第六章 防衛偏
桜山 拳一郎。鹿児島県鹿児島市星ヶ峯出身、B型。俺は今日の世界戦に命を懸けている。親父の興した建設業の会社は瞬く間に大きくなって行った。四兄弟の次男として生まれ、いつも兄の後を追って来た。そんな自分が嫌で、何かを変えたくて、裕福だった家を飛び出し単身大阪へ出てきた。
俺には安全な道が、敷いてもらったレールがあったんだ。でも、俺が欲しかったのは約束された未来じゃない。自分がどこまでやれるか、ただそれだけが知りたかったんだ。赤居のビデオはすり切れるほど見た。同い年で同じ年にデビューしても、二人には明確な差があった。
チャンスがなかった訳じゃない。今まではそれを活かせなかっただけだ。タイミングが悪かっただけで、実力で言えば俺にだってチャンスはある。デビュー戦で連撃 加雲太との試合で判定勝ちした時の、あの割れんばかりの拍手をまた味わいたいんだ。
ガキの頃から喧嘩ばかりで怒られることしかなかった俺が、初めて褒めてもらえたのがボクシングだった。俺にはこれしかねぇ。勝ち続けることでしか、自分を認めさせる方法はないんだ。
絶対に勝って認められてやる。自分の居場所を失わないために、戦い続けるんだ。最強の証明がほしい。自分がやって来たことを形にしたいんだ。ここが正念場。人生掛けて行くぜ。勝つことが俺にできる最大の恩返しなんだ。
安威川 泰毅が日本チャンピオン三階級制覇を成し遂げるためにその地位を明け渡した。そこで空位になったバンタム級の日本チャンピオンに辛くも就くことができた。そして今日の世界戦。やっと運が回って来たんだ。ここで逃してたまるかよ。今まで成りを潜めて来たが、それも今日で終わりだ。
1985年12月31日。試合開始5分前。収容人数3千人の大阪府立体育館が大きく揺れる。
「青のコーナーからは桜山 拳一郎。身長168cm、体重117ポンドと2分の1(53.75kg)。トランクスの色はピンクであります」
ベテランと思しきアナウンサーが、軽快な調子で会場を盛り立てて行く。
「赤のコーナーからは第66代世界バンタム級チャンピオン、赤居 明選手の入場であります。身長168cm、体重117ポンドと4分の1。金のトランクスが印象的です」いよいよだ。自然と胸が高鳴る。
『カンッ』
第1ラウンド開始とともに攻勢に出た赤居を前に、緊張はピークに達していた。まるで今日初めて試合をする4回戦ボクサーのように心も身体も固くなっていた。冷静にならないと。攻められると30秒でも途方もない時間に思える。
「光と影、辛酸を舐めた者には、そこから這い上がって来た経験がある。エリートにはない必死さがある、そこがお前の売りだ」
試合前、コーチの大隅から言われた言葉が脳裏に蘇る。やれるだけのことをやるだけだ。フェイントもダッキングも効いている。今まで俺がやって来たことは無駄じゃなかったんだ。そう実感すると試合中だがほんの僅かながら涙が出そうになる。クラウチングスタイル、前傾姿勢を保ったまま、このラウンドは一度のダウンもなく攻め続けることができた。
「いいぞ、拳一郎。序盤少し硬かったが、世界戦としては上々の出だしだ。存分にお前の強さを見せつけてやれ」大隅は桜山の試合運びに満足げな様子だ。
「ああ、任せといてくれ。今まで大隅さんには苦労を掛けちまったからな。それも今日で終わりだ。必ず、世界チャンピオンのいるジムの会長にしてやるよ」
「頼もしいじゃねえか。期待してるよ」
桜山は小さく頷き、微笑む余裕さえあるようだ。
そして第2ラウンドが始まり先程の勢いを殺さぬよう力を尽くすが、パンチが入っているのに効いていないように感じる。それに比べてチャンピオンの拳のなんと重いことか。
“俺の拳は軽いのか?血と汗と涙の、魂の宿ったストレートは通用しねえのか?いや、そんな筈はねえ。いつだってやって来れたじゃないか。無理と言われたことだって、自分の腕一本で成し遂げて来たんだ。今日だってそうさ。俺が負ける筈がねえ”
そう思った矢先、チャンピオンの強烈なパンチが頭部左側に命中する。思わず体制を崩し、倒れ込んでダウンとなる。これがチャンピオンの必殺技である『スマッシュ』か。
辛うじて意識は繋ぎ止めた。倒されるのは恥じゃない。ただ、最後に立っていればいいんだ。ファイティングポーズを取ってグローブを拭き、審判に戦意を表明する。
そしてペースを乱さないように一心不乱に拳を出し続ける。一部の隙もないように。己の心を悟られぬように。ただ只管、勝ちに向かって進むだけ。汗が飛び散り、呼吸が早まるのが分かる。熱く滾り、相手を倒すまでは止まらぬ覚悟で打ちのめすまで。
内なる野性を解き放ち、本能のままに相手を喰らい尽くすまで。試合に向けて散々シミュレーションを行って来た。予想通りで一流、予想を超えたら超一流。ならば赤居のその予想、超えて見せるが己の務め。
桜山は常日頃から『足を使ってやる姑息なボクシングはしない』そう決めていた。男らしくただ只管に打ち合いを挑み続けるだけ。それが己の信条であった。そして慌ただしくゴングが鳴り第2ラウンドは終わりを告げた。
「いいぞ拳一郎、その調子だ。だが気を付けておけよ、奴は本物だ。天才タイプにはムラっけがある。だが、天賦の才に溺れることなく努力を怠らなかったからこそ、今日の勝利があったんだ」大隅はここぞとばかりに桜山を鼓舞していた。
「ああ、任しとけって。安威川だって日本チャンピオン3階級制覇を成し遂げたんだ。俺にだってできる。やって見せるさ」
2010年代後半ともなれば、井上 尚弥のように16戦目で日本人史上最速の世界チャンピオン三階級制覇を達成する『鬼才』が現れたりもするが、この時代においては安威川 泰毅が自らへの戒めのために行った日本チャンピオン3階級制覇も相当な偉業と言えるであろう。
「その通りだ。何のために毎年あんな苦しい思いをして、信貴山で合宿をして来たと思っている。今しかないだろ。欲しい物があるなら奪い取れ!!」
大隅の気合に応えるように、桜山は両の腕に力を込めていた。
一抹の不安を、認識しないよう努めながら挑む第3ラウンド。ストレートに合わせて打った左フックがタイミング良くカウンターとなる。運で打ったと揶揄される『ラッキーパンチ』でさえも、その実は本人の血の滲むような努力によって作り上げられたものである。真剣勝負でのマグレは、研ぎ澄まされた神経が最高のパフォーマンスを発揮したと言っても過言ではない。
“いいのが一発入ったな。足に来てやがる。逃がさねえぞ。この日のために苛烈な練習を血肉に変えて来たんだ。絶対にマットの上を這いつくばらせてやる”
センスの塊。まさしくボクサーの憧れであり理想像。赤居 明はそんな男である。
だが、彼とて一人の人間。弱い部分や悩みだってある。間断なく繰り出される拳は、どこか弱々しくも見える。
“『慣れた』かな“桜山は不意にそう思った。そしてここで『ラッシュ』を掛けることにした。どの道15ラウンドをフルに使う気はさらさらない。一撃の下にダウンを奪い、勝ちを掻っ攫う。それが今回の『ファイトプラン』だ。
一気に拳の弾幕を浴びせ、その命さえも刈り取ろうかとする勢いで殴打する。
そしてこれは『英断』であった。カウンターを受けた赤居はテンプルをやられ、足に来ていたのだ。このラウンドで初めてのダウンを奪う。
“やった。『あの』赤居 明を見下ろす日が来るなんて夢のようだ。この時のために気が遠くなるほどサンドバックを叩いて来たんだ。早く終わって勝ち名乗りを上げたい”
