第七章 死闘偏
1988年9月15日。この年開港した、千歳空港の宣伝も兼ねて、北海道の月寒ドームで試合が行われることとなった。泣き出しそうな空の下、朝10時から試合前の計量が行われている。WBAでは、1987年までは15ラウンドで試合が行われていたが、1982年に金得九というボクサーが『リング禍』に見舞われてしまったことにより、12ラウンドに変更となっていた。『リング禍』とは、ボクシングやプロレスなどの格闘技において、試合に起因して競技者が深刻な負傷をしたり、死亡に至る事故を指す言葉である。
今回の対戦相手のマーベラス・シュナウザーは、勝った試合の9割がKOであり、首と腕の太さが尋常ではなく、ゴツゴツと角張った鋼のような身体つきであった。マーベラスとは『素晴らしい』の意であり、シュナウザーとはドイツ語で口髭の意を表し、彼自身はその名前を大変気に入っていた。また、シュナウザーは『機械の脳』を持つ男と呼ばれ、その頭脳は多くのボクサーから高い評価を得ていた。警戒心が強く攻撃的で頑固、相手を威嚇する為よく吠えるが、子供から妙に人気があるという変わり者でもあった。
KOでない試合のデータを見るに、ガンガン攻めて来るタイプが苦手と見える。今日はどちらが先に相手をKOできるかが勝負の分かれ目となるだろう。軽く握手を交わした後、シュナウザーが明にそっと耳打ちして来た。そして、それぞれが食事を摂るために会場を後にした。恵比寿のファミレスで五十嵐と二人、最終確認も兼ねて話し合う。
「お前は天性の感覚もあるだろうが本当によく努力した。チャンピオンになって然るべきだったし、見違えるほど成長したと思うよ」
五十嵐は食事の時となると、いつも明を褒めてばかりになっていた。
「チャンピオンが板について来たんじゃないか?『目標』まであと少しだ。気を抜くんじゃないぞ」
明は嬉しくはあったが、練習での厳しい態度とのギャップに、どうしても慣れることができないでいた。
「分かってるよ。これからもよろしくお願いします」
「礼儀がなって来たじゃないか。最近、精神的に一回り成長したな」
「最近、毎日が充実しててよ。終わりにしたくないんだ、ボクシング」
「そうだな。近頃は逆転KOの代名詞になりつつあるほどに強くなった。なかなかボクサーとしての貫禄が出て来たな」
「大好きな世界で何かやったって、形に残るモンがあるって、こんな嬉しいことはないんだ」
五十嵐は孫の自慢話を聞く祖父のように嬉しそうに耳を傾け、明は将来の夢を語る少年のように幸せそうに話していた。
「大舞台で開き直れる奴は、他のボクサーとは一味、毛色が違うもんなのさ。お前にはそれができるからな」
「ああ、俺は歴史に名を遺す偉大なボクサーになりたいんだ。そのためにはどんな練習にだって耐えてみせるし、弱音だって吐かねえぜ」
「はっはっは。これは来年になったら俺の方が敬語を使わなくてはならないかもな。たいしたチャンピオンだ」
そう言った後、五十嵐は細めていた目を尖らせ、キリッと凛々しい表情に変わった。ここからが本題。さきほどのシュナウザーの言葉は、二人にとってかなり気になる内容であった。
「『スマッシュ破り』か。僕はそれができるだけの練習を積んで来た。かなりの自信がある。そう言ったんだな?」五十嵐は心配そうに言った。
「ああ。確かにそう言った。気になるよな。どんな技か方法か。まあ、止められるもんなら止めてみろってんだ」
明は余裕のある態度で接していたが、内心不安を抱いていない訳がなかった。たどたどしい日本語を使ってまで明に己の手の内を伝えたのは、余程の自信があってのことなのであろう。その後、ハチミツと生卵をミックスしたジュースとメロン、ホテルに帰ってイチゴのジュースと牛肉のニンニク漬け一口カツを平らげた。ふと天井を見上げ、昨日の記憶を思い返してみる。
「悪いが今日は別で寝よう」
少し冷たい言い方だっただろうか。明は気になったが、言葉にはしないでおいた。
「なんで?まさか嫌いになったとか?」
不安にさせただろうか。秋奈は普段見せない暗い顔をしている。冗談とも本気とも取れる秋奈の発言に、明は少し戸惑いかけた。
「そんなんじゃねえよ。ただ、一緒の布団に入っちまうと辛抱できなくなりそうでさ」
秋奈は微かに笑みを見せた後、わざと少し明るめに振る舞ってみせた。
「そっかあ。そうゆーことなら仕方ないよね。チャンピオンは試合前にもいろんなモノと闘ってるんだね」
明は機嫌を損ねなくて済んだことに安堵し、穏やかに振る舞って見せる。
「まあな。試合前にヤって勝ちを逃すなんざ一流どころのやることじゃねえのさ。そんなんじゃ五十嵐さんにも申し訳が立たねえしな」
秋奈は眠たいのか、目を擦りながら話を聞いている。
「そうだよね。なんだか、こうしてると世界チャンピオンと一緒に寝てるなんて嘘みたい。明日の試合、負けないでよね」男ならこう言われて気合が入らない筈はない。
「ああ、任せとけって。だが、5年以上でベテランと言われる世界だ。甘い筈なんてねえよ。練習と減量が成功しても、体調管理のできない奴は闘う資格すらねえからな」
そんな話を思い出しているのも幸せである証拠かもしれない。控室で調整を行い、神妙な面持ちでリングへと向かった。選手紹介を受けてから、シュナウザーが特別にマイクパフォーマンスを披露したいというので承諾した。ブラウンのトランクスを履いているシュナウザー。
「皆さんに最高のエンターテイメントを提供しよう。そう、最強の男が誕生する瞬間をね。僕には『夢』がある。世界でまだ誰も成し遂げていない10階級制覇だ。この試合は単にその足掛けにすぎない。『伝説』の始まりを目撃できることを喜ばしく思うがいい」
アナウンサーから『夢』について掘り下げられたシュナウザーは更に話を続ける。
「そうだなあ。ロッキー・マルシアーノみたいに、49戦全勝で引退したいと思ってるね」更に彼は雄弁に語り続ける。
「雨の日も風の日も、剣が降っても槍が降ったって、俺は毎日練習しているぜ。俺は『世界一練習する男』だ。そんな俺が世界チャンピオンになれない筈がない。結果はもう見えている。試合が終わって、腰にベルトを巻いているのはこの俺だ。それ以外はあり得ない。最強の証明を、今日この場でさせてもらうぜ」
英語を話す者には口の達者な者しかいないのだろうか。そう思えるほどにアメリカンには饒舌な者が多い。対する明も沈黙を破り、来場者への謝辞を述べ、一礼して見せた。
ゴングが鳴って試合開始。真っ向からぶつかった両雄はジャブで牽制し合い、ボクサーとしてオーソドックスなスタンスをとっている。シュナウザーはフィリピン系アメリカ人で髭のボクサー。マスタッシュ ( 口髭 ) もベアード ( 顎鬚 ) も綺麗に生え揃っている。因みにこの英単語は、鱒口、熊顎と置き換えると覚え易い。
シュナウザーは賢いボクサーだ。相手の力を見計らって相手なりのボクシングに徹する。愛称は『シュナ』彼は派手さを好むボクサーでビッグマッチが大好き。ワイルドでそれでいて完璧なボクサーであり、自分の為ではなく自国の威信の為に闘う勇敢な選手だ。
そんな小粋なシュナウザーだが、明は微妙な『やり難さ』を感じていた。自分より背の低い相手はやり難い。シュナウザーは、お手本にしたいような『アップライトスタイル』で右手を高く、左手を低くした独特の構えをしている。その構えからして既に日々相当な努力を重ねて来たことが伺える。
試合開始後、約1分間の膠着状態。こんなに長い沈黙は珍しい。読み合いの末、先に動いたのはシュナウザーであった。肩口から真っ直ぐに出る軌道の読み難いジャブで、丁寧に距離を測りながらストレートを狙って来る。
性格のわりに基本に忠実で強かなスタイルで闘っている。攻撃が当たらない絶妙な距離を保ち、手を伸ばし切ってカンガルーのような殴り方をする。背丈のわりに手が長く、時折ノーガードになるなど、パンチをもらうことをまるで考えていない命知らずな男であり、バックハンドのパンチなども絶妙に織り交ぜて来る。
そういった余裕を見せることで、判定に持ち込んだ際に採点を有利にしておきたいという意図もあるのであろう。ジャブでさえも一撃の下にノックアウトできるほどの威力を兼ね備えている。シュナウザーの『重圧』に対して形勢は不利であるが、知識と経験の分だけ明に分があった。
そして、シュナウザーが牽制のために打った大振りのストレートに対し、カウンターを合わせようとするが、ひらりと躱されてしまった。シュナウザーは殴った後にでも避けることに長けており、身体の芯がブレずに捲るように殴って来る。理想的な立幅、体格、筋肉のつきようだ。一発が豪快なレーザービームのようであり、反時計回りに円を描くようにリズムをとる。
