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第四章 修行編

ロビンソンとの対決を終え、一行は明が入院している歓応(かんのう)私塾(しじゅく)大学付属病院に来ていた。五十嵐は『パンチドランカー』の症状がだいぶ軽くなっては来たが、『引退する』という決断に変わりはなかった。

 それよりも明の身体の方を心配しており、医者の静止を振り切って明の病室に寝泊まりしているほどであった。二日間ずっと眠っていた明が(おもむろ)に目を覚ました。

「おお、目が覚めたか。具合はどうだ?気分が悪かったらすぐに言うんだぞ」

 五十嵐の慈しみに溢れる言葉も、今の明には届いていないようだ。

「おっさん――。俺、負けちまったんだな」

「そんなことはいい。今は身体を休めることだけを考えろ」

「本当にすまねえ。あんなに無理言って試合を組んでもらったのに最低な内容だった」

 相当責任を感じているのであろう、明は目を伏せて合わせようとしなかった。

「そんなに自分を責めなくても大丈夫だ。お前は十分良くやったさ」

「五十嵐さん。俺にもう一度――ボクシングを教えてくれ!」

「ああ、もちろんさ。そのための『秘策』も考えてある。今までに教えきれなかった部分を、徹底的に教え込んでやるよ」

「ありがとう。頼りにしてるぜ」

 お世辞を言うような性格ではない。この言葉が明の本心なのであろう。

「しっかりとダメージが抜けたのを確認してから退院するぞ。これからの練習は相当にハードなものになる」

「望むところだ。バシバシしごいてくれ」

 あれほど壮絶な試合の後だというのに、明は臆することなく目標だけを見つめていた。

 それから2週間経ち、明は退院の日を迎えた後、米原の運転する車で、五十嵐、秋奈と共に、どこかへ向かおうとしているようだ。

「行くぞ、明」五十嵐はいつものような自信に満ちた表情であった。

「世界を制する者ならば求道者たれ」

 どこかへと向かおうとしている車の中で、五十嵐はそう言って語り始めた。

「今から向かうのは石川県金沢市にある医王山(いおうぜん)のペンションだ。そこで2ヶ月間の『合宿』を行う。感傷に浸っている時間はないぞ」

 五十嵐は今回、自分の体調を押してまで明の合宿に付き合うことを決めていた。

「そこで行うことは主に二つ。身体能力のベースアップと『奥義』の伝授だ」

 明は珍しく黙って話を聞いている。

「スマッシュはフックとアッパーの中間。ショートストレートとも少し違う技だ。元来アッパーの得意なお前に、しつこくフックを教えたのはそのためさ」

 秋奈も米原も、空気を読んで全く話していない。

「着いたぞ。今日からここが俺たちの根城だ」

 そう言うと五十嵐は車を降り、スタスタと先に歩いて行ってしまった。それから、米原に車の駐車を任せ、3人でペンションに入ることにした。

五十嵐は落ち着いて説明を始めた。

「トレーニングメニューは4日間ずつに分けて行う」

「一日目。まずは800mダッシュ。これを30本やってもらう。次にハンマーを使ってのタイヤ叩き。右手、左手、両手を100回×3セットずつ。それから、30秒間のボディ乱打。これを5セット。そして、車を後ろから押す。これを1km。最後に、鉄棒を潜る練習。これを10分やって終わりだ」

「二日目。まずは、仰向けになって手をついて50mを3往復。次に、クイを横に山肌に向かって5本打ち込む。それから、鉄棒があるので、そこで蝙蝠のようにぶら下がって口に紐で縛った鉄アレイを下げて起き上がる。これを20回3セット。そして、ボールを左右の手で受け取る練習。これを50回3セット。最後に10分間のサンドバック乱打。これを5セット。これで終了だ」

「三日目。まずは、タイヤ引き。50m×20本。次に片手での腕立て伏せ。片腕50回×5セット。それから、仰向けになって俺が腹に乗る練習。5分×5セット。最後に、傾けた首で身体を支える倒立。10分×3セット」

「そして極めつけは練習前に行うマスクを着用してのロードワークと、練習後に行う1時間のストレッチだ。これで常に酸欠の状態に慣れ、強靭な心肺機能を手に入れることができる上、硬くなった筋肉を(しな)やかで伸縮性に優れたものに変えることができる」

五十嵐はトレーニングのこととあって、もの凄く嬉しそうに話をしている。

「この3日セットをやって1日休む。と言っても、その日にはボクシングに関する知識を嫌と言う程刷り込んでやるがな。二ヶ月間文字通りボクシング漬けだ。まあ、覚悟などとうに出来ているだろうがな」

「年頃の若者なら遊びに行きたいという思いがどうしても強くなってしまう。だが、その気持ちを抑え、血の滲むような努力をした者だけが『栄光と勝利』を手にすることができるんだ。それは何物にも代えがたいほどの喜びなんだ」

五十嵐は一言毎に力を込めて語っている。

「両方取ろうなんて虫の良い話、通る訳ねえよな。それなら俺は迷わずボクシングを取るぜ」

「そう言うと思っていたさ。それから、これだけは覚えておけ、『上を見ていない奴に先はない』練習の虫となれ」

「お前は筋は良いんだが、パンチがほとんど手打ちになっている。腰の回転、下半身を使って体重の乗ったパンチは打って来なかった。今回の合宿では足腰の強化を目的とし、『新生』赤居 明としてリングに上がれるように鍛錬に励んで行くぞ」

「あとは、拳を出す側の足に体重が乗っている。昔からの癖だろうから変えない方が良いかと思ったが、この際思い切って直すことにしよう」

「45分間全力で闘い抜くためには、450時間の練習が必要だ。一日9時間で50日の練習。この合宿に耐えた暁には、もうペース配分なんてものは要らなくなるのさ。俺はもう歳だが、お前はまだ若いからな」

「まあそうだな。そういや、五十嵐さんって幾つなんだ?まさか40超えちゃいねえだろ」

「はっはっは。今更話すのもなんだがな。御年32歳だ。おっさんと呼ばれることには少し抵抗があったぞ。時代によっては若者扱いされる歳だからな」

「15歳年上なら俺にとっちゃ十分おっさんだぜ。それより、早く練習をおっぱじめようぜ。喋ってる時間が惜しいくらいだ。こうしてる間にもロビンソンの野郎は練習して、前より強くなってるに違いねえ」

 その言葉を聞き、五十嵐の表情は一気に真剣なものとなった。

「お前の言う通りだ。相手より上に立つには倍の努力をしなければならない。それでは行くぞ」

 友情、努力、勝利。漫画ならそういった要素が必要だそうだが、現実にはそう上手く揃うものでもないだろう。果たして明はこの合宿を乗り越え、この三つの要素を手にすることができるのであろうか。

 それから一ヶ月間、五十嵐は前々から考えていた『二つの方法』を明に試してみたが、やはりと言うべきか、明には最初に思っていた方法が性に合っているようであった。

「一ヶ月よくぞ耐え抜いた。普通の奴なら一週間と持たずに逃げ出すところを、弱音一つ吐かないとは見上げた根性だ」五十嵐は褒めて伸ばす方を選んだようだ。

「へへっ。ロビンソンに勝つためだ。リベンジマッチは絶対に俺の勝ちで決めなくちゃいけねえからな」

「良い心掛けだ。その意気だぞ。そこで今日から新たに本格的な実戦練習を加えて行く。『スマッシュ』と『クロスアームガード』と『拳圧』極めつけに『マスボクシング』の練習だ」

「ついにこの時が来たか。よろしく頼むぜ」

「ああ。では説明から入る」

「ボクシングでは広背筋でストレート、大胸筋でフックとアッパーを打つんだ。つまり、スリークオーター、フックとアッパーの中間の『スマッシュ』は、大胸筋を使う技が得意なお前にはピッタリの技って訳さ」更に五十嵐は付け加える。