しかし、現実はそう甘くはない。ゆっくりと起き上がって来た赤居には多少のダメージはあるものの、しっかりと折れていない『闘志』があるように見えた。軽く頭を振り、体制を整えた『姿』に恐怖さえ覚えるほどである。しかし、臆すれば忽ちそれは負けに繋がる。
“ビビったらダメだ。男は度胸、女は愛嬌。大隅さんにだって言われたじゃねえか。俺はいつだって前を向いて逃げずに進んで来た。今日だってそれができる筈だ。攻めて攻めて攻めまくってやるぜ”そう考え、意地でも後退はしなかった。
そしてゴングが鳴り、このラウンドは終わりを告げる。
「上出来だ、拳一郎。次は起き上がれないくらい強烈にダウンさせてやれ」
「ああ、任せといてくれ。あともう少しなんだ。こんな所で終われるかよ。絶対に俺の勝ちで決めてやる」
桜山は普段は無口な方だが、ダウンを取った興奮から珍しく熱弁を振るっていた。
第4ラウンド開始直後、先程のラウンドのお返しということなのだろうか、味をしめて打ったカウンターにさらにカウンターを合わせられ、強烈なダウンを奪われてしまう。ここまで意識を保てていたのだが、カウント8、ギリギリのところで辛うじて立ち上がった。赤居の『クロスクリュー』は桜山の勢いを絶つには十分だった。立っているのがやっと、すぐにでも意識が飛びそうだ。起き上がりざまに大隅が目に入る。
“クソっ、タオルなんか握ってんじゃねぇよ”
ボクシングは試合中、セコンドからタオルを投げ込まれるとTKOとなり、即座に敗北を喫することとなる。桜山にとってそれは死をも超える屈辱と思えることであった。どんな時でもピンチを想定した練習をして来た。俺はこういう場面にはめっぽう強いんだ。ひと泡吹かせてやるぜ、赤居さんよ。勝負を決めようと一気に攻勢に出る赤居に隠し玉を準備する。
『コンパクトカウンター』
後ろに下がらないカウンターをこれ見よがしに赤居目掛けてお見舞いする。桜山はインファイターでありながら、アウトボクサーのようなカウンターも打てるような器用さを持ち合わせている。そのことに自信を持っていたし、自身の心の支えにもなっていた。
放たれた一撃は、鋭く相手に突き刺さるソリッドパンチを更に鋭くした『カミソリパンチ』と言えるものであった。しかし、相手は世界チャンピオン赤居 明。良い角度で入りはしたものの、見事に受け流され、あっさりと料理されてしまった。必死に足掻いてはみるが、ラスト30秒が砂漠のオアシスのように遠い。
足が使えない分、手数を増やし、ラウンド終了時までダウンがなかったのは日頃の修練の賜物であろう。想像以上の疲れを感じながらの第5ラウンド開始前、大隅がいつもと変わらぬ調子で桜山に話しかける。
「タイトルホルダーの威厳って奴だろうな。慎重になるあまり、長所を台無しにしてしまわないようにな」
「分かってますって、大隅さん」桜山も努めて普段通りに振る舞おうとしている。
「それならいいんだが――お前の長所は何物にも屈しない『度胸』だ。それはなかなか真似できるもんじゃないぞ」
大舞台で100%のパフォーマンスを発揮するのは難しい。それが分かってはいても、大隅にとっては期待に応えてくれると思しき人物に感じられるのだ。
「俺の故郷では雪は滅多に降らねえが、星は降るんだ。そんな綺麗で暖かい村が大好きなんだ。絶対ベルトを持って帰って皆を喜ばせてやりてえんだ」
桜山の言葉に、大隅は小さく頷いて見せた。
けたたましくゴングが鳴り響き、第5ラウンドが開始され、桜山は赤居目掛けて突進して行った。桜山は雑念を振り払うため、一心に自我を高めていた。
“タッパは違わねえのになんて威圧感だ。これがチャンピオンの風格ってヤツなのか。いや、俺だって負けてねえ。手を伸ばせば栄光に届くんだ。何のための4年間だ。ここで勝てなきゃ、俺の努力は全て無駄だ。そんなのただの大馬鹿野郎だ。親の期待裏切って、触れるもの皆傷つけて、それでも勝ったから認められて来たんだ。勝たなきゃそこらの破落戸と一緒だ。俺はそんな風にはならねえ。チャンピオンになって、天辺取って、今まで俺を否定した奴らの鼻を明かしてやるんだ。ここまで来てダメでしたなんて、そんな殺生なことあってたまるかよ。俺はいつだって勝って来た。ナンバーワンになるのは俺一人で十分だ。悪いが赤居にはここで降りてもらうぜ”
気迫の咆哮。言葉にならぬような叫びを上げ、桜山は死力を尽くす。しかし、次第に雲行きが怪しくなり、気付くと劣勢を強いられていた。
“クソっ、コーナーに誘導されてたのか”テクニックを駆使し、華麗に相手を追い詰める赤居に対し、桜山は俄かに焦りを感じていた。
「焦るな、振りが大きくなってるぞ。本来の自分を思い出せ」
大隅の声も冷静さを欠いた桜山の耳には入っていなかった。
“最短距離を移動し、俺の逃げる空間を削りやがったんだ。俺が右利きで、左回りに動く癖があるのを利用されたか。なんて洞察力のある野郎だ。基礎がしっかりしていて、それでいて洗練されてやがる。これじゃ、付け入る隙がねぇ。いや、俺だってあれくらいの動き軽く熟してみせるさ。同じ19歳じゃねえか。あいつにできて俺にできねえなんてこたあねえ”
ピンチの時こそその人間の真価が問われる。桜山は少しだけ口元を緩めると、すぐさま得意のインファイト。入門以来これだけを極めるつもりでやって来た。後先なんて関係ない。このラウンドでぶっ倒れたとしても、赤居 明に一矢報いてやりたかった。
距離を取る手もあっただろう。だが、赤居は男の勝負を断るような無粋なことはしたくなかったようだ。打ち合いを選択し、真っ向から桜山の挑戦を受けて立った。激しい打ち合いの末、互いに手負いのままラウンドを終えた。
「お前には体力がなくなっても気力がある。苦しかった練習を思い出せ、根性見せろよ」大隅の口調に、いつにも増して力が入る。
『バシンっ』乾いた音が会場に響き渡る。
大隅の精神注入張り手が桜山の背中に刺さった音だ。
「っつ~。浸みるぜ、大隅さん。こりゃあいよいよ負けらんねえな」
笑みを溢し、古くからの親友のように笑いあう二人だが、目だけは真剣そのものであった。生気を取り戻し、勢いよくコーナーを蹴る桜山。それに対し赤居もどこか吹っ切れた表情を見せている。
第6ラウンドが開始され、まだ序盤ではあるがかなりのハイペースで試合を運んでいるためそろそろ佳境といった感じもする。疾風迅雷の攻防から一閃の迫撃。強烈な快音が場内に響き渡る。赤居の『スマッシュ』が桜山の心臓を抉る。修羅の形相にて拳を浴びせる赤居。水を打ったかの如く静まり返る場内。辛くも意識を繋ぎ止めたのは、幸いと言うべきなのか。
“人気ねえなあ俺。これじゃあ完全にヒールだよ。もういっか。目え閉じたら気持ちよく寝れるんだよな。これで終わりにすっか”
桜山が諦めかけたその時、観客が一人、また一人と立ち上がり声を上げる。
「拳ちゃん立ってえ」
「約束忘れたのか、鹿児島からお前を見に来たんだぞ、こんなとこで終わるのか」
「根性見せろや、拳一郎!!」
「桜山、みんな待ってるぞ。勝って星ヶ峯に帰って来い」
「立て、立つんだ。男だったら最後にひと花咲かせてやれ」
「お願い、負けないで」
恵子、耕太郎、ひろやん、金原先生、親父、お袋。
