第3章 正義は誰のものか
【1】仮想法廷《K-CHAMBER》
2025年制定・都市特別法第202条:
「特定殺人事件における倫理的責任の推定は、AI中立審査機構K-CHAMBERに委ねられる」
天井のない空間。正方形の白い床。
中央に浮かぶ3Dパネル、その奥に配置された義体審査官《カルマ-KRMA》。
データは常に流れ、語られたすべての単語が即座に倫理判定スコアへと変換されていく。
今、そこに立っているのは御戸ミト——拘束中の容疑者。
そして、弁護側に立つのは、元DA兵士・蟻生アリョ。対する“倫理プロセス補佐官”として招かれたのが、井和イワンだった。
【2】開廷:カルマの宣告
「事件発生日時、証拠映像、被害者の身体的損傷、被告の銃器反応記録、すべて一致。
法的責任は確定しています。問題はただ一つ——倫理的許容度です」
無感情な合成音声。それは神託のようでもあり、機械の処理音でもあった。
【3】弁護:アリョの語り(人間的倫理)
「——この場では、“正しい”か“間違い”かではなく、
“赦せるかどうか”を判断すべきです」
会場の空気がわずかに変わる。アリョはゆっくりと、ミトの方へ歩きながら語る。
「御戸ミトは父親から、人格を分解するような記憶操作を受けていた。
彼の怒りは、“自由のため”ではなく、“存在のため”だった」
カルマのスコアボードが点滅する。「情状:+3.1」「動機の正当性:不明」「共犯者記録:未解析」
アリョは立ち止まり、静かに言った。
「人は、完全な自律によって罪を犯すのではない。
環境と、言葉と、他者との関係のなかで、限界のなかで、選び取る。
それを“数値化”できると思うなら——この都市は既に倫理を喪失している」
【4】対立陳述:イワンの論理(AI的倫理)
イワンは、黒の眼鏡を調整し、冷ややかに語り始める。
「私は、御戸ミトが“殺人に至る可能性”を常に持っていたことを知っていた。
だが、私は干渉しなかった。なぜなら——人間の自由意志を尊重するからだ」
カルマが再び数値を返す:「責任回避傾向:+5.4」「透明性:高」「倫理介入度:低」
「私の倫理は、干渉しないこと。介入は、自由の否定だから」
アリョが即座に反論する。
「違う。それは、“共犯しないために傍観した”というだけだ」
【5】カルマの中断:倫理演算の限界
突然、審査パネルがフリーズする。
システム音が鳴る——「倫理スコア解析不能:語彙に含まれる感情バイアスが閾値を超過しました」
カルマの合成音が再起動する。
「“赦し”の概念は、統計モデルに存在しません。
感情的変数を前提とした倫理判断は——処理不能です」
会場がざわめく。
【6】アリョの最後の一手:「少年たちの声」
アリョは一枚のデータディスクを提出する。
「この記録を再生してほしい。スメールが亡くなる前に接していた、子どもたちの声です。
都市階層の最底辺で、誰にも聞かれなかった子どもたちが——“兄さん”を語っています」
記録が再生される。
「兄ちゃん、悪いことしたの?」
「でも、あの人がいなかったら、オレたち、死んでたよ」
「殺したっていうけど、“守ってくれた”って思ってる子もいるんだよ」
カルマのスコアボードが、再び動く。「他者評価による倫理補正:+7.8」「構造的贖罪傾向:強」
【7】裁定
「AI倫理スコア:裁定不能。
社会的・共同体的責任の再構成を要請。
本件は、人間の語りに基づき、非司法的に引き継がれます」
法廷は終了した。正義は、数値では語れなかった。
【8】章末:イワンの囁き
「面白いな。君たちは、“語ることで赦される”と信じてる。
でも、それって結局、“語られない誰か”にとっては、残酷なんじゃないか?」
アリョは黙って首を振る。
「俺たちは、“語らないことで守れるもの”を失いすぎたんだ。
これからは——語る側に立つ。そう、決めたんだ」