表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
3/7

第三章 東洋偏

安威川 泰毅との試合で辛くも引き分けた明だったが、その後、豪州最強のテクニシャンで、『マリックビルの誘導弾』と言われる連打で敵を打ちのめす、ダニエル・フェネックという選手を撃破し、東洋太平洋チャンピオンであるグラッチェ浜松との対戦が決まった。

1週間の休養を経た後、試合に向けてのジムでの練習開始前に五十嵐から話があると言われ、明と秋奈はいつもより少し早めに来て待つことにした。待つこと10分。疲れたように五十嵐がジムに入って来た。

「二人とももう来ていたのか。話と言うのは今後の練習についてでな。2ヶ月後から俺がつきっきりで赤居の練習を見ることにする」

これまで練習は全て秋奈と行っていた明は、やっと五十嵐から教わることができると喜ぶ反面、つきっきりと言う言葉に引っ掛かりを覚えた。

「そいつは嬉しいことだが、おっさんは自分の練習はどうするんだ?今まで練習が忙しくて見てやれねえって言ってたじゃねぇかよ」

「そのことなんだが、俺は次の試合を最後に引退しようかと考えているんだ」

「いいのかよ、おっさん。ボクシングが好きで今、14度も防衛してて日本記録なんだろ?このまま勝ち続ければ記録を伸ばせるってのに。まさか、俺のコーチをするために引退するんじゃねえだろうな」

「そうだよ、叔父さん。何もチャンピオンでいる間に引退することはないんじゃない?まだやれるって口癖のように言ってたじゃん」

「お前たちの気持ちは嬉しい。だが、これはもう決めたことなんだ。俺はボクシングを始めた時に最強を目指していつも鍛錬に励んできた。そして今回、最強と言える相手と試合をすることができるんだ」

「最強――どんな奴なんだよ、そいつは?」

明は五十嵐に最強と言わしめる男に興味を示さずにはいられなかった。

「マイク・レイ・ロビンソン。アメリカ、ニューヨーク出身のボクサーだ」

「マイク・レイ・ロビンソン?知らねえな」

明はニュースや新聞など見ないため、世の中のことなど全く分かっていない様子だ。

「お前如きがその名を口にするのも烏滸(おこ)がましい男だ。21戦21勝、無敗。この男に勝てる奴はバンタム級で史上最強と言われるに相応(ふさわ)しい。奴は俺の一つ下の階級のチャンピオンだった。それがこの度階級を変え、俺の前に立ちはだかったって訳さ」

いつになく嬉しそうな五十嵐を見て、明はこの話を受け入れることにした。

「分かったよ。おっさんが決めたんなら、それでいい。7月からよろしく頼む」

聞き分けのいい明に対して秋奈は不満そうだが、口には出さなかったようだ。

「お兄ちゃんにも――話していいかな?」

五十嵐は少し考えた後、柔らかい言葉を選ぶようにして言った。

「お前の好きにしろ。あいつは多分、見には来ないと思うがな」

秋奈は悲しそうにしないように努めた。

「赤居、今度の相手は一段階レベルが上がるぞ。今までの相手とはタイプが異なって来る」五十嵐の言葉は発破をかけるための脅しではない、明は直感的にそう感じた。

「あの安威川よりも強いってのか。一体、どんなタイプなんだよ?」

「今までお前が対戦してきたのは、攻撃型の選手ばかりだ。平凡なコーチでも攻撃型の選手は育てられるが、有能なコーチでなければ防御型の選手は育てられない。防御主体のグラッチェと闘うのは、思いの外、骨が折れると思うぞ」

「その防御型の選手ってのは、なんで今までの奴らより強いんだ?ただ守るだけなら、そこにパンチを打ち込んじまえばいいじゃねえか」

明は一般的に頭が良いと言われる部類ではないが、妙に核心を突くことがある。

「良い質問だ。攻撃型は体重が前にかかり、相手のパンチのダメージをもろに食らうのに対し、防御型は相手が襲い掛かって来るのを仕留める頭脳型の選手だ。KOされにくく、ダメージも受けにくい」

「俺は攻撃型だよな?じゃあ、なんで最初から防御型にしてくれなかったんだよ」

明の鋭さに五十嵐は感心しつつもこう答える。

「経験を駆使し、高度な防御技を身に着けなければちょっとやそっとじゃ防御型にはなれないのさ。打たなければ負けてしまうボクシングの世界で、KOパンチを食らわないようにしながら、虎視眈々と機会を伺うことの難しさが、今のお前になら分かるだろう」   

五十嵐の言葉に一切の嘘はない。

「そうだったのか。まあ、おっさんがそう言うんなら信用するぜ」

「それでだ、赤居。お前にはこれから下半身を徹底的に鍛えてもらう」

「下半身のトレーニングか。一体、何をやればいいんだ?」

「足の親指を強化するために、これから試合の3日前まで毎日欠かさずに、葛西(かさい)海浜(かいひん)公園で一日10本×3セット50mダッシュをしてもらう。1本も手を抜くんじゃないぞ」

五十嵐は練習についての話をする時、いつも目を輝かせて話していた。

「分かってるって。そんじゃあ、勝ったらまた雷鳴軒に連れて行ってくれよな」

「雷鳴軒!!お前も行ったことがあるのか?俺はあの店のラーメンが大好きなんだ」

「何言ってんだよ、おっさん。一年前に一緒に行っただろ」

 五十嵐は目を見開いた後一瞬真顔になったが、すぐに話しを再開した。

「そうだったな。いや、なに、軽いジョークで言ったまでさ」

「ビックリさせんなよ。まんまと騙されちまったぜ」

 五十嵐の蟀谷から顎にかけて、一筋の汗が滴り落ちる。

「はっはっは。まだまだ未熟な奴だな」

 何気ない会話でのこの言葉を、二人は違う意味で捉えていた。

「それからな。試合前に取って置きを教えておいてやろう。クロスクリューは破られる可能性のある技だ。しかし、俺は『改良』する方法を知っているからな」

 明は嬉しそうな笑顔を見せている。

「おお~頼もしいな。流石は世界チャンピオン」

“脳天気なのは悪いことばかりではない”五十嵐はそう感じていた。



 それから秋奈にタイムを計測してもらいながら、毎日メニューを熟し、50m走が6.2秒から6.1秒で走れるようになった。

そして迎えた決戦の日。1984年6月9日、名古屋国際会議場で、3000人の観客の前で東洋太平洋チャンピオン、グラッチェ浜松との対戦が行われようとしていた。中部国際空港があれば、時間を惜しんで空路という選択肢もあるだろうが、1984年には1964年10月に開通した東海道新幹線で向かうのが関の山であった。

この日のために明は秋奈と一致協力して練習に励んできた。負ける訳には行かない。

この試合に勝てば、初めて『タイトル』を手にすることができる。ボクサーにとってベルトとはつまり『憧れ』であり、どんな苦難を乗り越えてでも手にしたい至高の一品なのである。試合開始一時間前、わりとリラックスした明が控え室を出ようかと扉を開けると、偶然にもグラッチェ浜松が通りかかった。

「おう、赤居くん。君もトイレか?」

彼の素っ頓狂な言葉に明は思わず笑ってしまいそうになる。

「なんだよ、おっさん。俺は今からやる、安威川と古波蔵のおっさんの試合が見たいんだよ」

眼中にないと言われた気がして、一瞬グラッチェの目つきが鋭くなる。

「そうか~今日はいい試合をしような」

「そうだな。だが、悪いけどベルトは俺が貰うぜ。五十嵐のおっさんとの約束だしな」

「ふふっ。そう言えば五十嵐くんの教え子だったな。残念だけど、東洋太平洋のベルトは僕の腰に巻かれている方が似合っているのさ~」

そう言い残すと、グラッチェは自分の控室へと帰って行った。大一番の東洋太平洋タイトルマッチとあって、声が裏返りそうなほど張り切っている司会の男がアナウンスを始める。

