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第五章 世界偏

古波蔵 政彦との試合後、明の目の違和感を検査するため、一行は都内にある歓応(かんのう)私塾(しじゅく)大学医学部付属病院にて検査を受けることとなった。明は目が霞み、ほとんど目が見えていないような状態である。検査の後、五十嵐だけが呼び出され、別室にて話を聞くこととなった。30代前半といったところであろうか、精悍な顔つきの男性が部屋へと入って来た。

「今回、明くんの主治医を務めさせて頂く、(さかい) (たかし)です。今から明くんの症状について説明させて頂きます」

「先生、状態はどうなんですか。あいつは今、大事な時期なんです。何かあったら困るんです」いつもは冷静な五十嵐だが今回ばかりは焦りの色を隠し切れない。

「お父さん、大変申し上げ難いのですが、明くんは『白内障』を患っています」

白内障は水晶体を構成する蛋白質であるクリスタリンと呼ばれる物質が集まることで変性し、白色または黄白色に濁ることで発症する病である。根本的な原因は21世紀初頭になっても解明されておらず、水晶体の細胞同士の接着力が弱まったり、水分の通りが悪くなったりして起こるのではないかと言われている。発症は45歳以上の中年に多いのだが、明の場合はなんらかの原因により、18歳という若さで症状が出てしまったようだ。

昭和60年において、白内障は不治の病ではない。だが、手術をすることが患者にとって大きな負担になることが多いことに加え、国内では水晶体を取り除いても、代わりのレンズを入れることが法律で許可されていなかった。1980年代の一般的な白内障手術は、濁ってしまった水晶体を凍らせて丸ごと取り出す『水晶体全摘出』であった。

レンズの働きをする水晶体を取ってしまうので、水晶体の度数に相当する虫メガネのような分厚いレンズのメガネをかけなければならなかった。それはつまりボクサーにとっては『現役生活の終わり』を意味する。五十嵐は明の身に起こったことを重く受け止め、父親でないと否定することも忘れ、堺の腕に縋りついた。

「先生、治るんですよね。いや、治してもらわなくては困る。必要なら私の目を代わりにやってもいい。あいつは今から世界チャンピオンになる男だ。こんなところで終わらせる訳にはいかないんです」

 顔面蒼白の五十嵐に対し、堺は取り乱すことなく落ち着きを保ったまま答える。

「息子さんの大切な身体のことです。必死になるのも無理はないことですよね。手術自体は問題なく行えるでしょうが、今の医学では明くんにボクシングを続けさせてあげることはできません。ですが、一つだけ光明が――」

「何ですか、それは?それが叶うなら私はどんなことだってします」

「現在、国内の眼科医たちは『眼内レンズ』というものの認可が下りるのを待っています。それは人間の目の水晶体に代わるもので、それさえあれば明くんの目を治せるのですが、後どれくらい時間が掛かるか――」堺にも歯がゆい思いがあるのであろう。

「そんな――明にはボクシングが必要なんです。どうすれば――」

「当院は国内でも有数の最先端医療が受けられる病院です。使用が許可され次第、すぐに連絡を入れます。今、日本医学界の発展のために多くの人が心血を注いでいます。だからこそ約束します。近い将来 『眼内レンズ』は――必ず認可される日が来ると」

「その言葉、信じて待っています」堺医師の強い言葉で五十嵐の目に光が戻った。

“どんなに時間が掛かってもいい、明にもう一度ボクシングをさせてやりたい”五十嵐は強くそう思った。



「嫌だ、今すぐ手術してくれ。俺は今、絶好調なんだ。ロビンソンの奴だって絶対に倒せる自信があるんだ」聞き分けが良くないことなど承知の上だった。

 それでも言うべきことは先延ばしにしてはいけない、五十嵐はそう判断した。

「明、お前の気持ちはよく分かる。だが、今はまだ耐えるしかない。手術をしようにも肝心のレンズがないんだ」普段見せないような『圧』を掛けるような話し方で言った。

「うるせえ。じゃあ元の不良に逆戻りか?今までの努力は無駄だってのかよ?」

「そうは言っていない。堺医師は約束してくれた。近い将来、必ず『眼内レンズ』の認可が下りると。それまで待つんだ」

「もういい、ジムに帰って練習する。この状態でも、俺は世界チャンピオンになってみせる」

言い出したら聞かないのは誰の目にも明白だった。それから毎日、明はミットを叩き続けた。ひと月たち、またひと月経っても、状況は一向に良くならなかった。ジムに行っては基礎練をする。そんな日々が長く続いた。

「大丈夫だよ。きっと、認可が下りる日が来るよ。明くん、今までもの凄い努力して来たもん。神様は絶対見てくれてるよ」秋奈にはもう励ますことしかできなかった。

だが、明には、その優しさを汲んでやれるだけの余裕がなかった。

「そんなこと言ったって、いつになるか分かんねえだろ。こうしてる間にも勘はどんどん鈍って行っちまってるし、俺には時間がねえんだ。世界に挑むってのは、それほどに過酷なもんなんだ。余計な口挟まないでくれよ」

酷いことを言ったとは思った。けれど、不器用な彼には他の言い方ができなかった。

 「明くん――」当人も限界であろう明に、秋奈は掛ける言葉が見つからなかった。

白内障は放置するとやがて眼の中の『水晶体』が膨らみ、前方にある『角膜』との間にある『虹彩』という部分を後ろから押し上げる。それから、眼球内の『房水』と呼ばれる水が排出される『隅角』という部分が狭くなり、完全に塞がると眼圧が一気に上昇する。

結果的に緑内障を引き起こし、『急性緑内障発作』として頭痛、眼痛、吐き気を伴いだす。そして、緊急手術をする頃には視野の欠損がみられることが多く、欠けた視野は二度と元には戻らない。

 眼の中の水晶体が白く濁り、物が霞んだりぼやけたりして見える『白内障』と、眼圧が上がることで視神経に障害が起こり、欠けてしまう『緑内障』。古くは白底翳、青底翳とも呼ばれ、似たような名前だが、その結末は大きく違ったものになっている。一般人にとっても視野の欠損は、その生活に支障を来すことはほぼ間違いない。

ましてや、一瞬の攻防で勝敗が決するボクサーにとって、『見えない部分がある』ということは致命的な欠陥になり得る。世界レベルで闘う選手なら尚のことだ。早急な治療が必要ではあるが、この時代には見えなくなるまで待ってから手術をすることも多かった。

「辛いと思うから、今は無理しないでね」

 秋奈はもっと言いたいことがあったが、それ以上は何も言わないでおこうと決めた。それから半年間、この病魔は明たちの日常に暗い影を落とした。



1985年5月7日。白内障研究会が日本白内障学会と名前を変えた翌年、医学界はまた新たな一歩を踏み出した。堺医師から連絡を受け、五十嵐は再び歓応(かんのう)私塾(しじゅく)大学医学部付属病院に駆け付けた。出迎えてくれた堺医師はすぐさま手術の説明をしてくれた。

「安全な手術ではありますが、一週間ほど入院が必要です。ですが、安心して下さい。必ず、健康な状態に戻してみせます」五十嵐は力が抜けたというように両肩を落とした。

「それを聞いて安心しました。私は何があってもあいつを世界チャンピオンにしてやりたいんです。手術は本当に慎重にお願いします」

「はい、もちろんです。全ての患者に対して、医学の粋を尽くして対応させて頂くつもりです。それにしてもそんな凄い方のオペを執刀するなんて、孫でも出来たら聞かせてやりたいような話ですね。術後に是非、今後の青天井をお聞かせ願いたいものです」

