第1章『弾丸は告白しない』
御戸ミト:暴力性と優しさを併せ持つ、特権家庭の失格者
井和イワ:天才AI設計士。冷静だが内に倫理的空洞を抱える
蟻生アリョ:元DAの兵士。記憶消去後、一般人として生きる
住江スメール:不法居住区出身のサイバーハッカー。事件の容疑者
嘉嵐父:情報支配者、元国家官僚。兄弟の父。殺害される
プロローグ(第0話):ある父の死
近未来日本、ヨコハマ特区。ある夜、特権階層の情報屋であるカラザワ家当主・嘉嵐が殺される。
事件の影に浮かぶのは、三人の兄弟。そして、一人の“不可視の共犯者”。
DA機関の元工作員、蟻生アリョは「兄弟」の行く末を見届けると決めた。
——都市の階層構造に潜む、倫理・記憶・血の物語がいま始まる。
【1】セーフハウスの朝は静かに始まらない
「——ねえアリョーシャ、兄さんって、ほんとに人殺しなの?」
その質問に答えるには、コーヒーを二杯は要する。もちろん無糖で。甘さが倫理を鈍らせるから。
蟻生アリョ(ありゅう・ありょ)は黙ってカップを置き、対面の少女——元DA分析部所属の非合法AIホスト、通称“エノラ”を睨む。
「まず、“人殺し”って言葉の定義から確認していい?」
「固いなあ、相変わらず。殺したか、殺してないか、それだけでしょ?」
「なら……答えはノーだ。井和イワンは、引き金を引いていない。少なくとも、物理的には」
「じゃあ精神的には?」
アリョは黙る。その沈黙の中に、都市国家セクター47の一晩で崩れた均衡と、三兄弟の父・嘉嵐の死体の重みが沈んでいた。
【2】DA(Direct Authority)本部:記録室
「殺人における“思想的共犯性”の立証は未だ困難である。ただし——」
音声記録が止まった。再生装置の蓋が閉まり、義眼装置を調整していたカミシロ隊長は、「無意味だな」と短く吐いた。
彼女はDA、すなわち都市国家直轄治安管理局の審問担当。今回は「カラザワ情報屋殺害事件」の真相解明を命じられた。
だが真相より、もっと重要なのは「誰に責任を取らせるか」だった。
【3】Cafe Prophetos:兄弟再会
薄暗い店内。天井に吊るされた人工イチョウが、季節感のない都市の象徴だ。
「久しぶりだな、アリョーシャ」
店の奥から現れたのは、井和イワン。黒のタートルネック、音声オフのAR眼鏡。表情は無。だがその“無”の内側に、アリョはかすかな裂け目を感じ取る。
「君が来るのは分かっていたよ。兄貴が逃げたからな」
「ミト兄さんの居場所、知ってる?」
「いや、知らない。だが……仮に彼が殺したとしても、それは社会的決定論の帰結だ。被害者は父親、加害者は“父の息子”。連続性だよ」
アリョは溜め息をついた。
「やっぱり、そういう答えしか出さないのか」
「君は違うのか?」
「俺は、“引き金を引いたのが誰か”じゃなく、“止めなかったのが誰か”を問題にしてる」
【4】その頃、御戸ミトは……
湾岸第五隔離区——通称、カラマーゾフ・ハウス。
廃墟と化した旧情報省施設に、一人の青年が立っていた。御戸ミト。特権階級に生まれながら、公安訓練所を除籍され、数年前から都市を放浪していた。
その手には、小さな義眼レンズ型AI記録装置“サーシャ”。
そこには父の拷問・監視・売買記録が、フラッシュメモリの中に記録されていた。
「俺が殺したのか……なあ、サーシャ。俺は“殺意”を持ってた。でも、殺したのは誰だ?」
“ピッ”という人工音だけが返答だった。
【5】メッセージ
夜。都市の空は照明と排煙で濁り、星ひとつ見えない。
そのなかで、アリョーシャは一人、地下鉄跡のプラットフォームで問いを繰り返す。
「兄さんたちは、なぜ父を殺さなきゃならなかったのか。俺は、なぜ見ているだけだったのか。俺にできるのは、何なんだ……?」
そこへ、一通のAI署名付きメッセージが届く。
【差出人:住江スメール】
件名:これが最後の会話になると思う
「君にだけは真実を見せる。僕の記憶の中に、あの夜がある」