第二章 日本編
東日本新人王トーナメントが終わり、明は瞼の怪我を治すために6針縫った。そして、ライセンスの更新を行った。4回戦選手は『C級ライセンス』6回戦選手は『B級ライセンス』8回戦選手は『A級ライセンス』を持っている。
『B級ボクサー』となれるのは、4回戦で4勝を上げた場合か、突出した実力があると認められる場合、例えば、アマチュアの日本ランキング10位以内などの場合である。引き分けは0.5勝とカウントされ、今回の新人王トーナメントで明は、その『B級ボクサー』として活動できるようになった。
金銭面では、4回戦選手として貰えるファイトマネーは5万円。3試合で12万円と新人戦の優勝賞金50万円とを合わせると所持金が62万円となった。そして、その後の12月3日と12月24日、明は6回戦で溶ける拳『炎鉄拳』を巧みに操る海老原三兄弟の三男三郎と、凍える拳『冷鉄拳』を巧みに操る海老原三兄弟の次男二郎に合計2勝していた。
そのことで6回戦で2勝したことになり、晴れて『A級ボクサー』にまでスピード昇格して、順調に出世街道を邁進していた。時は1984年1月1日。明と五十嵐は初詣と願掛けを済ませた後、ジムで新年一発目の練習を行っていた。
「赤居、お前この前の試合をどう思う?」
「どうって、楽しかったよ。イブまでボクシングかよって思ったけど、試合に勝って、相手と分かりあって。これ以上の試合はなかったってくらいさ」
「違う、弱い相手に勝った試合は、直ぐに忘れろ。与那嶺との方だ。ボクシングを好きでいることは大いに結構だ。それは強くなるために最も必要な能力のうちの一つだろう。だが赤居、この前の試合を見て俺は一つ気づいたことがある」
物事を深く考えないと本質は見えて来ない。そのことを言葉ではなく経験で学び取ってほしい。そう考えながら五十嵐は明に問いかける。
「なんだよ、お説教か。講釈垂れるのも良いけど、理論だけじゃ相手は倒せないぜ」
「はっきりと言おう。今のお前には決め手が足りていない。相手を一撃の下にリングに沈める技。平たく言うとそう、『必殺技』だ」
明はこの瞬間、雷に打たれたような衝撃を受けた。
「どうした赤居。必殺技には興味がなかったか?」
五十嵐は多少意外だというような表情を見せた。
「興味がない?欲しいに決まってんだろ。男で必殺技が欲しくない奴なんかいるかよ」明は遠足前夜の少年のように目を輝かせている。
「なら俺が昔使っていた必殺技を二つ教えてやる。『クロスカウンター』と『コークスクリュー』と言ってな。どちらも必殺技と呼ぶに相応しいだけの破壊力を持つ」
「『今の』じゃなくてか」
明は不満はあるが、五十嵐の機嫌を損ねないよう配慮したような言い方で伝えた。
「お前はまだ、ボクシングを始めて4ヶ月しか経っていない素人同然のボクサーだ。お前はすぐ調子に乗るからあまり言いたくはないが、この前試合をした段階の与那嶺に勝とうと思ったら並みのボクサーなら2年はかかる」
五十嵐は明を真っ直ぐ見つめ、その言葉に偽りがないことを強調した。
「しょうがねぇな。まぁ何にせよ必殺技ってのは男の憧れだ。二つも教えてもらえるならよしとするか」
この時、五十嵐も明が自分では気づいていない、褒められると要求を飲んでしまう傾向があることに気が付いた。
「なら今から俺が直々に教えよう」
五十嵐は明に左手でストレートを出させ、その腕の上に自分の右ストレートを交差させる。
「なんだよ、本気で打って来てもよかったのに」明はつまらなそうに口を尖らせた。
「忘れたか。俺は左利きだぞ」五十嵐はいつものように不敵に笑った。
「利き手じゃない手で軽く打って、この威力って相当なもんだな。こりゃあもう一つの必殺技にも期待が懸かるぜ」明の目は輝きを取り戻している。
「では、次のヤツに行くぞ」
そう言うと五十嵐は、左手を鋭く捻りながら明の右頬に突き刺した。
「痛ってぇな。てめぇ素手で殴ってんじゃ――」
明はそう言いかけて自分の誤りに気付く。
「どうだ。グローブ越しでも素手で殴られたと勘違いしてしまう程の威力。これが二つ目の必殺技『コークスクリューブロー』だ」五十嵐は今度は得意げにそう言った。
『コークスクリュー』は『コルク抜き』に名を由来し、アメリカのキッド・マッコイがボールにじゃれつく猫の前足を見て思いついた、回転の加わったピストルの弾丸のようなパンチである。
「確かに二つともすげぇ威力だ。これならどんな相手でも倒せそうな気がするぜ」
明は大いに喜んでいる。
「多少急だが、次の試合は一ヶ月後だ。それまでにこの二つの必殺技を、どちらも完璧に繰り出せるようになれ」
“まだ自分で見る段階じゃないってか。上等だ。てめぇが俺を認めるまでいくらでも練習してやるぜ”明は密かにそう思った。それを察してか、五十嵐は言葉を付け足した。
「お前には悪いと思っているが、すまないが俺にはもう時間がなくてな」
「まぁどっちだっていいさ。俺は強くなるんだ」
この二人はタイプは違うが、目指すところが同じだということもあり、波長が合うようだ。一ヶ月という期間は、人によって感じ方が違ってくるもので、充実していれば早く、怠惰に過ごせば長く感じる。明にとってこの一ヶ月は、言うまでもなくほんの一瞬かのように感じられた。
1984年1月14日、三連休の初日に、東京都八王子市にある八王子市民会館で、A級ボクサーとして最初の試合を行った。2010年代ともなれば、1986年より開催されている日本タイトル挑戦権獲得トーナメント、通称『A級トーナメント』に参加するための練習を行っているところであろうが、1984年にはまだ開催されてはいなかった。試合開始10分前、米原が明に喝を入れる。