「そうですね。手術が成功したら、いくらでも話したいところです。けれど、今は明のことが心配なんです。できることなら代わってやりたいくらいだ。正直に申し上げますと、不安で堪らないんです」

「幾重にも重なった偶然が天命を運んで来るものです。大丈夫、約束を反故(ほご)にしたりしませんよ」その姿を見た五十嵐は確信した、この男になら任せても大丈夫だと。

 なぜならその姿は、初めての世界戦の前、鏡の中に見た自分の姿と重なって見えたからだ。数々の修羅場を潜り、難敵に挑む男の自信に満ちた表情を、この堺という男も持ち合わせていた。何も言わず深々と頭を下げ、五十嵐は明にこのことを伝えるためジムへ向かった。

「本当か?認可が下りたのか?やった。これでやっとボクシングができる」

明は飛んで跳ねて、これ以上ない程に喜んでいる。

「良かったね、明くん。これでやっと辛い日々が終わるね」

秋奈は今にも泣きだしそうな表情で明の喜びに応える。

「ああ、心配掛けちまったな。五十嵐さんにもずっと支えてもらってばかりで――皆には本当に感謝してる」明はそう言うと丁寧にお辞儀をして見せた。

「なあに、気にすることはないさ。大切な愛弟子の世話だ。お前が嫌と言っても焼かせてもらうさ。それより、手術の予定は一週間後だ。今日は家に帰ってしっかり身体を休めて、手術の日に備えるんだぞ」

五十嵐はまるで何か大きな偉業を成し遂げたかのように誇らしげな表情を浮かべている。

「分かった。ここで無理して悪化でもしたら事だもんな。今日からは安静にしとくよ」

軽やかに希望に満ちた足取りで家路に就く明の後ろ姿には、昨日までに見た悲壮な影は見られなかった。

一週間後、窓口で手続きを終え、明は母と二人、入院する準備をしていた。母親と二人きり。年頃の青年には少々キツいものがある。

「父さんが亡くなって、もう何年経つかな。あんたもこんなに大きくなって」

「しんみりさせてんじゃねえよ。妙に畏まっっちまって。あれはしょうがなかったって、今になったら思えるよ」

「それは大人になったからかもね。けど、私には到底そうは思えないよ」

「何だよ、心配させに来たのか?」弱気な母親に、明はほんの少し苛立ちを覚えた。

「そうじゃないよ。ただ、父さんの言いつけ――守んないといけないからね」

「何のことだよ?」心当たりはあったが、明は確かめるように聞いた。

「お前の身体――大切にしてやってくれって」それは父の最後の言葉であった。

「お袋のもだろ」明もその時のことを忘れてはいないとばかりに念を押す。

「そうだったね。ここんとこ働き詰めで寝るのを忘れちまいそうなくらいだったよ。ほんと、苦労をかけっぱなしで――」

「もういいだろ。そんな話」

定番の文句だが実の母に言われると心を打つものがあり、明は少々うんざりした様子で話を切り上げようとする。そうこうしていると、病室に五十嵐と秋奈が入って来た。

「あっ。おばさん。こんにちは。明くん、いよいよ今日だね。これ神社のお守りだよ。早く元気になってほしくて。千羽鶴も作ったからね」

秋奈は少しはにかんで大事そうに見舞いの品を明に渡した。目に隈を作り、少し眠たそうであった。その心意気が明の胸に大きく響いた。

「何だよ、こんなものまで作って。大げさだな。でも――その気持ち嬉しいよ。ありがとう」柄になく素直にお礼を言う明に、秋奈は少し照れてしまった。

「良いお母さんが居てよかったね。なんかちょっと嫉妬しちゃう」

秋奈は態と話題を逸らそうとする。

「お袋は小さい頃から病気がちで、それなのにここまで俺を育ててくれたんだ。特に、親父が死んじまって高校を中退してからは恥ずかしいくらいグレちまってさ」

「そう言えば明くんが中退した時の話、聞いたことなかったよね」

「悪りい。こんな話、つまんねえよな。もう止めにするよ」

「ううん、そんなことない。その話、聞かせてよ」

話が終わらないように慌てて繋ぎ止めると、明は側にあったベッドに腰かけて話し始めた。

「高校二年生の春頃に――」そう言って明は少し泣きそうになる。

それを見て、秋奈は明の右手を両手で覆うように包んだ。

「ゆっくり――ゆっくりでいいいよ」

「すまねえ――落ち着いたから話すよ」

「俺が高校二年生の春頃、親父が交通事故で死んじまったんだ。当時は悔しくて仕方がなかった。そのことでグレて不良仲間と連むようにもなった。そんなのは親父の望んだ『姿』じゃないって、今になったら分かる。けど、あの時はその怒りをどこにぶつけていいか分からなかったんだ。辛くて、苦しくて、どうしようもなかった。そんな時、五十嵐さんと――ボクシングと出会ったんだ」

明は一つ深呼吸をして、また話し出す。

「嫌なことから逃げちまってた俺も、不思議とボクシングには向き合えたんだ。学校を中退して落ちこぼれた俺が、唯一夢中になれたのものでもあった。人生やり直すにはこの道しかないと思ったよ」明は思いを噛み締めるように言葉を吐き出した。

「だから失いたくなかったんだ。最初は夢だった世界チャンピオンへの道が、段々と現実味を帯びて目標へと変わって行った。そのことが、たまらなく嬉しかったんだ。この手術、絶対に成功させてほしいと思ってる」

熱弁を振るう明の言葉に、秋奈の涙腺が緩んで来たようだ。

「う――。こんな時に泣いてちゃダメだよね」

だが、明の過去と決意に、秋奈は感極まって泣き出してしまった。

「秋奈――ほんと、心配掛けちまってるよな。だけど、安心してくれ。世界チャンピオンになる男が、病気なんかに負けやしねえよ。俺は必ず復活してみせる」

力強い明の言葉は、隣で聞いていた五十嵐を奮い立たせたようだ。

「よくぞ言った。それでこそ俺の見込んだ男だ。二時間後の手術まで、まだ時間がある。今は気持ちを落ち着かせて来たるべき時に備えるんだ」

その気迫の籠った言葉に明の口調にも一層熱が入る。

「おう。古波蔵さんにだって勝てたんだ。こんなところでくたばってたまるかよ。白内障を、一発KOしてやるぜ」



そして二時間後、五十嵐と秋奈と母に見送られ、明は手術室へと旅立って行った。

「明くんとはこれが初対面でしたよね。今回、執刀医を務めさせて頂く(さかい) (たかし)です。よろしく」

これまで再三、会いたいと言われていたのを断っていた手前、多少の気まずさはあったものの、それでも手術を引き受けてくれたこの男は信頼の置けそうな人物だと判断した。

「あんなに邪険に扱って来たのに、俺のことを見捨てなかった。あんたになら任せても大丈夫だと思ってる。よろしくお願いします」

堺医師は穏やかな笑みを見せ、ゆっくりと頷いて見せた。手術開始。堺医師は先程とは打って変わって鷹のように鋭い眼光で明を見据え、大きめの注射針で麻酔をかける。

「うぐっ」堪えようとしたが、明は思わず声を出してしまう。

「痛いですよね。もう少しの辛抱ですので、我慢して下さい」

これより医学が進歩すると『テノン嚢下麻酔』と呼ばれる結膜の表面の薄皮に注射する麻酔や『点眼麻酔』と呼ばれる目薬を使った高度な麻酔術が確立されているが、ここで使われている注射を用いた『局部麻酔』は麻酔自体がとても痛いものである。