「今日の対戦は皆さんご存知の東洋太平洋チャンピオン、グラッチェ浜松選手と先日、安威川 泰毅選手と激闘を繰り広げた浅草の闘犬、赤居 明選手の対戦です」

観客が沸き上がり入場曲が流れ終わった後、両者リングへと上がった。

「グラッチェ選手は身長167cm、体重118ポンド(54kg)で34歳。高知(たかち)ジム所属で、銅色のトランクスがトレードマークです。戦績は29戦22勝4敗3分5KO、頑固で意思が強い選手として有名です。ジムで教えていた後輩を叱り飛ばし、泣かせてしまったことがある程です。赤居選手は拳を縦に重ね、まるで小さな武士のような格好で構えるボクサーです」

軽快な口調に、会場のボルテージが一気に上がって行く。審判の男がルール説明を終え、五分後に試合が開始されるという。米原との最終確認にも余念がないよう留意する。

「いよいよここまで来たな。どうだ、今の気分は?」

「興味ねえよ。俺が目指してんのは世界チャンピオンただ一つだ」

「頼もしい限りだな。昔、敬造が言った言葉と同じことを言うとは」

「絶対におっさんのベルトは俺が引き継ぐぜ。空位になるバンタム級の世界王座に就こうとするには、東洋くらいは制覇しとけって言われてるからな」

 本気の本気。今日という日まで、これで勝てなければ、おかしいというところまで追い込んで来た。

「相手が日本人で良かったな。OPBF、東洋太平洋ボクシング連盟が仕切る試合では、地元判定に泣かされる選手が多いというのに運の良いことだ」

 米原は遠い目をしながらそう語った。

「運も実力だからな。俺は今日の日のために、それを活かせるだけの努力をして来た。だから、勝ちが巡って来る可能性は十二分にある筈だぜ」

「その通りだ。国内王者、ナショナルチャンピオンになりたかった訳ではないだろう。さあ、栄冠を勝ち取って来い」

明は米原に促されるままに、リングへと躍り出て行った。


矛盾ばかりの組み討ちありて、尾張の中心(なから)で雌雄を決す。

『絶対防御』グラッチェ浜松。

 

「さあいよいよ試合開始であります。両者歩み寄って攻撃を開始します。まず最初にジャブを打ったのは赤居。軽く、鋭く、スピードのあるジャブであります。グラッチェは『ステッピング』を使って巧みに(かわ)しています」

今回の東洋太平洋タイトルマッチは、ビッグマッチであるため、日本中にテレビ中継されることとなった。アナウンサーは『いいたおし』の愛称で親しまれている、井伊谷 雄則である。

「おっと、ここで赤居が大振りのアッパーを繰り出します。しかしグラッチェは『バックステップ』を使って赤居の攻撃を全く寄せ付けません。攻撃をせずとも優勢と見て取れる試合運びを、グラッチェは意のままに繰り広げています。しかし、赤居もあの手この手で攻勢を崩さず、東洋太平洋チャンピオンに対して少しも引けを取っておりません」

いいたおしは軽快な調子で話し続ける。

「そして、今度は赤居選手のジャブとフックです。しかし、これはグラッチェに対しては全く当たる気配がありません。試合開始二分三十五秒、二人の選手は一度も拳を当てることなく試合を続行しています。ですが、両者余裕を持って試合をしている訳でなく、緊張した空気の中、息を飲むようなせめぎ合いが展開されています」

そしてここで、いいたおしは何かに気が付いたようだ。

「あっと、今、引きながら間合いを取るスタイルのグラッチェに、審判からもっと積極的に闘うようにとの注意があったようであります。警告の中、第一ラウンド終了です」いいたおしは、速いけれど聞き取り易い、絶妙なペースで話し続けている。

「いや~二人とも見事に守りを固めていますね~。どうですか佐藤さん?」

割って入るタイミングが無かったところ話を振られて、解説の元WBA世界王者、佐藤 勝也がここぞとばかりに口を挟む。

「二人とも鉄壁の守りを見せています。互いに割って入るのは難しいのではないでしょうか」

自分の状況と重ね合わせているようだが、視聴者もいいたおしも気付いてはくれない。

「なるほど~。これは面白くなりそうですね~」

聞いているのか、いないのか。このタヌキ親父は目が笑っていないので、どうも信用できない。

「続いて第二ラウンド開始です。お~っとグラッチェ、今度は『スリッピング』を使って赤居からの攻撃を避けています。これはパンチが伸びる方向と同じ方向に顔を背けるようにして受け流す技で、中南米のボクサーを中心に見られる高等技術であります」

いいたおしの流れるようなトークで、放送は彼の独擅場と化している。

「おっと、しかし赤居の拳が二発、グラッチェに当たったようであります」

視聴者には当たっているのが分からない者もあったようだが、いいたおしにはしっかりと見えていたようだ。流石は一流アナウンサーといったところか。

「次はグラッチェが攻撃を仕掛けたようであります。フックを織り交ぜた見事な攻撃の応酬。ですがこれは赤居に届かないようであります。そして日本中が興奮の渦に巻き込まれる中、第二ラウンド終了であります」

佐藤は解説を加えて話を広げようとしたが、いいたおしからは気のない返事が返って来ただけであったため、水を飲んで時間が過ぎるのを待つことにした。

「さあ続いての第三ラウンド、グラッチェは『ウィービング』を使って赤居を惑わせております。これは上体を上下左右に動かし、的を絞らせない防御法であります。あっとグラッチェ、顔が少し赤くなっております。赤居の攻撃が当たり始めたため、怒りを露わにしているようであります」

グラッチェの顔は溶岩が沸き立つように赤みがかっていた。

「第四ラウンド突入であります。グラッチェ、今度はどんなテクニックを見せてくれるのでしょうか。おっと、『ダッキング』であります。ここへ来て防御技の基本へ立ち返る戦法に出たか。アヒルが水面を潜るように頭を素早く下げて赤居のパンチを躱しております」

いつテレビに映るか分からないため、佐藤は欠伸を堪えながらも真面目な顔をしていた。

「第五ラウンド、依然としてチャンピオンであるグラッチェ浜松が優勢であります。このまま王座を護り切ることができるのか。それとも赤居が意地を見せるのか。そしてグラッチェ、続いては『スウェーバック』であります。これはスウェーイングとも呼ばれ、上体を後ろに反らすだけで相手の攻撃を避ける技法であります」

 いいたおしは続けざまに解説を加える。

「目の良いボクサーは『スウェーバック』に頼る傾向がありますが、チャンピオンもその例外ではありません。お得意のスタイルで相手を翻弄(ほんろう)します」

“流石によく分かっているな”いいたおしの解説に、佐藤はこの場における自分の必要性に対して疑問を抱き始めていた。

「会場の声援が勢いを増したまま第六ラウンド開始です。グラッチェ、どれほどの数の防御技を持っているのでしょうか。技が尽きる気配がありません。お~っと、このラウンドでは攻勢に転じるようです。両手を交互に打ち出しての目まぐるしい連続攻撃。あ~っとこれには赤居、反撃の機会がないか。いや、打ち込みました。重たい一撃。出ました『クロスクリュー』です。そして倒せると分かったら、ここぞとばかりに打ち込みます。これにはグラッチェ、堪らず『クリンチワーク』です。これは相手に抱き着いて攻撃を止める防御技です。レフェリーが二人を引き離したところでラウンド終了です」

“いつ息してるんだろう”佐藤は流れるように言葉を並べ立てるいいたおしの呼吸法に興味津々であった。

「さあ、試合は折り返しのラウンドを過ぎ、第七ラウンドに突入であります。それにしても最初は端麗な容姿もあってか、赤居への応援が多かったのが、今はグラッチェへの声援の方が多くなっています。グラッチェの華麗な技のレパートリーに、会場に居るボクシングファンが魅了されたか。あ~っと、これは凄い。なんとも堅い『ブロッキング』であります。両手を顔の前で曲げ、垂直になるようにして赤居の連撃を防ぎます」