「打ち方だが、全身の力を抜いて一気に『インパクト』まで持って行く。この時に少し掬い上げるような形で衝撃を加えろ。掛ける体重は7から8割でいい。それよりも確実に相手の心臓を貫き、その鼓動を封殺するんだ」

 五十嵐は鋭いシャドーで『スマッシュ』を見せてくれている。

「どうやったら遠心力が掛かるか。アングル、タイミングに気を付けて、残りの一ヶ月間、研究に研究を重ねるんだ。大技の後には必ず小さな隙ができる。それを見逃さず『スマッシュ』を打ち込め」

高等技術であるため口頭での伝達は難しい筈だが、五十嵐は難なく説明できている。

「リラックスして、インパクトの瞬間に一気に力を込めろ。一流選手なら皆やっていることだ。野球選手がガムを噛んでいるのは、そういう理由だ」五十嵐は更に続ける。

「『クロスアームガード』は、左手を前にして横に、右手を後ろにして縦にしろ」

五十嵐は実際に構えてみせた。

「防御技として鉄壁にして最強。これ以上ない技だと俺はその戦歴において確信している」一つ息をした後、五十嵐は言葉を続けた。

「最後に『拳圧』だが、これは生まれつき種類は決まっている。『巧圧』『重圧』『鋭圧』の順に珍しく、才能があるという寸法だ」

興が乗って来たのか、五十嵐は順調に語っている。

「手前味噌だが『巧圧』を持つ者は少ないんだ。まさに『選ばれし者』という訳だな」   

五十嵐は少々誇らしげに話す。

「負ける筈がないというところまで作り込んで行け。自分が、技が、世界水準のものであるか常に意識しろ。武士(もののふ)の心根を持て」これを聞いて明は黙って頷いた。

「それから、スタイルは今まで通り『オーソドックススタイル』で行く。なぜオーソドックスなスタイルが王道と呼ばれ、一番強いか分かるか?一番強いスタイルが勝ち続け、王道となるからだ。まさにチャンピオンになる近道って訳さ」五十嵐は更に話を続ける。

「知識については、何度も何度も説いて行く。それこそ寝言で呟くくらいにな」

 一通り話が終わったところで、五十嵐は一つ深呼吸をした。

「ここまで静かに聞いてくれた訳だが、何か質問はあるか?」

 暫し沈黙が訪れたが、明は思い切ったように話し始めた。

「五十嵐さん、前から気になっていたんだが、なんで俺なんかにボクシングを教えてくれたんだ?もっと優秀な奴だっていたんだろ?」

 明は長年の疑問をぶつけ、それに対して五十嵐は少し改まって話し始める。

「簡単な理由さ。それはな――昔の自分に似ていたからだ。お前を見ていたら、同じ年頃の時分、苦しかった時期を思い出した。だからこそ、何としてでも更生させてやりたかったのさ」明は驚いて目を見開く。

「五十嵐さんにもそんな時代があったのか。とてもそうは見えないぜ」

 五十嵐はまたいつものように不敵な笑みを見せると懐かしそうに話した。

「お前がやったくらいの悪いことは、一通りやったさ。『浦和の暴れん坊』と呼ばれていた頃が昨日のことのように思える」五十嵐は遠い目をしてそう答えた。

「さて、それではラドックのビデオでも見せるかな」

 照れ隠しの意味合いもあるのだろう。五十嵐は意図して話題を変えた。

「らどっく?誰だそりゃ」

明も同じ気持ちであったのだろう。素直にその話題に乗って来た。

「ドノバン・ラドック。『スマッシュ』の生みの親さ。ジャマイカ生まれのカナダ人ボクサーだ。惜しくも世界王者には届いていないが、ヘビー級を制するまで、あと僅かだと考えている者も少なくない」

 そう言いながら五十嵐はデッキにビデオを入れ、映像を流し始めた。その光景を明は食い入るように見つめる。

「これって本来、左手で打つもんなんじゃねえか?いいのかよ、右手で練習してて」

 俄かに五十嵐の顔付きが変わる。

「良い質問だ。左手より右手で打った方が心臓までの距離が近い。つまり、瞬速の型である『ハート・ブレイク・スマッシュ』を俺よりも使い熟せる毛色があるということさ。決め技は利き手で打った方が良いからな」明は妙に納得して話す。

「そうだったのか。だけど、本当に良い技だよな。これさえあればロビンソンの野郎にも負けなかったってのによ」五十嵐は微かに眉を潜めた。

「お前はロビンソンに負けたのではない、自分に負けたんだ。自分を律することのできない者は対戦相手と向き合うまでに至らないからな」

 厳しい言葉だが、明は戒めとして聞き入れることにした。

「確かにその通りかもな。けど、黒星が付いちまったのは、はっきり言ってショックだったぜ」五十嵐はまたしても明を諭すように語る。

「負けた時に失態だ、汚点だと考えているようだと二流だな。誰に負けても不思議じゃない。俺なら例えデビュー戦のボクサーでも全力で闘うぞ」

 その言葉に明はひどく感銘を受けた。

「そうだな。油断や慢心は何よりも自分を狂わすもんだよな。だけど俺も、早く五十嵐さんみたいな最強のチャンピオンになりたいぜ」

 男にとって『最強』とは言われて悪い気のする言葉ではない。

「目指してくれるのは、有難いことだな。まあ俺的には尊敬するボクサー『黄金のバンタム』エデル・ジョフレのようになってほしいものだがな。勝ち負けを超えて強い者を称賛できる姿こそ、ボクサーとしてあるべき姿だと思う」

 そうは言っても、五十嵐はどう見ても喜んでいる。

「エデル・ジョフレか。その人なら俺でも知ってるぜ。ビデオで見た、何度でも立ち上がる姿は、本当に男らしかった」

 最近、明は熱心に研究に打ち込んでいる。それが花開く日も近い事であろう。

「ダウンしていても、ポイントで巻き返せる。諦めるなんてことは、勝負の世界では、あってはならない愚行なのさ。それは良いVTRを見たものだな」

 五十嵐も素直に明の成長が喜ばしかった。

「ああ。あんな風に強くなれるんだったら、どんな試練にだって耐えてみせるぜ」

 少し大げさな表現だが、本心であろう。それほど明はボクシングに入れ込んでいた。

「良い心掛けだ。だが、強さと引き換えに大切なものを失ってはいけない。俺はそういう奴を何人も見て来た。ボクサーたる者、大切な人を守るために力を振るうような者であるべきだ」

 賛同してはいるものの、五十嵐は明のためになることなら何でも話す気概であった。

「そうだな。だけど大切な人ってどういう人のことなんだ?周りの人とかそんな感じなのか?」漠然と考えてはみたものの、曖昧な答えしか出ないので納得が行かない。

「それは半分正解で半分誤答だ。人間という生き物は、価値がないと判断した者に対しては恐ろしく冷たくなれるものなんだ。地位を失った途端、蜘蛛の子を散らすように取り巻きが居なくなるなんてのはよくある話さ。負けた時、苦しい時に側に居てくれるのが本当の仲間なんだ。そういう人だけを大切にしろ」五十嵐は己の来た道を思い返していた。

「なるほどな。調子の良い時だけ擦り寄って来て、借金抱えたら逃げて行くような女は特にそういう傾向が強いのかもな」

 明は何も考えていないようで、妙に本質を見抜く時がある。

「そうだ。良い女というのは、どんな時も裏切らず、自分を高めてくれる女だ。心当たりがない訳ではなかろう」五十嵐は少し揶揄うように言った。

「まあな。今回も心配掛けちまったし、もう二度と負けたくねえ。その為にはもっともっと自分を追い込まねえとな」明は否定するでもなく、思いの丈を語った。

「その通りだ。だが、一つの失敗、不運で、努力が無に帰すこともある。どれほど積み重ねても、天賦の才に勝てぬこともある。だが、忘れるな。全力でやった時、命を懸けて挑んだ時、そこに必ず後悔はない。何があっても手を抜く奴にだけはなるな」