身体を立てながらも、異様に左右に振る時があるタイミングの取り辛い選手だ。赤の内側に青をあしらったスタイリッシュでオシャレなグローブをしている。手の甲を上にしたスタイルであり、前に飛び込むような体勢をとる。左手で触れずに招き猫のように手をクイックイッと動かすことで相手を惑わすジャブの使い手でもある。
そこからタイミングを計って一気に攻めて来るスタイルが、『タッチボクシング』と揶揄されることを本人はひどく嫌っていた。これは究極のディフェンシブボクシングであり、闘い方を突き詰めればこのやり方が最強であるという自負が彼にはあった。
そして、目まぐるしい攻防の中、互いにここが勝負どころであると考えたようだ。明の『スマッシュ』が相手の左側頭部に、シュナウザーの『ドラゴンフィッシュブロー』は相手の腹にそれぞれ命中した。
シュナウザーの必殺技である『ドラゴンフィッシュブロー』は右手を大きく引き、空に向かい弧を描くように振り上げて放つパンチである。豪雪を浴びたような鈍重な一撃が、明の呼吸を不自由なものにしていた。深海に潜ったかのように息ができない。軽いチアノーゼ( 酸欠状態 )で顔が少し赤黒くなって来ていた。
シュナウザーは豊富な肺活量を活かして、執拗にボディを攻めて来ていた。その後、明も何とか応戦しつつ時間を稼ぎ、ゴングが鳴ってラウンド終了。汗を拭いた白いタオルが重い。相当な運動量だ。
「話さなくても大丈夫だ。息がし辛いだろうからな。だが、ボクサーは過酷なトレーニングに加え、太ったり痩せたりを繰り返している。まさに命を削って闘っているって訳さ。それだけのトレーニングを積んで来ているんだ、じきに慣れるさ」
そう言って五十嵐は酸素スプレーを明の口に押し当て、恵みの大気を補給してくれた。
十分に入っていた気合を更に入れ直し、慎重に第2ラウンドを迎えた。シュナウザーが先に動き、膝が落ちた明の右側頭部に強烈な左フックを浴びせる。シフトウェイト( 体重移動 )が速くて上手い。
鋭い眼光で明を睨みつける。人間の動体視力は左右には強いが、上下には対応し難い。急に体制を低くされたら目の前から『消えた』ように見える筈だ。
シュナウザーがこのチャンスを逃す筈もなく、畳み掛けるように拳の連撃を浴びせて来た。明は不本意ではあったが、このままやられっぱなしになるよりはマシと、苦し紛れにシュナウザー目掛けて『スマッシュ』を繰り出した。
しかし、満を持して繰り出したシュナウザーの『パアリング』が明の『スマッシュ』を迎撃する。これは相手のパンチが当たる前にはたいてしまうディフェンスであり、シュナウザーが最も得意とする防御技である。
「有言実行。激しい打ち合いを制し、宣言通り『スマッシュ』破りを敢行したのはマーベラス・シュナウザーだあ!!」アナウンサーが興奮した調子で試合を煽って来る。
「この試合のための、とっておきの『パアリング』です。赤居の繰り出す拳に自らの拳を当て、悉くその弾幕のような拳を弾き落としています。ピエロと言われた赤居は、千両役者としてのプライドを見せることができるのでしょうか」
明は朦朧とした意識の中、折れそうになる心で、苦しかったこれまでの日々を思い返していた。
“『スマッシュ』じゃだめなのか?五十嵐さんから受け継いだ、俺の拳は軽いのか?いや、そんな筈はねえ。これが俺の『必殺技』なんだ。これでダメなら俺にはもう何もないんだ。秋奈のためにも『澄玲』のためにも、俺はもう負けられないんだ。この拳に懸けるしかねえ“
だが、再度シュナウザーの『パアリング』が明に猛威を振るう。万策尽きたということであろうか。五十嵐の目には明の目から光が失われて行くように感じた。激しい闘いに、審判がいつもよりも心なしか離れているようにも思える。ラウンド終了10秒前に笹の音がする。これは拍子木という長方形の棒状の板を、二つぶつけて鳴らすことによって出している音である。
明の4連撃、ストレートが変化してアッパーになる。それに対し、シュナウザーはゴリラのように下顎を突き出し、明を挑発している。こんな状況でも、世界チャンピオンならば勝たなくてはならない。修羅場で自分に勝って来られたかが、後々大きな差となって表れて来る。ゴングが鳴り、嫌な印象を抱いたまま、第2ラウンドは終了した。
「相手には確実にダメージが蓄積されて来ている。疲労のない人間はいない。渾身の一撃がお前の道を切り開いてくれるだろう。次の一幕が勝負だ。パアリングについては一撃目を囮とし、次の第二撃で仕留める作戦で行け。命を賭して打つ拳が軽い筈なんてないのさ」
師弟とは不思議なものだ。口には出さずとも、明の不安を五十嵐はしっかりと理解してくれているようである。
「極限の状態だと力を抜こうとして笑えて来ることがあるってのは本当なんだな。とてもそんな感じじゃねえってのによ。大ピンチなのに変に落ち着いてら」
互いに笑い合った後、五十嵐に背中を押され、明はリング中央へと歩み出て行った。
早々に第3ラウンドが開始され、軽快なリズムを刻み、明の豪腕が唸る。だが、シュナウザーは『効かないよ』とばかりに首を横に振ってみせる。頭をしっかりと丁寧に守っており、腰を低く落として、ブレずに反動をつけて打って来る。鞭のように撓ったパンチを出す度にシュッシュッと口で言うところが大変ボクサーらしい立ち振る舞いだ。猫のように両の拳と明との間に『遊び』を持たせている。
そして彼には、まるで予め知っているかのように大きく屈んで拳を避けてみせる能力があった。並外れた動体視力と反射神経が成せる技であろう。彼がノーガードなのは相手のリーチを計算し、当たらないと確信の持てる位置にいるからだ。寸での所で躱されるのはボクサーとしては非常に悔しいことであった。明は冷静さを保ちつつも、少しムキになって前に出ていた。
その隙を、シュナウザーが見逃す訳がない。強烈な『ドラゴン・フィッシュ・ブロー』が明の鳩尾に突き刺さった。これは後ろに引いた拳を、弧を描くようにして相手に叩きつける必殺技である。
そしてこれが『ソーラープレキサス・ドラゴン』となり、モロに技のダメージを受けた明はダウンを奪われてしまった。『ソーラープレキサス』とは『横隔膜』の意であり、一度強烈な一撃を受ければ、呼吸さえもままならない状態となる。ボディを打たれると膝がバネの役割を果たさない。
明は必死で立ち上がろうとするが、身体に力が入らない。万事休すか。だが、明は際どいところで立ち上がることができた。応援に来ていた秋奈、慎也、そして澄玲の泣き声が聞こえたからだ。危ないところで間一髪ゴングが鳴り、第3ラウンドは終わりを告げた。
「だいぶ苦戦しているな。だが、案ずるな。道は必ず開ける」
「何か秘策でもあんのかよ?」明は縋る思いで五十嵐に問い掛けた。
「相手の拳は、野球の変化球と同じで必ずストライクゾーンに飛んで来る。ただそこにカウンターを合わせればいいだけの話さ」
五十嵐は右掌に、左手の握り拳を当てながらそう言った。
「言ってくれるじゃねえか。ただ『それだけのこと』をやるのがどれだけ難しいか分かって言ってるんだよな?」
「もちろんだ。そして、お前にそれができることもな」
「そう言われちゃ、やるっきゃねえよな。もうそれしか手がねえんだ。討ち死にするつもりでやったろうじゃねえか」
明も五十嵐がやったように左掌に右手の握り拳を当てながらそう言った。
水を打ったように静まり返っていた場内が、第4ラウンド開始と共に一気に沸き立っていた。明の『スマッシュ』に対し、シュナウザーが『パアリング』を繰り出してそれを封じて来たのに対し、返す刀で明の『クロスクリュー』がクリーンヒットしたためである。
とっさの時には頭で考えるよりも、日々の鍛錬によって染みついたものが出る。その証明のような一打であった。猛然と襲い掛かった戦士がマットに沈んでいた。シュナウザーがレフェリーの足にしがみついて起き上がる。再び激しい攻防が繰り広げられる。
そして、隙を突いてシュナウザーの『ソーラープレキサス・ブレイク・ドラゴン』が炸裂する。大砲と言う表現が安いと思える程の一撃であった。意識を根こそぎ刈り取るような一撃で、マウスピースが飛び、足がガクガク震える。明はせめてもの余裕を見せようと、笑い出した膝を必死で宥める。