先程まで真面目ぶっていた佐藤だが、少しくらいならと、ここで変顔をし始める。翌朝のスポーツ紙の隅の方に、解説者の顔としてこのシーンが載ることを知っていたら、この行動は取らなかったことであろう。

「赤居選手はなんだか“圧力”のようなものを受けているように見えますね。凄くやり辛そうにしています」

その“圧力”について佐藤がここぞとばかりに解説を加えようとしたが、途切れることなく発せられるマシンガントークを前に、話に割って入る隙がない。

「第八ラウンド、これは本当に十七歳の、ほんの九ヶ月前にボクシングを始めた選手とキャリア十八年のチャンピオンの試合なのでしょうか。(にわ)かに赤居がグラッチェを押し始めております。これは試合前の負ける『姿』が想像できないと言う発言もハッタリではなかったということでしょう。あ~っと、赤居の右ストレートに対し、グラッチェの『ヘッドスリップ』であります。これは相手のパンチを頭を滑らせるようにして避けるテクニックであります」

“それだけじゃないんだって“佐藤は発言したかったが、湯水のように湧き出るいいたおしの言葉の雨を、掻い潜るだけの術がないことを悔やんだ。

「おや?赤居、どうしたのでしょう。勢い余って『たたらを踏んでいます』そして攻勢に転じることができないまま、第八ラウンド終了であります」

 ラジオで競馬中継を聞いている時のように、佐藤は前のめりになってタイミングを伺っていた。

「第九ラウンド開始。赤居は、大きく大きく振りかぶるように左ストレートを出しております。これにはグラッチェも堪らず『クロスアームガード』で応戦します。左手を横にして前に、右手を縦にして後ろに構え、さらに守りを堅くします」

 結局佐藤はこのラウンドも全く発言できないまま置き物のようにその場で固まっていた。

「いよいよ終盤、第十ラウンドであります。グラッチェなんと今度は『カバーリングアップ』であります。『カバーリングアップ』とは、両腕で顔面と身体を完全に防御することであり、しばらくこの状態だと闘う意思がないものと看做され、反則やカウントを取られるものであります。そしてグラッチェのこの技は特に、ファンからは通称『幻の岩』と呼ばれ、この鉄壁の防御が彼の代名詞となっております」

“すげえ詳しいな。俺もそこまでは知らなかったよ”

いいたおしの余りに博学なところに、佐藤は素直に感心した。

「さあ赤居、グラッチェの『幻の岩』を果たして打ち砕くことができるのか。岩の鎧が頑なに赤居の攻撃を寄せ付けません」

そして明が攻略法を思案している間に、このラウンドは終わりを告げた。

「出ました~。拳を天高く突き上げる『グラッチェポーズ』です」

明の攻撃を完璧に退けたことに対する喜びの意、審査員に対し自らが優勢であるとアピールするという意。このポーズにはその二つの意味合いが込められていた。

「さあ残すところ後二ラウンド。第十一ラウンドの開始であります。赤居の強烈な右フックに、グラッチェは返す刀でこれまた激烈なカウンターをお見舞いしております。単調な拳は、カウンターパンチャーの大好物であります。意識してフックを打たせていたのは、カウンターのための呼び水でありました」

“よくこんなにポンポン言葉が出て来るな。酒飲んで酔っ払ってるみたいだ。まあ俺は飲んでもこんなに喋れねえけどよ”

非常識な話ではあるが、佐藤の見立ては正解であった。よく口が回るようになるため、テレビ局の上層部からは半ば黙認されているような話だが、このオヤジは仕事の前に一杯ひっかけて来るのが習慣になっていた。

「ヒット、ヒット、ヒット、ヒット、ヒット、ヒット、ヒット、ヒット、ヒット~」

狂った九官鳥のように同じ言葉を繰り返すので、佐藤は笑いを堪えるのに必死であった。

「激闘の末、ファイナルラウンドに突入であります。世界戦では十五ラウンドありますが、東洋太平洋タイトルマッチでは最長のラウンドとなっております」

いいたおしは額の皺に汗を滲ませ、最後の追い込みとばかりに喋っている。ラジオで観戦している人にはもう、佐藤が居るのかどうか分かっていない。

「うわ~、決まった~。グラッチェの勢いに乗ったカウンターに対し、更にカウンターを合わせる『クリス・クロス』だ~。先程から高等技術の応酬です。しかも、普通の型とはどこか違っているように思えます。グラッチェ立てるか。どうなるグラッチェ。いや、立てません。レフェリーが両手を上げ、交差させるように手を振って試合を止めました。赤居やりました。十七歳にしてなんと東洋太平洋チャンピオンの栄冠に輝きました。素晴らしい偉業です。この年齢での達成は、同じジムの五十嵐 敬造でさえ成しえなかったこと。本当によくやりました」

その素晴らしい功績を、いいたおしと佐藤が称えた後、五十嵐と秋奈がリングに上がって明に駆け寄る。

「おめでとう、明くん」目に涙を浮かべながら秋奈が賛辞を送る。

「ケチのつけようがない試合内容だった。お前のセンスには恐れ入ったよ」

五十嵐にこうまで褒められると明も素直に嬉しくなってくる。

「ありがとう、おっさん、赤城。今日は納得のいく試合だったぜ」

初のタイトル奪取に、明はご満悦の様子だ。

「よもやこの二ヶ月間で、あの技をここまで完成させるとはな。『クリス・クロス』と『クロスクリュー』の二つを足して差し詰め『クリス・クロスクリュー』と言ったところか。見事な勝利だったよ」

五十嵐は自分のことのように誇らしげな表情をしていた。

「ああ、これでやっと大きく世界に近づけたって訳だな。みんなには本当に感謝してるぜ」

明は硬派な性格のため、普段はわりと堅い表情をしていることが多いのだが、この時は珍しく表情が緩み切っていた。

「せっかくタイトルホルダーになったんだし、『ちょっと良いお店』で祝勝会を開こうと思うの。店ももう予約してあるんだから。ほら、早く行こうよ!」

 興奮した様子の秋奈を、幼い子供を見るように眺めながら、一行は雷鳴軒での宴会に向かって歩き始めた。



 明とグラッチェの死闘が終わり、皆が盛り上がりを見せていた頃、五十嵐の世界タイトル防衛戦が決まった。世界チャンピオンを巡るタイトルマッチのファイトマネーは1500万円以上と言われている。相手は五十嵐のたっての希望でアメリカ国籍のマイク・レイ・ロビンソンとの対戦となる。試合5日前、いつものように練習してはいるが、重苦しい雰囲気が漂っている。

「なぁ、おっさん。ロビンソンってのはどんな奴なんだ?引退を掛けて挑むってことは、相当に強い奴なんだろ?」

 明の言葉にいつになく緊迫した雰囲気の五十嵐が口を開く。

「奴は異なる階級の選手を比較する『パウンド・フォー・パウンド』において現役の中で最強との呼び声が高いボクサーだ。まだキャリアが浅いにも関わらず、多くの者がそう考えるのは、奴の持つスピードの優位性と高度なコンビネーション技術、『ピーカブースタイル』を用いた強固で卓越したディフェンスによるところが大きいと言える」

「勝てないってことか?今まで幾多の難敵をマットに沈めて来たんだろ?今回だって大丈夫なんだよな?」

「それを確かめるために試合をするのさ。最後までどちらが勝つか分からない。それがボクシングだ」

「おっさんより強い奴なんて居ねえんだよな?俺は世界最強の男、五十嵐 敬造の勝利を信じて疑わないからな」

この質問は五十嵐にとって簡単なものだったが、明の手前返答に困るものでもあった。

「俺はもう17年もボクシングをやっている。自分で自分の実力が分からない程バカではないさ。ボクシングに絶対はない。勝つために、乗り越えるために、練習し続けるのが世界チャンピオンだ」多少鈍い明にも、あやふやでも分かり易い返答であった。