いくらボクサーとはいえ、眼球への痛みには慣れていない。

「そろそろ効いて来た頃ですね。それでは『切開』に移ります」

ここでは『反転法』と呼ばれる一般的な折り畳んで行う手法ではなく『引裂法』という水晶体を包んでいる水晶体(すいしょうたい)(のう)を円を描くようにして切開する方法を用いている。この手法は習得は難しいが、慣れると非常にやり易く、難症例でも成功率が高いとされている。

 2010年代には『2mm』で済む眼球切開も、1980年代の白内障手術においては『約10mm』も必要であった。それは、眼球内の水晶体を砕かず、そのままの状態で摘出することが一般的であったため、それほどの幅を要するしかなかったからである。

「それでは、『核処理』に移ります」

堺医師は慎重に、明の両眼から『水晶体』を取り出して行く。

後にはカナダのハワード・ギンベル医師考案の『ディバイド・アンド・コンカー法』というシャープペンシルの芯を伸ばした時のような形状の『フェイコチップ』と呼ばれる器具と手術用の『フック』を用いて水晶体に溝を掘ってから分割するという優れた手法が開発され、これは時間が掛かるがリスクが低く、安全な手法であると考えられている。

また、溝を掘らずに水晶体を割って吸引する施術として、永原 國宏医師考案の『フェイコチョップ法』と呼ばれるフックを用いる手法、赤星 隆幸医師考案の『フェイコ・プレチョップ法』と呼ばれる先端がナイフ状の特殊なピンセットを用いる手法がある。いずれも水晶体嚢の破損のリスクを伴うものであるため、高度な『腕』が必要とされている。

「佳境ですね。『眼内レンズを挿入』します」

 挿入開始。堺医師はピンセットで慎重に『眼内レンズ』を水晶体嚢の中に入れている。

白内障の画期的発明『眼内レンズ』が開発されたのは、第二次大戦中のことである。戦闘機の空中戦でコクピットが割れ、破片が目に入る負傷兵がたくさんいた。普通、目に異物が入れば炎症や拒絶反応が起こるが、それらの負傷兵の目はそのような症状を起こすことはなかった。破片の素材は『PMMA( ポリメチル・メタクリレート )』というハードコンタクトレンズと同じ樹脂素材で作られており、それを知ったイギリスの眼科医ハロルド・リドレー医師は手術で取り除いた水晶体の代わりに『PMMAの人口レンズ』を入れて白内障を治療することを思いついた。これが『眼内レンズ』の誕生である。

2010年代では直径6mmの『アクリル製』のレンズをインジェクターと呼ばれる専用の器具で丸めて目の中に挿入するのだが、当時は『シリコン製』が主流であった。世界で初めて『眼内レンズ』が移植されたのは1949年のことであり、明のレンズは、その頃にしてみれば多少の進歩はみられるものの、1990年代から用いられている『アクリル製』に比べれば多少見劣りする感は否めなかった。

「『眼内レンズ』を眼球に固定するため『縫合』しますね。これで最後です」

そう言って堺医師は縫合に移り、オペチームに緊張が走る。この処置を誤れば、見え方に狂いが生じるという可能性が多分にある。だが、そこは歓応(かんのう)私塾(しじゅく)大学医学部局長、堺医師。10mmの間に10針縫う驚異的な精度で、明の眼球を強烈に固定する。

極度の緊張の中で無事に手術は終わり、残すところは抜糸だけとなった。術後はなるべく動かさないようにしなければならない。『眼内レンズ』は水晶体嚢の中に入っているが、術後の傷が治る過程でそれが収縮すると、時間と共に多少中央からズレたり、傾いたりすることがあり、乱視の原因となってしまうからだ。

 手術中のランプが消え、約30分の手術を終えた堺医師が、手術の『成功』を伝えると、秋奈と母は涙を流しながら、手を取り合って喜びを分かち合った。ストレッチャーに乗せられた明は、そのまま病室へと運ばれ、安静にしておくようにとだけ言われた。



 一週間はあっという間であった。抜糸を終え、退院の日には五十嵐、秋奈、母が出迎えてくれた。

「退院、本当におめでとう。なんか、また泣きそう」

 泣きベソをかいている秋奈の頭を撫でた後、明は力強く話し始めた。

「二ヶ月もブランクが空いちまったからな。これを取り戻すのは簡単なことじゃねえって分かってる。けど、苦じゃねえよ。大好きなボクシングだからな」

五十嵐はそれを聞いて嬉しく思い、明の気分を少しでも乗せようと考えた。

「お前には生物最大の武器『若さ』がある。ブランクを取り戻すなんて造作もないさ」

「そうだよな。これからもご指導ご鞭撻のほどよろしくお願いします」

 意に反して難しい言葉を使ったので、五十嵐は可笑しく感じてしまった。

「はっはっはっ。言うようになったじゃないか。退院祝いに、出前で寿司でも取るか」

「いいのかよ、そんな大盤振る舞いしちまって」

「うちのジムから二人目の世界チャンピオンが出るんだ。その前祝ってことさ」

まだ自分の挑戦は終わっていない。そのことを強く感じ、明は感極まった様子だ。

「――ありがとよ。五十嵐さん」

五十嵐はこれまで何度も見せたように不敵に笑って答えた。

「その代わりチャンピオンになってからはしっかり稼いでもらうぞ。1回や2回でなく何回も防衛し続けてくれないと困る。歴史に名を残すような偉大な男にならないとな」

それを聞いて秋奈は思い出したように声を上げた。

「ジムに行ってお寿司食べるんだよね?それなら慎也くんも呼んであげようよ」

「そうだな。あいつには世話になってるし、一緒に祝ってもらうとするか」

「そうと決まれば急いで行こう」秋奈は先程よりも、もっと明るい声で話を進めた。

 病院の公衆電話で慎也を呼び。ジムに着いてからは久しぶりに楽しい時が訪れた。この時がずっと続くといいな。その場に居た誰もがそう思った。



白内障の手術後、明は思わぬ敵と闘うこととなった。視力が極端に落ちていたためロードワークにまともに行けておらず、試合が無かったこともあり、体重が144ポンド(約65kg)まで増加してしまっていた。

本来、身長168cm、体重117ポンド(約53.5kg)の明にとって、もともと減量は厳しいものであった。それに加えて成長と共に骨が太くなって来ており、骨格がバンタム級に留まることを許さなくなりつつあった。

 1985年6月8日。走り込みを続ける毎日に、少々嫌気が差して来た頃、秋奈から思わぬ誘いがあった。

「3月に高校を卒業してから、一人暮らし始めたんだ。良かったらウチに遊びに来ない?」

 秋奈はこの春から看護の専門学校に通い出し、五反田に移り住んでいた。明が練習している浅草の町からは電車で13駅ほど離れた場所にある。

「いいのかよ、若い男なんか連れ込んで。親父さんに怒られるぜ」

 冗談と本気の半々。そんな思いだった。

「いいのいいの。あんまり走ってばっかじゃ退屈でしょ。たまには羽を伸ばさないと」

 秋奈はそんな思いなど気にも留めていない様子だった。電車を乗り継ぎ、五反田へ着いてから5分ほど歩くと、小洒落た感じのアパートへと案内された。

2階までの高さで木造、鉄筋両方ある『アパート』に対し、階数制限がなく鉄筋のみの構造になっている『マンション』が増えては来ていたものの、バブル突入以前である昭和の中頃においては、若者のアパート暮らしも珍しくはなかった。204と書かれたプレートをしげしげと見つめた後、秋奈に促されるままに部屋へと入り込んだ。