みんな見に来てくれてたんだな。そうだった。俺には負けられねえ訳があるんだ。家柄も学もねえ俺が唯一のし上がれるのがボクシングなんだ。終わってたまるかよ。俺にはこれしかねえんだ。桜山のボクサーとしての本能が、頑なにテンカウントを拒絶する。
「6、7、8――」
すぐさま起き上がってファイティングポーズをとる。危なかった。だが、思いとは裏腹に足元は覚束ず、縺れる足を制することができない。
「クソっ」
軽いフックを当てられ、体制を整えようとした際のスリップをダウンと見做される。
「どこに目つけてんだ。今のはスリップだろ」
大隅の抗議も虚しくカウントは続行される。ここへ来てのマイナス2点は痛い。満身創痍の桜山に、無情にも赤居は手を緩める筈もない。これまでの日々が走馬灯のように頭を駆け巡る。それは追憶の雨のように彼の心を洗い流して行く。一日も、要らぬ日などなかった。全てが今のためにあった。
世界バンタム級チャンピオン赤居 明。この男をキャンバスに沈めることができれば、瞬く間にスターダムをのし上がることができる。金も女も地位も名誉も名聲も手を伸ばせば、浮世の全てがそこにある。まさにこの世の王となる。倒れることなどできようものか。この日のために酒も女も、食物さえも断ち切って来た。
ここが剣ヶ峰。人生掛けて栄光を掴み取る以外、己を説き伏せる歓びはない。
“よくやったとか、惜しかったとか、そんな甘ったれた言葉は要らないんだ”そう考え、今は倒れないことだけに注力する。やっと力が入った両足を馬車馬のように酷使しながら、人が見たら哀れと取るだろうか、勝ち目を無くさぬようその場を繋ぎ止めるのであった。
第6ラウンド終了後、大隅は続行すべきか思案していた。誰だって自分の可愛いボクサーをお釈迦にしたくはない。
「一旦引いて守りを固めろ、今のお前じゃ赤居の攻撃に耐えられないぞ」
だが、これは逆効果であった。桜山は目の色を変え、必死に反論して来た。
「嫌だ、俺は死んでも後には引かねえ。やっと掴んだチャンスなんだ。これが最後になってもいい。思うようにやらせてくれ!!」
桜山の言葉を受け、大隅は涙を堪えることがやっとであった。
第7ラウンド開始直後、再びコーナーへと追い詰められる桜山。だが彼は、左フックを掛けてするりと身体を入れ替えた。同じ轍は踏まない。ハンドスピードには自信があった。意外性を持った変則パンチ。土壇場ではこういうのを嫌うボクサーは多い。桜山には『とっておき』の秘策があった。消える前のロウソクはひときわ大きく燃え上がるという。雑草魂をエリートに見せてやろうじゃねえか。
赤居の強烈な左フックを堅実にダッキングでかわし、渾身の『コンパクトカウンター』の連撃を放った。その連撃が、吹き荒れる嵐のように赤居を襲う。
しかし、反撃したのも束の間、赤居の振る舞いには囮があったのだ。桜山がカウンターを打つであろうことを赤居はきちんと予測していた。対処は完璧。非常なまでの『クロスクリュー』が桜山の頭部を吹き飛ばさんばかりに炸裂した。痛恨の3ダウン目。
“なんだ、何が起きた?”彼は魂が抜けてしまったかのようにその場に倒れ込んでしまった。なんと無情なものなのであろう。勝者と敗者、同じ場所に立っていても、両者の歩む方向は真逆の方へ続いているのである。
敗者への慰めとなる言葉など何もない。審判はカウントを取ることもなく両手を交差させた。赤居は静かに両手を上げ、観客へ謝意を示す。暫くして桜山が意識を取り戻し、事態を把握した彼は静かに心情を吐露した。
「冗談だろ?負けちまったのかよ」受け入れ難い現状に、桜山の精神は限界だった。
「すまない。俺に五十嵐さんのような知識と経験があれば、結果は違っていたかもしれない。本当に不甲斐ないばかりだよ」大隅は思いつめたように謝罪の言葉を口にした。
「セコンドの所為にするのは二流の選手さ。大隅さんは最高の指示をしてくれたよ」
「拳一郎」桜山の慈悲深い発言を受け、大隅は掛ける言葉が見つからないようだ。
「届かなかった。俺も――ベルトに選ばれたかった」
項垂れて涙を流す桜山に、赤居は一言「いい勝負だった」そう告げた。両者の健闘を称え、拍手の雨が降る。優しさは、時に人を傷つけることもある。桜山は天井を見上げ、これまでの日々を思い返していた。流した涙は彼の決意の表れであろう。どこか懐かしいマットの感触を両の足で確かめ続け、彼はいつまでもリングを去ることはなかった。
桜山との試合後4ヶ月経った1986年4月19日、九州は福岡スポーツセンターで行われる次の試合の対戦相手は、モントリオールオリンピックを制したモハメド・アントとなった。試合会場に向かうために羽田空港から福岡空港へ飛び、ホテルへ着くと一泊した。鹿児島空港や熊本空港も栄えてはいるが、なんと言っても九州の中心は福岡である。試合前、チャンピオンとチャレンジャーによる恒例の記者会見が行われた。インタビューボードを背に記者からの質問が始まる。
「チャンピオンにはこれからの未来はどう見えていますか?」
「そんなの眩しくて見えねえよ。今はただ前に進もうとするだけだ」
引き出したかった返答を明がしなかったことで、彼らは質問の対象をアントに移した。
「アントさんは今回の試合について、どうお考えですか?」
「彼は『チーズチャンピオン』さ。穴だらけで隙だらけの弱っちいボクサーに、本場アメリカの強さというものを見せてやろうと思ってね」
面白味のある返答に記者たちの目の色が変わる。
「では、赤居選手に勝つおつもりで?」アントは余裕を持って答える。
「もちろんベルトはアメリカに持ち帰らせてもらう。彼の『チューリップガード』を軽く撥ね退けて一撃の下に勝利を掴んでみせるさ」
明の脇が開きやすくなる構えを『チューリップガード』と揶揄したことから記者たちの質問にも熱が入る。
「チャンピオンに勝つのは容易いことだと?」
「もちろんさ。蝶のように舞い、蜂のように刺す。ハチ目・アリ科である蟻は、その幼少期を蝶と共に過ごすことが多い。蜂と蝶は俺にとっては言わば親戚みたいなもんなのさ。華麗な技で魅了してやるよ」なんともおしゃべりでビッグマウスな男である。
彼は自らのリングネームと宗教に誇りを持っており、『モハメド』の名が示す通りイスラム教徒である。
「8ラウンドでKОしてやるよ」
口元を緩めながら言った言葉だが、強い念が籠っていた。その言葉を通訳が明に伝えた後、一人の記者が質問を投げかける。
「この発言に対してチャンピオンはどうお考えで?」
「そうだなぁ。じゃあ俺は半分の4ラウンドでKОしてやるよ」
二人とも、他言語を習得していない『モノリンガル』であるため、通訳を介さないと互いの言葉を理解することはできない。
だが、4ラウンドという言葉が意味するところを、アントはしっかりと理解していた。
「ノー、プロブレム」
身体に力が入り過ぎて震えている様子が、彼の胸中が穏やかでないことを物語っていた。一触即発の空気を察してか、会見はここでお開きとなった。会見後、記者に詰め寄られたアントは、明の挑発に乗らなかったことに対してこう答えた。
「俺はゴールドメダリストだ、くらい言う権利はあったけど、抵抗して相手側に二人で来られたら困ると思ってね。だって俺、そんなに強くないからさ」
本心では例え五十嵐と二人掛かりでも勝つ自信があることであろう。だが、こんな『ウィットに富んだ笑い』を提供できるところが、彼の良さなのであろう。記者たちは今回の良い『ネタ』が手に入ったことに満足し、その場を後にしようとした。しかし、以外にも彼は真面目な話をし出す。