「確認のために言っておくが、今日の対戦相手は皆藤兄弟の兄、篤だ。左フックが得意で、ストレートを打った後にガードが下がる癖があり、そこが狙い目だ。日本ランキングでは7位だが、確実にトップ3を脅かすであろう実力がある選手だ」
篤は北海道旭川市出身、身長165cm、体重116ポンド(約53kg)の21歳。右利きで、明るくて口が立つ選手だ。戦績は7勝1敗2KOとなっている。
「相手との接近戦を得意とし、KOを狙って倒す『インファイター』であり、上体を前後に振って相手のパンチを躱す『ウィービング』の使い手だ」
明はそろそろ記憶しきれなくなって来ていたが、尚も米原は説明を続けている。ボクシングにはいろいろな技があり、『ウィービング』を使ったものでは、古くは無限大、数字の8を横にしたようなマークの如く身体を動かし、相手を滅多打ちにする『デンプシーロール』という技を使った選手もいた。
また、ボクサーにはタイミングで相手をスパッと斬るように倒す『ソリッドパンチャー』と、重いパンチで相手を薙ぎ倒す『ハードパンチャー』がいて、篤は『ソリッドパンチャー』である。そして、篤は元アマの日本一として、プロテストにおいて特例でB級ボクサーとなったエリートボクサーでもある。
「あと、くれぐれも『例のジャブ』には気を付けるんだぞ」
米原にあれこれ言われ、記憶力の乏しい明だが熱中しているボクシングのことならと、聞いた情報を何度も繰り返して頭に刻み込もうとした。
「おうよ。必殺技を試す良い機会にしてやるぜ」
明は自信満々にそう答えるとシャドーボクシングをし始めた。選手紹介を受けた後、審判が出て来てルール説明を行った。
「ルールはJBCオフィシャルルールを採用し、2試合6ラウンド制で行います。1ラウンドに3回ダウンするか、レフェリーが試合続行不可能と判断した場合KO勝ちとします」
黄色のトランクスを履いて出て来た篤は、余裕があるのか笑顔を見せながら明に話し掛けて来た。
「よう、今日はよろしく頼むぜ。今日負けちまうと、弟と負けが同数になっちまうからな。お互いの為にも気楽に行こうぜ」
「悪いが今日は俺の勝ちで決まりだ。俺はどんな相手にも負けないくらい強いからな」
本来ならこの丁寧でない対応に機嫌を損ねる者もあるかもしれないが、明はフランクに話しかけられた方が話し易い性分のようだ。
「ちぇっ、釣れねえなぁ。あんまカリカリしてっとモテねえぜ、ダンナ」
「お前は戦いに来たんじゃねえのか?女のことより、今は試合だろ」
明は喧嘩の時とは違った苛立ちを見せていた。
「お喋りはそこまでだ。試合を始めるぞ」
そう言うとレフェリーは両者をコーナーポストに着かせ、ゴングを鳴らした。
『カンっ』
ゴングが鳴り試合が開始されると、相手の出方を伺っている明に対し、篤は攻めの一手に興じるようだ。探るように仕掛けた後、不意に篤の目が鋭くなる。そして鞭のように撓った左腕が、閃光のように鋭く明の頬を掠めた。
『フリッカージャブ』
このジャブは腕をL字に構え、縦に振り子の動きをし、鞭のように相手に打ち付けるジャブである。明はボディに一発、遠心力を掛けた一撃をお見舞いし、牽制の意味を込める。
篤は明に対し、いろいろと角度を変えながら『フリッカージャブ』を打ってくる。明はその動きに惑わされ、強烈な右ストレートを食らってしまった。傷は浅いものの、蹌踉けて視点が定まらなくなる。
そして続けざまに右フックが飛んで来る。形勢は不利に見えるが、そこは世界チャンピオンの教え子。そう簡単にひれ伏す訳には行かない。
明は五十嵐から教わった通り、ジャブの引き際を狙って距離を詰め、強烈な右ストレートをお見舞いした。篤はこれに面食らい、ステップを踏むのも忘れて後ずさりした。明が追い打ちの右アッパーを繰り出そうとした2秒前、大きな音を立て、ゴングが打ち鳴らされた。
「上出来だぞ、赤居。とてもこれが初めての8回戦には見えん」
米原の誉め言葉に気を良くしたのか、明は普段より饒舌に語り始める。
「まあざっとこんなもんよ。アマの日本一だろうが、プロの世界とは違うってことを見せつけてやるぜ」そう言うとふんぞり返って椅子に座った。
レストが終わり、第2ラウンド開始。篤は本来はインファイターであるが、この『ヒットマンスタイル』を維持するためにアウトボックス寄りの立ち位置で闘うことを選んだようだ。リング上では、フリッカージャブがジェット機のように飛び交っている。明は距離を離さないように注意し、それに合わせて小刻みにジャブで返して行く。焦る篤。
篤が踏み込んで来たのを見計らって、一気に間合いを詰め、上腕二頭筋に渾身の力を込めて振り抜く。無慈悲な程に強烈なアッパーが炸裂し、篤は呆気なく気絶してしまった。5、6、7、カウント8。寸でのところで意識を取り戻し、ふらつきながらもファイティングポーズをとる。
明は少し余裕が出て来たのか、このラウンドでいろいろ試してみようと考えた。篤は足に来たのか、ステップが上手く踏めずたじろいでいる。防戦一方。見ている者が不安になるほどに攻めあぐねている。明は距離を詰めるが、たいして手は出さず、篤を威嚇する。そして篤が苦し紛れに出したストレートが、明の右目の辺りに命中しそうになった。
だが篤は拳を止め、攻撃した明の右フックが直撃してしまった。この態度に、米原は敵ながら天晴であると感じた。第2ラウンドが終わり、米原がレストタイムに話し掛けて来た。
「赤居、今のやろうと思えば、KOできたんじゃないか?もう少し攻められただろ」
「まぁそうっちゃそうなんだけどよ。もう少しあいつと闘ってみたくなったんだ。まだ、あいつの底が見えてねえし、次のラウンドも少し試しながらやってみるよ」
米原は「そうか」とだけ言うと明に何か言いたげな様子だったが、それを上手く言葉にできずにいるようだった。一方、皆藤陣営は凄惨な試合内容に側で見ていたセコンドの瀬古はご立腹のようであった。