 明は黙って集中しながら話を聞いている。

「今日頑張ったら明日笑顔でいられる。今日手を抜いたら明日泣顔になる。苦しさを乗り越えた者だけが、真の勝者となれるんだ」

 五十嵐もそれに応えるように力を込めて話し続ける。

「今が一番悩む時期だろう。だが、悩まないと強くなれないもんなのさ。苦しさを乗り越えた時、一皮剥けた存在になれるんだ」明は一言一言噛み締めるように聞いている。

「負けることを恐れては大儀は成せない。序列で言ったら『勝った』『負けた』『やらなかった』だ。逃げなかったということがいつか、大きな自信となる」

 五十嵐は良い機会だからと、ここぞとばかりに持論を展開する。

「あとは、相手の弱点を責めるのは定石だ。情けだなんだ言ってる奴は、永久に勝ちを拝めない甘ちゃんなのさ」

少し眠たくなって来たのであろう、明は頷くことで返事に代えている。

「毎朝卵5個と鶏のササミを食べるのだけは忘れるな。食を正すことも一流であることの条件だからな。とまあ今日はこれくらいにしておくか」

 ボクサー同士で話は尽きることがなかったが、その日は早めに切り上げることにして床に就いた。



 翌朝起きてみると既に起きていた秋奈が朝食を振る舞ってくれた。

「は~い、今日は麺の代わりに糸こんにゃくを使ったラーメンで~す。なんと1杯50キロカロリー。とってもヘルシーだよ~」

恐る恐る食べてみると、意外にも味は悪くはない。

「それから、特製牛ヒレ肉。熱湯で洗ったからカロリー半分だよ~」

 この合宿の後に組まれているという試合のため、日頃からウェイトを整えておこうと考えた五十嵐の発案であった。シャワーを浴び、練習着に着替えると、マスボクシングをするため、五十嵐から外へ出るように指示を出された。

「『マスボクシング』はパンチを寸止めして行うスパーリングのことだ。素手でやっても良いんだが、念のためグローブは付けて行うぞ。『ベアナックル』は危険だからな」

『ベアナックル』とは素手の拳のことであり、派手にノックアウトできるのが特徴だが、その分与えるダメージも大きいので現在はグローブの着用が必須となっている。(ちな)みに1897年に行われた最後の『ベアナックルボクシング』は75ラウンドにも及んだ。

「五十嵐さんとやるのか。すまねえ、そんな状態なのに無理させちまって」

「なあに、これでも現役を退いてまだ四ヶ月だ。バシバシ鍛えてやる。忠次郎、ゴングを鳴らしてくれ」

それから二人は20ラウンドほど汗を流し、4人でカレーを食べた。昼食が終わると、五十嵐が明に話し掛けて来た。

「命は燃やすもの、寿命は削るものだ。旧態依然の考え方かもしれんが、俺はこれで良いと思っている。まだやれたと言って死ぬことが、一番後悔を残していると思うんだ」

 五十嵐の熱い思いに、明も同意せざるを得なかった。

「全くその通りだぜ。っていうか、何だか強い奴と闘ってる時に思うことがあるんだ。普段出せないような力が出せるような――不思議な感じになるんだ」

 五十嵐は不敵な笑みを浮かべると、満足そうに話した。

「それは『ミックスアップ』と言ってな。限界が限界でなくなることを言うんだ。ボクシングを通じて、己の成長を実感できているということさ」

 明は合点が行ったという風に首を縦に振った。

「そういうことだったのか。この何とも言えない高揚感の正体は。それなら早く続きをやろうぜ。この高ぶった感覚を忘れちまわねえうちに」

五十嵐も同じ思いであったのだろう。バシバシと拳を合わせ、やる気十分といったところか。

「そうだな。だんだんと底が見えなくなって来る。その先を俺にも見せてくれ」

その後二人は1分間のレスト以外は休憩も取らず、互いに拳を振るい続けた。マスボクシングの良い所は、身体的なダメージが少ないため、長時間の練習が可能な点でもある。そして5時間ぶっ続けでファイトした後、この日も座学を行った。

「WBA、WBCではライトフライ、IBF、WBOではジュニアフライという言い方をするんだ。あと、『タタカう』の漢字が違っているな。戈構えの戦うではなく、門構えの方の闘うが正しい。あと余談だが、ボクシングのように1対1で闘う場合を『ファイト』球技のように複数対複数で戦う場合を『バトル』と言うんだ。ボクサーなら、これくらいは覚えておけ」

 五十嵐はその日教えることをピックアップしたメモを見ながら、明にひたすらノートを取らせた。

「ああ、任しとけって。東大受験ばりに覚えてやるぜ」

そんな話をしながら、夜が更けるのはあっという間であった。学校のノートは捨ててしまった明も、このノートは生涯大切に持ち続け、事あるごとに眺めていた。



そして月日は流れ、迎えた最終日。明は朝起きてから、頻りに何か叩いているようだ。

『パンチングボール』

 明はこの猫パンチマシーンがわりと気に入っていた。それは、現実の辛いことを一時的にでも忘れられるからだ。無心になり精神と対話することで、己の感覚を研ぎ澄ませることができるのも、このマシンの利点である。一通りメニューが終わり、一休みしていると、(おもむろ)に五十嵐が入って来た。

「ボクサーたる者、常に肩を冷やさないようにしろ」

そう言って明の肩にタオルを掛けてくれた。

「ああ、ありがとよ。いよいよ今日か」二人とも少し気が重い感じである。

「臆することはない。お前はよくやったさ。今日はただその『確認』だ」

1ラウンドだけ全力で試合。だが、明にも五十嵐にもこのファイトには暗黙の了解があった。

『スマッシュ』を炸裂させる。

痛んだ身体にムチ打っている五十嵐には酷な話だが、手加減できるような容易な話では勿論ない。考えを巡らせているうちに、準備が整ってしまった。

「分かっているな」

 『スマッシュ』を成功させろ、手を抜くな。この言葉にはその二重の意味が込められていた。

『カンッ』

ゴングが鳴ると両者牽制し合うが、明の身体の『キレ』は2ヶ月前とは比べ物にならなかった。秋奈と米原が固唾を飲んで見守る中、いよいよその瞬間は訪れた。

 踏み込んだ刹那、明の体重は4割ほどしか掛からなかった。大切に使い込んだシューズがボロボロになり、技の衝撃に耐えられず穴が開いてしまったからだ。だが『スマッシュ』は見事に炸裂し、五十嵐の時間は止まっていた。

「成功か。五十嵐さん、大丈夫なのか?」

 明がそう口にした後、五十嵐は生気を取り戻した。

「はあ、はあ、大丈夫だ。それより、試合は4ヶ月後だ。それまで気力を保ち続けるんだぞ」五十嵐はまだ少し苦しそうだ。

「任せとけって。俺と引き分けた奴に勝った野郎だ。気を抜くなんてこと、できる筈ねえよな」明は言葉とは裏腹に、自信たっぷりと言った様子だ。

二人が軽くシャワーを浴びた後、四人でリングとその周辺を掃除し、車に乗ってペンションを後にした。



『水族館に行ってみたい』

 合宿が終わって3日間の休みを貰った明は、秋奈にそうせがまれて、気は進まないが同行することにした。それは恐らく自分の気晴らしにと、秋奈が言ってくれたであろうことが分かっていたからだ。