「おっ、すげえな。テレビあんじゃん」

「ふふ~ん、いいでしょう。おばあちゃん家で新しいやつ買ったから使わなくなったのを貰ったんだ」そう言うと秋奈は、慣れた感じでテレビのスイッチを入れる。

世界初のテレビ放送は1936年にイギリスで放送され、その後アメリカではニューヨークでWNBCが1954年にカラーで放送を開始し、日本では1960年に開始された。当時は画面右下にカラーの文字が表示され、モノクロテレビで見ているとそれがもの寂しい感じがしていた。だが、1964年の東京オリンピックを契機として普及し、1968年4月からNHKがラジオ契約を廃止して、カラー契約を創設したことから、1973年には白黒テレビの普及率を上回った。

また、昭和の時代にはゴールデンタイムにプロレスが放送されているということが当たり前であった。午後7時台に中継が行われており、多くのスター選手が熱戦を繰り広げる様は、活気ある時代を象徴していた。

「お茶でも飲む?」明はそう言われ、軽く返事をすると辺りを見渡してみる。

“そういえば女の子の部屋になんて入ったことは無かったな”そう思い、ピンクを基調とした内装を見ながら、音を立てないように気を付けて生唾を飲む。

「さっきから全然喋んないじゃん。もしかして、緊張してんの?」

「そんなんじゃねえよ。ただ、なんだか色のキツい部屋だなと思ってさ」

「色の濃さとか、ちゃんと分かるんだよね?あれから見え辛くて大変だと思うけど」

「ああ、ただちょっと遠くが見えにくいかもしんねえな」

手術が終わってからというもの、秋奈は術後の経過を常に気にしてくれていた。

 2010年代ともなれば、遠近両用の多焦点レンズを用いることもあるが、1980年代後半には単焦点レンズを用いることしかできなかった。これは被写体の像を急速に拡大、縮小することはできず、『ピントの調節』ができない代物であった。

「そうなんだ。このまま老後まで大丈夫だといいんだけど」

 眼内レンズの耐久性は40年から50年と言われている。元々の水晶体の寿命が80年ほどなので、その約半分の耐久性だと言える。人間の技術の粋を結集させたものよりも長く持つとは、人体とは本当に不思議で、良く出来ているものである。

「おうよ。手術代、五十嵐さんから借りちまってるからな。次の試合のファイトマネーで返さないと――」

 2010年代において1割負担の場合両目で『4万円』、3割負担の場合『10万円ほど』で手術できる白内障も1980年代後半には『30~50万円ほど』費用がかかるものであった。これは、1992年4月まで保険適用外であったことも影響している。

「でも、なんで白内障になっちゃったんだろうね」秋奈は不思議そうに首を傾げる。

「医者が言うには目を激しくぶつけるようなこととか、ぶどう膜炎になった時に発症するんだと。後は遺伝かな」

「そっかぁ。『どうしたら防げてたんだろう』って考えちゃうんだよね。手術してからじゃ遅いかもしれないけど」

「まあ、過ぎちまったことはしょうがねえよ。良くなかったことと言えば、抜糸がおっかなかったことくらいかな。それ以外は全然問題なかったぜ」

「そうだよね。悩んでばっかじゃ先に進めないもんね。その方が良いのかも」

 秋奈はこれを聞いて『深く考えない』ということも、時には必要なことだと思った。四方山話にしては少々難しい内容だが、今の彼らにはタイムリーで興味深い話であった。

因みに白内障を予防するには『カロテノイド』と呼ばれる天然色素の中の『ルテイン』という抗酸化物質が有効である。この物質は主にほうれん草やブロッコリーに多く含まれているもので、ハーバード大学医学部のジェドン博士が行った研究によると、ルテインの摂取量が最も高い人と低い人を比べると、白内障による摘出リスクが20%も違うことが確認されている。

「粗茶ですが」そう言って秋奈は氷を2つほど入れながら麦茶を差し出す。

「ああ、ありがとう。それにしても面白そうなモンがいっぱいあんだな。この猿なかなか可愛いじゃねえか」明は手に取った人形をまじまじと見つめている。

「ああそれ。いいでしょ~。『モンチッチ』って言うの」

 私のという意味の『モン』と小さくて可愛いものという意味の『プチ』を合わせた言葉に名を由来するこの人形は、その赤ん坊のような風貌から女性と子供に大人気であった。

「こっちのは何て言うんだ?」

「それは『キャベツ人形』。ついでにこっちのは『こえだちゃん』と『みきちゃん』って言うんだよ」

 アメリカ発祥のキャベツ畑から子供が生まれるということをモチーフにした人形と、木の形をした家のテッペンを押すと、葉っぱの屋根が開いて部屋が出現し、横に付いているダイヤルを回すとエレベーターが上下するというおもちゃは昭和末期の流行りものであった。

「男には分かんねえ物だな。おっ、『ドンジャラ』じゃねえか。こっちは『モーラー』だな。これなら俺でも知ってるぜ」

これらは牌に漫画やアニメのキャラクターをあしらった、ドラえもんが書かれているものが有名な麻雀と、テグスを引っ張ると生き物のように動かせるという細長いモールであった。

秋奈の部屋には他にも、本体に一つだけある大きなボタンを押すといつでもどこでも延々と笑い声が再生され、夜中に間違って踏むと非常に不気味であるという『笑い袋』。

ボールをぶつけ合う音から、カチカチボールとも呼ばれ、女の子に見せられないギャグにも使える『アメリカン・クラッカー』があった。

「明くんはどんなおもちゃ持ってるの?」

「俺か。自慢できるようなものはないけど、『ゲイラカイト』とか、『ローラースルーGOGO』とかかな」

「他には?もっと聞きたい!」秋奈は相変わらずテンションが高めだ。

「まあ、いろいろあるんだけど、ガキの頃によく遊んだのは『トミカ』とか『チョロQ』とかかな。どっちもそんなに一杯ある訳じゃないんなんだけどな。あとは『キン消し』とか『タマゴラス』だな。それならいっぱい持ってるぜ」

「男の子って皆キン消し持ってるよね。ほんと闘うの好きなんだから」

「それが雄の本能ってもんよ。それより、これだけあったら結構遊べるよな。欲しい物とかあんのかよ」明は今、思いついたかのように聞いてみた。

「欲しい物か~。先月の13日に発売されたゲームなんだけど『スーパーマリオブラザーズ』って言って、めちゃくちゃ流行ってるんだって。それをやってみたいかも。明くんは?」

「へえ~そんなゲームがあるのか。知らなかった。秋奈は情報通なんだな。俺は『ゲーム&ウォッチ』かな」

 これは携帯ゲーム機の草分け的存在であり、国内で1287万個売り上げ、社会現象にもなったものである。この商品は当時の男子の憧れでもあった。

「最近、いろんなものが出て来て凄いよね。1981年に窓際のトットちゃんがベストセラーになって、82年に笑っていいともが始まって、83年に東京ディズニーランドが開園になって、84年にドラゴンボールが連載開始して」