「何故手を止めた?時には減点も厭わない冷酷さが必要なこともあるんだぞ」
これに対し篤は烈火の如く反論した。
「ボクシングはスポーツだ。正々堂々クリーンに闘って何が悪い。『サミング』なんて男のやることじゃねえよ」
『サミング』とは目潰しの意で、親指を意味するサムを語源としており、悪質な場合3点もの減点となる反則技である。そんな汚い真似をするくらいなら、不利な戦況でも甘んじて受け入れるというボクサーも少なくはない。多少険悪な雰囲気で皆藤陣営は次のラウンドを待った。
第3ラウンド開始直後、皆藤陣営にちょっとしたアクシデントがあった。 若いセコンドが椅子をしまい忘れ、減点にはならなかったものの審判が少し試合を止めた。ゴングが鳴ると、明は左右のフックでテンポ良く篤の動きを攪乱しようとする。戸惑い、攻めきれない篤。明は隙を突いて、フックの連撃。
篤は目まぐるしいラッシュに舌を巻き、それを6発ほど食らってしまった。気付いた時にはダウンする形になっており、カウント9までかかったがなんとか起き上がることができた。意識が回復し、多少混濁してはいるが、ここまでされても戦意は失っていない。
“根性あるじゃねえか”喧嘩仕込みの明にとって、闘って勝とうとする相手というのは、何よりも嬉しいものであった。
“このラウンドで決めるか”明は密かにそう考えていた。篤が右ストレートを放った瞬間、稲妻のように明の左手がその上を交差した。一瞬目を見張る米原。
右頬にその『電撃』を食らった篤は、無残にもその場に崩れ落ちた。
『決まった』
実践で初めて放ったとは思えないほどの息を飲むような鋭さで、明の『クロスカウンター』は炸裂した。瀬古は試合を観戦していた若い選手に頼み、篤を別室で休ませることにした。レフェリーが両手を交差し、3ラウンド15秒で決着が着いた。
そして、この試合の結果を受けて、黙って居られない人物が居た。それは明の次の対戦相手である、皆藤兄弟の弟、遼である。遼は現在日本ランキング1位で、絶対に兄の仇を討ちたいと言って来たのである。
因みにボクシングではランキング1位の上にチャンピオンが居るという、珍しいシステムで強さが表されており、これはランカーとは別格でチャンピオンが強いとする『尊敬の念』が込められているからだと考えられる。
この二人は年子で、兄が1年早くボクシングを始め、先にプロボクサーになっていた。
遼は先日の試合で、痺れる拳『雷鉄拳』を巧みに操る海老原三兄弟の長男一郎との試合で快勝し、日本ランキング4位となった西の新人王、桜山 拳一郎を下す快勝を見せた。
本来ならA級になりたてのボクサーにランキング1位の選手が試合を申し込むことなどそうはないが、断る理由などない、ただ勝利を掴むのみ。明も五十嵐もそう思っていた。休養もそこそこに、明は試合に向けてのトレーニングに余念がなかった。
1984年2月12日、前日が建国記念日で、土曜日に半日だけ勤務する『半ドン』ではなかったこともあって、会場となった千葉県千葉市美浜区にある幕張メッセには大勢の人が詰めかけた。控室では、米原が明と最終確認を行っている。
「今日の相手は皆藤兄弟の弟、遼だ。兄同様、足を大股に開くスタイルで、タイの英雄、日本人キラーと言われた、ケンサクレッツに勝った選手だ。練習で対策した通り、コイツも『珍しいジャブ』を使う選手だ。上体を柔らかく使うことで相手のディフェンスを躱す技術である『スリッピング』が得意で豪腕を振るう『ハードパンチャー』タイプだ。一発がデカいから気を付けるんだぞ」
「大丈夫だって。五十嵐のおっさんとやるんならともかく、三下相手に負けやしないって」
この発言を、米原は良くは思わなかったようだ。
「ボクサーには気の強い『いじめるタイプ』と気の弱い『いじめられるタイプ』がいる。お前は明らかに前者だ。だが、それは必ずしも有利に働くというということではない。自らの気質を活かし、努力し続けることが大切だ。皆藤兄弟は決して格下なんかじゃないぞ」
明はこの言葉を受けて素直に考えを改めようと思った。
遼は兄と同じく北海道旭川市出身で身長167cm、体重118ポンド(約54kg)の22歳。右利きで、無口だが熱い闘志を秘めている。戦績は14勝2敗6KOである。
相手との距離を測りながら、軽いフットワークを用いてヒット&アウェイで闘う『アウトボクサー』であり、ジャブとストレートのコンビネーション技である『ワンツー』が得意な選手でもある。緑色のトランクスを履いている弟、遼は、エリートの兄に対して苦労人で、『雑草魂』を信条としている。
レフェリーがルール説明の後、「『ナックルパート』に気を付けるように」と言ってからタイムキーパーに合図を送った。アマのボクシングは、拳を握った時に4本の指の手の甲に近い関節と、次の関節との間にできる四角の部分である『ナックルパート』が白くなっており、ここで打たないと反則となる。プロでは現状そのことが曖昧になっていると感じての注意であろう。
『カンっ』
ゴングが鳴ると明と遼は互いに詰め寄り、ジャブを打ちあう形となった。明の方が優勢とはいえ、前の試合とは違いハイレベルな打ち合いとなった。
“言ってた通り弟の方が強いな”明はそう思うと少しばかり嬉しい気持ちになった。
「気分が乗って来ると調子が上がるのが良いボクサーだ」
2日前の試合についてのミーティングの時に米原にそう言われたことを思い出しながら、明はリズム良くパンチを繰り出していた。
兄より体格が良く、力も強い遼の方が明としてはやりがいのある相手だった。明はストレートとアッパーも織り交ぜながら『とりあえず様子見』でこのラウンドを終えることにしようかと考えた。ふと観客席に目をやると五十嵐が少し不満そうに明を見ている。どうしたというのだろう。多少気にはなりながらも明は第1ラウンドを終えた。
