、香の吸着粉を塗り、精製酒で体を拭った。
時間は、わずかしかなかった。
彼女の体内には、すでに“煙毒”が回り始めていた。
香を使った、極めて巧妙な暗殺方法。
春桃が見たもの。
それを彼女が語れるか否かが──全てを決める。
(わたしは、命を救う側でいたい)
もう一度、心の奥でそう呟きながら、黎花は春桃の胸元に耳を当てた。
かすかに、鼓動が続いていた。