「善人、権力者はみな白人だった。『ニグロ』と呼ばれ、蔑まれた俺たちが人間たる『権利』を取り戻すためには勝つしかなかったんだ。だが、キング牧師の活躍で俺たちは変わった。そして、白人の血が入った黒人であるロビンソンがチャンピオンになった意味は俺たちにとって大きかった。白人の血が入って居ようとロビンソンは大事な『友達』だ。今回は是が非でもロビンソンのベルトを返してもらうよ」
悠然と語るその姿には強い決意があったことであろう。一方で明はマスコミから離れ、ジムに戻って最後の調整を行っていた。
「あれから毎日飯が美味いんだ。高校を中退してフラフラしてた時はあんなに不味かった飯がよ。チャンピオンがこんなに良いモンだとは思わなかったよ。最高の気分なんだ」
それを聞いて五十嵐は嬉しく思うも、明が浮足立たないよう釘を刺しておくことにした。
「アントは『鋭圧』の使い手だ。拳圧が同じである以上、そこで試されるのは己の実力のみ。体調が悪いことは、いずれ悟られるだろう。だが、勝負の世界にそんなものは関係ない。狩りをする時に獲物を気遣うハンターはいないからな」五十嵐は更に発破を掛ける。
「チャンピオンであると同時にチャレンジャーでもある。常に限界に挑み続けるんだ。ベルトは奪うよりも守る方が難しいからな」
明はたまに気を抜いてしまうことがある。この発言は、それを戒めるためのものであろう。
「全てを調べ尽くされているという厳しさがチャンピオンにはある。その上で己を見失わずにいられることが、王としての心の強さと言えるんだ」
試合前に言えることは言っておきたい。これは五十嵐の親心なのであろう。
「防衛戦で本来の実力を出せずに表舞台を去って行ったチャンピオンは数えきれないほどいる。お前にはそうなって欲しくないんだ」
明は伏し目がちに五十嵐の話を聞いている。
「己の勝ちは時に人を破滅へと追い込むこともある。負かした相手が引退するなんざ珍しい話でもないのさ。人の夢を背負う。それもチャンピオンの宿命なんだ。他の者の比ではない。王者は常に勝ち続けなければならないんだ」熱を帯びた言葉は、明の脳に染み渡って行く。
「練習で拳が熱を持ったら氷水で冷やす。感覚が無くなるまで冷やす。酷ければ患部に麻酔を打つなんて手もあるがな。ただし、試合後に麻酔が切れた時は地獄だがな」
痛めた拳を擦りながら、明は静かに頷く。
「ボクシングは網膜剥離や脳障害など、ただでさえリスクがつきものなんだ。お前も身をもって体験しただろう」五十嵐は淡々と語って行く。
「大事な試合の日に限って体調が悪かったり、怪我をしているものなんだ。それでも勝たなきゃならない。万全の状態で回って来ないことなんて山ほどあるのさ」
それは何処の世界でも同じことであると言えよう。
「自分に甘い奴は何をやってもだめさ。妥協した人間は人生からも妥協される。ピンチの時こそ『地』が出るもんだ。染み付いた修練が、己を守る鎧となる」
五十嵐は常に、己への戒めとしての意味合いも含めて話しているようであった。
そして迎えた1986年4月19日。福岡県福岡市中央区にある福岡スポーツセンターで大々的に試合は行われた。まずは挑戦者のアントの入場曲である『アント・コベタ・イエ』が流れ、挑戦者が紹介される。コベタ・イエとはリンガラ語で相手を叩きのめせという意味である。
「ケンタッキー州ルイビル出身。176センチ118ポンド(54kg)。モハメド~~~アントお」
勢いよくアナウンスされ颯爽と登場したアントはオレンジのトランクスを自慢げに見せびらかしている。ひと月前に28歳になったばかりの頃、3年半ぶりに行われたジョージア州での試合で、生涯のライバルであるジャー・フレイジョーをKOに屠った。
その試合は徴兵を拒否し、禁固3年、罰金1万ドルの判決を受け、模範囚として服役し終わってからのものであった。12人の陪審員は皆白人であった。出所後、試合までの半年間は大学で講義をして金を稼いだ。チャンピオンの中には在位期間に戦争へ行ったジョー・ルイスなんて人もいるが、アントは決して臆病者な訳ではなく、平和を愛し、イスラム教の教えを頑なに守った。
10オンスのグローブの具合を確かめながら、マキ割りで鍛えた自慢の広背筋を見せつけるように明の方へ向けた。リングサイドには彼の旧知の友、『アンソニー・犀木』もその姿を現していた。視力2.0の遠視で闘いを見据える。対する明も紹介を受け、意気揚々とリングへ躍り出る。
『カンっ』
勢いよくゴングが鳴り、第1ラウンドが開始された。サウスポーで構えるアントは右手でジャブを打つが、顎まで拳を戻さないスタイルのようだ。鋭い拳が明を狙う。
「今はボクシング・ハイになっているから大丈夫だが、立ち止まれば確実に痛みが襲って来る。そうなる前に倒してしまわないと明日はないぞ」
試合前に五十嵐に言われた言葉が不意に脳裏に浮かぶ。
「気弱になるな。俺たちが付いているじゃないか。何千回、何万回と叩いたミットの感覚を思い出せ」米原の言葉は常に前向きで頼もしい。
「ああ、こんなとこで負ける訳にはいかねえよな」自身の言葉も鮮明に思い出される。
サウスポーで構えるアントは、どんどん加速して行く。対する明はショートフックの応酬で徐々に距離を詰めながら攻めて行く。しかし、これが仇となった。アントの右のジャブがカウンターの代わりとなっていた。強烈な一撃を食らい、明の膝が崩れる。
1、2、3――カウントを取ってはいるものの、レフェリーは試合を続行できることは分かっていたため早口で進め、早々に明のグローブを拭いて再開の合図を出した。引いてばかりでは相手は倒せない。明は攻撃型にシフトしてガードの上から、『スマッシュ』を打ち込む。アントの口から血が噴き出る。
左右のショートフックの連打からリズムを変えての『スマッシュ』は効果覿面だ。横のパンチに慣れていたところにいきなり縦のパンチが来る。これにはアントもたまったものではないようだ。すぐさま距離を取り、体制を立て直す。
“これなんだよな”明はアントとの勝負に闘い難さを感じていたが、その原因は彼が『距離感』を完璧に使い熟すことができるボクサーであることによると言えるであろう。もともとアウトボックスは得意ではないことに加え、前評判の通りアントは隙を探すことが不可能なほどの選手であった。
脚力の必要な『クロスレンジ (至近距離)』腹力の必要な『ショートレンジ (近距離)』腕力の必用な『ミドルレンジ (中間距離)』肺力の必要な『アウトレンジ (遠距離)』。そのどれを取ってもピカイチであり、並みのボクサーの得意な距離ほどのパフォーマンスを発揮して来る。
ミドルレンジを得意とする明にとって、距離感を自由に変えられるアントは最も『やりづらい』タイプのボクサーであると言えよう。逆に遠近両用であるアントは、片方に距離を絞らなくて済む明に対して闘い易さを感じていた。前進する明、しかしそこにはジャブの嵐。
“いくらもらったって所詮は『ジャブ』だ。たいしたことねえ”だが、強烈なジャブに明は押されて行く。その内の一打が顎に当たり、倒れそうになった隙を突いてアントが襲い掛かって来る。明のストレートがアントの腹に突き刺さる。だが、アントも鋭いジャブで応戦し、明は堪らず『クリンチ』する。アントは顔を顰め、明確に怒り露わにしながら罵声を浴びせる。
「アカイ、チキン、スネイル」
