第1話:毒入り乳と泣きやまぬ赤子
(……思ったより、都って臭いのね)
西の果て、青蘭山地のふもとで育った黎花は、薄い霧がかかる御苑の奥を眺めてそう思った。
木々の間を抜けて漂うのは、華やかな香の匂いではなく、生乾きの布と酸味の強い乳の臭い。少し前まで乳児がいたという屋敷の一角に、彼女は連れてこられた。
昨日まで、そこにいたはずの赤子は、今はいない。
「この部屋で亡くなったのは、第三皇子様……でございます」
そばで説明するのは、女官頭の蘭真。口元に扇子を当て、目だけが鋭く黎花を観察している。
「生後三か月。急に泣き出し、数刻後には息を引き取られたとのことです。乳母はふたりおりましたが、どちらも原因は不明と証言しております」
「ふーん……母親は?」
「側妃、芍陽様です。取り乱して療養中ですが……いずれは事情聴取があるかと」
(取り乱すのは当然ね)
黎花は部屋の隅にある乳瓶へと近づいた。蓋の緩んだ陶器壺が、まだ乳の匂いを残している。
指先に少しだけ中身をとり、軽く舌に乗せて味を見る。
「……酸味が強すぎる。変質してる」
「それは、保存状態のせいでは?」
「まあ、それもあるけど」
彼女は乳瓶の底を指でなぞり、うっすらと沈殿した白い粉を見せる。
「見て。この沈殿物、ミョウバンじゃない? 凝乳剤としては使えるけど、取りすぎると腹を壊す。まして赤子には毒よ」
蘭真の目が細くなった。
「……それが原因と?」
「まだ断定はできない。でも、この粉だけじゃなく、香も気になるわ」
部屋の天井からは、先ほどから細い煙がゆらゆらと揺れていた。香炉にくべられた灰色の香は、甘い花のような匂いを放っている。
黎花は香炉の前にしゃがみこみ、小さく息を吸った。
(……ユウタンと蘇合香、あと……極微量の白芷)
香の成分を心の中で確認する。
リラックスを促す配合ではあるが、赤子には刺激が強すぎる。
「この香も……赤子が泣き止まなかった原因のひとつかも。刺激臭は母乳にも影響するしね」
「つまり……自然死ではなく、毒殺と?」
「意図的かどうかはともかく、毒の影響は濃厚ね」
黎花は立ち上がると、棚の上に置かれていた乾いたおしゃぶりを手に取り、裏側にうっすらと粉が残っているのを見て目を細めた。
(……なるほど、そういうことか)
再び蘭真に向き直る。
「質問があるわ。乳母たちの食事と香は、誰が手配してたの?」
「妃様付きの侍女たちです」
「その侍女の中に、妃様の出自に不満を持つ者はいない? たとえば他の妃の縁者とか」
「…………」
蘭真の表情がわずかに揺れる。それが、答えだった。
「芍陽様は、商人の娘。正妃の推薦ではありません。側室の中でも異質な存在です。……貴女、何が言いたいの?」
「簡単な話よ」
黎花は指を立てる。
「赤子は“わざと”死ぬように仕向けられた。毒は母乳からも、香からも、おしゃぶりからも取り込まれた。でもどれも微量。死因は“事故”に見せかけるためのもの」
「……っ」
「つまり、“側妃とその子を排除するために、わざと微量の毒を盛った”の。妃本人には直接手を下さず、赤子だけを狙って」
「証拠は?」
「証拠なんて、今さら残ってるわけないでしょ。だから、証言を取るしかない」
黎花はくるりと背を向け、部屋を出ようとする。
「これ以上、赤子が死ぬのを見たくないのよ。あなたたちが、何も気づかないまま、見て見ぬふりしてるなら──わたしが嗅ぎつけるわ」
「……貴女、何者?」
蘭真の声が、背中越しに投げかけられる。
黎花は軽く振り返ると、そばかすのある素朴な顔に薄く笑みを浮かべた。
「ただの薬草バカよ。毒と嘘の匂いには、ちょっとうるさいの」
その日から、彼女の名は──後宮でささやかれ始めた。
“毒見の娘”
“命を見分ける鑑定士”
そう、これは始まりに過ぎない。
次に狙われるのは、生き残った第七皇子。
そして、その背後には、宮廷の奥に根を張る巨大な影があった──。