 1985年2月10日、3連休の中日である日曜に、明と秋奈は東京から電車を乗り継いで、神奈川県横浜市、中区石川町にある『ヨコハマたのしろ水族館』に来ていた。

「ねえ、聞いてる?ねえったら」

 “『スマッシュ』であのセイウチ倒せるかな”そんなことを考えていたら、秋奈の話を聞き逃していた。

「悪りい。全然聞いてなかった。反省するよ」

 さほど悪いとは思っていなかったが、明は謝罪の言葉を口にした。

「もう~。どうせボクシングのこと考えてたんでしょ。単細胞なんだから」

「せっかく教えてもらったんだし、『モノ』にしたいんだよ。どうしてもロビンソンに勝ちたいんだ」

 苦しい合宿を終え、安らげるオフの日であっても、片時もボクシングのことを忘れることなどできはしない。

「それもいいけど、これじゃ気晴らしになんないでしょ。それに隣にこんな可愛い子がいるっていうのに」

「それもそうだな。今日ぐらいはボクシングのこと、考えなくてもいいか」

 できるかどうかは分からないが、明は努めて休日を満喫することにした。

「素直になったじゃん。明くん、最近雰囲気変わったよね。なんていうか話し易くなったというか――」

「そうか?まあ、あんな負け方したんじゃ強気にも出れねえよ。TKO食らったからな」明は敗戦の瞬間を思い出し、強く拳を握りしめた。

「悔しいよね。今度は勝ってよ。必ず応援に行くから」

秋奈はおっとりしたように見られることもあるが、芯が強い人である。

「そうだな。そう言われちゃ、絶対に負けらんねえぜ。っていうか腹減ったな。どっか入って飯でも食うか」明は腹を擦りながらそう言った。

「お弁当作って来たから」秋奈の話しぶりは、多少照れたものであった。

「おう~。気が利くじゃん!!『幕ノ内弁当』か。美味そうだな」

わりと豪華な弁当に、明は驚いている。

『幕の内弁当』とは、俵型のおにぎりを並べ、その上に梅干を乗せた主食と、複数の種類のある副食とを合わせて、杉や檜などの材木を紙のように薄く削った『経木』の箱に入れたモノを言う。由来は複数あり、芝居の幕の内に観客が食べる、幕の内側で役者が食べる、芝居の合間の時間である幕間を利用して役者が食べる、相撲取りの小結が幕ノ内力士であることから、小さなおむすびの入っている弁当をそう呼ぶようになったなど様々な説がある。

「早起きして作ったんだから残さず食べてよね。好きな物が入ってるといいんだけど」

「それなら入ってるぜ。俺はこの伊達巻玉子が大好きなんだ。毎日だって食べられるぜ」明は程良い塩加減に舌鼓を打つ。

「ふ~ん。なんでそんなに好きなの?」

「船頭だったじいちゃんが、よく食べさせてくれてよ。大好きな味なんだ」

「そうなんだ~。思い出の味なんだね。っていうか、こうしてるとほんと安らぐよね。毎日こんなに穏やかだったら良いのに」

「ま、暫くは休養できるし、ゆっくりするよ」

「本当にあんま無理しないでよ。それから、気分屋で、調子に左右されやすいのは良くないことだよ」

「それもそうだな。いつだったか、ムラがあるって怒られてよ」

「そうそう。叔父さん言ってたよ、常にコンディションを整えられて、ダメな時がないことも強さの条件なんだって」

「そういや不調な時、みやたらなかったな」

「見『当』たらなかったでしょ。ちゃんとしてよ~」

秋奈は強く言い過ぎないように、少し甘えたような言い方で言った。

「細けえな。それより、気になってたんだけど、赤城は卒業したらどうするつもりなんだ?俺と同い年だから、今年卒業だろ」

「う~ん。内緒にしとこうかな。陰ながら明くんを支える仕事」

「なんだよ、それ。気になるじゃねえか」明は不満に思っている様子だ。

「それは、卒業してからのお楽しみってことで。それより、もう食べ終わったから行こう」秋奈は先を急ぐかのように立ち上がって見せた。

「そうか~。まあ、楽しみにしとくよ」

明はかなり気になったが、無理に聞くのは止めておいた。同じようにして立ち上がり、秋奈の行く方向へと歩を進める。

「耳があるのがアシカで、ないのがアザラシなんだよ~」

“可愛いな”得意げに話す秋奈の、嬉しそうな顔を見て、明は密かにそう思った。

他愛もない話をしながら動物のいる檻を見て回っていると、側にいた『オタリア』が秋奈の帽子を持って行ってしまった。オレンジ色のたてがみが、ライオンのように雄だけに生える『オタリア』は南米に多く生息し、体長が雄は2.6m、雌は1.9mほどで、10頭の雌に対し、一頭の雄がハーレムを形成するという羨ましい習性がある。どうやら帽子を奪って行ったのは雌のうちの一頭らしく、鼻先に乗せ、嬉しそうに身体を揺らしている。

「返してよ~」

秋奈が追いかけても、右へ左へ素早く動き、柵の奥へと逃げ込んでしまった。そして、逃げ込んだ先で他の雌と一緒に帽子を投げ合って遊び始めてしまった。しばらくの間、雌たちがそんなことを続けていると、岩陰からのしのしと雄のオタリアが顔を出して来た。

そして、帽子を持っている雌に近づき、グイッと顔を寄せて奪ってしまった。我が物顔で帽子を弄ぶ雄のオタリア。秋奈は白くてツバのあるお気に入りの帽子が、汚れてダメになるのではないかと気が気ではなかった。

「任しとけよ」

その光景を一頻り見ていた明は、自信ありげにそう言った。雄オタリアを威嚇するように拳を動かし、シャドーボクシングをして見せた。

「ガアアアア」

怪獣のように鳴いた後、明の方を見たが、雄オタリアはこちらに来ようとはしなかった。代わりに少しおちょくるように帽子を持ったまま、檻の中を動き回った。

「待てよ、この野郎」

明は先程の雌よりも更に広い範囲で縦横無尽に移動する雄オタリアを、置いて行かれないようにして追いかけた。15分ほど追いかけると、雄オタリアが明の前に来て、挑発するように帽子を動かして見せた。

まるで『取れるもんなら取ってみろ』と言わんばかりだ。明は真っ直ぐに構えて、雄オタリアを見据える。そして、ジャブ、フック、アッパー、ストレートと言った具合に、帽子目掛けて拳を繰り出す。しかし、雄オタリアはそれを軽々と躱し、余裕を見せて軽く構えていた。

「やるじゃねえか。仕方ねえ、これは取って置きだが、また奥に引っ込まれる訳にもいかねえし、特別に使ってやるよ」

そう言って明はスリークオーターで構え、帽子目掛けて拳を打ち込んだ。雄オタリアは最初何が起こったのか分からなかったが、帽子を取られたことに気付いて「ウガアアアア」と悔しそうに鳴いた。明は不敵に笑い、秋奈のもとへと帽子を届けに行った。