シュナウザーが水を得た魚のように追い打ちを掛けようとした瞬間、それを遮るように、慌ただしくゴングが鳴り、第4ラウンドは終わりを告げた。ラウンド終了時に嬉しそうに笑う様から、シュナウザーは本当にボクシングが好きなことが伺える。そういうところには好感が持てる選手だ。
「僕はフィリピンの軍隊に3年半ほど従事していた。命の危険のある戦争こそが『実戦』と言えるものだった。ボクシング?こんなものは『お遊び』だよ。リングドクターに各種薬品、それに厳格で適正な規則。おまけにいつもセコンドが見守ってくれている。こんな甘々な環境で試合をするなんて戦争を経験した僕からしたら笑ってしまうようなもんなのさ」人に歴史あり。彼もまた様々な苦難を乗り越え、この場に立っているのであろう。
「象が来ても道を譲らないくらいの『我』の強い奴が頂点を極めるものだからね」
シュナウザーは口角を釣り上げ、如何にも性格の悪そうな笑みを浮かべていた。
「この試合の入場券は相当なプラチナチケットだな」
セコンドであり、彼の兄であるブライト・シュナウザーは嬉しそうに少しの皮肉を込めてそう言った。
第6ラウンド開始直後、会場が俄かに沸き立っている。指笛や歓声が聞こえ、興奮が最高潮に達していることが分かる。リングに目をやると、明がダウンを喫し、後頭部を抑えて蹲っている。
「おい!今の『ラビットパンチ』だろ」
興奮する五十嵐に対し、レフェリーは見落としに気付くも、確認のしようがないため、どうしようもない状況であった。苦渋の選択を迫られ、流すことに決めたレフェリーに対し、五十嵐は落胆の色を隠すことができなかった。
起き上がった明の額には滝のような汗。勝って当たり前と言われた難しい試合。血飛沫が飛ぶ、互いに修羅の形相である。シュナウザーは肩を前に出さずフルスイングしないスタイルだが、その迫撃に、明は気圧されているようにも見えた。
圧倒的な暴力が彼が勝つための常套手段であり、パワーでは明を凌駕していることであろう。なんとも凶悪な男よ。己の腕力を本能のままに全て破壊衝動に充てている。必死の防衛でその攻撃を凌ぎ切り、辛うじてゴングに救われた明は、命からがら五十嵐の元へと帰り着いた。
「よくぞ戻って来た。『ラビットパンチ』なんてのは、ションベンしている時に、後ろから蹴るくらい卑怯な行為だ。故意でなくても許されることではない筈だ。この試合、ボクサーとしての名誉に掛けて負けるんじゃないぞ」
悪辣な表現だが、言い得て妙である。その言葉は、この状況を的確に表していた。目の光を見れば明がまだ死に体になっていないことくらいは分かる。このまま無様に終わらせるものか。
「奴は相当なクラッシャーだと聞いている。ボクサーの拳は練習、試合以外で人を殴れば銃刀法違反となる程の威力を備えており、実戦では時に相手を破壊するほどの攻撃をすることも大切だ。だが、ボクシングは列記とした『スポーツ』だ。そのことを奴にしっかりと教えてやれ」五十嵐は明には悪いが、今は疲れた身体に鞭打ってもらおうと考えた。
一方のシュナウザーは、五十嵐の指摘により会場で大ブーイングが巻き起こっているにも関わらず、アメリカ側の盛大な応援に気を良くし、上機嫌のようだ。
「今気づいたよ。自分が国を背負っていると思っていたけれど、実は自分が支えられていたんだ。俺はまだ闘える。闘ってみせる!!」
多少無理をしてでも自らを鼓舞し、自信を与えるように努めていた。
「プロに一番必要なものって何だと思う?根性?友情?財状?僕はどれも違うと思う。僕が思うプロに一番必要なもの、それは――『才能』だ。才能に勝る努力なし。才能のない奴の努力なんて河原で石ころを積んでいるようなもんなのさ」
上に上がる者は他人の夢を踏み台にして光り輝くものである。そのことを、シュナウザーはよく理解していた。そして、明サイドにとって、大きな不安を残したまま開始される第10ラウンド。ラウンド開始直後、明が疲労の色を見せた隙を見て、シュナウザーが強烈な『ソーラー・プレキサス・ドラゴン』を炸裂させる。
3回もの攻撃を受けたことで腹部は限界を迎えようとしていたが、シュナウザーも疲労によってかなり動きが鈍っていたようだ。パンチを打ち終わった後に追撃することができないでいるようであった。だが、一難去ってまた一難。緊迫の攻防で肉迫し、泥のように疲れきった両者に、セコンドから鞭が入る。
明は自身の『スマッシュ』に対し『パアリング』を当てられ、カウンターとして再度放たれた『ドラゴンフィッシュブロー』に左手での『クリス・クロスクリュー』を合わせてダウンを奪うことができた。そして、緊迫した空気の中、レフェリーが3ダウンのコールを告げる。
シュナウザーは起き上がって『まだやれる』とアピールするが、3ダウンでTKO( テクニカル・ノック・アウト )となる規定を覆すことはできない。その場で崩れ落ち、右手でリングを叩いて悔しがっている。明はなんとかチャンピオンとして元の鞘に収まることはできたが、自身の体調に不穏な影が立ち込めていた。
試合後、リングサイドの声援とは打って変わって『デスラビット』という不名誉な渾名を付けられたことに腹を立て、シュナウザーは早々にリングに立つことを止めてしまった。そのマイナスのイメージに反発するように、彼は引退後、大好きな自国のために国会議員として貢献する道を選んだ。
第二の人生の選択に頭を悩ますボクサーも多い中、進むべき道、打ち込む対象があるということは恵まれたことなのであろう。これは彼の親しみ易い性格と生真面目で勤勉なところが幸いしてのことなのかもしれない。日々苦心しながら、シュナウザーは新たな夢を叶えようとしていた。
明はと言えば、試合後2日間トイレ以外は寝っぱなしであり、半年後に控えたWBC、WBAの統一戦のことなど知る由もなかった。
ボクシングのプロにはWBA、WBC、WBO、IBOという4つの団体がある。そのうち2団体は特に有名であり、明がチャンピオンとして君臨しているのは、一番メジャーな『WBA』である。そして今回、もう一つの有名な団体である『WBC』のチャンピオン、リカルド・サルバトール・チャベスと『統一王者』を決めるべく雌雄を決することとなったのだ。
チャベスはハイペースでマッチメイクすることで知られ、半年間で8試合も熟している。過去にはピストン堀口選手が1日で4試合したというような記録があるが、近代ボクシングとしては、かなりのハイペースと言えるであろう。
また、それぞれの団体の『特徴』としては、WBAとWBOは『スリーノックダウン制』を採用しており、これは1ラウンドの間に3度のダウンがあると『ノックアウト』となるシステムである。逆にWBCとIBFは『フリーノックダウン制』で、1ラウンドの間に何度ダウンしても試合を続けられる。
WBAは『各ラウンド毎の採点に極力差をつける』という『ラウンド・マスト・システム』が厳しくなっており、WBCは『4ラウンドと8ラウンド終了時に採点を公表』し、IBFだけは2010年代になっても『当日に計量を行う』ことなどが挙げられる。
それぞれの『ベルトの色と本部』は、WBAは『黒でパナマ』WBCは『緑でメキシコ』WBOは『臙脂でプエルトリコ』IBFは『赤で米国ニュージャージー州』である。一説にはWBAが最強と言われているが真偽の程は定かではない。
4月30日の試合に向け、明の練習にも熱が入る。連日、リングに対角線上にロープを張ってその下を潜る練習や、長い棒の先にグローブを付けて撓らせて打たれる練習を行った。そして試合の19日前である1990年4月11日。明と五十嵐がミット打ちをしていると、ジムの扉の前に二つの影が近づいて来た。そして3回の強めのノックの後、横開きのドアが音を立てて開き、二人の白人が入って来た。
そこで明たちは、そのうちの一人を見て心底驚いた。今日の日まで写真で眺めていた人物。五十嵐は慌ててサンドバックに貼ってあった写真を剥がしにかかる。ここでイベンターでもある米原がスペイン語で通訳する。要約すると、イベントの前哨戦として、ここで勝負してみないか?非礼は承知の上だが、どうしてもあなたの実力を知っておきたかった。一回どうしても、お手合わせ願いたい。そういった内容であった。
チャベスは少し申し訳なさそうに、畏まってそう話した。マスコミやボクシング関係者には内緒の『非公開スパー』をやろうという訳だ。試合前にチャンピオン同士が闘うなど、常識的に考えてあり得ないことである。
だが、チャベスが異国の地から遥々、日本へ来て試合をすること、日本にいるランカーたちが挙ってチャベスとの試合を避けていることから、特例として軽くスパーをすることになった。五十嵐が肩を組んで明に耳打ちする。
