第2話:香の中の幻影
(──これは、わざとだ)
赤子の死に関する調査を終えたその夜、黎花は、薄い布団の上で天井を見つめていた。
母乳に混じるミョウバン、香の中の白芷。
単体では微弱だが、幼児には致命的。
組み合わされば、熱を呼び、胃を荒らし、呼吸を狂わせる。
(見立てとしては悪くない。けど、どうして今、この子だったのか)
この問いの答えはまだ出ない。
部屋の隅で薬包みを広げ、保存状態の悪い香の一部を小瓶に詰めながら、黎花はふと手を止めた。
焚かれていた香には、蘇合香と白芷のほか、極めて薄く──しかし確かに、“杏仁”の匂いがあったのだ。
(……香にまで仕込んでる。執念深いわね)
杏仁の香気には鎮咳作用があるが、大量摂取や高温での揮発時に微量の青酸配糖体を放つ。赤子にとってはそれだけでも危険だ。
「乳母の一人が……自殺?」
翌朝、宮廷の奥──“香華殿”に呼び出された黎花は、第一報に眉をひそめた。
「厳密には、服毒未遂だ。夜明け前、部屋で泡を吹いて倒れていた。すぐに吐かせたから命は助かったが」
そう言って報告書を投げよこしたのは、**劉誠**という若い文官。まだ二十代前半だが、後宮内の衛生と薬品管理の監査役を任されている人物だ。
いかにも仕事のできそうな筆記痕と整った衣に、黎花は内心(自分とは違う種族だ)と思ったが、それは口にしない。
「毒は?」
「残り香から、**水銀系の胃薬と、鉛丹**だ。俗に“白華丹”と呼ばれてるな」
「……それ、最近この後宮に流通してる?」
黎花の問いに、劉誠が目を細めた。
「そのあたりを調べるために、君を呼んだんだ」
その日の午後、黎花は香華殿の地下倉庫を訪れていた。
薬箱が壁一面にずらりと並び、管理の印が貼られている。
(それにしても……規模がすごい)
名ばかりの辺境薬館とは違い、ここでは二千人の後宮の妃と女官、三千の宦官の薬を一括で管理している。
だが、それでも漏れやすい。
現に、乳母が手にした白華丹は“非公式”の出処だった。
「ここの帳簿で、どの棚にあった薬が減ってるか調べるわ。紙の上だけじゃ、嘘は隠せる」
指先で棚の木箱に触れ、重さと残量を確かめていく。
その時だった。
「お前、誰の許可でそこを開けている!」
突然、鋭い声が響いた。
現れたのは、細身で長身の中年男──香華殿の副管理官・**高任**だった。
眉根を吊り上げ、こちらを見下ろしている。
「辺境から来た鑑定士風情が、勝手に薬に触れるなど……」
「私は、調査を命じられてます。劉誠様から正式に」
「その男が誰に命じられて動いているか、知っているのか?」
高任はにやりと笑った。
その言葉に、黎花はようやく気づいた。
──この宮廷では、単なる“薬”も、“命”も、“派閥”の武器なのだ。
◆
夜、劉誠の元へ戻ると、彼はすでに帳簿の写しを数枚用意していた。
「副管理官の高任、あやしいと思っていた。君の報告で決定的になった」
「彼の関係者が、白華丹を横流ししてる可能性がある」
「そしてそれが、乳母を通じて妃へ。あるいは、赤子へ」
劉誠はしばし沈黙し、そして静かに言った。
「……すぐには動けない。だが、正妃派と側妃派の争いが激化する前に、真実を突き止める必要がある」
「だったら、わたしに時間を。香の鑑定と、妃付き侍女の証言を洗い直す」
「いいだろう。好きに動け」
部屋に戻った黎花は、床に広げた香の残りを眺めながら、ぽつりと呟いた。
「香も毒も、結局は使い方次第」
それを知らない者が使えば、人を殺す。
だが、それを知る者は──命を救える。
(わたしは、後者でいたい)
その夜、黎花の夢に──
かつて山奥の薬館で見た、祖父の背中が現れた。