「そうだな。俺は特に『俺たちひょうきん族』が好きで毎週見てるよ。日本はずっとこの調子で行くんだろうよ。『まさか』景気が悪くなるなんてことはないだろうし、ずっと上り調子のままなんだろうな」

この年、1985年より少し後、日本経済はかつてないほどの好調となる。

『バブル景気』と呼ばれ、プラザ合意によるドル高の是正に対し、日銀から銀行への貸し出し金利である『公定歩合』を5%から2.5%まで段階的に引き下げたことで起こった1986年12月から1991年2月まで51ヶ月間続いた好景気。

1000万円の土地を担保に2000万円を借り、その金で新たに土地を買うという、『土地転がし』が流行したりもした。その真っ只中で、国民の誰もがその好景気の継続を信じて疑わなかった。

『いざなぎ景気』と呼ばれ、政府が補正予算で戦後初となる建設国債を発行したことで建設需要が拡大し1965年11月から1970年7月まで57ヶ月間続いた好景気や、『いざなみ景気』と呼ばれ、北米の好調な需要により、輸出関連産業を中心に多くの企業が過去最高の売上高と利益を記録した2002年2月から2008年2月までの73ヶ月間続いた好景気などあったものの、この『バブル景気』は、間違いなく戦後最大の好景気であったと言える。その後サラリーマンの平均給与がおよそ半分になり、長きに渡って不景気が訪れることなど、思いもよらぬことなのであろう。

 土地転がしで多額の利益を享受し、一万円札を振って見せないとタクシーは止まらない。ディスコで踊り狂い、ご飯を奢ってもらうだけの『メッシーくん』や、車で送ってもらうだけの『アッシーくん』なんて酷い呼び名を付けたりもした。そんな『バカみたい』な時代が昭和の終わりに確かに存在していた。まだ社会が暖かかった頃の、一夜の幻のような時であった。

一息ついた後、秋奈は何だか痺れを切らしたように話し始める。

「ねえ、泊って行かない?」

「えっ!?」少し遊びに来たつもりの明にとって、この発言は完全に予想外であった。

「いや、あの、その、マジで?」歴戦の勝者も、女性の前ではたじたじである。

「別に嫌ならいいんだけど」秋奈は口を尖らせて拗ねたように言った。

「嫌ってことはねえよ。けど、あまりにもいきなりだったもんで――」

 はっきりした態度の秋奈に対し、明の態度はどこか煮え切らないものであった。

「どうすんの?男ばっか倒してても、つまんないんじゃない?」

「それもそうだな。よし、分かった。俺も男だ、腹括るぜ」

 明はやっと決心がついたのか、自らを奮い立たせるように、大きな声で返答する。

「そう――じゃあ。これで決まりね」秋奈は落ち着いた感じでそう言い放った。

「では、さっそく」明はそう言って秋奈の肩に手を掛ける。

「待って、せっつかないでよ。お風呂に入って来るんだから。テレビでも見といて」

 秋奈は本気で少し怒りそうになりながら、明の背中を押して画面の前に座らせた。

 20分ほど待つと、フワっと良い香りをさせながら秋奈が風呂から出て来た。

“長い風呂だったな”そう言いたかったが、これを言ってはいけないことくらいは、勘の鈍い明にでも分かった。

「ちょっと借りるぞ」昭和の男は無骨で、愛想がない。

 そう言われても仕方がないと思えるような言い方であった。湯船に浸かって心を落ち着かせようとするが、平常心など保てる訳がない。期待と不安が半々。

 『こういう時』は誰でも、そんな思いなのであろう。明が風呂から上がると秋奈はバスタオルを巻いて、ベットに腰かけて待っていた。隣に座って髪を撫で、少し息を吐き出した後、軽くキスをした。頭の中を真っ白にさせながら、ゆっくりとバスタオルを取ってみる。

「おわっ、びっくりした。何だよ、その色」

 明は驚いて、だいぶ上ずった声を出す。

「え~。だって勝負下着は赤って聞いたんだもん」

 秋奈は膨れて小さな子供のように答えた。

「そういうもんなのか?それって誰に聞いたんだよ?」

 明は勢いづいて話し始める。

「タバコ屋のお姉さんに――」

 それに対して秋奈は自信なさげに最低限の返答だけする。

「タバコ屋のって、あのじゃりン子のチエミさんだろ?」

明はどことなく不満げに話す。

「でもあの人、花の女子大生だよ。凄くない?オシャレに関してはウチらじゃ逆立ちしたって勝てっこないよ」秋奈はここぞとばかりに反論する。

「まあいいや。今からは、ふざけないようにちゃんとするよ」

 明は急に改まって、紳士的に振る舞う。

「うん。優しくね」秋奈は乙女な感じで、一言だけ念を押すように言った。

「ああ、イタリアの種馬ばりにキメてやるぜ」明は自信満々に答えた。

「もう~何それ~。どこからそんな自信が湧いて来るんだか」

 秋奈は軽く揶揄うような、嬉しそうな調子で言った。

 それから、その夜は二人にとって『忘れられない夜』になった。



 次の日、起きてから明はロードワークのためにいつものコースへと向かおうとした。

「ねえ、まだ時間あるんでしょ。その前にどっか寄ってかない?」

「そうだな。インベーダーゲームでもやりに行くか」

どこかまだ話したそうにしている秋奈に対し、明は照れ隠しに少し笑ってみせた。それからというもの、時間を見つけては、秋奈の家に遊びに行くようになった。減量は苦しかったが、後なって思えば一番楽しかった時期なのかもしれない。

そして、計量10日前まで、いつもよりかなり多く走り込み、大幅に食事を減らし、干し椎茸を噛んで唾液を吐き出し続けた。しかし、目の下が窪んで頬骨が浮き出て来ても、あと1キロがどうしても落とせなかった。

「腹、減ったなあ。牛丼が食いてえなあ。天丼もいいなあ。親子丼も最近食べてなかったなあ。かつ丼なんか食えたら最高だろうなあ。米――食いてえなぁ」

走っていても浮かんで来るのは食べ物のことばかり。宿敵ロビンソンを倒す前に、まず自分との闘いに勝たなくてはならない。それから3日経ち、4日経ち、一週間経っても、その1キロは落ちなかった。

「みず――みずがのみてぇ」

力なくそう言って、計量を試みてはみたものの、無情にも体重計は表情を変えない。その日はまだ夕方だったが、布団に潜り、必死で眠りに就こうとする。寝てしまいさえすれば、この渇きからも逃れられる。

「どこだ?どこからか――みずのしたたるおとがする」

家中の蛇口を見るが、数日前に紐でガチガチに縛っていて水滴など出よう筈もない。

「げんちょう――なのか?」

『ドライアウト』

減量で水を断ち、極限に達すると感覚が研ぎ澄まされる現象である。減量のピークであり、食べ物の幻覚が見えそうなほどである。昨日まで食べていた煮干し三匹でさえ、贅沢な食事に思えてくる。

「あぁ~。っああああああああ」

居間にあった椅子を蹴飛ばし、粉々に壊した後、その日は死んだように眠りに就いた。それからというもの、苛立ちをぶつけないために誰とも話さずに過ごした。

「――」計量の当日には、もう独り言を発する気力もなくなっていた。



1985年7月7日、運命の決戦。日曜日とあって、後楽園ホールは見事に満員であった。時は流れ続け、誰一人として、一時として止めることは叶わない。

「120ポンド――。2ポンド、オーバーです」

明は口を歪めながら、大きく深くため息をついた。それを見ても五十嵐は怒ることなく、冷静に言葉を掛けた。

「慌てることはない。サウナに入って体重を落とすんだ。よくあることさ。大丈夫、再軽量の時に規定のウェイトならいいんだ。それより今は、ロビンソンに勝つことだけを考えろ」