「いい機会じゃないか。敗戦のイメージを植え付けてやれ。ただし、『スマッシュ』は出すな。試合前に手の内を明かすのは馬鹿のやることだからな」
明は“初手の『スマッシュ』でビビらせてやろう”と思っていた手前、「お、おう」と返すのが精一杯であった。
スパーは3ラウンド。『16オンス』のグローブを付けて行われることとなった。ボクシングでは通常、ミニマム級からスーパーライト級までが『8オンス』ウェルター級からヘビー級までが『10オンス』のグローブをつけて試合を行っている。
チャベスとセコンドのセバスチャンは、遥々メキシコから日本へ到着するなり、知り合いのツテでこのジムまで辿り着いたという。チャベスは一見おとなしそうで穏やかに見えるが、少し話すと芯が強く、時に人に対して敵意を剥き出しにする性なのが分かる。
そして、一般的に見て男前だが、七面鳥のような顔をしているため、どこか鋭い顔をしているように感じられた。好青年なのだが、どこか怖さのある、そんな印象を受けるような人物であった。楽天的なイメージのある南米メキシコ人特有の柔和な感じは、後天的に身に付けたモノであると誰もが推測できる程であった。
「ありがとう。あなたの親切に感謝します」
そう言うとチャベスは深々と頭を下げた。米原が透かさず通訳する。
「ああ。遠慮は要らねえ。全力でやろうぜ」
明が両の拳を突き出すと、チャベスもそれに重ねるように拳を突き出した。二人とも正直なところ、チャンピオン同士のベルトを掛けた対戦というよりも、初めて世界戦に挑み、王座を勝ち取ろうとしていた時の心境に似ていた。
強い相手を倒したい。ただそれだけの為にボクシングを始め、高みを知った両者。生まれ育った環境は違えども、互いを尊敬しあえることは、スポーツというものを真剣にやって来て良かったと思えることの一つでもある。ストレッチとアップを済ませ、高僧のように精神を研ぎ澄ませ、闘いの前の静けさを楽しむようであった。
米原が審判を引き受け、ゴングが鳴り、早々にスパーが開始された。明はしっかりとガードを固め、慎重に相手の出方を伺う。だが、いきなりフェイントからのストレートを貰ってしまう。油断していた訳ではない。全く洗練されておらず粗削りで間合いの取り方もなっていない。ただ、もの凄く『良い角度』で打って来る。
頭を揺らして狙い難くし、手が鞭のように撓ることに加え、フック、アッパー、ストレートを同じモーションから打って来るため軌道が読み辛い。今まで闘って来たどの選手とも違うタイプのボクサーだ。無駄なく間隙を縫って絶妙に攻めて来る彼は『巧圧』の使い手である。
“リズムをランダムに構成しているみたいだ。タイミングが合わせ辛いな”
チャベスはラテンのダンサーのように軽やかに、しかし激しくパンチを繰り出していた。苦し紛れに明が打つパンチを、マタドールのような体躯で躱し続ける。あまりに一方的な展開に、周囲が静まり返ってしまう程であった。
“スイッチが入った途端に凄えプレッシャーだ。それに、何度も修羅場を潜って来た奴の目をしてやがる”
気迫という意味では、これほどまでに殺気立って襲い掛かって来る選手はそうはいない。まるで殺し合いの渦中に紛れ込んだかのような、鬼気迫る有様であった。
“コイツ、もしかしたら五十嵐さんより――”
タイミングはあるが、なかなか攻撃を当てることができない。
“巧く流されちまってるな”間を詰められ、『クロスレンジ』にまで距離を縮められたことで『スマッシュ』は打とうにも打てない。
“手を休めたらダメだ”この男に隙は禁物。止まれば、たちどころにダウンを奪われてしまう。それほどまでに危険な存在だ。拳の弾幕でチャベスの動きを封じにかかる。牽制のためのジャブに辛くも『クロスカウンター』を合わせる。チャベスはバランスを崩して倒れかかったが、辛うじてロープを掴み難を逃れる。強烈なブローに、かなり驚いた表情を見せている。
だが、すぐに平然と構え、悠然とリスタートを切って見せた。この男、肉体だけでなく、精神的にもタフなようだ。そして間隙を縫って『コークスクリュー』をお見舞いし、チャベスの動きを封じにかかる。パープルのトランクスが眩しいチャベスは、1980年代のメキシカンの平均身長である171cmよりも5cm高い身長で細身で筋肉質な印象は受けない。
その打撃には内に秘めたる憤怒のようなものが込められていた。怒りは肉体を強くする。しかし、同時に精神を弱くしてしまう諸刃の剣であると言えよう。憎しみを感じさせるその拳は、悲しみを理解されぬ悲痛な叫びにも似た、至極暴力的なものであった。
そしてそれは、どこか迷いを感じずにはいられないものでもあった。若干20歳にしてWBCの王座に就くほどの人物でありながら、どこか捨てられた子猫のように怯えているようにも見える。
リング上の二人は、手の内を探り合うようにして、基本的な技で応戦し合っていた。必殺技に頼らない通常の型こそ、実力を測るのには丁度良いのかもしれない。二人とも『ミドルレンジ』が得意ではあるが、明はパワー重視で『クロスレンジ』、チャベスはテクニック重視で『ロングレンジ』寄りであった。
そのため、ファイトを進めるに当たって、明がチャベスに詰め寄る形となっていた。しかし、チャベスは遠くからでもパンチを当てることができ、オンガードポジションを崩さず、フットワークを使うのが上手いようだ。
黒人は避けて勝とうとするが、メキシカンである彼は、手数で圧倒しようとして来る。頭部を守り、倒されないようにするという意識が強く、斜め下からのパンチを多用し、クリーンヒットを許さないスタイルである。日本の場合は階級を上げることはあまりないが、アメリカ、メキシコでは少しでも『金になる』階級に上げようとする傾向がある。
だが、彼の場合は自身のベストウェイトと言える階級で試合を行っているようであった。そして彼には類稀なる『当て勘』があった。『当て勘』とは本能の成せる技。咄嗟に出ない技術は、本当に身に付けたものではないと言うが、チャベスのそれは『本物』であると言える代物であった。
実力に関しては両者同じ感想であったが、そこはスパーでのやり取り。試合本番、一発勝負の場でしか、己の真価を問うことはできない。そのことを二人ともよく心得ていた。
そして、そのまま互いに様子を見る形でこのラウンドは終わりを告げた。
「どうした?柄にもなく押されっぱなしに見えるぞ」
五十嵐は発破を掛ける意味合いを持って言った。
「そう言われても仕方ねえよな。弱点がないというか弱みを見せないというか。とにかく攻め難い相手なんだ」
「多分その両方だろうな。奴はメキシコのスラム街で育ったと聞く。貧困街での成長は、その過程で凶暴性と野生を手にするものだ。毎日が死と隣り合わせで、野生動物と変わらないような暮らしであったことだろう。十分に気を付けるんだぞ」
「ああ。安威川の奴も良い『鋭圧』を身に付けて、ついにフェザー級で世界チャンピオンになった。みんなどんどん強くなって行くんだ。俺だって負けてらんねえぜ」
『人の振り見て我が振り直せ』と言ったところか。明は安威川の成長に、良い刺激を受けているようだった。
「その意気だ。世界レベルになると、弱い奴などいる筈がないからな。ましてや同じ世界チャンピオンだ。一瞬も、気を抜くんじゃないぞ」
この困難な状況を、何としてでも打開しなくてはならない。そうでないと、試合前に自分が言ったことを、明がされてしまうことになる。それだけは避けなければ。
流れるようにして第2ラウンドは開始された。ラウンド開始直後、一閃、矢のような拳が明の顎を射抜いた。吹き飛ばされ、止む無く片膝をつく明。
“『ギア』を上げて来やがったな。エンジンがかかって来た。こいつはいよいよマズいかもしんねえな”
ふらつきながらもカウント9で立ち上がる。だが、それも少し贔屓め。数えたのが米原のような『明寄り』の人間でなければノックアウトの判定が出ていたかもしれない。止めるべきか?五十嵐、米原両名の頭にそんな考えがよぎる程であった。
“クソッ、情けねえ。足にキてやがる”
立ち上がりはしたものの『たった』3打でコーナーへと追い詰められる。
“出すべきか”
禁じ手とされたが、もうコーナーに寄せられ、絶体絶命と言って差し支えない状況だ。タイムは後1分少々。小細工が通用しないことは分かった。
「ううんっ」不意に五十嵐が咳ばらいをする。
“そうだよな。こんな時、どうしたらいいんだっけ?”