「明くんいい感じじゃない!このままやっつけちゃってよ!」
試合を見に来た秋奈の言葉に「おう」とだけ返すと明は先程の五十嵐の様子が気になっているようであった。相手サイドに目をやると瀬古と遼が楽しそうに会話している。
「よう頑張っとるやないか。ペース配分なんかせんでええ。とにかく手数で勝ることを目指してみろ」
互いに無口なためか瀬古は遼に対しては適切なアドバイスができるようだ。
「分かりました。とにかくKOは避けて、判定で勝てるようにやってみます」
遼の方も瀬古の言うことを日頃からよく聞いているため、言いたいことがきちんと理解できているようであった。
ゴングが鳴り、第2ラウンドが開始されると、明はパンチをテンポよく打って来る遼に対し、それ以上の手数で応戦するようにした。
“パンチを外す気がしねえ”お互いにほとんどガードをせず、打ち合う格好になっているとはいえ、明のパンチをヒットさせる能力はプロになって格段に上がっていた。素人目には、これが6試合目とは思えないほどである。
対する遼は、今日まで日本タイトルを虎視眈々と狙って来た。ボクサーは一度負けを喫すれば、全ての努力が水の泡となってしまうことが多い。そうならないために今日まで死ぬ思いでやって来た遼にとって、この試合は『絶対に落とせない』試合であった。次の瞬間、明が少し気を抜いて、息を吹き出したのを遼は見逃さなかった。強烈な左ジャブが明の右頬に突き刺さった。
「くっ」
油断していた訳ではない。縦横無尽に、まるで燕のようにジャブが飛び回る『飛燕』が鋭く明を襲ったのである。振り回した左手が漆黒の暗闇のように明の視界を遮る。
“いよいよ出して来やがったな。そろそろやってやるか”明はそう思い、大きく右手に力を込めた。しかし遼は明の足を踏みそうになったため寸でのところで回避し、攻撃をして来なかった。
“まったく兄弟揃って見上げた根性だ”米原が密かにそう思ったのも束の間、第2ラウンド終了を告げるゴングが鳴り響いた。
「赤居、お前もしかして少し『手を抜いて』ないか?」
米原は遠慮がちに明に問いかける。
「試合を楽しんでんだよ。勝てる相手にそうムキになるこたぁねぇだろう」
「どんな相手だって負ける可能性はあるんだよ。ボクシングには一発で負けになるKOだってあるんだし、油断のある者は真の勝者にはなれないぞ」
明は昔からできた人間ではなかったため、人から説教されることが多かった。そのためこのように言われるとどうしても腹が立たずにはいられない。
「なんだよ。俺の試合を俺がどう闘おうと俺の勝手だろ。お前は黙ってろよ」
「何だその態度は。お前のために言ってるんだろ」
米原に思ったより強く言われ、明は少し大人げなかったかなと思い始める。
「分かった、悪かったよ。次のラウンドで決める。米原のおっさんには、今までずっとセコンドやってもらってるわけだしな」
明の意外な態度に米原は少し戸惑いながらも「分かればいいさ」とだけ言ってその場を収めた。
『ゴっ』
第3ラウンド開始を告げるゴングが鳴る筈だったが、係員が打ち損じたため鈍い音が鳴っただけだった。タイムキーパーは慌てたが、冷静にもう一度開始の合図が鳴ったのでホッとした。ジャブとストレートを使ってリズムを作っている遼に対し、明は竜驤虎視と隙を伺っている。そして見せつける様に強烈な右ストレートをお見舞いした。
“今のはナックルパートかどうかギリギリだったな”明は冷静に試合を俯瞰できるほどに余裕を持っていた。
5、6、7――明は楽しみに遼の様子を伺っている。まるで獲物を見据える獣のように。
カウント8、遼は立ち上がって虚勢を張ってみせるが、その瞳には明らかに生気がない。決定打を貰わないように、とにかく拳を振り回してみるが、まるで的を射ていない。一瞬、遼が手を休めた刹那、明の右手が大蛇のように撓り、遼の蟀谷を鋭く抉った。またしても目を見張る米原。
『決まった』
息を飲むような快心の一撃、明の『コーククリュー』が雷の如く遼のテンプルを打った。瀬古は先日と同じ選手に遼を別室で休ませるように伝え、明に賛辞を送る。
「見事だったよ。君はきっと大物になる」
「ああ、今にチャンピオンになってみせるよ」
そんな話をしていると、右後ろに居た五十嵐が明の顔前5センチほどのところに左フックを打ってみせた。
「うっ」
初めて見る五十嵐の『左手』での一撃に、明は身体を強張らせ微動だにできずにいた。
「てめぇ、不意打ちはねぇだろ。今の俺ならその気になりゃあ、てぇめえだって倒せるんだぞ」
悪態をつく明に、五十嵐は怒りを露わにする。
「今のは、天狗になった鼻をへし折るためにやったことだ。俺は実践で手を抜くようなことを教えたつもりはなかった筈だ。本当にチャンピオンになりたいなら、不意打ちでもカウンターを合わせるくらいでないとな」
「それを言うならてめぇ、俺と初めてスパーした時に、俺のアッパーを避けなかっただろう。俺はあの時『手を抜かれた』と感じたぞ」
「あれはお前の力量を測るためにやったことだ。公式の試合なら勿論避けたさ。全力を出さないような舐めたことをしていると、いつまで経っても世界レベルにはなれないぞ」
「なんだとてめえ。今すぐここでやってやってもいいんだぞ」
“まるで親子みたいだな”五十嵐の側で試合を観戦していた古波蔵は、そう思いながらもこの痴話喧嘩を止めることにした。
「まあまあ二人とも。それくらいにしときなさいよ」
「うるせえ。今の俺なら誰にだって負けやしねえんだ。それとも、この俺とやろうってのか?」
「僕は誰の挑戦でも受けるよ。ただし『闘う価値のある』相手ならね。そこにいる五十嵐くんより強くなったらいつでも挑戦してくれて構わないよ」