「七夕決戦。楽しみにしとくよ。いいとこ見せてくれよな」

“明に気を遣われるようではまだまだだな”五十嵐はそう思うと「ああ」とだけ言い残し、米原とスパーリングを再開した。

1984年7月7日。さいたまスーパーアリーナにて試合は行われようとしていた。明と秋奈は開戦15分前、五十嵐のコーナー側の最前列の席で選手入場のタイミングを待ち侘びていた。しばらくするとアナウンサーらしき男が準備を始める。

「赤のコーナーからは31戦30勝1敗18KOの五十嵐 敬造選手。身長166cm、体重118ポンド(54kg)でトランクスの色は金色です。力石 丈やカーロス・メンドーサなど、数々の名選手を破って来ました。冷静だが熱い一面も併せ持つクリーンファイターであります」このアナウンスが明には少し引っかかったようだ。

「1敗?おっさんが負けたことなんかあんのかよ」

この問いに秋奈は少し得意げに答える。

「だから因縁があるって言ってたでしょ」

明は納得が行ったが、その相手と闘いたい気持ちがますます強まった。五十嵐がいつものように谷村 新司のチャンピオンを入場曲として入場する。そこで、会場が少しざわめく、どうやら五十嵐が何もないところで躓いてしまったようだ。

「敬造、お前」米原は身体から血の気が引くのを感じた。

「忠次郎、何も言わないでくれ。これは俺の最後の試合。人生を懸けた集大成なんだ」

米原は迫られた決断と自責の念で今にも気が狂いそうな心境であった。

「いつからだ?どうして気付いてやれなかったんだ――すまねぇ。だが、これだけは言わせてくれ」米原は全てを受け入れ、五十嵐の目を真っ直ぐ見て言った。

「生きて――帰って来てくれ」五十嵐は静かに首を縦に振った。

「続いては青のコーナー。アメリカはニューヨーク州、オズウェルトジムのマイク・レイ・ロビンソン。生後3歳までをオクラホマ、9歳までをミシガンで過ごし、母方の祖父が白人でクオーター。ボートを漕いで腕力を鍛えました。6ヶ月で11試合を消化し、あのトレバー・バルボアを倒したこともあります。天衣無縫、自然で美しいファイトスタイルを見て、人は彼を『ノックアウトアーティスト』と呼ぶようになりました」

ロビンソンは『バイソン』の通り名が付いているだけのことはあり、筋骨隆々で如何にも屈強な黒人といった風貌であった。

アメリカの人種は多様で、混血の人々に対していくつかの呼び名がある。ヨーロッパ系白人とインディオの混血の人々である『メスティーソ』アフリカ系黒人とインディオの混血の人々である『サンボ』白人と黒人との混血の人々である『ムラート』他にもスペイン領植民地において、スペイン人を親として現地で生まれた人々を指す『クリオーリョ』など多くの人種が混在している。

ロビンソンは父親が黒人、母親が『ムラート』のクオーターで白人の血が4分の3入っていた。ヘビー級に居てもおかしくないと思える程のその筋力は、混血の子は強いと言われる域に収まらない程の体格であった。身長173cm体重118ポンド(54kg)とバンタム級では長身の部類に入る。暴力的な試合をする『ラフファイター』であるアントニー・ボルビックを試合開始わずか10秒でKOしたこともあると紹介された。

審判がルール説明を行い、両者コーナーへ戻り、あとはゴングを待つだけとなった。五十嵐側のセコンドは、初めてタイトル戦を行った時のように緊迫した空気に包まれている。日本の国歌である『君が代』と米国の国歌である『ザ・スター・スパングルド・バナー(星条旗(せいじょうき))』が流れ、(おごそ)かに試合が始められようとしていた。

大きな盛り上がりを見せ、試合が開始されようとしている中、五十嵐が左手首を右手で抑えていた。普段、試合前にこんな動作をすることはなかった。どう見ても身体に異常がある。

「いつも通りにやるだけだ。なぁ敬造」

米原は五十嵐の緊張を察したのか、言葉を選びつつ場を鼓舞する。小さく頷いた五十嵐から、米原は目を離すことができなかった。



『カンっ』

ゴングが鳴り、静かに試合が開始された。

まずはロビンソンが豪打の応酬、砲丸を投げつけるように重たい拳が五十嵐を襲う。一発でも当たれば即座にマットに沈められそうである。しかし相手は世界チャンピオン、全く危なげなく、拳の雨を掻い潜る。右利きであるロビンソンは、拳の間から覗き込むスタイルである『ピーカブースタイル(いないいないばあの意)』で守りを固めている。

刹那、張りつめた空気が会場を支配する中、ロビンソンがほんの一瞬、0.1秒ほど瞬きしたのを五十嵐は見逃さなかった。鋭く洗練された拳が、ショットガンのようにロビンソンの左胸を射抜いた。会場が大きく沸き上がる。

 五十嵐の必殺技『ハート・ブレイク・スマッシュ』は相手の心臓を一時的に止め、身体の自由を奪うものである。『スマッシュ』とはフックとアッパーの中間でスリークオーター、ストレートの4分の3の距離で相手に到達する『必殺技』である。

これまでこの技を受けて無事にリングを降りた選手は一人としていない。ロビンソンはあまりの速さに、何が起こったか理解できないほどであった。五十嵐は不敵に口元を緩めるとロビンソンに拳の嵐を浴びせた。

しかし次の瞬間、五十嵐はロビンソンのカウンターによってダウンを取られてしまう。カウント7でなんとか起き上がるが、いつになく動揺しているようにも見える。

“おかしい、いつもの敬造なら今のラッシュで確実に仕留めていた筈だ。一瞬、ほんの1秒ほど相手の回復が早かったように思える”米原はこの只ならぬ事態に冷静さを欠かずにはいられなかった。

“どういうことだ?『ハート・ブレイク・スマッシュ』は攻略不可能で決まったら確実に相手を倒せる筈だ。こんなことはある筈が――”米原は一瞬目を閉じて思考を巡らす。

“ロビンソンがタフなことよりも、敬造の問題だ。あんな身体でまともに闘える筈がなかったんだ”そう考えると米原はタオルを握りしめ、苦悶の表情を浮かべた。

“止めるべきか?しかし――”リング上ではロビンソンの必殺技『ガゼルパンチ』が五十嵐の脇腹に重たくぶち当たっている。『ガゼル』とは氈鹿(かもしか)の意を表し、右下から鋭く突き上げるようにして脇腹に拳を当てるこの技は、その強靭な脚力を用いる点が酷似しているため、その呼び名がついた。

肋骨が折れなかったのは、五十嵐が普段から鍛錬の一環として牛乳を飲み続けて来たことによるものであろう。さもなくば彼の骨は一撃の下に砕け散っていた。軋んだ脇腹を気にしながら、五十嵐は渾身のカウンターをロビンソンのテンプルに叩き込んだ。左利きであることの利。閃光のように決まったフックであったが、ロビンソンの脳を十分に揺らすことは出来なかったようだ。

 彼は殺し屋のように目を剥き、身体を捻り、突き放すようにストレートを押し付けた。  

意識が飛びそうになる五十嵐。彼の意識を繋ぎ止めたものは、勝ちへの執念、仲間との絆、精神力、ライバル達の存在、挙げればキリがないのかもしれない。だが、一番大きく彼を支えたのは、出来の悪い息子のような存在だったに違いない。

 並みのボクサーなら膝をつくこともなく崩れ落ちていたであろう。しかし、そこは五十嵐 敬造。世界チャンピオンである。見開いた(まなこ)は鬼の形相を(たずさ)え、ロビンソンを睨みつける。この瞬間ゴングが鳴ったことに、ロビンソンは心底安堵した。

「五十嵐 敬造。なんて(おとこ)なんだ。こんなに闘うことが怖いと思ったのは、少年の頃メキシコのスラムで3人のストリートチルドレンに絡まれて以来だよ」

 ロビンソンは今にも取り乱しそうになるのを必死で抑えているといった風であった。

「マイク、ここが正念場だ。イナズマを喰い、イカヅチを握り潰せ!!」

 緊迫した場面で言ってみたかったのであろう。セコンドのリチャードは冗談交じりに、少し笑いながら映画ロッキーでの名台詞をそのまま口にしてみせた。

「言ってくれるじゃないか。その言葉、そっくりそのまま実行して見せるよ」

 ロビンソンは少し気が楽になったと言った様子で笑顔になっていた。



ゴングが鳴り第2ラウンドが開始されると、ロビンソンからはジャブの嵐、そして強烈なミドルフックの後に渾身の『ガゼルパンチ』を繰り出して来た。この試合に於いて、一切の出し惜しみなどない。荒々しいが、見事な程に完成されているロビンソンの強さは本物である。