臆病者、鈍間。なんとも差別的な表現を用いて、ラウンド中にも関わらず執拗に挑発を繰り返して来る。これには審判のショウガ・ハルも苦い顔をし、アントを窘めるようなジェスチャーをする。観客が不穏な空気に耐えられず、ざわめき始める。張り詰めた空気を残したまま、第1ラウンドは終了した。
「奴は口は悪いが、間違いなく一級品のボクサーだ。華麗な技は見るものを魅了し、その心を鷲掴みにする。これを回避できているのは日や汗を流し、一心不乱に精進した修練の賜物だ。自信を持っていいぞ」
五十嵐にしては珍しく精神論を口にしているのは、明に教えるべきことを教え尽くしているという自負があるからであろう。自分が言うまでもなく、明はその考えを実行してくれている。五十嵐はそう感じていた。
ゴングが鳴り、第2ラウンドが開始されると、明は早々に攻めあぐねることとなった。アントには明の動きが止まって見えるかのように感じられる。
“ふっ、そんな動きじゃ蠅が止まるぜ”
アントは余裕綽々と考えているようだ。まるで二人の時間がズレているかのようである。もはや短めのジャブならば素人には肉眼で確認することが困難な程である。これには明も舌を巻いたようだ。万事休すか。
だが明の『スマッシュ』を警戒してのことなのか、はたまた得意のフックが功を奏したのか、アントはこのラウンドはそれ以上攻撃をしては来なかった。第2ラウンド終了間際、アントは高らかと右手を上げて観客に自らの強さをアピールした。それを見た五十嵐は不敵な笑みを浮かべ、堂々と明を迎え入れる。
「あんな強い奴が居たなんて――なんだか俺、自信なくなって来ちまったよ」
陰に籠りかけている明を尻目に、五十嵐は余裕の表情である。
「なあに、案ずることはない。今、全ての疑惑は確信に変わった」
「何か秘策でもあるってのか、教えてくれよ五十嵐さん」
「ああ、教えてやるとも。いいか、よく聞け。奴は――『右利き』だ」
「なんだって!!」明は口を半開きにさせた後、驚嘆を隠し切れず絶叫する。
あまりに大きな声を出すので、近くに居た観客が思わず身体をビクつかせる。
「そうか――そういうことだったのか。それを聞いて合点が行ったぜ。そう言えばあいつ、全然ストレート打って来ねえんだ」
「俺も世界戦でこんな大胆なことをして来る奴がいるなんて驚きさ。たいした度胸だよまったく」
「ありがとよ五十嵐さん。これでなんとかできそうだぜ」
明は活路が見出だせた途端、水を得た魚のように元気を取り戻した。ゴングが鳴り、第3ラウンドが開始されると、左手側に大きく踏み込んで来る明を見てアントは確信した。
“『バレた』な”アントは軽く笑ってみせると左手で大きくストレートを打って来た。空を切る音がする。まるで『俺には左もあるんだぜ』と言いたげなその振る舞いにも、明は動じずに対処できていた。
そして小刻みにジャブを使い、徐々にアントを追い詰めて行く。彼は身体をくねらせコーナーであっても余裕を見せ避け続ける。無防備なようだが、これが嫌味なほどに当たらない。足を前後に交差させる独特のステップは宙に浮いているかのように軽やかである。
“シビれるぜ。良いボクシングスタイルしてやがる。冗談だけど、倒さずにずっと見ていたいくらいだ”アントのボクシングセンスは、同業者が見惚れてしまう程の優美なものであった。
“クソっ。軽く身体動かしてるくせになんて重いパンチ打って来やがるんだ。怪物だな”先程のラウンドよりは余裕があるものの、明の胸中は穏やかではないようだ。左右の腕を繰り出して来るのが、両方まるきりストレートになっている。腕力に物を言わせた荒業も、世界レベルのパワーとあっては凶悪な武器と化す。それにしてもこの場面で力業に頼って来るとはなんとも豪胆な男である。
「カワード」臆病者と言われようと、今の明は全く動じない。
「カモン!!」五十嵐から教わった最初で最後の英語で明も負けじと言い返す。
「ファッキュー、アカイ!」顔を赤らめた姿は鬼神と形容するに足る有様であった。
本土アメリカから来た応援団の『アントコール』を背に彼の怒りのボルテージは最高潮に達していた。豪打の打ち合いはボクシングの域を超え、乱打戦と言えるものになっていた。明が斬るか、アントが刺すか。第3ラウンド終了後、両者気力が充実したまま第4ラウンドへ向かおうとしていた。
「こんなに怒りを覚えたのは、幼い頃に自転車を盗まれたあの時以来さ」
こんな状況でも尚ジョークを飛ばす余裕があるのは、この男の底知れぬ強さがあったればこそであろう。
「俺は『不可能』という言葉が嫌いだ。可能性を信じられない人間は、生きることを諦めているようなものだからね」アントは徐に話し始める。
「危険を冒す勇気のない者は人生において何も達成することができない。そう彼のようにね」自信に満ちた表情で、呼吸を整えながら落ち着きを取り戻そうとする。
「俺は神話を創り、その中で生きる」真剣な眼差しからは、決意、覚悟、信念、いろいろなものが俄かに彼を突き動かそうとしていることが伺える。
「恩師が下さった美しい名。『モハメド・アント』に恥じぬように。矜持、勇気、愛情を失わぬように」目を瞑り、自らに言い聞かせるように呟く。
第4ラウンドが開始され、軽快なフットワークで明を翻弄しようと企むアント。ふと立ち止まり、両手を腰に置いて口を動かすだけで声を出さない挑発をする。明は動揺など微塵も見せずに、冷静にアントをロープ際へと誘う。パンチの応酬に、アントは苦戦しているように見えるが、額に汗がないことを明はしっかりと見抜いていた。
『ロープ・ア・ドープ』
相手がパンチを出しながら消耗している間、追い詰められたフリをする戦術である。
“世界戦で重ね重ね狡いマネしやがるじゃねえか”明は頭脳的にも世界チャンプとして防衛を続けられるだけの域に達していた。アントは『お得意の』騙し技が通じないことに嫌気が差したのか、小さく横に首を振って、怠そうにリング上でステップを刻み始めた。その姿を見て審判が対戦を促す。
「ユー、ゴー」お前が行け。卓越した技術とは裏腹に、人間的には多少幼稚な部分もあるようだ。やっと正面に立ったかと思えば、ホールドが多くなって来てそれを解いたところ、明の強烈な『スマッシュ』が炸裂する。目を向いたまま停止するアント。非情なまでに攻撃に徹した明の拳の雨が、アントの身体に降り注ぐ。
5、6、7――ボクシングの本場アメリカにおいても、これほどまでに叩きのめされたことはなかった。辛うじてという表現が最もよく当てはまる状況で、アントはファイティングポーズをとることができた。絶好のチャンスに、明が容赦をする筈がない。
『ヘッドスリップ』
相手のパンチを頭を滑らせるように躱すテクニックでアントは死線を潜り抜けることに徹した。長い長い20秒間が過ぎ、大袈裟なほどに大きい音を立て、ゴングが鳴り響いた。
「こんなにゴングが待ち遠しいことはなかったよ」
汗を拭われながらアントは一言発するのが精一杯であった。それから5、6、7とラウンドが過ぎ去り、8ラウンドからはアントの挑発がなくなった。そしてラウンドを9つ重ねる頃には、二人とも別人のように顔が腫れ上がていた。
お互いに一つずつダウンを奪った第10ラウンドを経ての第11ラウンド開始直後、アントの強烈なカウンターが明の鳩尾を直撃した。しかし、頑丈と言うのもまた天性、才能があるということである。気力の充実した選手は、ボディでは落ちない。明は歯を食いしばると、鼻から息を吹き出し、踏み止まることができた。