「てめぇも結局は俺を格下扱いか。上等だ。今から五十嵐とやりあってやろうじゃねぇか」
「まったく。しょうがない奴だな。俺は半年後に試合があると言ったろう。こんなところで怪我をする訳にはいかないんだ」
「逃げるってのか?チャンピオンは誰の挑戦でも受けるんじゃなかったのかよ」
これには五十嵐もムキになって返答した。
「分かった。ではこうしよう。半年以内に俺が認める『最強の刺客』とお前を対戦させる。そこで『勝ったら』俺の試合の後にお前と特別に対戦してやる」
「本当だな。約束だぞ。それから、そこのおっさんもだ」
「あいっ。いいですよ。五十嵐くんに勝つってことは世界で一番強いってことだからね」
そう言うと古波蔵は立ち去ってしまった。
「っていうか、あのおっさんは何者なんだよ。やけに親しげに話してたじゃねぇか」
五十嵐は不気味なまでに、不敵な笑みを浮かべている。
「古波蔵 政彦。奴ほど俺と因縁のある選手もおるまい」
空を見上げながらそう話す五十嵐は、どこか懐かしそうな表情を見せた。
「ローラースケート行こうよ」
秋奈にそう言われ、明はあまり気乗りしなかったものの、行ってみることにした。1984年3月10日。明と秋奈は、東京都文京区後楽にある東京ドームシティに来ていた。水曜日だというのに館内はスケート目当ての客でごった返している。明は休みを貰い、秋奈は春休みで学校がない。
「なんか『ハイカラ』なモン見つけて来たな」
『ハイカラ』とは西洋の様式や流行に追随することを言い、語源は明治時代の男子洋装の流行であった、ワイシャツの丈の高い襟、『ハイ・カラー』から来ている。
「ふふ~ん。いいでしょ~」
センスが良いと言われたような気がして、秋奈は上機嫌であった。
「アベックばっかじゃねぇか」
「アベックなんて言い方、今じゃもう古いよ。今どきの若者は『カップル』って言うんだから」秋奈は得意げにそう話す。どうやら彼女は流行には敏感な質らしい。
「どっちでもいいけどよ、俺にはなんかこう居心地が悪いように感じる場所だな」
「照れてるんでしょ。女の子と二人でいるから」
「別に照れてなんかいねぇよ。それより赤城はローラースケートすんの何回目なんだ?俺は正直やったことねぇから、滑り方を習いたいとこなんだが」
「そっかぁ。実は私も初めてなんだよね。お兄ちゃんに滑り方のコツを聞いたんだけど、上手く教えられるかどうか――っていうか、何回か言ったと思うけど、もう半年も一緒にいるんだし秋奈でいいよ。今日は明くんと仲良くなろうと思って来た訳だし」
「付き合ってもいねえのに名前で呼ばねえよ。俺はチャラついたのは嫌いなんだ」
明はわりと硬派なようだ。
「ふ~ん。まぁいいや。とりあえずシューズ借りに行こうよ」
秋奈は些か残念そうではあったが、そこまで気にしてはいないようだ。二人は受付に行き、それぞれ700円払って靴をレンタルした。明は何か考え事をしているようだ。
「何かしゃべってよ」秋奈はなんだか不満そうだ。
「う~ん、そうだな。赤城は兄弟いたんだな。一人っ子かと思ってたよ」
「それ偶に言われるんだよね。なんでなのかな?」
「気が強いからじゃねえか。言いたいことをズバッと言う気がするな」
人のことは言えないのだが、明はサラっとそう言った。
「そうなのかなぁ。なんでも歯に衣着せないとは言われるけど」
「ハニキヌ?なんだそりゃ?」
「なんでも『オブラート』に包まず言うってこと」
秋奈は分かり易く言ったつもりであったが、明にこの単語が伝わる筈もない。
『オブラート』とはオランダ語であり、デンプンから作られる水に溶け易い薄い膜のことを言う。この表現の場合は比喩であり、言葉をぼかしてマイルドにする効果の意で使われている。
「なんだよ、オブラートって。案外難しいこと知ってんだな。そう言えば赤城って高校どこだっけ?」
「浅草女子だよ~」秋奈は気軽な感じで答えた。
「浅草女子?浅草西高じゃなくてか。すげえな、お嬢様じゃん。俺なんか東浅草高校中退だぜ」
浅草女子高校は都内でも有名なお嬢様学校で、文武両道を掲げる進学校として知られている。浅草西高校と東浅草高校は地元では1、2位を争うほど荒れた学校で、素行の悪い生徒が多く、近隣住民を悩ませている。因みに、東日本新人王トーナメント初戦で対戦した坂東 寵児は、浅草西高校出身である。
「そんないいもんじゃないよ。親も先生も大学に行けって煩くて。私には私の考えがあるんだけど」
「それはなんかもったいねぇ話だと思うけどな」
「だって大学に行くにはお金が掛かるし、私がやりたいのはボクシングに携わることだから――」
秋奈は『言い難い事を言った』という風であった。
「まあ進路ってのは人が口出しするもんじゃねえから、これ以上は言わねえけどよ。っていうか靴紐、全然結べてねぇじゃん」
明は先程から気になっていたことを漸く言うタイミングができたので、好機を逃さぬよう口にした。
「うん、なんかこういうのって難しくって。手伝ってよ」
「しょうがねぇなあ。簡単だろこんなの」
「凄いじゃん。ガサツなイメージだったけど、意外と器用なんだね」
「どういう意味だよ。俺は毎日グローブ嵌めてんだから、こんなの朝飯前だぜ」
秋奈の褒めているのか貶しているのか分からないコメントに対し、明は真意が分からず喜んで良いのか疑問に感じた。
「そういえばそうか。実はボクシングでも細かいジャブが打ててると思ってたんだ。リズムとアングルも巧いし」
「そうか~。やっぱ、いつもしっかり見てくれてるんだよな。疑って悪かった。靴も履けたし、滑りに行こう!」
「うん。毎回ちゃんと見てるんだよ~。今日も上手く滑れるか見とくから」
「おお、なんかできそうな気がする」
明は普段からの体躯を活かし、初めてとは思えぬほどの滑りようだ。