百戦錬磨の五十嵐だからこそ耐えられたものの、並みの選手なら意識が混濁しているところであろう。目にも止まらぬ急激な試合展開に、観客は固唾を飲んで見守っている。不意に繰り出された、五十嵐の『スマッシュ』が、ロビンソンの腹部中央に強烈に突き刺さった。

「オゴッ」思わず苦しそうな声が漏れる。

 苦悶の表情のロビンソンを、五十嵐が殺人鬼のように冷徹に見下ろす。

「7、8、9――」

 ボクサーにはダウンした時にこのまま寝ていた方が楽なのではないかと思う瞬間があるが、ロビンソンにとって今がまさにそうであった。しかし、そこは世界戦。

 ロビンソンは不屈の闘志で立ち上がり、即座にファイテングポーズをとってみせた。五十嵐が止めを刺そうと構えた時ゴングが鳴り、第2ラウンドが終了すると、ロビンソンはかなり息が上がっていた。

「凄いパンチだ。これほどのものは今まで受けたことがなかったよ」

 ロビンソンは冷や汗を拭われながらそう言った。五十嵐の『スマッシュ』は、一撃必殺の『フィニッシュブロー』であり、そう呼ぶに相応しいだけの衝撃であると言える。ロビンソンにとって命拾いの一言に尽きるラウンドであった。

大きな音を立ててゴングが鳴り、多くの観客の期待を背負った中、第3ラウンドが開始された。ロビンソンと対峙するのは初めてだったが、入念に対策を練られ、緻密に試合を計算されていることが伺える闘いぶりであった。ロビンソンは『クリンチワーク』で抱き着くことで、五十嵐の動きを巧みに封じて来る。

五十嵐がパンチを上手く避け、ロビンソンに左フックを当てる。一見優位に立っているようだが、ロビンソンは虎視眈々とチャンスを伺っている。そして、この試合初めてとなる右ストレートを激しく五十嵐の左側頭部に叩き付けた。五十嵐の金のトランクスに無残にも鮮血が飛び散る。

次の一撃を身体の前で腕を十字に交差させて防ぐ技である『クロスアームガード』で辛くも防いだところでゴングが鳴った。間一髪救われたが、お世辞にも安心して見ていられる展開ではなかった。ラウンド終了後、明と秋奈は額に汗を浮かべながら話していた。

「やるじゃねえか、あの野郎。少し効いてんじゃねえのか、おっさん」

 冗談交じりに言ってはみたが、自分の描いていた展開と相違していることは否めなかった。秋奈も同じように感じていたのであろう。いつもよりも口数が少なかった。明は重たい空気を感じ取り、気丈に振る舞っていた。

「大丈夫に決まってるだろ。14回連続防衛中の世界チャンピオンだぜ」

 秋奈もそれを聞いて安心したのか、無理をしてでも強がって見せた。

「そうだよね、叔父さんが負ける筈ないもんね」

 そうは言ったものの、二人とも頭の中にある『疑念』を払うことに必死だった。



その後、五十嵐は必死の攻防で第4ラウンドを終え、レストタイムを挟んだ後、ゴングが鳴り第5ラウンドが開始された。睨み合い、隙を伺う両者。五十嵐の瞬時に加速を付けた、豪快な『スマッシュ』が、再びロビンソンの『心臓』に突き刺さる。

五十嵐が猛打を浴びせるも、今度は止まった時間はたったの1秒。万全の状態なら確実に3秒は相手の時間を止められる筈の『必殺技』も全盛期のキレを見せてはいない。そして、またもや『クリンチワーク』で抱き着かれ、その場を上手く凌がれてしまった。

五十嵐はふっと一息吐いた後、ロビンソンの『ガゼルパンチ』を渾身の『クロスアームガード』で防いでいる。快音が響き渡るあまりの迫撃に、会場がどよめくほどであった。

相手のあまりにタフな肉体に、五十嵐は『スマッシュ』での攻撃を一旦休止し、旧来のスタイルを試してみることにしたようだ。ロビンソンは勝負所を逃さぬようにと、渾身の『ガゼルパンチ』を五十嵐の左脇腹目掛けてぶちかます。

それに対し、五十嵐は狙いすましたように『クロスカウンター』を合わせに掛かった。

しかし、五十嵐の右手での『クロスカウンター』を軽々と避け、ロビンソンは『クリンチワーク』によってその反撃を喰らい尽くしてしまった。

だが、五十嵐は諦めない。絶妙にフェイントを織り交ぜ、慎重に距離を詰め、堅実にその瞬間を探り出す。そして、頼みの綱、左手にて渾身の『コークスクリュー』を放つが、無残にももロビンソンの右手によって握り潰されてしまった。

『恐怖の男』ロビンソンは、土壇場でその真価を発揮しようとしていた。万策尽きたかのように見える五十嵐は、試合開始約20分にして少し意気消沈しているかのように見えた。ラウンド終了後、米原は驚きを隠せないといった様子であった。

「これほどまでに洗練されているとはな。全く、ロビンソンは凄い男だよ。最初の世界戦も、こんな苦しい試合だったよな。いつだって逆境を順境に変えて来た。お前ならまだやれる筈だ。俺はそう信じている」

米原は普段はわりと無口な方だが、ここは自分が盛り立てて五十嵐に勢いを与えたいと考えていた。

「それにしても凄い『拳圧』だな。これ程のものはグラッチェ浜松と闘って以来か」

“タイプ的にお前の方が有利な筈なのに”その一言を言おうとして米原は咄嗟に飲み込んだ。

“バカ言っちゃいけねえ。こんなに苦しいのに、あんな化け物と逃げずに闘っているんだ。俺が勇気づけてやらねえで誰がやるんだ”そう考えた。

「長年の経験に加えて技の利もある。お前が負ける筈なんてねえのさ。さあ、反撃と行こうか」五十嵐は苦しそうに頷くと、強く拳を握り締めた。



小技を駆使した第6ラウンド、大技で押し切った第7ラウンドを終え、激しさを増しながら、第8ラウンドが開始された。互いに足を左右に広げ重心を低くした構えであり、主にインファイトの時に用いられる『アストライドポジション』を取っている。

 向かい合って立ち、どちらかが倒れるまで打つのを止めない覚悟を決めたようだ。ロビンソンは舌を出して挑発している。油断したロビンソンに五十嵐が『スマッシュ』をお見舞いする。

しかし、このロビンソンという男は恐ろしくタフである。(へそ)の上に突き刺さった筈の迫撃を、分厚い筋肉で受け止めてしまっていた。相当な痛みが走った筈だが、肉体も然る事ながら、精神力も人並外れたものがあると見える。

隙を突いて強烈な『ガゼルパンチ』と見せかけて、そのまま五十嵐の左テンプルを狙い撃ちして来た。本来の五十嵐なら、この戦法が頭にあっただろうが、満身創痍の今の状況では、これが思いの(ほか)効果的であった。

目を覆いたくなるような一撃が、モロに『テンプル』を直撃した。意識などあろう筈もない。膝をついて倒れかけている光景を見て、誰もが目を疑わずにはいられなかった。胡坐を掻き、前傾姿勢になるような形で、五十嵐はこの試合初めてのダウンを取られてしまった。

日数にして1784日。五十嵐はこれまで世界チャンピオンとして君臨し続ける中で、『ただの一度も』ダウンを奪われたことはなかった。バンタム級のボクサーにしてみれは、この光景事態が既にニュースとして成り立つほどの衝撃的な出来事であった。