明は咄嗟に知恵を絞って考える。
“なんとか潮目を変えないと。そうだ!”思い立ったら即実行する。
桜山 拳一郎の『コンパクトカウンター』
これにはチャベスもだいぶ面食らったようだ。出そうとした右ストレートを引っ込めるほどに焦りの色を見せ始める。やり返すなら今だ。
だが、明はこのラウンド身体に力を入れることができなかった。一度のダウンでこれ程までのダメージを与えるとはチャベスという男は相当な『パンチ力』の持ち主であると言えよう。チャベスは前へ出てグローブで明の視界を覆い、空振りした所へカウンターを合わせて来た。これには明も、堪らず距離を取ることを選択した。
「怯むな明。足を見て間合いを計るんだ」
素早く的確な指示が出たことで、明は難を逃れ、五十嵐がセコンドに付いていてくれたことに感謝した。チャベスはステップとジャブを上手く使い、巧妙に距離感を狂わせて来る。
しかし、洗練されているように見えるが、少し拙い部分が目立つ。一閃。強烈な一撃が左頬に直撃する。牽制のために打った左フックに合わされてのカウンター。これが試合本番かと勘違いしてしまうほどの豪打だ。予備動作がなく攻撃が予測しにくい選手だ。撓った腕から繰り出される拳は鞭のように反動がつき、その威力は通常の1、5~2倍とも考えられる。
そして、恐らくチャベスは拳を完全に握らず、開いたまま指を当てるという芸当をやってのけている。これは誰に教わった訳ではなく、彼自身が経験の上で編み出した手法なのであろう。その圧倒的なボクシングセンスに、明と五十嵐は素直に感心さざるを得なかった。そして、大きくゴングが鳴らされ、第2ラウンドは終了した。
「このままではジリ貧だぞ。チャンピオンとしてこれからも長くボクシングを続けたいなら、この戦況を覆してみろ」
「ああ、任しとけって。どうせなら『バーナード・ホンプキンス』みたいに長くやりたいもんだな」
「ほう、言うようになったじゃないか。ホンプキンスと言えば、最年長世界チャンプとして有名だ。是非、そうなってほしいものだな」
五十嵐は明の日々の成長を素直に嬉しく思った。
一抹の不安を拭い切れないまま、焦る気持ちを感じながらの第3ラウンドが開始された。軽めの右フックに『コンパクトカウンター』を合わせられる。
“クソッ小技ならスグに真似できるってのか。初めて打っただろうになんて威力だ”
カウント7、立ち上がった明の目には未だ輝きが保たれていた。怯まずに豪腕を振るい続ける明。目まぐるしい猛攻にチャベスの表情がみるみる険しくなる。
虚をついて明が珍しく出した『左ストレート』に合わせて、チャベスの軽快な『右フック』が炸裂する。左蟀谷に突き刺さった拳は『ミシッ』と嫌な音を立てた。見よう見まねであったがために、その威力は60%と言ったところか。だが、その拳は明をマットに沈めるだけのパワーを宿していた。
“これまでか”五十嵐は不本意ながらタオルを投げようとした。
“『今の明』ならこの行為を分かってくれるだろう。でなければ自分が悪者になってもいい”そう考えた。その時、大きな音を立てて勢いよくジムのドアが開いた。
「明、秋奈ちゃんが――」飛び込んで来たのは慎也だった。
再び米原が通訳し、やむを得ない事態であることが伝えられた。
「いいだろう。君のクセはもう見抜いた。決着は統一王座決定戦の日にリングの上でつけるとしよう」
チャベス陣営はただならぬ事態であることを受け入れ、スパーをここで中断することに合意してくれた。
「それと、ミスター五十嵐。あなたに是非ともお願いしたいことが――」
チャベスは向き直って五十嵐に熱い眼差しを向けた。五十嵐は秋奈が心配ではあったが、ボクサーとしてチャベスの申し出を断りたくはないと考えた。明と慎也は少し休憩を挟んだ後、病院へ向かうこととなった。
「あのままやってたら勝ってたんだろ?」
病院に向かうタクシーの中で、慎也は自らの考えを打ち消すように、明に虚勢を張ることを求めた。
「いや、2ダウン目を奪われてから全く身体が動かなかった。あのまま続けてたら,
間違いなく3つ目のダウンを取られてたよ。実質あの3ラウンドで負けちまってたな」
明には慎也の思いは伝わっていたが、ボクサーとして机上の空論ではなく、実力で勝たなければ意味がないと考えたようだ。
「何がそんなに違うんだ?仕掛けでもあるってのかよ?」
「多分、何のタネもなかった。ただ単純に強いんだよ。実力の差だ」
「そんな強い奴がいるのかよ。技も使わずに追い詰められるなんて」
慎也は自らの想像を超えた強者がいるという事実が信じられないといった様子だ。
「このままじゃ確実に負ける。なんとかしないと――けど、今はそれより秋奈が心配だ。無事に済んでくれたらいいけど」
「まあ考え過ぎるなって。両方2回目なんだし」慎也は些か楽天的な人物のようだ。
「今負けても、きっと皆よくやったって言ってくれるだろうよ。けど、それじゃダメなんだ。負けずに来たからチャンピオンで居られたんだ。ボクサーは――負けたらそれでお終いなんだよ。フリダシに戻ってまた挑戦者だ。一夜にして全てを手に入れた男が、同じようにしてまた失うんだ。結局はその繰り返しなんだろうよ」
明は少し疲れたような口調で熱弁を振るう。
「でも、俺には家族ができた。守って行きたい、愛して行きたい家族が。だから、俺は負けねえよ」慎也は静かに一つ頷いた。
それからも二人はいろいろな話をしていたが、明は終始どこか上の空であった。自分が強いと本当に心の底から思える時は『強い相手』に勝った時だけだ。ボクサーという生き物は『その瞬間』のためだけにトレーニングを積み、試合に臨んでいるとも言える。乗り越えるべき対象が現れたことは喜ばしいことだが、圧倒的な力の差に打開策が見つかるか不安で仕方がなかった。
病院に着くと、一先ず試合のことは忘れようと考えた。一度目の時のことで流れ的にはどうなるか分かってはいたものの、やはり緊張してしまうものである。病院に着くと、秋奈は既に分娩室に入った後だった。外で待っていた義母である良枝に経過を聞き、取り乱さぬよう必死で心を落ち着かせる。『予定日』より1週間早かったため、スパーを承諾したが、一応慎也に見てもらっていて良かったと思った。
『予定日』とは妊娠前の生理の1日目を0として、そこから280日目となっている。妊娠期間は『十月十日』と言われ、『10ヶ月目の10日目』という意味である。つまり、『30日×9ヶ月+10日』で280日となる。それと、『妊娠22週目から37週未満』で出産することを『早産』と言うが、今回の場合は39週目となるので該当しない。
『二人目の出産は早く生まれる』と言われるように、今回はその通りになった。病院に着いてから4時間での安産と言えるものであった。生まれた子は3665グラム。
よく泣き、よく笑う男の子であった。秋奈と生まれたばかりの子と対面し、労いの言葉を掛けた。前回は足がつってしまったので、今回は足を分娩台に乗せないことにしたようだ。秋奈はかなりの疲労感はあるものの、至って健康な状態であった。
そして、明はここへ来て第一子である澄玲のことが一気に気になって来た。元々、脳裏にそのことはあったのだが、秋奈のことが気掛かりであったため、そこまで気が回っていなかった。公衆電話に十円玉を8枚積んで、澄玲を預けている実家へ電話を掛ける。母に無事生まれたことを告げ、愛娘に代わってもらった。
「もしもし、澄玲?ちゃんといい子にしてたか?」
明はもうすっかり慣れたというように我が子との会話を楽しんでいる。
「うん、いい子にしてたよ!おばあちゃんが内緒でぬいぐるみ買ってくれたの」
この年頃の子供は何でも素直に話してしまうものであり、そういうところが可愛らしく思えたりもする。
第二子誕生の際には第一子の感情が不安定になりやすく、過剰に抱っこや母親へのスキンシップを求めたり、イヤイヤが驚くほど激しくなったり、母親への執着が強まったりする。実家に預ける場合は泊まるところに慣れさせ、好きな遊びをさせ、離れていても一番大切に思っていることを伝え、入院日数分の手紙を渡しておくことも、一つの手であると言える。
ぬいぐるみを母親の代わりとして持たせたり、兄、姉になったことのお祝いに『サプライズプレゼント』を渡すことも良いので、できればしておきたい。子供は親が思うより数倍状況を理解しており、第二子誕生後に“お腹に戻れば良いのに”などと考えている場合があったりする。
だが、両親の心配を察してか、頭の良い子ほど、そのような思いを口にせず強がり、ストレスを溜め込んでしまうものなのである。そういう面では未熟な両親よりも、よっぽど大人であると言える。
「そうか。それなら心配いらねえな。もう2、3日したら帰るからよ。もう少し辛抱しといてくれよな」明は澄玲の元気そうな声を聞いて、漸く安心したようだ。