「やばい、これどうやんの?」
秋奈は頭では滑り方が理解できているものの、身体が思うように動かせないようだ。
「大丈夫か、転けんなよ」
明は冷やかしているのか、心配しているのか分からないような言い方で言った。
「何これ。全然立てないんだけど」
秋奈はなんとか滑り出そうとして、盛大に転けてしまった。
「なんだよ、どんくせぇな」
明は口ではそう言いながらも、秋奈のことが気に掛かるようだ。
「痛った~い。転けちゃった~」
秋奈はペロっと舌を出してお道化て見せた。
「ほら、掴まれよ」
明はそう言うと、秋奈に向かって手を差し出した。
「うん、ありがと」
秋奈は少し照れながらも明の手を握り、辛うじて立ち上がれたようだ。
「俺、ちょっと滑ってくる」
明は照れ隠しなのか、一人で練習しようとし始めた。
「うん、分かった」
秋奈も明の普段見せない態度に少し困惑したが、提案を受け入ることにした。
しばらくして明は練習していた場所から戻って来た。
「俺は一応滑れるようになったから見てるよ」
「うん。私も練習するね」
だが、秋奈は少し滑るとすぐに戻ってきた。
「どうした?まだちょっとしか滑ってねぇぞ」
「ちょっとジュース飲もうよ~」
「もしかしてヘバっちまったのか?しょうがねぇな。一旦休憩するか」
明がそう言うと秋奈は少し笑って頷いた。
ローラースケート場から少し離れたところに自販機があり、百円玉を入れてボタンを押すと20円のお釣りが出て来た。
「そういえば明くん、さっきから目を細めてる時あるけど、視力悪くなってない?ボクサーは裸眼でないとファイトできないんだし、気を付けた方がいいよ」
「いや、俺は両目とも1.5あるからバッチリだぜ。ただ、ガキの頃から偶に見え辛い時があるんだよな」
「そうなんだぁ。まぁなんともないなら良いんだけど」
「それよりよ。普通に滑るのも飽きて来ちまったよな。なんかこう面白いことってないかな」
「それなら競争しようよ」
「しようよって、どう見ても勝てっこないだろ」
「当ったり前でしょ。100メートル走を80メートルのハンデ付きで勝負するの。勝ったらラーメン奢ってね」
「なんだよそれ。でもそれくらいハンデないと面白くねぇかもな。いいぜ。ちょうど腹減ってたし、タダでラーメン食わしてもらうとするか」
スタートとゴールを決め、二人ともスタート位置に着く。
「じゃぁ行くよ~。位置についてぇ、よ~い、ドォン」
秋奈は前を向いたままこのセリフを言ったので、明がわざと少しフライングしたことに気付いていない。とろとろと歩を進める秋奈を尻目に、明はまるで生まれた時からスケートを履いていたかのようにスムーズに滑っている。加速する明。ゴールに定めた柏の木に秋奈が触れようとした瞬間、後ろから加速して来た明がほんの数秒早く辿り着いた。
「余裕だな。俺っちの圧勝」明にこう言われ、秋奈は悔しそうに反論する。
「えぇ~っ。同時だったよ。同時同時。私ずっと手ぇ伸ばしてたもん」
秋奈は明を騙そうとしているのではなく、木にタッチしようとした瞬間、目を瞑っていたため、同時に触れたと思い込んでいる。
「明らかに俺が早かっただろ。完勝だったぜ」
「そんなことないもん」
秋奈が少し泣きそうになったので、明は不本意だったが引き下がることにした。
「まぁよく考えたら同時だったかもな。審判もいなかったことだし、今回は引き分けにしといてやるよ」
「もともと引き分けじゃん。まぁいいや。お腹空いたし、ラーメン食べに行こう」
秋奈が安心したように明るい表情を見せたので、明は大人の対応ができたことに対して嬉しく感じた。
ローラースケート場を離れ、近くの屋台で売っているラーメンを二人して注文した。
「そういえばこの前、五十嵐のおっさんに雷鳴軒っていうとこに連れて行かれてさ――」
明が話し終わる前に、秋奈は興奮した様子で話に割って入った。
「雷鳴軒!いいよねあそこ。豚骨スープが絶品でさ」
「゛えっ」
秋奈の思わぬ反応に明は素っ頓狂な声を上げる。
明は雷鳴軒が如何に『不味かった』かを秋奈に話そうとしていたが、この一言で言い難くくなってしまった。
「それで、雷鳴軒がどうしたの?」秋奈は興味ありげに明の話に耳を傾けている。
「いやぁ、なんていうか。食べたことのないような独特の味だったから、行ったことあんのかと思ってさ」明は“我ながら上手く言えた”と心の中で思った。
「あるよあるよ。子供の頃から何度も行ってる」
秋奈は見たことのないほど目を輝かせている。
「そうか、好きなんだなラーメン」
“将来こいつの作った飯を食うようになる奴は、きっと強い男に違いない”明は心底そう思った。
「そうそう、この前もお兄ちゃんと一緒に行ってさ。いいって言ってるのに、お金払ってくれて」秋奈は少し申し訳なさそうに言った。
「そう言えば、赤城の兄貴は何かスポーツやってたのか?世界チャンプの甥っ子なら運動神経も悪くはねえよな」少し間が空いて、秋奈は答え難そうに話し始める。
「お兄ちゃんね――ボクサーだったんだ」
鈍い明だが、秋奈の重い口調で口にしたのが明るい話題ではなかったことを理解した。
「今は引退してるんだな。どんな選手だったんだ?五十嵐さんにも見てもらってたんだよな?」
「将来を期待された本当に強い選手だったんだよ。でも心臓に欠陥が見つかって、どうしようもなく引退したんだ。あんなに泣いてるの見て私も辛かった」
当時を思い出したのだろう、秋奈の声色が少し変わっていた。
「そうか――でも赤城の性格ならそれでボクシングに関わるの辞めそうだけどな。続けることにしたのは偉いじゃん」
明は少しでも話を明るい方向に持って行こうと、秋奈の話をすることにした。
「そうそう!私も辞めようと思ったんだけど、五十嵐の叔父さんが辞めるなって。お前が辞めたらあいつはもっと辛くなるって」