「ありがとう。今の『スマッシュ』だよね?合宿で練習してた時より速くなってるんじゃない?」お礼を言われ、明は得意げにシャドーを見せる。

「まあな。あれから毎日、試合をイメージして打ってんだ。技に磨きがかかってるだろうよ」

「そうなんだ~。今度の試合が楽しみだね」秋奈は嬉しそうに笑った。

「おうよ。誰が相手だろうと、負ける気がしねえぜ」明も嬉しくなって答えた。

それから二人は水族館を後にし、近くの商店街を歩いて回ることにした。



「あっ!!」

突然明が大きな声を出したので、秋奈は驚いて身体をビクつかせる。

「もお~。ビックリするじゃん。どうしたの?」

明は少し申し訳なさそうにしながら答えた。

「シューズ買うの忘れてた。ここ、寄ってもいい?」

明が指差した先には『スロバキアスポーツ』という名前の小洒落た感じのスポーツ用品店があった。

「うん、いいよ。そう言えば、合宿で履き潰すまでずっと同じシューズ使ってたもんね。結構物を大切にするタイプだよね」

「なんか、使ってると愛着が湧いて来てよ。穴が開いて履けなくなっても、取ってあるくらいなんだ」

「いいことだと思うよ。どんなシューズにするかは決めてるの?これとこれ、なんだか素材が違ってるみたいだけど」

「近距離を得意とするインファイターは踏ん張りの効く『ゴム底』の靴を履いているんだ」明は饒舌に語り始めた。

「それに対して遠距離を得意とするアウトボクサーは足が滑らかに動くように『皮製』の靴を履いているんだ」秋奈は明の変わりように素直に感心した。

「そうなんだ、知らなかった。流石は、叔父さんに毎日教え込まれただけのことはあるね」

「まあな。合宿の時、耳に胼胝ができるってのはこういうことなのかと思ったよ」

秋奈は少し笑いそうになりながら質問する。

「それで、結局どっちにするの?」

「そうだな~。俺は中距離を得意としているんだけど、『スマッシュ』は踏ん張りが効かないとダメだからな。『ゴム底』の靴を買うことにするよ」

秋奈はまた一つ気になったことがあった。

「高さが高い『ハイカット』の靴と、中くらいの『ミドルカット』の靴があるね。それはどうするの?」

「ロビンソンの野郎が『ミドルカット』を履いてやがるからな。俺は『ハイカット』で対抗するぜ。時代の主流は『ハイカット』だしな」

 『昭和』の時代においてはそうであったが、『平成』になると次第に『ミドルカット』が人気を博すこととなる。それは脱ぎ履きしやすく、ソール (靴底)が薄く、踏み込みがしっかりできるといった利点があるからであろう。

また、2000年代に入ってからは、安くて耐久性に優れているため、一流のボクサーでも『レスリングシューズ』を愛用するようになった。

無事にシューズを買い終えた後、人の多い目貫き通りを過ぎ、中華街で夕飯を食べることになった。『中華迅速』という名の店は大道りの中ほどに位置しているだけあって大変な賑わいを見せていた。二人は軽くメニューを眺めた後、店員の薦めでコース料理を頼んだ。

「っていうか、ホント美味そうに食うよな。見てるとこっちまで腹が減って来ちまうよ」

「だって酢豚好きなんだもん。ここの料理『グル名人』って雑誌で紹介されてて有名なんだって。けど、食べ過ぎは良くないよね。百貫デブになっちゃわないように気を付けないと」

百貫デブとは、江戸時代に太っている者を大袈裟に揶揄するために付けられた表現で、現在の重さに直すと、375キログラム前後の人のことを言う。

「百貫デブで思い出したけど、ポンドからキロに直すのがイマイチ上手くできなくってさ。ポンドの重さに0.454を掛けたら良いらしいんだけど、これだと暗算ですぐに計算できねえんだよな」

1ポンドは16オンスであり、听、封土などと表記される。1オンスは28グラムであり、啢、隠斯などと表記される。五十嵐から教えられた計算式に対し、明は少しだけ不満そうである。

「それなら良い方法があるよ!ポンドの重さを2で割って、その答えの十の位の数を引くの。例えば明くんは今130ポンドだから、65から6を引いて59キログラムになるってわけ。概算だから、ちょっと正確じゃないんだけどね」

秋奈は明と話す時は努めて簡単な言葉を使うように心掛けていたが、『概算』という言葉が出てしまったことに対して少し反省した。

「そんな方法があったのか!!知らなかったぜ。流石、勉強頑張ってるだけのことはあるな。頼りになるじゃんか」

良い方法を知った明は、喉の小骨が取れたといったように嬉しそうにしている。

「概算の意味、概ねの計算だって分かるんだよね?明くんだって勉強頑張ってるじゃん。前だったら分かってなかったと思うよ」

思いがけない明の成長に、秋奈は心底嬉しそうである。

「そうかな?まあ、五十嵐さんにあれだけ家庭教師みたいにして教わったんだ。少しは賢くなんねえとな。あと、もう一つ気になることがあって、パンツの履き心地が悪いんだよな。トランクスより良いやつがあったら嬉しいんだけどよ。それもなんとかなんないかな?」

ボクサーはトランクスの下にノーファールカップを履き、その下にパンツを履いている。このカップの素材は本革でできており、下腹部保護のために着用し、マジックテープ式で後部にゴムバンドがついており、オムツのような形をしている。

この時代にはまだ存在していないが、1992年にアメリカのファッションブランドであるカルバン・クラインがユニオンスーツをアレンジして『ボクサーパンツ』というものを普及させている。そしてこれは、2000年から男性用下着の主流として市場を席巻することとなる。

「それはちょっと分かんないな。私トランクス履いたことないし」

秋奈は少し困ったように笑いながらそう言った。ここで一旦話が途切れ、しばし沈黙が訪れそうになる。

「そう言えば聞いた?安威川くんの話」

「聞いてねえな。何かあったのか?」

明は好敵手の動向とあって、わりと興味ありげに話を聞いている。

「古波蔵さんとの試合の後から、日本チャンピオンを3階級制覇するんだって意気込んでるんだって」

「そうなのか!?あいつと闘るの楽しみにしてたんだけどな。階級変えちまったのか」

「試合の後にやけ食いしちゃって、元々体格が良かったこともあって、体重がどうしても戻せないんだって。ほんと残念だよね。ボクシングはライバルと再戦できずに終わることが多いものなんだよね」

秋奈も少しテンションを落とし、明の気持ちに呼応するように話していた。

「ここは俺が出すから」

そう言って明が支払いをしたのに対し、秋奈は終始申し訳なさそうにしていた。



それから二人は店を出て、自然と小指を絡めて手を繋いだ。

「ねえ、公園行かない?」

「いいぜ。俺もちょうど海が見たいと思ってたところだ」

 明もこれに同調し、近くにあった『山下公園』というところで一休みすることにした。

「凄~い。おっきな船」

 風に髪を(なび)かせて、遠くを眺める横顔は、女神のように綺麗に映った。

 この頃にはもう『自覚』していた。自分がどういう感情を抱いているのかを。

「お菓子あるんだけど食べる?」

「おう、気が利くじゃん。食べる食べる」

「ピーナッツなんだけど、同じものが2袋あって食べきれなくて――」

 明にあげるために態々買った訳ではなく、父の実家から送られて来たものが、捨ててしまおうかと思うほどに余っているのであった。

「おう、そういうことなら任しとけよ。まあ、カロリー的に一袋が限界だけどな」

「うん、助かるよ。私の家族、このお菓子あんまり好きじゃないみたいだし。あ、そう言えば、今日って成人式だよね」

「ん?そうなのか?あんま気にしてなかったな。そう言えばここへ来る前に着物の奴を何人か見たな」

「私たちもあと2年したら大人になるんだよね。けど、明くんはもう働いてるから、大人みたいなもんか――」

「俺なんかまだまだヒヨッコだよ。車だってファイトマネーをやり繰りしてやっと買えたんだし。大人だなんてまだ早えよ」

「ふふふ、そうかもね。明くんは車、何乗ってんの?」

 昭和の終わり、この時代に決まり文句のように繰り返されていたこの質問。車のランクが男の評価に直結するような、妙な風潮があった。

「知ってるだろ?カローラだよ」明は笑いながらそう答えた。

 二人は何度かドライブへ行っており、カローラというメジャーな車なため、秋奈が車種を知らない筈はない。

「へへへ、そうだったね。ちょっと言ってみただけ」

 秋奈はとぼけて子供のように嬉しそうに笑って見せた。この頃になるとかなり明に気を許していたのであろう、秋奈の性格からは珍しく、思い付いたことをそのまま話し、わりとどうでもいいことでも話題にするようになっていた。