「うん。待ってるからね。ママにもよろしくね!!」澄玲は嬉しそうに声を弾ませた。
明は分娩室に戻り、秋奈に澄玲の様子を伝えようとする。
「すいえあ、よおいうっえ」明の変わりように、秋奈は心底驚いた反応を見せる。
「えっ――どうしたの?大丈夫?」
明も自らの異変に戸惑いを隠せなかったが、必死で心身を律し、ゆっくりとした口調で言葉を発した。
「いや、ほんのジョークだ。ちょっと悪戯してやろうと思ってさ」
秋奈は肩を落とし、少し呆れたような笑顔になった。
「も~。冗談はやめてよね。出産の後で本当に疲れてるんだから。まるでロビンソンと闘う前の五十嵐の叔父さんみたいだったよ」
明は不敵に笑うと、また慎重に話を進めた。
「寅さんばりに名演技だったろ?日本アカデミー賞特別賞もんだな」
明は努めて得意げに振る舞って見せた。
「ほんと、まんまと引っかかっちゃったよ。けど、冗談抜きで気を付けてよね。ただでさえ頭を殴り合う危ないスポーツやってるんだから」
秋奈のこの発言は本気で、冗談ではないと言った感じだ。
「はっはっはっ。まだまだ未熟だな。分かってるって。この歳で愛する妻子を残して死ねるかよ」“子弟とは不思議なものだな”明は強くそう感じていた。
「絶対にだよ。退院してからは、家族4人で暮らすんだから」
「いや、試合まで暫く家を空ける。澄玲には帰ると言っちまったんだが、俺には今やらなきゃならねえことが出来ちまったみたいだ」
そう言うと明は慎也に「よろしく頼む」と言って部屋を出て行ってしまった。
1989年4月30日。東京都千代田区北の丸公園にある日本武道館で試合が行われる。控室で試合前の調整を行っていると、ノックの音が聞こえ、安威川、グラッチェ、古波蔵、与那嶺、皆藤兄弟、桜山が激励に来てくれた。
「いよいよやな。この試合で11回目の防衛。そして、世界最強の統一王者や。期待してるで」自身も世界チャンプとなり、貫禄の出て来た安威川はキリっとした表情で言う。
「明くんならやってくれると思う。なんたって君は僕を倒した男なんだ」
仏のような笑みを浮かべて、グラッチェは話す。
「楽しみにしてるよ、KO」古波蔵は何故か普段より嬉しそうにニヤついて言った。
「負けたら承知しないぜ。お前にリベンジするために、毎日それ用のトレーニング積んでんだからよ」与那嶺は冗談めかしてそう言った。
「気合入れてくれよな。歴史的瞬間、見てえからよ」篤はいつになく真剣な面持ちだ。
「随分遠くに行ってしまったね。今日は声が枯れるまで応援させてもらうよ」
遼はどこまでも紳士な対応をする男だ。
「お前は俺の憧れだ。ずっとそうあってほしい」桜山は強い気持ちを込めて言った。
一人一人と握手を交わした明は、少し涙ぐみ、勝ちへの思いを一層高めた。
「勝って最強のチャンピオンになって来い」
そう言うと五十嵐は左拳を突き出し、明の左拳と合わせた。そこで皆からちょっとしたサプライズがあった。明が集めていた『なめ猫』のキーホルダーのうち、持っていなかったものを貰って、その時点で販売されているものが全て揃った。
皆の強い気持ちを受け、志を高め、明はリングへと向かった。選手紹介を受け、リングサイドで五十嵐から言われたことを思い返す。
「奴は貧困街で生まれ、まともな試合、トレーナーにはほとんど恵まれていないと聞く。まともな技は『チョッピングライト』だけ、大技を持っていない。だが、数ある団体の中で最も過酷なWBCのチャンピオンだ。最強と呼ぶに相応しい相手だぞ」
リングに上がり、WBAの『黒のベルト』とWBCの『緑のベルト』をそれぞれのチャンピオンが巻いてルール説明を受ける。統一王座こと『スーパー王座』は、WBAのチャンピオンとして扱われ、『最強の称号』を縦にできるのである。
試合前の国歌斉唱。日の丸の旗が悠然とはためいている。そして、厳かにゴングが鳴らされ、第1ラウンドが開始された。チャベスはバンタム級としてはかなりの長身で178cm。リーチは182cm。明の171cmと比べて11cmも長い。両者コーナーを蹴ってリング中央へ歩み出る。チャベスは正確無比にピンポイントを射抜く。まだ若いが、群雄割拠のメキシコで天下を獲っただけのことはある男だ。
“凄い冷静さだ。これじゃどっちが年下か分からねえぜ”
明はその機械のように正確で、洗練された動きに改めて感心させられた。チャベスのアッパーを拳を縦に並べるスタイルで受け止め、カウンターで右フックをお見舞いする。そして、チャベスの2度目のアッパーを受け止めようとしたが、拳の間をスルリと抜けてアッパーが顎に命中してしまった。
さっきと同じようにガードしたのに何故?明は疑問を抱きながらも、チャベスへの攻撃の手を緩めることはなかった。そしてゴングが鳴り、第1ラウンドが終了した。明が一息ついてから聞こうとする前に、五十嵐が丁寧に解説してくれた。
「あれはメキシカンアッパーと言ってな。初めに拳を横にしてアッパーを出すことで相手にその拳の幅で認識させ、次に拳を縦にしてガードの隙間を縫うようにしてアッパーを当てるという高等テクニックだ。対抗策としては、クロスアームガードが有効だ」
「ああ。あれは本当にやり辛いぜ。それに距離感をとるのが難しいパンチだ」
明はそう言うと水を口に含んで嗽をした。
「メキシカンは肩を入れ込んでパンチを打って来るから、伸びるような錯覚に囚われるんだ。拳二つ分は伸びると思っておけ」五十嵐は冷静に解説を加える。
「変則的でトリッキーなパンチを出して来る。巧さのある、おそらく玄人好みの男だろうな」明は静かに頷く。
「あれは本当に骨が折れるぜ。距離感が狂ってペースがおかしくならないようにしないとな」明は少し上を向いて深呼吸した。
そしてゴングが鳴って第2ラウンド。チャンピオンとして、押されっぱなしではいられない。フェイントを織り交ぜ、低い体勢から勢い良く体重の乗った『スマッシュ』をお見舞いする。チャベスが少し身体を引いたことでヒットポイントがズレ、心臓の動きは止まらなかったが、彼はこれに大層驚いたようだ。
動体視力の良いチャベスは技が見えないということはなかったのだが、この『スマッシュ』に関して言えば突然身体に痛みが走るような感覚に囚われた。バックステップで後ろに下がり、少しでも追撃を受けないように身構える。
対する明は、猛虎のように鋭くチャベスに襲い掛かる。チャベスが出したストレートにもう一度『スマッシュ』を合わせ、倒しに掛かる。しかし、チャベスは倒れない。しっかりとした骨格が、細身の身体でも頑丈にその身を守っているようだ。
そして返す刀で『チョッピングライト』。切れ味があり、体重も乗っている。この技は上から振り下ろすように相手の身体に拳を打ち付ける必殺技である。だが、明の鍛え上げた肉体は、その攻撃をもろともせず、悠然と構えている。
不意にチャベスが妙な動きで明を翻弄して来る。チャベスの動きに明は相当やり難そうだ。リングサイドで見ている五十嵐と米原は試合を戦々恐々と見ている。
「肩だけで手を出さずにフェイクを入れて来るなんて相当な手練れだな。上級者であればあるほどに、鮮明な幻のパンチが見えてしまうもんだからな。込めた殺気が刃のように空を裂く」流石に五十嵐にはチャベスの手口はお見通しのようだ。
「ダメだ、まるで手数が追い付いてない。相手は手が4本あるようなものだな」
米原は戦況に対し、わりと悲観的に捉えているようだ。次の瞬間、チャベスが出した技に思わず二人とも目を見開いてしまった。
『クロスクリュー』
スパーの時には確かに使っていなかった技だ。明はそれをモロに顎に食らってしまった。意識が飛び、ダウンを喫する明。カウント8で辛うじて立ち上がるが、足元がどこか覚束ない。そして苦し紛れに出したアッパーに、またしても『クロスクリュー』を合わされてしまう。無残にも2回目のダウンを取られてしまう明。
カウント9。ほぼ10に近いところで辛くも立ち上がり、ファイティングポーズをとることができたところでゴングが鳴った。明は雨に濡れた子猫のように衰弱した様子だ。
「あのたった9分間のスパーの中で2つの技の特性を見抜き、2週間で猛練習し、合わせ技まで身に付けていたのか。なんという才能と努力。あと一年、奴と対峙するのが遅かったらと思うとゾッとするな」
流石の五十嵐もチャベスのあまりの才能に驚きを禁じ得ない。試合が再開されると、すぐさまチャベスの『チョッピングライト』が明のボディに突き刺さる。だが、ダウンするほどではなく、明は苦しいながらも試合を続行できている。しかし、五十嵐には気になることがあった。
“なんだ、何故あんなに顔色が悪いんだ。まるで毒でも喰らっているかのような――”