初めて聞いた話だが、兄妹仲が良いことは容易に想像できた。
「おっさんは赤城がボクシングが好きなことをよく分かってくれてたんだろうな。それはきっと兄貴も同じだ。兄貴は何でも一人で背負っちまう人なのかもな」
その三者三様の気持ちが、過去に波乱を生んだのであろう。
「そうだよね。あの時は辛かったけど、今はボクシングに携わり続けて良かったと思ってる。お兄ちゃんもトラック運転手になってから会社の人と仲良くしてて、昔みたいに笑うようになったし」
その笑いが本心からのものなのか、明は多少の疑念を抱いていた。
「夢破れた先にも、人生はあるんだよな。偉いと思うよ。そういう時に命を投げちまうのは自分の人生に責任を持てない情けねぇ野郎だ。生きるってのは辛いもんだからな」
冷たい言い方だっただろうか。しかし、明の思いは杞憂であった。
「うん。私はお兄ちゃんが笑顔で居てくれたら、それでいいんだ。――なんかしんみりしちゃったね。もう十分休んだし、滑りに行こう」
秋奈は今日一番の笑顔を見せて、努めて明るく振る舞っていた。こういう雰囲気は嫌いではなかったが、せっかく秋奈と二人でいるのだから、場を暗くさせたくはない。スケートリンクに戻り、反時計回りに人込みを縫って滑って行く。
「どうでもいいけどよ、このリンク照り返しがキツいな」
「そう?私はそんなに気にならないけど」
「まあいいや。っていうか、赤城もだいぶ滑れるようになったみたいだし、真ん中の方に行ってみようぜ」
明はそう言うと、先導するようにゆっくりとリンク中央へ滑って行った。置いて行かれないように斜め後ろを滑った秋奈は、楽しそうに話しながら明の仕草を流し目で見ていた。
「悪い、気になるよな。ガキの頃にアトピーが酷い時期があってさ。もう治ったんだけど、首を掻くのが癖になっちまってるみたいなんだ」
明が意外なことを言ったので、秋奈は少し戸惑ってしまった。
「ううん、大丈夫。っていうか、よく分かったね。気付かれないように見てたつもりだったんだけど」秋奈は少し慌てて答えた。
「そうなのか?ボクサーだったら相手の細かい動きは察知できるから、横目で見てても普通に分かっちまうぜ」
秋奈の心配とは裏腹に、仕草だけを見ていた訳でないことは、悟られていないようであった。
「そっか~。明くんの前では隠し事はできないんだね」
含みのある言い方ではあったが、秋奈はこの時ばかりは、明が単純な男であったことに感謝した。その後、暫く滑って気が済んだのか、秋奈が「アイスが食べたい」と言い出し、リンク横にある売店でアイスを食べることにした。
「明くん食べないの?」
「俺は体重増やす訳にはいかねぇんだよ。っていうか、食いすぎじゃねぇか。太るぞ」
「ひど~い。ローラースケートして痩せるから大丈夫なんですぅ」
秋奈は嫌な気はしていないようだが、少しムッとして答えた。
「まあそれならいいけどよ。俺は紅茶でも飲んどくよ」
明は素っ気ない素振りだったが、感じ悪く聞こえないように配慮した言い方で話していた。
「日本で一番アイスが作られてるのって埼玉なんだって。五十嵐の叔父さんが自慢げに言ってたよ」秋奈は気まずくならないようにと、間を空けず話をした。
「へえ~そうなのか、知らなかった。そう言えば、アイスっていつ頃から売られてるんだろうな?」明も話を広げようと努めて早く返答した。
「う~ん。明治時代くらいじゃない?江戸時代にはもうあったのかな?」
秋奈もそのことについては、分からないといった様子である。
日本で初めて販売されたアイスは1869年にアイスクリームの父と言われた町田 房蔵がアメリカ帰りの出島 松蔵から教わった製法を用いて、横浜馬車道の氷水屋で牛乳、砂糖、卵黄を原料として作った『あいすくりん』である。
販売価格は当時の大工の日当の倍、女工の月給の半分である金二分と高価であったため、なかなか民衆に浸透しなかった。町田は勝 海舟に私淑し、他にもマッチ、石鹸、造船用鋲などの製造にも関係したと言われている。
因みに、日本アイスクリーム協会の前身である東京アイスクリーム協会では、アイスクリームの一層の消費拡大を願って東京オリンピック開催年の1964年にシーズンインとなる連休明けの5月9日に記念事業を開催し、様々な施設へアイスクリームをプレゼントし、『アイスクリームの日』としている。
「そう言えば最近ガリガリ君っていうのが流行ってるよね?50円で食べられて、私よく買うんだ」秋奈は楽しげに話している。
「なんか水色のやつだよな。美味そうだとは思ったんだけど、俺はまだ食ったことねえな」男として『金が無くて買えなかった』とは、口が裂けても言えなかった。
差し詰め武士は食わねど高楊枝といったところであろうか。アイスのソーダ水は本来無色透明だが、昭和の時代には何か色が付いていないと価値がないと思われていた。
その為、見栄えを良くするようにと、空と海に共通した色である水色が採用された。海の色は空の色を反射しているため、実質ソーダ水の色は空の色と言える。
また、ソーダと言えば、昭和の子供の代表的なオモチャであるB玉は、ラムネのソーダ水を入れている瓶の口を塞ぐ玉のことをA玉と言ったことから、B級品であるためそう名付けられた。
「そのアイスなんか綿菓子みたいだな。入道雲に見えるぜ」
「うん。柔らかいから食べやすいよ~。ソフトクリームの方にして良かった」
秋奈は甘いものが好きなのだろう。2分程前に食べ始めたアイスは、もう3分の1程しか残っていない。ソフトクリームとアイスクリームの違いはその硬さであり、ソフトクリームはマイナス5~マイナス7度、アイスクリームはマイナス18度でちょうど良い味となる。