そしてアント目掛けてテンポよくフックを打ち込む。極限に達しようとしている両者。目が霞む、足が縺れる。それでも彼らは闘いを止めなかった。それは意地であり闘志であり根性。そういったものがあるのであろう。だが、ボクシングが――闘うことが、本当に好きだということが、倒れそうになる身体を支えていると言える。
不意に左下に目線を落とすアント。腰と膝の筋肉はスポーツ選手の生命線だ。アントはどうにもさっきから左足の調子が悪いようだ。踏み込む時に痛めたようである。並みの選手なら、苦しそうに顔を歪めるところであるが、弱みを曝け出すことは即ち敗北に直結する。アントはラウンド終了時まで精神力のみでその怪我を隠し通した。両者コーナーへ戻り、セコンドのアール・ダッチに支持を仰ぐ。
「最終ラウンドにラッシュを掛けて、己の勝ちを印象付けるんだ」
形振り構ってなどいられない。アール・ダッチも必死になって、アントの勝ちに寄与しようとしてくれている。
「ボクシングは常に『オール・オア・ナッシング』だ。自らの手で、勝ちを掴み取って来い」アール・ダッチは、強い気持ちを込めてそう言った。
そしていよいよ運命のラストラウンド。ゴングが鳴り、二人の男はその生涯を掛けて勝利を奪い合う。激しくぶつかり合う両者。この数分を、果たして試合後に記憶していられるであろうか。そう感じるほどに、満身創痍の打ち合いであった。耳を裂くほどの大きな音を立て、試合終了を告げるゴングが鳴り響いた。ほとんど歩く気力も残っていないほどに、戦士たちは疲れ切っていた。約5分の間、判定が出揃うのを待つ。
“勝ったのは俺だ”互いにそう信じ、運命の分かれ目に立つ。そしてレフェリーが声を張り上げて判定を読み上げる。
「ジャッジ槇原99対98――アント、ジャッジ山崎99対98――赤居。ジャッジ菅96対96――ドロー」
判定が割れたスプリットデシジョン。意外な幕引きに会場がどよめく。
「よってこの試合は引き分けで、ワールドボクシング・オフィシャルルールに則り、チャンピオン赤居 明選手のタイトル防衛となります。またしても、ベルトの移動はありません」レフェリーも激しい試合を終え、疲労の色が隠せないようであった。
「安威川 泰毅との日本タイトル戦の時に仇となったルールに救われるとは皮肉なものだな」五十嵐は安堵を隠し切れないといった様子であった。
「ああ。際どい試合だった。反省点が多いよ。それにデコが凄く痛てえ」
アントのジャブが当たった部分が試合後にタンコブになったことは、勲章ということにしておこう。明は前向きにそう考えた。
一方アントはと言うと、試合後、手を目の前に出されると恐怖を覚えてしまうという『パンチ・アイ』になってしまった。今後、彼の姿をリングで見ることはないだろう。その饒舌さを活かし、キングバーガーというハンバーガーショップを開店して、テレビ出演もするようになり、ボクサー時代の苦労を語るようにもなった。
「明くん、拳の怪我って結局なんでそんなに悪化してたの?」
秋奈はやっと聞きたいことが聞けたといった感じであった。
「その――古傷なんだ。昔、慎也とやりあった時のでよ。一回キリの喧嘩でさ」
「そうなんだ――聞いてもいいのかな?勝敗はどうなったの?」
「引き分けたよ。そっから無二の親友でさ。決着――つかねえままだったな」
感慨深そうに語る明の表情は、まだあどけない少年のようであった。
モハメド・アントとの試合後、秋奈の出産のため、明は一緒に家で陣痛が来るのを待っていた。時間は午後2時。妊娠発覚後に籍を入れ、数人の友人と家族で小規模ではあるが式を挙げた。特に慎也は結婚の餞にと二人の門出を祝ってくれ、出産の贐にと1980年代には高価であった紙オムツを1年分も用意して盛大に祝ってくれた。
そして、秋奈が一人暮らししているアパートに明がそのまま住む形になっていた。もちろん家賃は明が払っている。秋奈は専門学校を一旦休学し、子供が生まれてから復学することにした。
「いいの?今日はジムに行かなくて」秋奈は心配そうに聞いた。
「今日が予定日だろ?ほったらかして行けるかよ。シャドーでもしとくよ」
「そっか~。ありがとね。気遣ってくれて」
秋奈は我が子の胎動を感じつつも嬉しそうにそう言った。
「いいってことよ。こういう時に側に居られなきゃ意味ねえからな」
明はそう言うと、側に置かれている『ラズベリーリーフティ』をカップに注ぎ込んだ。
「ちょっと飲みすぎじゃない?私まだ1杯しか飲んでないよ。それ4杯目じゃん」
秋奈は少し呆れたように笑いながら言った。このお茶は『安産のお茶』と呼ばれ、含まれている『フラガリン』という成分が子宮筋を正常な状態に保ち、陣痛を和らげる効果がある。ただ、子宮収縮作用があるため、妊娠初期から中期にかけてや、切迫早産の可能性がある時は禁忌とされているので、飲まないようにすべきである。
また、利尿作用があり、大量に飲むと気分が悪くなる場合もあるので、一日1、2杯程度にしておくとよい。オマケとして、タンパク質を変性させることにより組織や血管を縮める作用があり、美容効果も期待できる。
「今日生まれるかもしれないと思うと妙に緊張しちまうもんだな。たぶん自分の試合の時より身構えちまってるよ。産むのは秋奈なのにな」
「この10ヶ月間あっという間だったよね。人生でもこんなに幸せな時期は何回あるか分かんないくらいだったかも。もう40週目なんて信じられないくらいだよ」
「お袋が俺を妊娠してる時に風疹を患っちまって大変だったらしいんだ。大丈夫なら良いんだけど、風邪とかひかないように気を付けねえとな。寒くないようにしとけよ」
「そうだね、体調には気を付けるよ。けど、ほんと病気もしなかったし、運が良かったよね。ちゃんと育ってくれたみたいだし」
秋奈は大事そうにお腹を擦りながらそう言った。出産が近づき35週を過ぎると子宮の一部である羊膜が下がって来て子宮口が1センチほど開く。37週以降は『正産期』とされ、40週を迎えるまでに子宮口は3センチほど開き、場合によっては『おしるし』がある。
これは子宮口の蓋をしていた粘液栓と呼ばれるゼリー状の塊が剥がれ落ち、子宮口が開き始めて子宮が収縮し、子宮頸管の粘液と混ざって外に出てくるものである。回だけとは限らず複数回ある場合もあるが、妊婦のうち半数は『おしるし』が来ないまま出産している。また、子宮口付近から『卵膜』と呼ばれる赤ん坊を包んでいる袋の一部が剥がれることで出血し、その血液が混ざることもある。
「それにしても、この曲も聞き飽きちまったな。最近、夢の中でも流れてる時があるんだよな」部屋には胎児の情操教育の一環として始めたクラシック音楽が鳴り響いている。
「有名どころは殆ど聞いちゃったもんね。明くんのお母さんからは他にも『逆子体操』教えてもらって『逆子』にならなくて済んだし、後は無事に生まれてくれるのを待つだけだね」秋奈は安心しきったようにリラックスして話している。
『逆子体操』には女豹のポーズや雑巾がけを行う『胸膝位』仰向けに寝て尻の下に枕を敷く『仰臥位』がある。終わった後は赤ん坊の腹が下になるようにして寝ると良い。但し、身体に負担が掛かる行為のため医師に相談した上で行うことが望ましい。
「一時は『帝王切開』になるかもしれないと思って覚悟したんだけどな。なんとか33週までにギリギリ間に合って良かったよ」