『よくあること』と軽く片付けられる事態でないことは明にも分かっていた。五十嵐に『あえて』甘い言葉を掛けさせてしまったことを、明は猛省した。試合前にサウナに入ることは当然体力を消耗し、戦況を不利にするものである。

再軽量は二時間後。それまでに、命を賭してでも、2ポンド削ぎ落とさないといけない。近所の風呂屋に移動し、椎茸を噛み締めながら身体を蒸される。

干し椎茸を噛んでの減量も200グラムが限界だ。付き添いで来た五十嵐も、当然のように入室した。1分、2分、3分、4分、5分――。そして、明はサウナの業火に焼かれ、いつしか気を失ってしまっていた。危険だと分かっていた。

だが、五十嵐は汗が全く出なくなった明をそれから『2分だけ』サウナに入れ続けた。下半身から水分が出きった後、火事場で子供を連れ出すように明を抱え、サウナを後にした。そして再軽量10分前、五十嵐にそっと起こされてから、明は全身の毛を剃った。

「117ポンド4分の3。計量OKです」

辛うじてパスできたものの、当日計量であるため、身体への負担は相当なものと言えるであろう。計量については、1994年3月までは試合当日の午前10時に計量を行っていたが、その年の4月1日から前日軽量で試合を行うこととなった。

 それは当日計量だと、選手の身体に負担が掛かり過ぎてしまうため、健康に配慮してのことである。それに加え、5リットル水を飲めば、5キロ体重が戻ると言われ、数時間で元のウェイトになることが問題視されていたりもする。

既に一試合終えたかのような明の身体は、ミイラのように痩せ細っていた。それから砂漠を抜けたように喉を潤し、野獣のように食事をし、2時間ほど睡眠を取った後、明はリングへと向かった。



 その後、試合当日、控室にて――。明が鞄から荷物を取り出していると、五十嵐が不意に話し掛けて来た。

「明、お前に渡したい物がある」

「何だよ、渡したい物って」

 五十嵐の方を向いて言ったが、その言葉に応えたのは秋奈だった。

「明くん、はい」

「これって、五十嵐さんの――」

 見ると秋奈が差し出したのは、五十嵐がいつも試合の時に履いていた金色のトランクスであった。

「ちゃんと洗ったんだろうな」気恥ずかしさを隠すため、態と訝しげな顔で確認する。

「はっはっは。愚問だ。しっかり秋奈に任せてある」五十嵐は自信満々にそう答えた。

「えっ!?渡されたから洗ってあるのかと思った」秋奈の声は少し裏返っていた。

「ってことはあの試合から洗ってねーのかよ。まあいいや。ありがたく貰っとくよ、五十嵐さん」明は五十嵐の方に向き直り、嬉しそうに笑みを浮かべてみせた。

「嘘よ、嘘。私にそんな手抜かりある訳ないじゃない。ちゃんと洗ったよ」

「そうか、そうだよな」

ちょっと得意げにそう言った秋奈に同調しながらも、珍しく苦笑いを浮かべた。汗とワセリンの匂いが浸み込んだトランクスには、秋奈によって名前の刺繍が施されていた。それからグローブを嵌め、テーピングで固めて『グロービング』した。秋奈と五十嵐が控室を出て行き、10分間、精神統一をした後、明は重要な事実に気付いた。

「トイレ、行ってなかった」

 ボクシングのグローブはテーピングでガチガチに固めるため、一回グローブを嵌めたらトイレに行く時でも外すことはできない。不用意に動くこともできず、どちらかが戻って来るのを待っていると慎也が入って来た。

「何だよ、いいもん履いてんじゃん」茶化すような言い方だった。

「ありがとよ、今日は締まって行くぜ」

 言いながら、タイトルマッチ直前だというのに妙に落ち着いて話せているなと思った。

「応援してるよ。初めて会った時からお前はやる奴だと思ってた」

「入学式のあの喧嘩から3年か。俺たちも大人になったもんだな」

「あれから本当にいろいろあったな。大輝が棟梁になって、俺もあいつんとこで働くようになって、後輩に教えるようにまでなってさ。皆本当に大人になって行くんだよな。お前だってそうだよな?今日は楽しませてくれよな」

こういう言葉は素直に力になる。慎也は昔を思い出し、しみじみとした様子だ。

「そうだな。そこでなんだけどちょっと頼みがあるんだ」

「ん?なんだ、頼みって?」“試合後ではダメなのか?”そう思った。

「緊張してトイレ行くの忘れてた。ちょっとついて来てくれないか」

「ついて来てって、一人で行けるだろ?幼稚園児じゃあるまいし」

 子供のような頼みに、慎也は思わず吹き出しそうになった。

「それがその――グローブが外せない状況で――」

「そういうことか、しょうがねぇな。今回だけだぞ」

 そういって引き受けてくれるのは偏に慎也の人柄が良いからだと言えるだろう。トイレに行き用を足すと、もう出番が迫っているようだ。秋奈と五十嵐に促され、一つ深呼吸をしてからリングへと向かう。

「皆に自慢させてくれよな。チャンピオンの友達だって」

「おう、今度こそやってやるぜ」

「勝って認められて来い。退学したあの日、お前を笑った奴らを見返してやれ」

強敵に立ち向かう親友を鼓舞する慎也の表情は、先程までとは打って変わって真剣そのものといった様子だ。がっしりと腕を酌み交わした後、明たちはリングに向かって歩き始めた。

 これから激闘が繰り広げられる檜舞台に、一筋の光が差し込もうととしている。我が身を擲ってまで明を守ろうとした五十嵐。それに応えようと今日まで血の滲むような努力を続けてきた明。その決戦の火蓋が、ほんの数分経てば切って落とされるのだ。

ロビンソンの完全無欠の全勝伝説にピリオドを打つことができるのか?明も五十嵐もこの日を心待ちにして来た。ゆっくりとした足取りで明と共にリングサイドへと入場した五十嵐が、少々緊張した面持ちで明を鼓舞する。

「チャンピオンは一人。その陰で歴史に埋もれて行った不遇の才覚があったことだろう。だが、お前は違う。今までやって来たこと、乗り越えて来た相手、支えとなる者を思い出せ。お前は一人ではない、俺たちを信じろ。ロビンソンを倒し――この俺を超えてみせろ!!」明はこの言葉に身震いした。

「ありがとう五十嵐さん。こんな俺だけど、今まで面倒見てもらったお陰で今があるんだ。こんな大舞台に立ててること自体が凄いことだよな。敵、討って来るよ」

 戦へと向かう明の後ろ姿には、出会った頃のあどけなさは微塵も感じられなかった。

赤居 明が今、名伯楽と共にマイク・レイ・ロビンソンと相見える。



『カンッ』

 試合開始。すぐさま歩み寄る二人の一瞬の攻防。速攻で放った明の『スマッシュ』がロビンソンの左頬に突き刺さる。必殺のスマッシュに王者轟沈。

 開戦直後の『パニックダウン』は心身共に多大なダメージを与える。この試合だけでなく2試合通じて初のダウン。この意味は大きい。完全に気を失っているロビンソン。

“立つな、立たないでくれ”一瞬で決まる筈などない。だが、そう願わずにはいられない程の強敵を目の前にしているのである。

 5、6、7。ゆっくりと身体を起こしたロビンソンだが、身体が少し震えているようだ。いくら超人的な人間であるとはいえ、この事態に動揺していない筈はない。チャンスだ。畳みかけるなら今しかない。ロビンソンがファイティングポーズをとり、グローブを拭いたのを確認するやいなや、凄まじい勢いで倒しにかかる。