異変に気付いてはいるものの、百戦錬磨の五十嵐でも原因を予測することが難しかった。
“気にし過ぎか。試合中は顔が赤くなることは普通だ。しかしどうも青が混じり、紫がかっているような――”
明の顔色は息でも止めているかのように、みるみる変色して行く。
“いや、おかしい、おかし過ぎる。なぜあんな大器が『クロスクリュー』という必殺技を持っているというのに決めに来ない?奴のセンスなら決め技として通用する筈だ。チョッピングライトなどという化石のような技に頼るのには何か訳がある筈だ”
当の明もチャベスの繰り出す技を食らう度に妙な違和感を覚えていた。
“苦しい、さっきから身体がおかしいぜ。あの『チョッピング・ライト』だ。あれを食くらう度に全身が蝕まれて行くような――”
明は『クロスアームガード』で防いではいるのだが、チャベスは巧みに角度を変え、針の穴を通すように間隙を縫って技を命中させてくるのであった。毒草の種を植え付けられているような。そんな不気味な気配が、チャベスの『チョッピングライト』には込められていた。ふと気付くとゴングが鳴っており、第二ラウンドは終了していた。五十嵐は『チョッピングライト』の件が気にはなったが、もう少しだけ様子を見ることにした。
「ボディを叩き続けて顎を下げるしかない。相手も同じ人間なんだ。攻撃は確実に効いているぞ」
明も五十嵐を信頼し、伝えられた指示を守り通すことが最良の手段だと信じている。
「ああ。10センチの身長差で若干パンチが当て難いんだ。打って打って打ちまくるぜ」明は相変わらず守勢を貫いて勝つ気はないようだ。
会場の盛り上がりとは裏腹に、微妙な静寂を感じつつも第3ラウンドが開始された。開始直後、米原ジムでのスパーの時のお返しとばかりに、強烈な一撃をチャベスの顔面に向けて放つ。会心のアッパーでチャベスの顎が砕ける。その瞬間、走馬灯のように彼の故郷での記憶が蘇って来た。
リカルド・サルバトール・チャベス。彼のボクシングは1キレのパンから始まった。1980年代、『オイルショック』と共に世界経済には瞬く間に暗雲が立ち込めた。多くの貧困街が存在したメキシコ。盗みに対する罪悪感など、持っている者の方が少なかった。父が居た頃に築いた財も、支配と暴力によって奪われて行った。病の母に与えんと、たった一度手を染めた。しかし彼女は口にしなかった。愛する息子に誇りの意味を教えたかった。死の間際、震える声でこう言った。
「男子たる者、男らしくあれ」
最後は一言、感謝の言葉を残して逝った。泣きはらした夜、彼は誓った。『強くなろう』と。もう何も失いたくない。母の残した『マチスモ』の精神を生の糧としようと――。奪うことこそ人生だ。もう誰も信じられない。この世の全てを自分の物にしてやる。
それから2年後、人は彼を『ミキストリ』と呼ぶようになった。死神と言われ、天涯孤独の業を背負った。彼にとってボクシングはスポーツなどではない。生きるための闘いであり、『人生そのもの』であると。その生への執着心から、これまで彼は一度もリングに身体を着けたことはない。
倒れることは即ち『死』、『生』の終わりを意味する。勝つことは生きること。必然の行いなのである。一つ一つの重みが違う、意味が違う。景色も言葉も時間だって何だって。生き抜いてみせる、母の分まで。
これほどの一撃を食らっても、チャベスは決してダウンを喫することはなく、頭蓋骨が歪むような強烈な一撃で、明の頭を激しく揺らす。突然の猛打にダウンを喫する明。だが、毅然として起き上がり、平然とファイティングポーズをとって見せる。
“なぜだ?なぜそこまでして立ち上がって来る”
チャベスは自らを上回りそうな執念を見せる明に、大きな戸惑いを覚えるほどであった。刹那、明の強烈なアッパーがチャベスの『エルボーブロック』に当たった後すり抜け、顎の端を掠めて見事に脳を揺らして見せた。
これは偶然ではなく、脳震盪を引き起こすために明が意図的にそう当たるように調節したものであった。これにはチャベスも堪らず蹌踉けながらロープに凭れ掛かった。強烈な一撃に、気を抜けば忽ち意識が飛んでしまいそうになる。
明には試合をひっくり返し、形勢逆転できるだけの『破壊力』が備わっている。一方チャベスには派手さはないが、ジリジリと相手を追い詰める『忍耐力』があった。そういう意味でこの試合は最強の矛と盾の闘いであると見ることもできる。
互いに勢いに乗ったまま、少しの余韻を残して第3ラウンドは終了した。
「彼は相当な『ハードパンチャー』だ。だが、臆することはない。私には『マチスモ』の精神がある」
顎が折れ、話すのも困難な筈であるが、勝ちへ向かって自らを鼓舞するために、チャベスは敢えて強気な発言をしている。
「精密機械のような『正確さ』と野生動物のような『野蛮さ』。その両方があって初めて世界を制することができる。僕にはそれらの素質がある。負けられる筈なんてないんだ」
チャベスはどこまでも強かに、ただ只管に勝ちを追い求めることができる男のようだ。
「その通りさリカルド。臆することはなく、何も心配は要らない。だが、こちらの『思惑』が的中しているが、油断はできない。なにせ相手は10回も連続で防衛を続けているチャンピオンだからね。相手が立っている限り奇跡が起きる可能性は十二分にある。それを0にするのが勝ちへの最良の一手だ」
セコンドのセバスチャンはボクサーとしてのチャベスを尊敬し、愛し、信頼しているため、なんとしてでも、この勝負に勝たせてやりたいと考えていた。
混戦の中で第4ラウンドを終え、互いに一歩も譲らぬまま第5ラウンドが開始された。両者やや強張った面持ちでファイトを進め、一見して明が優勢に見えるが、やはりどこか様子がおかしい。
そして、チャベスの驚異の粘りからの痛恨の『エルボーブロック』で『スマッシュ』が止められ、明の右拳が大きく、そして鈍い音を立てた。利き手である右手が使えず、優勢から一転、最大のピンチを迎えてしまう。絶対的不利な状況の明は、誰の目から見ても満身創痍といった状態であった。あまりに凄惨な明の『姿』に、秋奈は思わずリングから目を背けたくなるほどであった。
「もういい――もういいよ」秋奈の目から、一筋の川が流れた。
勢いに乗ったチャベスは、大きく振り被った後、留めの一撃とばかりに必殺の『チョッピング・ライト』を明の左側頭部に向けて強烈に炸裂させた。絶体絶命の状況だが、明は己の持てる力を出し尽くそうと、1分ほど遮二無二拳を繰り出して闘い続ける。
しかしここで、糸が切れた人形のように急に明が倒れる。突然のダウンに会場がどよめく。ボクシングの試合において打撃を受けていないのに選手が倒れるのは、すこぶる異常なことである。明が左脇の下、第三肋骨の辺りを抑えているのを見て、五十嵐は思考を巡らせる。
“そうか、奴が狙っていたのは生体防御を司る器官、『脾臓』だったのか。じわじわと嬲り殺しにするつもりだったんだな。なんて恐ろしく、強かな男だ。乱雑に見えて確実に急所を突いて仕留める選択をするとは、狡猾な肉食動物のようなことをする奴だ。あんな化石のような技を使って来たのには、そんな訳があったのか。どんなに鍛え抜こうとも人体にはどうしようもなく脆い部分があり、脾臓もその一つであると言える。このラウンドまでずっと『伏線』を張っていたんだ。セコンドの目まで欺くとは大した奴だ”
チャベスの『スプリーン・ブレイク・チョップ』は、じわじわと明の身体を蝕んで行き、その体中で花を咲かせてしまった。チャベスお得意のKOパターンを、モロに食らってしまったと言える。
そして、運の悪いことにメイウェザーに殴られた時にできた頭の傷が、『チョッピングライト』によって開いたようだ。息も絶え絶えとは、このことである。大量の油汗と共に『勝機』さえも流れ落ちてしまいそうである。
だが、習慣とは恐ろしいものだ。土壇場では勝ち癖、負け癖が露骨に出る時がある。ここへ来て明が踏ん張れているのは、これまでの勝ち星の貯金による所も大きい筈だ。
“右手は『エルボーブロック』で折れかけたままだ。そしてそれは、最後の決め技の時まで取っておかなくてはならない。それに、時間を止めても『その後』がない。どうすれば――“
拳が壊れかけた明の右ストレートには、もう相手を薙ぎ倒すだけの力が残っていない。多難な前途を憂いながら、第5ラウンド終了を告げるゴングが鳴り響いた。
「現役を引退してからの人生の方が遥かに長い。にも関わらず、後先など考えずに今日の試合に命を懸ける。そういう在り方にボクサーとしての美学を感じる者は多いだろう。だが、お前にはまだ先がある。今ここで無理をして全てを台無しにしては何もならない。どうだ、ここは一度身を引いてみないか?」
五十嵐は真剣な表情で棄権を提案し、明を説得しようと試みる。