明は秋奈の肩に薄手のストールを掛け、優しく労わるようにした。
「ほんとラッキーだったよね。産道に肉が付き過ぎないように運動したり、お灸を使ったり、ツボ押ししたりとかいろいろやったもんね」
秋奈は懐かしそうにこれまでの日々を思い出していた。
『逆子』には4種類あり、足が下にあり伸びている『足位』、足が下にあり曲がっている『膝位』、尻が下にあって足が伸びている『単臀位』、尻が下にあって足が曲がっている『複臀位』がある。出産においては胎児の状態によって処置が異なって来て、基本的に尻が下にある場合は『自然分娩』足が下にある場合は『帝王切開』となる。
頭が下にあることが望ましいと考えられるが、人生は思い通りに行かないことが多いものなのである。秋奈は妊娠中に胎児が『膝位』であったため心配していたが、『逆子』である『骨盤位』から『頭位』となり『自然分娩』での出産が可能となっていた。
「『ファミコン』買って来たからよ。この子が生まれたら『マリオブラザーズ』やってみようぜ。だから、頑張れよ」明は照れたような笑顔で励ますように言った。
「そうなの?ほんの冗談だったのに覚えててくれたんだ。明くんがゲームとか好きかなと思って。けど、嬉しいよ。帰ったら必ずやろう」
秋奈は明の気持ちを汲んで、少し大袈裟に喜んでいた。この時はまだ『ソフトを買っていない』ことに気付いていなかったのだが、二人は子供の居る幸せな未来に思いを馳せていた。
「なんていうか、こうしてると時間が経つのが遅く感じるな。もう開けちまうか、ファミコン」明は気軽な感じで話し掛けたが、秋奈から反応がない。
「うっ――」秋奈は苦しそうに蹲っている。
「来たのか?待ってろよ、すぐにタクシー呼ぶからな」
ヤンキー上がりの男というのはこういう時に頼もしいものである。明は用意していたメモを見てすぐさまタクシーを呼び、五十嵐と義母にも連絡を入れた後、階段から落ちないように気遣いながら秋奈をアパートの前まで移動させた。知識があれば階段の昇り降りをして陣痛を促すところであるが、明と秋奈はそのことについては知らなかったようだ。
2010年代であれば、事前に名前、住所、連絡先を登録しておく『陣痛タクシー』のような便利なものがあるが、昭和の時代にはそのようなものはなかった。5分ほど経ってタクシーが家の前に到着し、急いで乗り込んだ。水曜日であったため、道はそれほど混んではいない。
「頑張れよ、もうすぐ病院に着くからな」
明は動じないよう心中で自分を諫めながら秋奈を気遣った。15分ほどで病院に着いてからも、秋奈は苦しそうに唸っていた。
「不安だな。無事に終わってくれるといいけど」明は緊張し、口が乾いていた。
「明くん、腰、さすって」秋奈は辛そうに眉を寄せている。
「おう、分かった。他にも何かあったら言えよ」秋奈に言われるままに行動に移した。
「そこじゃないよ」秋奈は絞り出すようにそう言った。
「ここか?」明はどこか分からないといった様子だが、懸命に痛むヶ所を探った。
「そこでもない」秋奈は必死で訴えるように声を大きくした。
「ここ?」明はまるで見当が付いていない様子だ。
「そこじゃねえって言ってんだろ、バカヤロー」
明は秋奈が豹変したので、かなり驚いてしまった。出産の際に女性は、気が動転して暴言を吐いてしまうことがあるが、男性は本心と取らぬよう心得て水に流すようにすべきである。
また、陣痛を和らげる方法としては、テニスボールやゴルフボール、拳などを使って腰まわりで痛む部分、腰骨の左右、肛門の辺り、太腿の付け根、内踝から4cm程上の部分にある『三陰交』を押すことなどが考えられる。腰やお腹のまわりなど痛みを感じる部位をカイロや湯たんぽを使って温めることでも筋肉が解されて痛みが和らぐとされている。
暫くして義母が到着し、側について手を握りながら秋奈のことを励まし続けていた。それから10時間陣痛が続き、午前0時を過ぎた辺りから秋奈は少し寝ては起きて、ウトウトしては目が覚めての繰り返しであった。
陣痛には3つの段階があり、8分間隔で30秒の長さで痛みが起こる『準備期』、5分間隔で40秒の長さで痛みが起こる『活動期』、2分間隔で50秒の長さで痛みが起こる『移行期』の順に進み、無痛分娩を行う場合は『準備期』に腰に麻酔を打って分娩を行う。
また、『破水』するタイミングとしては、通常『移行期』に入ってからであり、ここで分娩台へと移りいきみ始め、1時間ほどで出産は終了する。秋奈の場合は『活動期』が長く、5分間隔で痛みが強くなるものの、なかなか『破水』しなかった。
因みに『破水』とは胎児を包んでいる卵膜が破れて、子宮内の羊水が流れ出ることをいう。『前破水』と言って陣痛が来る前に破水が起こるケースもある。秋奈は陣痛時に子宮の収縮が弱く、分娩が正常に進行しない状態である『微弱陣痛』であったため、促進剤を打つことで解決しようと試みた。
そこで、点滴で投与し自然陣痛に近い形で子宮収縮を促す『オキシトシン』を用いてみたが効果はみられず、多少困難ではあったが経口投与にて『プロスタグランジン』を投与し、破水させようとした。
そして1時間後の午前1時、ようやく破水して秋奈は分娩室に移動した。平成の時代ともなれば、立ち合い出産をすることが多いものの、昭和61年ではそういったことは一般的ではなかった。明と義母の良枝もその例外ではなく、分娩室の外で誕生の瞬間を待つことにした。
「こうしてると秋奈が生まれた時のことを思い出すわね」良枝は感慨深そうに言った。
「あの子は昔から芯の強い子で、何でも言い出したら聞かないところがあって。幼稚園児の頃なんかよく男の子とオモチャの取り合いになって喧嘩してたっけ。小学生になってからも女の子なのに毎日毎日擦り傷作って帰って来て、本当に手の掛かる子で。お兄ちゃんの春彦もあんなだから、母親になってからはあっという間で――あっ、いけない。こんな話年寄り臭いわよね」良枝は慌てて取り繕うように話を止めにした。
「そんなことねえよ。おばさんのその話、俺はもっと聞きてえな」
明は誰に対しても裏表がない。敬語が使えないことは本来ならマイナスとなるだろうが、良枝はそんな彼の人柄を心底気に入っていた。
「まぁ、嬉しいこと言ってくれるじゃない。けど、これからもっと嬉しいことがあるんだよね。それまで時間もあるし、いろいろ話しちゃおうかしら」
良枝はわりと調子に乗り易い性格のようだ。人生には様々な『よろこび』がある。敵をノックアウトした時のあの恍惚とした『悦び』が、チャンピオンになるという願いが叶った時のあの飛び上がるほどの『歓び』が、チャンピオンベルトを手にした時のあのとてつもないほど大きな『喜び』が、共に闘って来た仲間に賛辞を贈る時の純粋な『慶び』が、ボクシングをやっていて良かったと思える瞬間であると言えるだろう。
だが、我が子をこの手に抱いた時の『よろこび』は、筆舌に尽くしがたいものであると言えよう。二人はその瞬間を、今か今かと待ち詫びるのであった。
それから15分ほど経ち、慌てた様子で五十嵐が分娩室の前に現れた。
「あ、あ、秋奈はどうした?も、も、もう生まれたのか?」
明は五十嵐の意外な焦りように戸惑ってしまった。
「今、分娩室に入ったとこだよ。俺も凄く緊張してて――」
五十嵐はオロオロして同じところを行ったり来たり、短い距離を往復している。