 山場など必要ない。『倒せる時に倒す』それもボクシングの鉄則の一つである。凌ぐしかないロビンソン、矢継ぎ早に拳を浴びせる明。まるで大人と子供のような一方的な展開に会場は大きく沸き立っていた。

「行けるぞ、明」

 普段大声を張り上げることのない五十嵐が大声を出す。“目が死んでないな”明は静かにそう思った。侮れる訳がない。この男、現段階での正真正銘の世界チャンプ。そして、最後まで何があるか分からないのがボクシングでもある。防戦一方のロビンソンに対し、明は見るからに勢いづいていた。そしてゴングが鳴り、第1ラウンドが終了した。

 このラウンドで明が浴びせた拳は100と8つ。ロビンソンはカウンターを放った4発のみ。目に見えて優位に立ったことで、張り詰めた心に僅かばかりの余裕が生まれていた。



そして、迫真の第2ラウンド。火花散る打ち合い。大地を揺るがすようなどよめき。

 打ち合いを挑んだ明は、ロビンソンに押され始めてしまう。体格差は試合の勝敗にも影響を及ぼす。一年経ち、更に大きくなった、身長174cmのロビンソンと168cmの明では計量後のエネルギーの蓄積量が全く違う。

 更に、一度負けている相手にはどうしても苦手意識がつきまとうもの。それを払拭するのは容易ではない。先程のラウンドとはうってかわって息を吹き返したロビンソンはここぞとばかりに猛威を振るう。

 豪打の滅多打ち。これで互いにエンジンがかかった。嵐のような打ち合いを経て、手の内を伺うようなことはもう必要ない。裸一貫、リングの上では隠し事などできようものか。常に全力を投じ、己の限界を超え、ただ相手を薙ぎ倒すのみ。経験の差こそあるものの、変幻自在のロビンソンの攻撃にも、今の明はしっかりと対応出来ていた。

 しかし、重たく体重の乗った拳が、明の意識を刈り取ろうとして来る。ボクシングは常に『オール・オア・ナッシング』。勝てば官軍、負ければ賊軍と言ったところか。脚光を浴び、英雄となれるのは、どこの世界もトップの者と決まっている。

 その栄光を手にしたいがために多くの代償を払い、死に物狂いで練習に明け暮れるのである。チャンスはそう何度もあるものではない。だからこそ、その希少な機会を、人生を変える転機を、逃すわけにはいかないのだ。高らかにゴングが鳴り第2ラウンドは終了した。ガードした部分が痺れて麻痺したような感覚になる。

「守勢にまわってはいけない。パンチをもらい続けると相手のリズムを作り、調子づけることになる。先手必勝、主導権を握るんだ」

 五十嵐のアドバイスで明ははっとして正気を取り戻す。いつもは勝気な明も、ロビンソンを前にしてはどうしても気後れしてしまう。そして、再戦というのは互いに手の内が分かっているからやり難いものなのである。特に負けた相手というのはどうしても『恐怖する対象』として認識しやすい。だが、生物としての本能を理性で抑えることができてこそ、『人間である』と言える。



そして、激情の第3ラウンドを終えての、激動の第4ラウンド。

「ロビンソンは左のフェイントから右のフックを絡めてガゼルパンチを打って来ることが多い。経験の中で身に付けた『お得意の』コンビネーションなんだろう。このパターンに入ったら即座に左にシフトし、カウンターで『スマッシュ』を打ち込んでやれ。心臓が止まれば3秒間、そこはお前の世界だ」五十嵐にそう耳打ちされ、明は静かに頷いた。

 ラウンド開始直後、ロビンソンがフックからフェイントを交えての『ガゼルパンチ』を打って来た。『お得意の』パターンを抑えステッピングで左後ろに下がり、カウンターで渾身の『スマッシュ』を打ち込む。手応えが薄い。ロビンソンは右手を心臓との間に挟み、辛うじて身体を右へ傾けることでヒットポイントをずらし、心臓への直撃を避けていた。

彼の類まれなる反射神経と本能が自身の危機を察知した結果であろう。ダウン後、ピクリとも動かないロビンソン。相手のセコンドであるリチャードが英語で何か捲しててている。

「立て、ロビンソン。オクラホマで差別を受けていた時の、ニューヨークでいじめを受けていた時の、デトロイトでリンドンに勝利した時の、苦しかった時代を忘れたのか?立ってここへ戻って来い。お前はチャンピオンで居続けるべき男だ」

 その言葉を受け、ロビンソンはゆっくりと起き上がり、大きく咆哮してみせた。自身を奮い立たせるため、明への威嚇のため、どちらの意味合いもあることであろう。鋭い針のような眼光で、今にも明を射殺さんとばかりに睨み付けている。

 そして、豪腕を唸らせて風を切り、明の首を落とさんばかりに責め立ててくる。明はそのあまりの気迫に思わず気圧されてしまう。劣勢のままこのラウンドは終わりを告げた。

「地獄を見た者とそうでない者とでは根本的に見ている世界が違う。お前はどん底から這い上がり、この場所に帰って来た。試練に耐え乗り越えた者が、負ける筈なんてないのさ」五十嵐はここが勝負所とばかりに語調を強めて話している。

「ああ、任せといてくれ。なんだか今日は負ける気がしねえんだ。ハイになって感覚がバカになってるだけかもしんねえが、『あの』ロビンソンがグリーンボーイか子供のように見えちまってるんだ」

虚勢を張っている訳ではない。それは誰の目にも明らかだった。



会心の第5ラウンド、防戦の第6ラウンド、逆襲の第7ラウンドが終了し、激震の第8ラウンドが開始された。ロビンソンはここへ来て今までの劣勢が嘘のように息を吹き返した。拳の弾幕が明を襲う。一発一発に込められた気迫が今までとは違う。鬼の形相で修羅のように拳を振り続ける。一瞬でも満たされれば飢えを、渇きを、人はすぐにでも忘れてしまう。若き日の誓いを、汗と涙の数を、初めてグローブを嵌めた時のあの思いを。

「明くん、闘い方が上手くなっているね」

ロビンソンが繰り出した技に対し、首を捻ってパンチの勢いを殺したのを見て、観戦中の古波蔵が思わず褒めてしまうほど明のスキルは上がっていた。

試合開始前、秋奈と慎也は、空席を探してキョロキョロしていた古波蔵とグラッチェと偶然出会い、行動を共にしていた。そして、両国国技館の4人掛けのマス席に慎也、秋奈、古波蔵、グラッチェの順に座り、試合を観戦することになっていた。

皆の応援が、明の背中を強く後押ししている。対するロビンソンは、下から突き上げるようにパンチを打って来る。その両方がストレートのような威力とキレのあるフックだ。

 当たれば一転、ダウンを奪われてしまうかもしれない。“たまには慎重になることも必要か”明はそう考え始めていた。

「攻めろ、攻め続けるんだ」

不意に聞いた五十嵐の声に明は第5ラウンド終了時に言われたことを思い返していた。牽制のための『スマッシュ』。左手を挟まれ、ボディには届かなかったものの、俄かにロビンソンの表情が険しくなって行くのを明は感じ取っていた。