「今日は楽しかったね~」

「うん――」

デパートで買い物をしている時のように上機嫌の秋奈に反し、明はなんだか思う所があるようだ。

“クソッ。これじゃ、あの時から何の進歩もねえじゃねえかよ。根性見せろよ、赤居 明”自分を奮い立たせようと鼓舞するが、チャンスはあるがなかなか行動に移せない。顔が凄く近いのに、どうしてもキスすることができないでいた。長い沈黙の後、意に反し会話を始める。

気まずさを打ち消すようにするが、空気を読むことが『逃げ』に繋がっていることが自分でもよく分かっていた。そしてそのまま30分近く戸惑ったまま、時間だけが過ぎて行った。なんとも青春まっしぐらな話だが、初キスの時には妙に緊張してしまうものなのである。秋奈が夕焼けの綺麗さに見とれていると、明は意を決して言葉を発した。

「目、瞑って」そう言われ、秋奈は察しが付いたのか黙って頷いてその言葉に従った。

明は少し震えながら、秋奈の肩に手を回した。鼓動が高鳴り、頭に靄が掛かったように何も考えられない。そして、昔聞いた古めかしい歌謡曲を思い出していた。唇がふっと触れ、初めてマシュマロを食べた時のような感覚に囚われた。

「「レモン――」」声が被ったので、思わず二人とも笑ってしまった。

沈黙の後、寄り添ってお互いの体温を感じ合う。そして帰り際、歩きながら最後にもう一回という感じでキスをした。キスの後に、照れながら二人で笑い合った。

「俺、これから秋奈のこと大切にするよ」

「そうだね。これからもよろしくね」

 秋奈は子供のように無邪気な笑みを浮かべながらそう言った。

「――うん」

「赤くなってる~。可愛いとこあんじゃん」

二人は安心したようにまた笑い合った。

 夕焼けに照らされた二人の『姿』は、心なしか輝いて見えた。



「叔父さん、明くんが――」

試合前、控室に入るなり、秋奈は今にも泣き出しそうになりながら、話しかけて来た。

五十嵐は只事ではない雰囲気を感じ取り、急いで明の方に歩み寄る。

「どうした?明?」明は雪山で凍えるように震えている。

「五十嵐さん、俺、試合するのが怖くなった」

 五十嵐はなるべく不安を拭い去れるように慎重に言葉を選びながら話す。

「敗戦のイメージが頭から離れないんだろう。落ち着いて、ゆっくりと呼吸を整えるんだ」それでもまだ震えは収まらない。

 ロビンソンとの試合での『トラウマ』が、亡霊のように明を苦しめているのであろう。

「大丈夫、明くんなら古波蔵さんにだって勝てるよ。今までいっぱい練習して来たでしょ」そう言うと秋奈は子猫を抱くように明を抱き締めた。

 暫くすると不思議と震えは収まり、明は呼吸を整えることができた。

「もう大丈夫みたいだ。ありがとよ、秋奈」

明は一つ溜め息をつくと、感謝の意を伝えた。

「五十嵐さん、俺、今からこんなんで大丈夫かな?あの古波蔵さんとやりあうってのに試合前にこんな状態で――」

「案ずるな、恐怖を知るということは強くなった証。その火のような存在は上手く使い熟せれば強い味方になってくれるものなのさ」

 五十嵐は本当に頼もしい存在だ。明はつくづくそう思い知らされた。

その後、しばらく三人で雑談していると、ノックの音が3回聞こえ、大和(やまと)会長と古波蔵が控室に入って来た。

「五十嵐くん、僕は――」

古波蔵は思いつめたように、今にも涙を見せそうな雰囲気である。

「古波蔵。俺はボクサーだ。これまでいつ死んでも良いと思ってリングに立ち続けて来た。フェアプレーに対して、俺に文句を言わせる気か?」

 五十嵐は珍しくムキになって、そう言い放った。

「五十嵐くん――ありがとう。これで心置きなく闘えるよ」

 古波蔵は心底安堵したといった表情を見せると明に向かって一つ頷くと控室を出て行った。そして10分後、場内アナウンスを受け、明たちは颯爽とリングへと向かった。

「いいな、この試合はお前が世界チャンピオンになれるかどうかの試金石となる。落とすんじゃないぞ」

「分かってるよ、任せといてくれ」

「強くなった赤居 明を見せてやれ」

恐怖を乗り越えた明の表情には影は全く見られず、無言で頷くその顔には自信に満ちた笑みがあった。



 1985年3月10日の日曜日。会場となる横浜アリーナはタイトルマッチ並みの入りであり、チケットが完売するほどの大盛況であった。そして、今回の試合は古波蔵から『ノンタイトルマッチで良いので勝負したい』との申し出を受けて実現した。

 1年半前にボクシングを始めた明が五十嵐に次ぐほどのキャリアを持つ古波蔵を倒すことになれば『大番狂わせ』と言えるであろう。観客はそんな大一番を心待ちにしていた。

 身長165cm、体重117ポンド(53.5kg)、31戦29勝2敗9KO、沖縄出身 

『古豪』古波蔵 政彦。いざ、相見えん。

『カンッ』

 ゴングが鳴って第1ラウンドが開始され、両者リング中央に歩み寄る。初手は古波蔵。老兵とは思えぬそのジャブは、明の頬を今にも貫かんとする勢いだ。

 彼の二つ名は『オウギワシ』。両腕を大きく広げ、相手に身体を大きく見せるファイテングポーズを模してそう呼ばれるようになった。鷲は猛禽類と呼ばれ、肉食で獰猛。時には自分の仲間さえその胃袋に収めてしまう程の凶暴性を備えているのだ。

 銀色のトランクスに描かれたオリジナルのロゴが、やけに煌びやかに見えている。大きなオウギワシが捕らえた獲物を啄んでいる様は、まさにこれから起ころうとしていることを暗示するものなのであろうか。

明は距離をとってのサークリング、ボルトで締め付けたみたいに位置を固定する。古波蔵は足が軽く、鳥が飛ぶような軽やかさだ。サウスポーの古波蔵は右のジャブを巧みに操り、効果的にストレートを当ててくる。一つ貰っただけでも、軽く意識を寸断されそうになる。これがベテランの味と言うべきか。歴戦の、修練の重みである。乗り越えた修羅場の数だけ強くなった(おとこ)の『気迫のストレート』と言えよう。

 第1ラウンド終了後、古波蔵は礼儀正しく拳を突き出して来た。以前の明なら突っぱねていたかもしれないが、今の彼は一味違う。ゆっくりと左拳を差し出すと、古波蔵の左手に静かに触れて見せた。

こんな緊迫した状況であっても、右利きの自分に気を遣い、利き手を差し出す古波蔵のスポーツマンシップに、明は素直に感心せざるを得なかった。正々堂々、なんとクリーンで紳士的なボクシングをしていることであろうか。



 それから、互いに手の内を探り合った第2ラウンドを挟み、激しくせめぎ合う第3ラウンドが開始された。牽制に次ぐ牽制。先に痺れを切らしたのは古波蔵であった。

 渾身の一撃、彼の必殺技である『ストマック・ブレイク・ジョルト』が炸裂する。『ジョルト』は後ろ足に重心を置き、身体ごと叩きつける大型のブローである。

 業火で焼かれたような一撃は明の左腕を確実に蝕んで行く。

『クロスアームガード』

教わった通りのお手本とも言うべき綺麗なフォームで当然のようにこれを受け止めた。古波蔵はその洗練された『必殺技』を『ストマック』つまり胃に向けて打って来る。

一撃必殺と評されることも多いこの技は、数々の難敵をマットに沈めて来た。『修行』を終えた明でなければ、一溜まりもなかったことであろう。

 意識と身体、その両方が超人的な速さで反応した。合宿で恐らく数百回はやったであろうこの動作。すかさず相手の『必殺技』に対する反撃の『スマッシュ』。構え際、古波蔵の眉が少し上がる。