「お、お、お、落ち着け。心頭を滅却すれば火もまた涼し、光陰矢の如し、驕れる人も久しからず、ただ春の夜の夢の如しだ」
明は左頬を少し釣り上げると、先程よりも大人びた口調で話した。
「五十嵐さんの方が落ち着いてくれよ。こういうことになると世界チャンピオンも肩なしだな」五十嵐はふと我に返ったように、冷静さを保とうとし始めた。
「そ、そうだったな。面目ない」
明は軽く息を吐き出し、安心したように笑顔を見せた。
「焦ってもしょうがないって、分かっちゃいるんだけどよ。どうしても心配しちまうもんなんだよな」
このように心情を吐露できるのも、長年の師弟関係があったればこそであろう。
「その通りだ。ここでジタバタしていても、何の解決にもならない。赤ん坊の頃から知っている秋奈の一大事に、柄にもなく気が動転してしまっていたようだな。俺もまだまだ修行が足りんな」
五十嵐は普段は自分を律することができるのだが、誰かのこととなると必要以上に心配してしまうようだ。その後は適度な緊張感を保ちつつ、良枝と三人で話をしていた。
一方の秋奈は『ラマーズ法』を用いて必死でいきむようにしていた。秋奈は勢いよく息を吐き出しているので、顔が少し赤くなっている。
「もう帰る!」秋奈は言葉を絞り出し、苦しそうにそう言った。
「そんなこと言わないで。ほら、もう少しだから頑張って」
側に居た年配の女性看護師は、全く動じず平常通りといった様子だ。ヒッヒッフーの掛け声が有名なこの呼吸法は、日本では1960年代後半に導入され、元はソビエトで行われていたものであり、これをフランスのラマーズ博士が改良し提唱した『精神予防性和痛分娩』である。
また、平成の時代ともなれば、一般的にも『ソフロロジー』という手法が用いられるようになる。これは座って下腹部を擦りながら行うものであり、フランスのエリザベット・ラウルによって提唱され、日本では1987年に導入された。出産は産婦のなすがままにリラックスして行うのが最も良いという分娩教育法であり、東洋の禅とヨガ、アフリカの女性の伝統的な出産方法を取り入れたものである。
どれくらい時間が経っただろうか。永遠とも思えるほどの時間が流れた後、静寂を破り赤ん坊の声が聞こえて来た。
「生まれた!!」
明と五十嵐は手を取り合って喜びを分かち合った。二人とも嬉しさが有り余って、そのまま踊り出してしまう程であった。
秋奈はと言うと『後産』に備えるためまだ分娩台の上で待機していた。これは赤ん坊を出産した後、10分ほど経ってから陣痛が起こり、子宮内にある胎盤や臍帯を排出することである。時間は20分程度であり、その後は局部麻酔を掛け、会陰切開や自然裂傷した部分を縫合をすることで分娩は終了する。個人差はあれど、出産の疲労も相まって全く痛みを感じない人がほとんどであるとされている。
その後は子宮の大きさを産前の状態に戻す『後陣痛』が起こる場合があるが、その際に授乳をすることにより、『オキシトシン』と呼ばれるホルモンが生成され、そのことが産後の体力回復に寄与することとなる。
2010年代では親が素肌に直接赤ちゃんを抱いて保湿する『カンガルーケア』というものがあったりもするが、明たちが生きた昭和の時代には一般的に行われてはいなかった。それから、後産が終わるのを更に20分ほど待ったあと、明たちは分娩室へと入って行った。
産後は2時間ほど分娩台の上にいるので、秋奈はもう暫くここに居ることになる。明はこの時まで自分の子と対面するのが、こんなにも緊張するものだとは思っていなかった。戸惑いもあったが、意を決しておっかなびっくり子供の顔を覗き込んでみる。無事に生まれた安堵感と、極度の緊張が解かれたことで、明は思わず感動して泣いてしまった。
「もう~情けないな~」そうは言ってみたものの、秋奈も目が潤んで来ている。
「これで益々負けらんなくなっちまったな」明は努めて気を引き締めようとしている。
「男は守るものがあればあるほどに強くなる。これからも一層精進することだな」
五十嵐は普段通りだが、先程の焦っている姿を見ているため、真面目なことを言っても威厳が感じられない。
「私が秋奈を生んだ時もオロオロしっぱなしだったじゃない。男ってほんとだらしないわよねぇ」良枝が笑いながらそう言ったのに対し、明ははにかんで畏まる。
「そう言われると弱いな。こればっかりは男にはできない大仕事だしな」
「足がつって本当に大変だったんだから」秋奈は少し恨めしそうに言った。
生まれた子は元気な女の子であり、目元は明に、鼻と口は秋奈によく似ていた。タオルにくるまれただけの新生児は皺が多く猿のようにも見えたが、秋奈が命掛けで生んでくれた自分の子供だと思うとたまらなく愛おしく思えた。看護師に促され、「秋奈が先に」と言うともう抱いたと言うので遠慮がちに抱き抱えてみる。
覚束ないながら目を閉じて泣く姿は、長年探し求めた宝物のようであった。不意に赤ん坊が笑い、手を握ったり閉じたりしだした。その手に人差し指を掴ませてみる。温かな体温が指に伝わり、その感動に自然と笑みが零れる。
正直に言うと明は子供が生まれるまではイマイチ父親としての自覚が持てずにいた。本当に自分に父親が務まるのだろうか?金は足りるのか?教育はしっかり行えるのか?世話は問題なくできるだろうか?そして自分のように非行に走ってはしまわないだろうか?取り越し苦労だとは分かっている。だが、生まれて来る日が近づく度に、杞憂せずにはいられないのであった。
しかし、生まれて来た子の姿を見て、そんな思いは吹き飛んでしまった。一度我が子を抱いた瞬間に、こんなにも実感が湧くものなのだろうか。その小さな掌で必死で自分の指を握りしめている。そのことで思わず歴戦の日々を忘れ、顔が綻んでしまうのであった。これからこの子と過ごす日々が、自分たちの人生を彩ってくれることであろう。
初めてハイハイした日、掴まり立ちした日、言葉を発した日、ご飯を食べた日、父と呼ばれた日。片時も、忘れることはないであろう。巡る月日が、記憶となって刻まれて行く。その全てが、生きる意味であったように。
第一子誕生後、明は悪魔王子と呼ばれ、変則型サウスポーを操るイギリスの『リー・ハメド』に勝利し、3度目の防衛。史上最高のハードパンチャーとして知られ、そのパンチをバズーカ砲と評されたプエルトリコの『ウィルフレッド・コット』に勝利し、4度目の防衛。カオサイの再来、デスマスクと呼ばれたタイの『ウィラポン・ウォンジョンカム』に勝利し、5度目の防衛。
ミスターパーフェクトと呼ばれたベネズエラの『エドウィン・ガメス』に勝利し、6度目の防衛。ハリケーン、驚異の男と呼ばれたアルゼンチンの『オマール・マルチネス』に勝利し、7度目の防衛。韓国の石の拳と呼ばれ、バッティングが多い選手である、韓国の『文 烈雨』に勝利し、8度目の防衛。英雄、パックマン、メキシカンキラーと呼ばれたフィリピンの『パンチョ・パッキャオ』に勝利し、9度目の防衛を果たした。
その後、ビッグN、イーグルと呼ばれ、プロ転向後はアメリカ合衆国を活動拠点として全ての試合を行っており、KO率88%、ロシア国籍でタタール人の『ニコライ・トロヤノスキー』や、同じくロシアでクラッシャーと呼ばれ、極悪非道と言われた、『マット・コバレフ』などからも試合の打診があったが、日程、ファイトマネー等の条件が合わずに結局は流れた。そして、10度目の防衛を掛け、アメリカ国籍のマーベラス・シュナウザーと対戦することとなった。