 その後放った右ストレートが命中し、あっさりと2度目のダウンを奪った明は、この勝負に明らかな手応えを感じていた。起き上がり、返す刀でロビンソンは連打の後の『ガゼルパンチ』しかし明は倒れない。

 睨みを効かせ、凄んで見せるロビンソン。黒のトランクスは彼自身が黒人であることを誇りに思っている証。差別や偏見と戦い、人権を獲得して来たその歴史のように、己の拳一つで王座に就くことを決めた彼の決意の色なのである。

 そのトランクスを鮮血の赤に染められることは、彼にとって我慢ならない屈辱なのである。津波のような怒りをロビンソン自身もコントロールできないでいた。明サイドに緊張が走る。怒りに震える巨体にその身一つで打ち勝たなくてはならない。俄かに暗雲が立ち込める。

瞬時に放たれる『ガゼルパンチ』。肋骨がヘシ折れたかと思うような衝撃。もの凄い赤居コール。立ってロビンソンを迎え撃つ。闘いは更に激しさを増し、加速するように第5ラウンドは終わりを告げた。ふとリングに目をやると、相手のセコンドが必死に何か捲し立てている。

「どうしたロビンソン?お前の怒りはこんなものなのか?」

 セコンドのリチャードはロビンソンのプライドを刺激するように注力して話している。

「大丈夫だ。俺は絶対に勝ってみせる」

 ロビンソンは鼻息を吹き荒らし、今すぐにでも勝利を我が物にせんと息巻いている。これほど不利な状況に立たされても、ロビンソンの屈強な意思は折れることを知らないようだ。



 そして、嵐を呼ぶ第9ラウンド、一つの節目である第10ラウンド、鎬を削った第11ラウンド、魂を懸けた第12ラウンド、死を覚悟した第13ラウンド、息を吹き返した第14ラウンドが過ぎ去り、満を持しての第15ラウンドが開始された。明は雪辱を果たし、世界チャンピオンとなることはできるのか。

「こんな状況でも耐え続けるなんて、ロビンソンは本当に偉い奴だ」

「偉い奴が勝つんじゃない。勝った奴が偉いんだ。それにお前だって苦しさに耐えている。リングに立っている限り、誰にだって『勝つ権利』はあるんだ」

「五十嵐さんよく言ってくれたよな。積み上げて来たものが拳に宿るって」

「その通りだ。さあ、遠慮なんていらない。あのベルトをお前のものにする時が来たんだ。ぐうの音も出ない程にノックアウトしてやれ」

 そしてゴングの音を聞いてからの『アストライドポジション』。両足を横に開いて両者死力を尽くした打ち合い。互いが全く引くことを考えない、『ナイフエッヂデスマッチ』のような、それを許さぬ『空気』があるのだ。

 男と男の真剣勝負。二人とも逃げる気など毛頭ないといった覚悟であろう。どちらかが倒れるまでこの死闘は終わらない。自らのプライドを掛け、命を、魂を、人生を掛けて、相手をリングにひれ伏させるまで、殴るのを止めない。

そこから、勢いを増すようにして闘いは激しさを増して行く。貼られたままの、敗者というレッテルを剥がしたい。この試合二度目の『ガゼルパンチ』。明の口から生々しく血が垂れる。ロビンソンは両腕をブンブン振り回して来る。だが、もの凄い集中力を発揮している今の明には、ロビンソンの拳がまるで止まって見えるかのようである。

この試合を終えてロビンソンに勝つことができれば『強さとは何か』が分かることであろう。明の加速度的に攻撃の手を速めて行く動きに、ロビンソンはついて来れなくなって来ているようだ。ロビンソンのガードの隙間を縫って巧みにパンチをヒットさせて行く。

『雷轟電撃』一瞬の虚をついて明の『スマッシュ』がロビンソンの心臓を射抜く。

「決まった~。赤居選手の十八番『ハート・ブレイク・スマッシュ』だ!!」

 実況の男が、興奮した様子で捲し立てる。そこから3秒間、20と8もの連撃をロビンソンンに浴びせ続けた。息を飲む観衆。横たわるロビンソン。

 1、2、3――ロビンソンが意識を取り戻し、立ち上がろうとロープを掴む。

4、5、6――膝から上が浮き上がるが、支えとなっている左手がどうしてもリングから離れない。

7、8、9――不屈の闘志で右足を立てたロビンソンの口からは、鮮烈な赤い血が滴っていた。

 カウント10!ゴングが鳴り、レフェリーが手を交差させる。

その瞬間、ロビンソンの右手がロープから離れ、鈍い音と共にリングに横たわった。

「勝ったあああああ」

明の声が会場にこだまする。歓喜爆発。苦しかっただけにその思いは一入である。大会委員から表彰状が手渡される。大儀を成した明の目には光るものが浮かび上がっていた。

 インタビューもそこそこに、明がリングを去ろうとしていると介抱を受けたロビンソンがゆっくりとこちらへ歩み寄って来た。

「いい試合だった。君のような強い選手と闘うことができて光栄だよ。ボクサーとして本望だ。悔いはないさ」

 英語で言われたため意味は分からなかったが、拳を交えた者同士、言わんとするところは分かりきっていた。

「俺もこの試合ができて良かったよ。今日のことは一生忘れない。ありがとよ」

 そう言って明はゆっくりと右手を差し出した。ロビンソンは満面の笑みでその手を握り、「サンキュー」とだけ言い残し、その場を後にした。



 肉民という変わった名前の店で開かれた祝賀会。酒が入っていないにも関わらず、皆凄い盛り上がりようであった。ここへ来て五十嵐が徐に口を開く。

「これでようやく本懐を遂げることができたな。俺はもう思い残すことはないよ」

縁起でもない話だが、あながち冗談にも聞こえない。

「これから何度も防衛するんだ。まだくたばってもらっちゃ困るぜ」

 明は憎まれ口を叩きつつも、本当に嬉しそうだ。

「おめでとう明くん。私、本当に嬉しい」秋奈は感極まった様子だ。

「ありがとよ、秋奈。お前の応援、しっかり届いてたぜ」

誇らしげな笑みを浮かべた明を見て、五十嵐の説法にも一層熱が入る。

「強い者には自然と感謝の心が身につくものだな。周りや巡り合わせ、上に行く者は良いモノを持っている。勝てば勝つほどに己の強運を喜ばずにはいられなくなるだろう」

穏やかな時間が流れ、皆今日の喜びに浸っていた。

「それと――」秋奈は少し言い難そうに話している。

「それと?他に何かあったっけ?」明は全く予想がつかないと言った様子だ。

「できちゃったみたい」秋奈は新鮮なトマトのように赤くなりながら言った。

「できちゃった?それって――」明は状況は理解できたが、かなり驚いていた。

「はっはっはっ。これで昼も夜も世界チャンピオンだな」

 五十嵐に揶揄われて、明も思わず赤くなってしまった。

 18歳9ヶ月9日での世界制覇。17歳6ヶ月で史上最年少チャンピオンとなり、練習嫌いであったことでも有名な、プエルトリコ人のウィルフレッド・ベニテスには及ばないものの、日本人として最年少チャンピオンとなったことで、明はマスコミや世間からも大いに注目されることとなった。


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