微動だにしない五十嵐。もはやこれまでか――皆がそう感じた矢先、苦しそうに五十嵐が身体を起こした。どうやら意識は回復したが、身体が動かせなかったようだ。

ロープ際まで身体を倒し、反動を使い、なんとか立ち上がって見せた。審判が再開の合図をした1秒後、大袈裟なほどに大きなゴングの音が鳴り響いた。

「どうしよう、明くん。叔父さんが――」

秋奈はいつになく取り乱した様子である。

「大丈夫だから。信じて見守ろう」

この言葉は秋奈に対してもだが、自分に言い聞かせる意味合いも強かった。

「だって――」

「だっても明後日もねえだろ。心配すんな。あの人は俺の憧れだ。負ける訳ねえよ」

「そうだよね。叔父さん、無事で帰って来てくれるよね」

力なくそう話した二人には、ハラハラした気持ちを抑えながら、試合を見守ることしかできなかった。



優勢に見えた第9ラウンド、劣勢に見えた第10ラウンド、精神を削った第11ラウンド、疲弊しきった第12ラウンドを終え、緊迫した空気の中、第13ラウンドが開始された。堰を切ったように力を尽くして闘う二人は、形振り構わずといった感じだ。終盤に差し掛かり、体力が尽きかけているのであろう。

そして、ロビンソンの勢いに乗った『ガゼルパンチ』が五十嵐の身体にぶち当たる。『クロスアームガード』で防いではいるが、縦にした左腕の肘が、不運にも自らの肋骨を痛めつけてしまう。白目を剥き、己を奮い立たせて耐え忍ぶ。

そして、このラウンド二度目の『ガゼルパンチ』が五十嵐を襲う。交通事故のような衝撃に、とうとう五十嵐は血を吐いてしまった。またもや崩れ落ちそうになる五十嵐。

この絶体絶命の状況に、レフェリーは試合を止めようかと迷ってしまう程であった。会場が諦めかけたその時、一人の男が立ち上がった。

「耐えてくれ!お願いだ――負けないでくれえ!!」

明たちから15m程離れた観客席で、一際(ひときわ)大きな声を出して応援している人物が居た。その青年を見て、秋奈が表情を変えたので、明にはそれが誰なのか容易に想像が付いた。

だが、無情にも時は流れ、残酷にも試合は続いて行く。絶体絶命の状況の中、五十嵐の肝臓を目掛け、ロビンソン必殺の『リバー・ブレイク・ガゼル』が炸裂する。それに対し微動だにしない五十嵐。不気味な膠着状態が訪れる。

不思議に思ったレフェリーが、真正面から五十嵐を見て、慌てて両手を交差させる。

突然の出来事に、会場からは驚嘆の声や悲鳴が聞こえる。一体どうしたというのであろうか。なんと、五十嵐はファイティングポーズをとったまま気絶してしまっていた。

弁慶宛ら、なんという『精神力』であろうか。衝撃の『スタンディングノックダウン』に会場は大混乱の様相であった。

「嘘だ――嘘だろ!!」

いつもは取り乱すことなどない明だが、流石にこの状況には動揺を禁じ得なかった。明と秋奈はタンカで運ばれる五十嵐に駆け寄り、必死に声を掛け続けた。米原は命を削って挑んだ五十嵐に、何もしてやれなかったと、悔やんでも悔やみきれなかった。

明は両の拳を強く握り、噛み砕かんとするほどに歯を食いしばった。泣き崩れる秋奈を、力なく支えることしかできない自分に、激しい憤りを感じた。

“待ってろよ。いつになっても、この借りは必ず返すからな”

明は天地天命に誓って、ロビンソンにリベンジすることを決めた。



「俺、ロビンソンに挑戦するよ」

 ロビンソンとの試合後、歓応(かんのう)私塾(しじゅく)大学附属病院で目を覚ました五十嵐に、明は当然のようにそう伝えた。酷い昏睡状態が続き、一週間ぶりに五十嵐が意識を取り戻してからは、多少の動揺と気遣いがあったものの、やはり明に率直な気持ちを抑えることは難しかったようだ。

 止める理由なんてない、だが本当に今の段階で明をロビンソンと『ぶつけてしまって』良いものなのだろうか。明のことを一番良く分かっているのは自分だ。それは間違いない。

 しかし、可愛い教え子を千尋の谷に突き落とすようなことをしたい者などいるのだろうか。ボクシングに100%はない。それでも実力の劣る明をロビンソンと闘わせるのは『無謀』の一言に尽きる。だが、明の性格を考慮し、説得はしないでおいた。

「強さとは何か、見極めて来い」

 これが五十嵐が課せる明への唯一の課題であった。乗るか反るか、勝つか負けるか、生きるか死ぬか。人生とは常に選択であり挑戦なのである。どんな結果でも必ず自分に振りかかって来る。

それを良くしたり、伸し掛かって来るものを軽くしてあげたいというのが、親心というものであろう。この歳まで結婚もせず子供も儲けなかった五十嵐が実の息子のように感じている明が、自分の限界を超えるために強敵と相見えるというのだ。止めようなどと思うものか。男にはやらねばならぬ時がある。

 自分の敵を討とうと言う子心を踏みにじるような無粋な男に成り下がらなかったことを少し誇りに思う反面、経験を積む代償を払わせてしまうことに対して苦悩せずにはいられなかった。

 そして、ロビンソンと対峙する際、五十嵐が陥っていた病状は深刻なものであった。

『パンチ・ドランカー』

 症状としては、末端神経の麻痺、記憶の欠如、意識が途切れたり、不意に睡魔に襲われたりする。五十嵐の場合は、だいぶ症状が進行しており、所謂『再起不能』の状態まで追い込まれてしまっていた。

結局、試合から二週間経っても五十嵐は真っ直ぐ歩くことさえままならないほどであった。五十嵐のリハビリに付き添っている間、明と話しながら、秋奈はとても恨めしそうにしていた。

「叔父さん、本当、残念だったよね。あんなに練習したのに」

「それは向こうだって同じだ。努力の真価はただ結果のみに表れるからな。そこに才能や運があったとしても誰も文句は言えねえよ」

 明は意外とリアリストであり、どこまでも現実をシビアに捉えているようだ。

「叔父さん言ってたんだよ。明くんのためにロビンソンだけは俺が倒しとかないといけないって。これが俺に出来る最後だって」

 秋奈はこの二週間で人が変わったかと思うくらい笑わなくなった。昔のように笑ってほしい。五十嵐が元のように回復することも必要だが、自分には仇敵を討つことでしか、秋奈の心を晴らしてやれる方法はないと考えた。

「その想い確かに受け取ったぜ。大船に乗ったつもりでいろよ」

 明は秋奈の目を真っ直ぐに見てそう言った。

「ごめんね、応援に行きたいんだけど、叔父さんを一人にする訳にもいかなくて」

 秋奈はこれまでに見せたことのないくらい悲しそうな表情を見せた。

「俺なら大丈夫だよ。おっさんのベルト、絶対奪い返してやるからよ」

 明はいつしか未だあどけなさの残る青年から、精悍な男の顔付きに変わっていた。

「うん、約束だよ。待ってるからね」

 今にも泣きだしそうな秋奈の表情は、『行かないで』そう言っているように見えた。



明は試合を前にジムで練習して行く中で、妙な高揚感を覚えていた。世界チャンピオンに挑戦するというよりも『あの』五十嵐を倒した男と自分が試合をするということが素直に嬉しかった。試合を前に米原は、盤石の体制で挑むことのできない明を不憫に思いつつも、やれるだけのことはしてやろうと誓った。

「その意気だ。試合2日前まで毎日、二重跳び3000回のノルマを与えよう」

「しちめんどくせえな。まあ、勝つためってんならやったろうじゃねえか」

空元気といったところか、明は試合に臨むに当たって、恐怖心など(おくび)にも出さなかった。なんとか善戦させてやりたい。米原はそう思うことしかできなかった。

 試合は1984年9月9日、東京都墨田区横綱一丁目にある両国国技館で行われる。選手紹介を受け、国歌斉唱後に開戦した。五十嵐と秋奈は、必死で不安を押し殺し、病院のテレビでこの試合を観戦することにした。