「今じゃなきゃダメなんだよ。人は輝いていられる時間が限られている。人生のピークで、勝負を降りないのは戦士として当然の判断だと思うんだ。後先なんか関係ねえ。俺はやり切って見せる。やりきらなきゃならねえんだ!」
周囲の困惑をよそに、明の勝利に対する決意は相当に堅いものであるようだ。
「俺が本当に倒すべき相手は、自分自身なんだ。今やらなきゃ全てが無駄になっちまう。ロビンソンを倒した時のように、チャベスを倒して最強のチャンピオンになりてえんだ」気持ちの入った状態の明は、尚も熱弁を振るう。
「それに、負けた試合は勝利の女神が居なかったからかもな。だが今日は大丈夫だ。あの子が居たから頑張れた。あの子が頑張ってるから自分も頑張ろうって。だから俺は負けねえよ。負ける筈なんてねえんだ!!」
珍しく熱くなる明に、五十嵐も呼応するように答える。
「そうか。そこまでの決心ができているのであればもはや止めまい。『強さとは何か』その答えが、お前にはもう分かっている筈だ」五十嵐は大きく力を込めて話した。
「そうだよな。これは自分を取り戻すための闘いなんだ。秋奈に『いいとこ』見せてえんだ。惚れた女の前でカッコつけてえのが男ってもんだ。例え命尽きようとも一矢報いてやろうじゃねえか。最後に一花咲かせてみせるぜ」
明は思いの丈を語りきったといったように自信に満ちた顔つきをしていた。
「よく言った。お前の倅に父の背中をしかと拝ませてやれ」
五十嵐も師匠として、セコンドとして、最後まで明を見守る覚悟を決めたようだ。
極限のラストラウンド。五十嵐は祈るような気持ちでリングを見つめ続ける。
「ここまで来てノーダウンか。あれはまさしく化け物だな」
チャベスのあまりの強さに、米原は戦々恐々とした心持ちであった。
“『ハート・ブレイク・スマッシュ』を決めても左ストレートでは奴は倒せない。どうすれば――”尚も五十嵐は、仇敵を倒す術がないかを必死で模索し続ける。
「良い面構えだ。明のやつ、ついに腹を括ったようだな」
決死の覚悟を決めた明の面持ちに、米原は感服仕ったといった心情である。
「もし、拳に古傷がなかったら。もし、シュナウザーから『ラビットパンチ』をもらっていなければ。もし、チャベスの毒牙を見抜けていたら。だが、今更そんなことを言っても、何の足しにもなりはしない。最後は『本当の強さを持った者が勝利する』ということ。ただその一つに尽きる」
“五十嵐はもう案ずることはない。明に任せると決めたのだから、自分にはもう信じることしかできない“そう考えた。
そして、一呼吸置き、明はこれまでのボクシング人生を思い返していた。渾身の力を込めて『スマッシュ』をブチ込む。普段なら3秒時間が停止するところ、今回の迫撃では5秒間の心停止となった。チャベスは目を見開いて、鬼の形相で確と明を見つめている。
『ララパルーザ』
地響きが聞こえるほどの派手なパンチのことで、全身全霊を懸けたの『スマッシュ』は、まさにそう呼ぶに相応しいものであった。右手を上にして両手を縦に構え、チャベスを迎え撃つ。
“あの体制では『スマッシュ』は打てない。何を考えているんだ”
五十嵐の心配をよそに、明は悠然として立ち、身体中の感覚を研ぎ澄ませている。
“あの構えは――『ジョルト』”
明は3秒ほど余韻に浸った後不敵に笑い、全身の力を込めるように歯を食い縛る。
“武士道とは『託すこと』と見つけたり”
大地が割れるかと思われる程の衝撃が、一点に集まってチャベスの腹部中央を襲う。すぐさまレフェリーがカウントを開始する。チャベスは膝が折れ、両膝を着いて崩れるが決して倒れはしない。
1、2、3――皆がその光景を固唾を飲んで見守る。
4、5、6――永遠とも思える時が流れる。
7、8、9――10。カウント10と共に気絶。
膝が折れたが、身体がマットに着くことはなくKOとなった。
リカルド・サルバトール・チャベス。彼は最後まで鬼の形相で、赤居 明ただ一人を一点に見つめていた。なんという執念。なんという精神力。並みの人間ならとうに力尽きていた所を強靭な精神が支えていたのだ。
『電光石火』
必殺の連撃で最強の男、リカルド・サルバトール・チャベスを撃破した。
「そうか、『スマッシュ』と『ジョルト』は同時には打てない。だから二連撃を打つために左右の腕に必殺技を覚え込ませたのか。明の奴、いつの間に『あんな技』を身に付けていたんだ。こんな隠し矢を持っていたとは。少し嫉妬してしまうじゃないか。しかも体重を掛け、腕を外から回り込ませる全身全霊の迫撃だ。まさに『フィニッシュブロー』と呼ぶに相応しいものだった。上段の『ジョルト』と下段の『スマッシュ』。あれはボクシングの最強の型かもしれんな」
隣でほくそ笑む古波蔵を肘で小突きながら、初孫を見た時のように嬉しそうに五十嵐はそう言った。
「最高のコンビネーションだったね。本当は僕があの場に立っていたら良かったんだけど」
古波蔵の実力を持ってすれば、現実的にそうなっていてもおかしくはない。
「俺だってできることなら、いつだってカムバックしたいさ。生涯を拳闘に捧げて来た根っからの『ケンキチ』の俺にはボクシングを捨てることなんてできっこないことなんだ。ファイティングスピリッツを失わない限り、拳闘家は一生ボクサーなのさ」
そう言うと五十嵐と古波蔵は、当然のように宿敵としてではなく、気心の知れた旧友として笑い合った。
一方の明はというと、精根尽き果てたといったように憔悴し切っている。明にとってこれが間違いなく人生最高の試合、ベストバウトと言えるであろう。リングに上がって来た秋奈から、澄玲と武を預かって大切に両腕に抱え、大きく胸を張って見せた。
5分ほど経って目が覚めたチャベスは、この光景を酷く顔を歪めながら眺めていた。それはチャベスにとって、どんなに手を尽くしても守ることができなかったもの、最も手にしていたいと願ったものだからであった。
だが、後にチャベスはこう語っている。極東の島国にとても強い男がいた。世界チャンピオンを19度も防衛した僕が、唯一KO負けを喫した忘れられない相手だ。
最初、僕はなぜ彼に負けたのか分からなかった。パワー、スピード、テクニック、どれを取っても一級品なのは僕の方なのに結果、軍配が上がったのは彼の方だった。悩み抜いた末、ドラッグに手を染めそうになったこともあったさ。
けど、ローサと式を挙げてみて分かったんだ。あの時の僕じゃ勝てる筈がないってね。彼は自分のためではなく誰かのために、家族のために闘っていたんだ。彼にはそう、護るものがあったんだ。大切な人のために命を擲った彼の『サムライスピリッツ』にこそ強さの秘訣があったんだね。彼のような小さな武士に、あれほど大きな『大和魂』があったことに、僕はたいそう驚いたものさ。まさか2度にも渡って彼らに負けるとは思わなかったけどね。
試合後、チャベスの複雑骨折した顎には針金が入り、2回の手術を余儀なくされた。この傷が闘いの激しさを物語っている。一方で明は肋骨を2ヶ所、右手は手首から先を粉砕骨折しており、最後の一撃で完全に拳が砕けてしまった。五十嵐と共に八方手を尽くしたが、結局は砕けた拳に麻痺が残り、満足に試合を行うことができないようになってしまった。赤居 明のボクシング人生はそこで終わりとなった。
「まさかこの若さでグローブを壁に掛ける日が来ようとはな」
五十嵐は自分の引退の時よりも悲しげに、本当に残念がっていた。
「11回も防衛できただけでもう十分さ。どうしようもない不良だった俺が、世界チャンピオンとして統一王座にまで就けたんだ。これ以上を望むのは贅沢ってもんだよ。それに、あの子に――武にバトンを託したんだ。人の命は有限だ。けど、子供が居ればソイツが自分たちの意思を受け継いでくれる。こんな有難いことはねえよ。俺にはもう闘う理由がないんだ」
全てをやり終えた明の表情は、これ以上ない程の達成感を得たといったものであった。
「最後の試合の明くん本当にかっこよかったよ。光源氏みたいだった。惚れ直したよ」秋奈は満面の笑みでそう話した。
「そう言われたらこれまで頑張って来た甲斐があったってもんよ。男冥利に尽きるぜ」明は少し照れたように満足げに笑って見せた。
それからは秋奈と二人の子供と共に、秋奈の母のツテで田舎に引っ越して農業をすることになった。新潟に旅立つ前、利根川水系中川の支流である大場川の河川敷に皆で集まってバーベキューをした。その時に撮った集合写真は、今でも大切に飾ってある。
これまでの活躍の裏には自分に負けない信念、大切に思える仲間、弛むことなく続けられた努力が確かにあった。その3つがあったからこそ、赤居 明はどんな苦境に立たされても決して諦めずに突き進んで行ける『強さ』を持てたと言えるであろう。