“来る“

 本能が、経験による勘が、己の危機を予感させる。放たれた瞬間、味わい慣れた電撃が両の腕を駆け巡る。明、五十嵐と同じく、古波蔵も『クロスアームガード』の使い手である。もし、五十嵐との対戦経験がなければ、今の一撃を果たして受け止められていたであろうか。

“いくら師匠が強いからと言って、この若造、少々出来が良過ぎやしないか”警戒しつつ、それでも体重を十分に乗せたカウンターを放ちながら、古波蔵は密かにそう考えていた。

 強烈なボディブローでその身が砕けてしまいそうである。しかし明は退かない。ピンチの時こそ前に出る。それが一つのセオリーであると理解しているからだ。古波蔵ほどのキャリアのあるボクサーなら隙を見せれば一気にリズムに乗って畳み掛けて来る。

『勝負所』を分かっているボクサーほど調子付かせると怖いものなのである。上から巻くようにしたストレートを、古波蔵の左頬に突き刺し、明は第3ラウンドを良い形で締め括ることができた。

「それにしても凄いオーラだな。気を抜くと圧倒されそうになっちまうぜ」

「強い選手ってのは『華』があるもんなのさ。切れ味の良くない刃に、別の刃を付け加える『付け焼き刃』ではどうにもならない。真の実力が『迫力』となって表れるんだ」

五十嵐の持論にはいつでも重みがある。

「前は古波蔵さんの強さがピンと来てなかったんだが、今は恐ろしく強いことが分かっちまう。あの強さでチャンピオンになったことがないなんて信じられないぜ」

「それは自分が強くなったからさ。相手の強さが分かるのも強さのうちだからな」

明のその言葉には一切の嘘や謙遜はなく古波蔵に対する素直な尊敬の念が感じられ、五十嵐は成長した明の言葉を、一言一言噛み締めるように聞いていた。



それから、どちらも優位に立つことなく第4ラウンドを終え、闘いは第5ラウンドに突入した。古波蔵は一旦、拳を寸止めし、その後同じ腕でストレートを打つという技を使い始めた。この男、話せば天然と取られることもあるが、実に頭の切れるボクサーである。互いに立ち位置を調節しつつ、相手の出方を伺っている。

 そして、明が虚を突いて『スマッシュ』を放つ。古波蔵は咄嗟にガードしたが、守り切れなかった左脇腹に衝撃が鋭く突き刺さった。そして右へ少し蹌踉めいて体制を立て直したが、右膝をついてしまった。審判がカウントを開始する。

 明らかに『技が終わった後のスリップ』であったが、これに対し、古波蔵は文句の一つも言わない。どんな審判、どんな裁定であろうと、勝つのが真の『強者』古波蔵にはそう考えられるだけの『器』があった。

 カウント8までに悠然と立ち上がった後、緩徐にファイティングポーズをとる。それから、古波蔵のジャブの応酬。そのうち一発を受けた時に、明は微かな『違和感』を覚えることとなった。距離を計り、フックを当てようとするが、どうも微妙にズレが生じてしまう。

その間隙を縫って、古波蔵は鋭く拳を当ててくる。身体が傾き、左側へ倒れ掛かってしまう。パンチによる転倒ではないため、これはスリップと看做された。古波蔵によって効果的に計算された第5ラウンドは、劣勢のまま終わりを告げた。

「なんだか足元がフラつくんだ」明はコーナーへ戻ると、直ぐに不調を訴えた。

「耳の裏、アンダー・ジ・イヤーさ。味な真似をするもんだな。ここを叩かれると三半規管がマヒして平衡感覚が狂うんだ。15年もボクシングをやっている古狸だからこその悪知恵だな。ジャブに気を付けながら、縦にした右手で耳への攻撃を防ぐようにしろ。できるなら、そのままカウンターをくれてやってもいい」五十嵐は冷静に解説を加える。

「そうだったのか。それならできそうだぜ。ありがとよ、五十嵐さん」

 安心したのか、ふーっと肩を下ろしながら明は答えた。

「恐らく古波蔵の技のパターンを一番良く知っているのは、この俺だろうからな。さあ、もうすぐゴングだ。存分に暴れて来い」そう言うと五十嵐は一つ頷いて見せた。



 それから危なげなく第6ラウンドを終え、余裕を持って第7ラウンドを熟し、第8ラウンドを迎えた。古波蔵はどこまでも諦めない、不屈の闘志を持ったボクサーだ。それは誰もが認めるところである。

しかし、対する明も根性では負けないという自負があり、それは皆にも賛同を得ていた。ラウンド開始から、互いに足を使ってのアウトボクシングで遠巻きに機会を伺っている両者。古波蔵の攻撃には鬼気迫るものがある。まるで明日のことなど考えていないかのようだ。それでも手数は古波蔵が上だが、打撃の質は明が勝っている。

“このままでは劣勢を強いられる”古波蔵はそう考えていた。そして攻撃の最中、古波蔵が急に体制を変え、『ジョルト』を放って来た。

だが、それはフェイントで、『クロスアームガード』をした明の左テンプルに、古波蔵の鋭い右フックが突き刺さった。一瞬にして意識が寸断され、うつ伏せに倒れてからのカウント7。明は辛うじて意識を取り戻し、両腕で地面を押して、カウントを1つ残してギリギリではあったが立ち上がることができた。タイミング良くゴングが鳴り、辛うじて救われる形となった。

「今のは本当に危なかったな。よく立てたものだ。気を抜いていた訳ではないだろうが、古波蔵は絶妙にフェイントを織り交ぜてくる選手だ。特に左手でのフェイントが多く、反射的に反応してしまう速さがある。次からも気を付けるんだぞ」

「おう。合宿を乗り越えて前よりもタフになった気がするんだ。だから立てたんだと思う。フェイントに対しては『ジョルト』で終わらずに次の攻撃が来ると思っとくよ」

「そうだ、それでいい。奴に関しては、いくら警戒しても、警戒し過ぎるということはないからな」

そう言うと五十嵐は明に向かって少し大袈裟に頷いて見せた。



 互いに勢いを増したまま突入する第8ラウンド。明はここへ来て、古波蔵との闘いに確かな手応えを感じていた。体制を高く保ち、突き刺すようにして『スマッシュ』を放つ。古波蔵は体制を低くして構え、衝撃を押し当てるようにして『ジョルト』を放つ。

二つの迫撃が交差した時、明の瞼からは血が噴き出し、古波蔵の肋骨にはヒビが入っていた。互いに膝をつき、共にカウント4で立ち上がった。互角の攻防に見えるが、古波蔵の方がダメージが大きいという点で、実質明に軍配が上がったと見るのが妥当であろう。その後は少し余裕を持った形で第8ラウンドは終わりを告げた。

 続く第9ラウンド、明は危なげなく試合をコントロールし、第10ラウンドへと繋ぐことができた。対する古波蔵は、いぶし銀と言われ、ベルトこそ巻いてはいないものの、五十嵐が居なければ、確実に世界チャンピオンとなり、幾度となく防衛を果たしていたとされている。五十嵐が引退した今、『世界最強の男』はロビンソンではなく実質、この男なのかもしれない。それほどに、古波蔵 政彦という男は実力のある人物であった。

また、光栄ジムの後輩、与那嶺 弘樹の『借りを返す』そういう思いもあるのであろう。繰り出される拳は普段より力んだものになっていた。古波蔵の強烈な『ストマック・ブレイク・ジョルト』が明の腹を直撃した。バランスを崩し、ダウン寸前の明。