『カンッ』

 ゴングが鳴ると両者向かい合い、ジャブを打ちあう。相手の思いを知るように、まるで拳で会話するかのように。挨拶代わりとも言うべき打ち合いが終わると明はフック、アッパー、ストレートと息つく暇もないほどの速さで、持てる技の限りを尽くしてロビンソンに襲い掛かる。

 ロビンソンはそれを捌きながらも、どこか冷静に傍観しているかのような様子だ。不意に明の背中に冷たく当たる存在があった。触れるまで考えてもみなかった。まさか全力を持ってしてもロープ際まで追い詰められるなんて。

 一撃が鉛のような重さで、タフであることには自信のある明も、試合開始1分でこの有り様である。体力のある明だが、贔屓目に見積もっても明らかに飛ばし過ぎている。普段から厳しいトレーニングを積んでいるとは言え、15ラウンドの長丁場を思えば体力はいくらあっても足りないくらいだ。

だが、出し惜しみはしない。試合前にそう決めていた。ロビンソンの左フックに合わせて、渾身の右ストレートを打つ。放たれた一撃はロビンソンの左頬に突き刺さり、鋭い音を立てた。

先程まで緩んでいたロビンソンの顔つきが俄かに厳しいものに変わる。ボクサー本来の真剣な顔つきになり、明はそのことを嬉しく思った。見せつけるようにジャブを打つと、ロビンソンは口元を少し緩めると不敵な笑みを浮かべた。ゴングが鳴り、第1ラウンドは終了した。

「赤居。少しペースを落とした方がいいんじゃないか?このままだと、ジリ貧だと思うぞ」

「うるせえ。おっさんは黙ってろ。あの動きに対抗するには、これくらいで丁度良いんだよ」

取るに足らないと見ているのであろう。この年頃の人間というのは、自分の認める人物の言うことしか聞かないものである。

「人生では自ずと自分より強い相手と闘う機会というものが訪れる。その時にどう向き合い、自らを高めて行けるかが大切だ。冷静さを欠いては、本来の実力を出せないまま終わるぞ」

「そんなこと、言われなくたって分かってるよ。俺には俺の考えがあるんだ」

 正論も状況次第では駄弁と取られる。米原はこれ以上は焼け石に水と考え、話すのを止めておいた。



 ゴングが鳴って第2ラウンドが開始されると、コーナーを蹴って対角線上を走った。不意にロビンソンが両手を横に伸ばして広げ『打って来い』とばかりに『ノーガード』で挑発する。余裕を孕んだ表情が、絶妙に明の神経を逆撫でする。瞬時に距離を詰めて打ち込む明。それに対し、間隙を縫って、ロビンソンの槍のようなストレートが飛んで来る。しかし、暫くすると、また『ノーガード』で挑発して来る。

 “やったろうじゃねえか”トサカに来た明は、先程まで飛ばしていたものが更にハイペースになり『ムキになって』攻勢に打って出た。それに対し、ロビンソンも手数で応戦して来ているようであった。

しかし、これはロビンソンサイドの『罠』であった。巧妙に明の体力を削ぎ、疲れが見え始めたところを『仕留める』それが狙いであった。ゴングが鳴り、第2ラウンドが終了した。

誰の目にも明らかだった。体力が切れかけている。だが、幸い米原には、明の状態をコントロールしてやれるだけのアドバイスができる『器量』があった。

「このハイペースは無理があるだろう。赤居、本当に大丈夫なのか?」

「はあ、はあ、大丈夫だ。はあ、はあ、俺はまだやれる」

 明は濁流に飲まれる小動物のように息も絶え絶え息巻いている。

「いいか、『ガス欠』になる前に、俺の話をよく聞け。本当に勝ちたかったら守勢に転じろ、話はそれだけだ」

 米原は長年、五十嵐とタッグを組んで来ただけあって知識、経験、判断力ともに申し分ない男であった。しかし、悍馬の如くムキになった明の耳には念仏のように届いてはいなかった。

「はあ、はあ、勝たなきゃ――勝たなきゃ終わっちまうんだよ!!」

 約1年の闘いの中で培った信頼関係も、後門の狼に迫られたような状況下では脆くも崩れ去ろうとしていた。

「俺はお前の実力を高く評価している。急いては事を仕損じると言ってな。このままでは勝てる試合もそうでなくなるぞ」

「はあ、はあ、何か秘策があるってのか?はあ、はあ、それなら勿体付けずに早く言ってくれよ」

 その後明は米原に『よく耐えた』と言われ、小さく笑った後、軽く耳打ちされた。



 米原のお陰で冷静さを取り戻した第3ラウンドを終え、勢い良くゴングが鳴り、第4ラウンドが開始されると、ロビンソンの強烈なストレートに合わせて、この試合初めて『クロスクリュー』を出す。だが、ロビンソンは激しくグラついたものの、失神するまでには至らなかった。かなり驚いたようだが、すぐに体制を立て直し、嬉しそうに大ぶりのストレートを出して見せた。

“そう来なくっちゃ”

 まるでそう言いたそうに、風切り音を立ててブンブン腕を振り回している。

“初めてだ、こんなに相手の底が見えないのは”明はそう感じ、寒気すら感じていた。

 何度もノックアウトを狙って技を繰り出すが、ロビンソンはいいタイミングで抱き着いて『クリンチ』して来る。

 観客は誰もがこの勝負を大人と子供の喧嘩と捉えそうになる程であった。だが、大砲のようなストレートに危険を感じ、不意に明が出した拳の『圧』にロビンソンは気圧されたようだ。後ずさりして数秒経ってから口元を緩める。

 第3ラウンドまでは出すまいと思っていた。若造に本気の対応は不要。そう考えていた。だが、彼は実力で示してくれた。『東洋太平洋チャンピオン』になるだけの『強さ』があるということを。ならばそれに応えるが礼儀。

 『世界』とはどんなモノか、教えてやるのがチャンピオンの務めであろう。渾身の力を込めた『リバー・ブレイク・ガゼル』が猛威を振るう。体重を大きく掛け、『肝臓』を押し潰すほどの勢いで、世界戦の洗礼を浴びせると言ったところか。

 黒人の強靭な筋肉は、全身を巨大なバネのようにする。その伸びきった衝撃を身体の芯で『モロに』食らってしまった明は、トラックに撥ねられたように吹き飛ばされてしまった。

 6、7、8――気付くともうカウント8まで聞こえていた。気力だけで立ち上がり、反射的にファイティングポーズをとる。その顔は赤黒く、目は充血し、足元は歩き始めたばかりの幼児のように覚束ない。レフェリーは判断に困ったが、明が小さな声で苦しそうに「まだやれる」と言ったのを聞いて再開の判断を下す。

成す術は――もうないのだろうか?無情にもゴングは鳴らず、残り時間1分。再びロビンソンの『ガゼルパンチ』が明の右脇腹に突き刺さる。しかし、ここでは辛うじてダウンを奪われることはなかった。この試合のために必ず役に立つからと言われてやった『1分間ブリッジ』が俄かに助けになったようだ。一層倒れた方が楽であろう。

だが、ボクサーにとってノックダウンとは即ち『信念の死』。彼らが最も恐れることは、苦痛でも嘲笑でもなく『弱いというレッテルを貼られること』なのではないだろうか。そのことを避けるため、明は自らを奮い立たせてリングに立ち続けている。

そして、フェイントを織り交ぜた渾身のアッパーが顎に軽くヒットし、惜しいところではあったが、ロビンソンはここでも巧みに『クリンチ』して来る。

この絶妙なタイミングの取り方がロビンソンの強みなのであろう。ここで明は『作戦』を実行する。右手を上に向け、手の甲を相手に向けてクイックイッと手招きして見せた。ロビンソンは全く動じないといった素振りであったが、少し頬がひきつったのを明は見逃さなかった。闘いの最中、再び同じ動作をし、さらに畳み掛けた三度目、ついにロビンソンは『無表情』になり、冷たく明を見下ろして来た。

“来るな”

 明は津波が来る前のような不気味な静けさに思わず息を飲んだ。逆鱗に触れられたロビンソンは、まるで、大きなゴリラが暴れているかのようにフルスイングで殴打してくる。

“奴さん、相当お冠のようだぜ”ロープで反動をつけ、アッパーを強引にねじ込もうとする。

 しかし反対にロビンソンの豪腕が唸る。右ストレートを『テンプル』に当てられ、脳が少し揺れてしまったようだ。出鼻を挫かれ戦況が悪い中で、明は連続して5回のパンチを腹部中央に当てた。

そして、ロビンソンの様子を伺うが、まるで堪えていないようである。こうなって来ると、不死身の化け物と闘っているような錯覚に陥る。カウンターを避けようとしたが、ロビンソンの方が半呼吸早い。

満身創痍の赤子の手を捻ることは、朝の馬なら重荷も苦にしないという『朝駆けの駄賃』よりも容易いことであろう。このゴリラを止めに行くことは、『火中の栗を拾う』よりも難しいことのように思える。寸でのところでゴングが鳴り、第4ラウンドを終えることができた。

「はぁっ、はぁ」明は声を出すことさえ憚られるような状態だ。

「息切れが激しいな。手遅れになる前によく聞け。できるだけ疲れないようにして、このままロビンソンの体力を削って流れを掴むんだ。どんな試合でも必ず一度は勝機が巡って来る」米原はこの状況でも全く勝ちを諦めてはいない。

「はぁっ、はぁ、そうだな。はぁっ、はぁ、運は手繰り寄せるもんだ。はぁっ、はぁ、俺は絶対に負けねえぜ」その気持ちは明も同じであった。

「敬造が負けちまった時、俺は全てを奪われた気でいた。だが、お前はそんな俺にまた夢を見せてくれた。重荷だって分かっちゃいるが、この期待、背負ってやってくれ」

そう言うと米原はバンザイの体制から明の両肩に手を乗せて精一杯、明を鼓舞するようにした。

「はぁっ、はぁ。ああ、野郎に焼き入れてやるぜ」

光を失いかけていた明の目は、このことで輝きを取り戻した。その後の攻防は目まぐるしいものであり、逆境の第5ラウンド、執念の第6ラウンドとラウンドを重ねた。



ゴングが鳴り、第7ラウンドが開始されると、明はこのラウンド序盤はひたすら耐えることにしたようだ。そして、ノーガードで打って来いとばかりに挑発する。ロビンソンは先程のラウンドよりは冷静さを保てているものの、腹の底にはフツフツと湧き上がる感情があるようにも見える。

勢いよく向かってくるロビンソンを闘牛士のように躱し続け、明は様子を伺うことに徹した。次第にロビンソンの動きは鈍くなり、泥沼に嵌まったような足付きに変わって行った。明は距離を取り、アウトボックスに切り替えることにした。

これはロビンソンをさらに疲れさせることに成功したようだ。だが、彼は己を奮い立たせるかのように必殺技である『ガゼルパンチ』を明にお見舞いした。

“苦しい練習に耐え、せっかく世界チャンピオンになったんだ。たった1回ベルトを巻いたくらいで王座を降りるような惨めな思いはしたくない。恋人、友人、家族、皆の期待を背負っているんだ”その思いが彼にはあった。

だが、明にも勝ちたい思いは勿論あった。互いの思いがせめぎ合い、その結果がリング上に表れているようであった。結果的に2度の『ガゼルパンチ』を受けた明が、この試合2回目のダウンを奪われる形となった。

カウント5で起き上がったものの、その後はロビンソンの攻勢に対し防戦一方。再度アウトボックスを試みるが、上手く足が回らない。じりじりと距離を縮められ、インファイトを余儀なくされる。ロビンソンの猛攻に、身体が悲鳴を上げそうになる。

だが、まだ身体に力が入る。まだ何も終わってはいない。闘志を失えばそれはもうボクサーではない。闘いが終わるその瞬間まで、一瞬たりとも気が抜けない。それがボクシングなのである。そして、圧倒的に不利な戦況の中、辛うじて失点なくラウンドを終えることができた。

「おいマイク。恐れるな。もっと速度を落とせ」

セコンドのリチャードにそう言われ、ロビンソンはOKとだけ返答し、次の攻撃に備えた。そして、明が虚を突いて繰り出した左ストレートにロビンソンが左フックを合わせて来た。

それに対し明が右腕ですかさずカウンターにコークスクリューでカウンターを合わせる『クリス・クロスクリュー』で応戦したところへ、ロビンソンの『ブラッディ・クロス』が決まった。これはカウンターに対して肘を曲げることで、それを防ぐことができる『超高等技術』である。

これは強烈なダメージとなり、明は思わず左拳を右腕に添える形をとった。そして必死に応戦しようとするが、ロビンソンはジャブにフックに連打を浴びせ、それを許す隙を与えない。ここでフィニッシュブローを食らう訳にはいかない。

だが、反撃に打って出ようとするが、もう体力が残っていない。なんとか戦況をひっくり返さないと。一閃、目の前を微かな筋が通る。明は必死に意識を保とうとするが、それは叶わなかった。

『崩れ落ちた時に触れたマットの感覚を、彼は生涯忘れることが出来なかった』



左のアッパーだ。この試合初めて見せた。手数の多いジャブにフック、横から来る技に対して『クロスクリュー』を合わせることを意識しすぎて、縦から来る攻撃に対する警戒を疎かにしていた。

 それに、ロビンソンは右利き。右手で打つ『ガゼルパンチ』をフィニッシュブローにして来ると思わせておいて強かにも『左手で決めよう』と画策していたんだ。なんて計画的で、恐ろしいことをする男なんだ。

 もし敬造が居てくれたら――このことに注意して防げていたかもしれない。長年セコンドをやって来たのにあるまじきミスだった。赤居との信頼関係も、ロビンソンに対する研究も、何もかも不十分だった。

“敗因は自分だ”米原はそう思い、酷く自らを責めることとなった。

「赤居選手、無念のタオル投入!!」

実況が喚き立てるが、もはや騒然とした場内の人々には届いていない。ロビンソンが明に襲い掛かる寸前でのタオル投入で、無念のTKO負け。長年に渡ってボクシングジムの会長として五十嵐を支えて来た米原にとって、これほど悔しい負け方はなかった。

鍛錬、経験の差が出た。しかし、勝てない試合ではなかった。悔いが残ったことは否めない結末であった。

明は米原に付き添われ、タンカで医務室へと運ばれて行く。医務室で、明は全く起きる気配がなく、横になったままほとんど動かない。それどころか、大きな音を立てて(いびき)を掻いている。

「いかん、試合後すぐに寝て鼾を掻いている時は、脳挫傷やくも膜下出血、硬膜下血腫などの恐れがある。昏睡状態に陥り、脳に損傷があったのかもしれない」

 米原はそう言うとすぐさまリングドクターを呼び、明の様子を見てもらった。診断を待っている間、“これで赤居にもしものことがあったら、敬造に会わす顔がない”と自責の念に堪えかねていた。両国国技館のリングドクターは大学病院の外科と救急部から1名ずつ、その他2名を応募の医者で賄うのだが、この時は最年長者である、救急部のドクターが診察に当たってくれた。

「大丈夫です。今のところ心配はないですよ、呼吸も安定していますし。ですが、当然ながら精密検査は受けて下さい。こういうことは万が一のことでも見逃さないようにしないといけないことですので」

米原は力なく明を見下ろすと、彼はまるで死んでしまうんじゃないかと思えて来るような有様であった。

“このままダメになってほしくない。必ず再起を掛け、もうワンランク上の選手として復帰してほしい。命ある限り挑むことはできる。そしてまだチャンスは残されている。何があっても諦める訳には行かないんだ”米原は強くそう思い、一先ずリングドクターに礼を言うと、明が起きた後、その足で病院までタクシーを走らせた。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