 だが、明が倒れ掛かってからも、古波蔵は烈火の如く殴り続けることを止めず、ここぞとばかりに、左右の手で連打して来る。目が霞み、試合前に食べた物を吐き出しそうになってしまう。ダウン後、6秒間は全く身体が動かせないほどであった。

 起き上がった直後にゴングが鳴っているが、レフェリー気付かない。30秒間の間、火花散る両者の打ち合いが続いた。その後、堪り兼ねた五十嵐の声でようやく試合が止まり、第10ラウンドは終了した。

「危なかったぜ。そこらの『なまくら』とは訳が違うってことか。本当に一級品の技だぜ」明の全身から噴き出して来る汗が水蒸気となり、湯気のように立ち込めている。

「正念場だぞ。ここで勝った方がロビンソンとの対戦の切符を手にし、ベルトに手を掛けることができるんだ。気を強く保って、勝ちを見失わないようにしろ」

極限の場面では、技術的なアドバイスよりも、メンタル面でのアドバイスが必要となることが多い。五十嵐は、そのことをしっかりと心得ていた。



そして第11ラウンドを終え、最終の第12ラウンド。ここまで素人目には互角、玄人目には明がやや優勢と言ったところであろうか。拳闘家たちは古波蔵の微妙な変化を見逃してはいなかった。その変化を隠すように、古波蔵の拳が牙を剥く。

 まさに火だるま。これまでに2度のダウンを奪われ、倒れ込もうとしている明を容赦なく追撃している。貝のように固く殻を閉ざしていたのでは敵は倒せない。攻撃は即ち最大の防御なり。キャリアという点において未熟。その点においては旗色が悪いと言われても仕方がないことであろう。

 だが、ポーカーフェイスを決め込んでいても額の汗は隠せない。古波蔵にも確実に疲労の魔の手は忍び寄っていた。彼はジャブでさえ肘を伸ばし切り、一発一発にかなり体重を乗せて来ている。休まずに動き詰め、余力を残すつもりなど毛頭ないのであろう。

 横に足を振ってリズミカルだが少し変則的なステップを使い、相手にその動きを悟らせない。明はその掬い上げるような連撃を避けながらも、冷静に古波蔵の動きを分析できていた。それにしてもこの男、全く手を休めることがない。

 強攻に出ることで、一縷の望みも断ち切ろうという魂胆なのであろうか。普段から、いや、幼少期から如何に鍛錬を積んできているかが見て取れる。全身全霊、力と力が錯綜する。刹那、力強い音が、会場全体に響き渡っていた。

 大地を揺るがす衝撃、明の『ハート・ブレイク・スマッシュ』は古波蔵の心臓を確実に射抜いていた。心停止した3秒間、息をもつかさぬ連撃の後、立っていたのは赤居 明ただ一人であった。ゴングが鳴り響き、試合終了。

五十嵐でさえ判定勝ちしかしていない男に、明はKO勝ちという偉業を成し遂げた。

笑みを溢し、一筋の涙が頬を伝った五十嵐の心境は『感無量』であった。

試合後、控室で身体を休めていると、意識を取り戻した古波蔵が話をしに来た。

「いやぁ、強かったねぇ。全盛期の五十嵐くんと闘っているようだったよ。これで迷うことなく引退できる」それを聞いて五十嵐は大層驚いたようだ。

「引退?血迷ったか古波蔵。まだ世界チャンピオンになっていないだろう。お前なら今からでも十分にチャンピオンになれる実力があるというのに。無冠の帝王で終わるつもりか?」

「あいっ。僕はどうやら、チャンピオンになることよりも、君に勝ちたくて現役を続けていたらしい。ライバルの居なくなったバンタム級でベルトを奪っても、それはきっと僕にとってチャンピオンベルトではなくなってしまっているんだ」

 哲学的であり、少々偏った考えだが、スポーツをする者にとってポリシーは必用不可欠なものであると言えよう。

「そうか、俺たちの伝説もここまでのようだな。どうだこれから飯でも行かないか?」

「あいっ。試合して腹も減ったし、アイスクリーム食べたいなぁ」

「試合前に食べて試合後にも食べるのか。本当にアイスが好きなんだな」

「いや、今日は試合前には食べなかったんだ。どうにも力が入らなくてねぇ。アイスクリーム――食べとけば良かったなぁ」

「何!?食べなかったのか?珍しいこともあるもんだな。試合前の験担ぎは、スポーツ選手にとって必須事項だろう」

「今回だけ周りに止められてねぇ。今日は日曜日だろ?どこの店も全部休みでねぇ。でも言い訳はしないよ。これが僕の実力。男はどんな時でも結果で示さないとね」

 流石、長きに渡って日本の拳闘界を支えてきた人物だけのことはある。潔いことこの上ない。そして古波蔵はこれまで沈黙を貫いていた明の方へ向き直り、雄弁に語り始めた。

「老いは恥ではない、僕はそう思うよ。君も年を取れば分かるよ。僕はまだ若いつもりでいるけどね。これまでボクシングをして来れて、本当に幸せだった。もう十分だ。君のような選手が居れば、安心してこれからの時代を託せるよ」

 30代にして尚KOの山を築いて来た彼だからこそ、思うところがあるのであろう。

「任せといてくれ、おっさん達のためにもロビンソンを倒して、必ず世界チャンピオンになってみせるぜ」

「頼もしいな。僕らは本当に好き友であり、ライバルでもあった。五十嵐くんのことを憎いと思ったことなんて一度もないんだ。できればロビンソンに倒されそうだった時、代わりに僕が出て行って、五十嵐くんのことを助けてあげたかったくらいさ。五十嵐くんと同じ時代にボクシングができて本当に運が良かった。これからは君たちの時代だ。よろしく頼むよ」古波蔵は最後にそれだけ言うと、明に向かって右手の拳を突き出した。

 それに対し明も、右手の拳を出して合わせた。

「俺はきっとやって見せる!!期待しててくれよな」

 明は自信に満ちた顔でそう言い放った。古波蔵は嬉しそうに満面の笑みで頷き、部屋を後にした。そして、10分後、明たちが控室を出た所で、一人の少年が近づいて来た。

「あの――赤居選手ですよね?サイン下さい!!」

 元気の良い少年は左眉の上の大きな傷など気にも留めず、屈託のない笑みを作っていた。

「へへっ。なんだか芸能人にでもなったみたいだな」

 明は少し照れながら、渡された色紙に名前を書き込む。

「ありがとうございます。これからも応援するので、頑張って下さい!!」

そう言うと少年は一礼して去って行った。

「あの子の前でかっこ悪りいとこ見せなくて済んで良かったぜ」

 明はそう言って、ほっと胸を撫で下ろした。

「腹を括ることで、踏ん切りがついたのだろうな。見違えたよ」

 この時明は、五十嵐が意図的に自分を褒めてくれていることに気が付いた。

「まあ、もう一回やったら勝てるかどうか分かんねえけどな。

「『巧圧』使いの古波蔵さんとは相性が良かったってのもあるけどな。もう一回やったら勝てるかどうか分からねえよ。うわっ――」

 明は側にあった植木を避けようとして、蹌踉けて転けそうになってしまった。

「どうした?どこか悪いのか?」五十嵐は揶揄うつもりで言ったようだ。

「なんだか目が霞むんだ。凄く見え難くて――」

 明の真剣な言い方を聞いて、すぐに五十嵐の表情が変わる。

「何!?それはいかん。網膜剥離などで失明の恐れもある。すぐに病院に行って診てもらおう」 五十嵐としては祝勝会でも開いてあげたいところではあったが、病気に関しては早期発見が功を奏することが多々あるため、重篤な症状が出る前に検査を行うこととなった。


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