また、アイスクリームは空気の混入率である『オーバーラン』が60%とシェイクの30~40%などに比べて高い数値となっており、そのことがあの柔らかさを生み出している理由であると言える。
そして、アイスクリームには賞味期限がなく、適切に管理すればいつまででも食べることが可能である。マイナス18度以下の温度で保存すれば味自体は落ちず、細菌も増えないからである。
「すげえ良い音するんだな、それ」
明は飲み終わった紅茶の缶を、5メートル先のゴミ箱に投げ捨てながらそう言った。
「そうそう、このコーンが美味しいんだよね。考えた人ほんと凄いと思う」
秋奈は音がするように、力を込めて大袈裟に齧って見せた。アイスクリームコーン誕生のキッカケとしては、1904年アメリカのセントルイスで行われた万博でアイスクリーム屋が用意していた紙皿が無くなり、隣にいたウェハース屋の店主がアイスクリームを載せることを提案したことで生まれた。アイスクリームの人気に起因する、偶然の産物なのである。
その後も暫く話を続けた後、二人は漸く重い腰を上げた。因みにこれらは、日、暫時、暫く、氵、漸次、漸くで『日差し差せよ』とすると覚えやすい。明がもう一度滑りに行くか聞いてみると、気が済んだのであろう、秋奈から返って来たのは「もう帰ろっか」という答えであった。エントランスへ行き、揃って靴を返して帰路に就く。
「けど、ローラースケートって難しいよね。片足ずつだから体重移動が上手くできなくて。二つを同時にできたらいいのに」
秋奈は動作を交えながら、一生懸命その思いを表現しようとしている。
「それもそうだな――ん?」明は何か閃いたように、感嘆の語を発する。
「どうしたの?何かいい方法でもあるの?」
秋奈は不思議そうに、その真意を探ろうとしている。
「ああ、思いついたぜ。『取って置き』をな」明は自信に満ちた表情でそう答えた。
「凄いじゃん。どんな滑り方なの?」
「ローラースケートの話じゃねえよ。まあ見てなって、必ず度肝抜かしてやるよ」
「やったじゃん、楽しみにしとくね」
笑いながらそう言った秋奈には、聞かなくても何のことだか分かっていた。
「ああ、ありがとよ」明は嬉しそうに声を弾ませて言った。
「できればお兄ちゃんにも見せてあげたいな。五十嵐の叔父さんの試合も、引退してから全然見に来ないんだよね」秋奈は悲しそうな表情を隠すかのようにして俯いた。
「兄貴の気持ち、分かる気がするな。行けないんだよな、見に行きたくても。失ったものが羨ましくてさ。俺も中退してから友達の集まりとか行き辛くなっちまってよ。損だよな、頑固な性格。――そういや、兄貴はなんて名前なんだ?秋夫とかか?」
明は秋奈の気分を変えようと、慣れないことをしてみる。
「そんな似たような名前な訳ないじゃん。お兄ちゃんは春に生まれたから、春彦。私は秋に生まれたから秋奈。分かり易いでしょ」
秋奈は元気を取り戻して、楽しそうに話している。
「名前に季節が入ってんのは風流だな。そう言えば、おっさんは俺に兄貴の『姿』を重ねてんのかもな。兄貴をチャンプにしてやれなかった分、俺には何としてでも世界を取らそうとしてくれてるような気がする。最近やたら練習が厳しくなってきたと思うし、期待に応えられてんのかな、俺」
明はなるべく辛さを見せないように、明るい口調で話している。
「五十嵐の叔父さんは明くんのことを認めてると思うよ。拳を縦に並べるスタイルを普通だったら止めさせているけど、続けさせてもらえてるんだもん」
心根は理解している。今度は秋奈が明を励ますようにして話す。
「そうなのかな。まあ、それなら嬉しいんだけどよ」
和やかな雰囲気に、自然と二人とも笑顔になる。
「なんかいつもと違った感じがするね」
激しい闘いの合間での戦士の休息。それを秋奈も分かってくれているのであろう。
非日常的な風景に二人とも安心しきっていた。だが、明は先程から何かソワソワしたような感じだ。
“ああ今チャンスだったのに。なんで勇気が出ねえんだよ。こんなんでビビってちゃ、おっさんに笑われちまわーな”タイミングを伺おうと何でもないのに深呼吸してみたりする。
「寒いね~」
「そうだな、そろそろ冬も終わったと思ってたんだけどな」
「なんか考え事してない?」
「そんなことねえよ。ちょっと疲れただけだ」
緊張がピークに達したのか、微かに物が二重に見える程である。それから、どちらともなく手が触れ、そっと手を握った。秋奈は少し顔が赤く、下を向いて目を合わそうとしない。明は心臓の鼓動が、秋奈に聞こえないか心配になる程だ。他愛もない会話を続けて行くが、内容が頭に入って来ない。明がぎゅっと握ったら、秋奈もぎゅっと握り返して来る。
「なんか、帰りたくないなぁ」俯いた秋奈は寂しそうに呟いた。
夕暮れに揺れた二つの影は、心なしか大人びて見えた。
皆藤兄弟の兄である遼に勝利したことで、明は現在日本ランキングで1位となっており、JBC日本チャンピオンである安威川 泰毅と対戦することとなった。この闘いに勝利することができれば、チャンピオンベルト保持者となり、晴れて『タイトルホルダー』となることができる。
また、日本チャンピオンを巡るタイトルマッチのファイトマネーは、70から100万円であるため、これからの生活にも余裕ができそうだ。
「偶には相手のことを知ってから試合をするのも悪くはないだろう」
五十嵐にそう言われ、明と秋奈は今回の対戦相手である安威川の試合を見に来ていた。
彼はヒーローとヒールの二つのイメージがある稀有な選手。五十嵐から伝えられたのは、その一言のみだった。いつも相手選手のことをうんざりするほど説明してくる五十嵐にしては珍しく、明は思わず「他には?」と聞いてしまった程だ。
五十嵐は「安威川は言葉で語るよりも見ておいた方がいい」とだけ言い残し、用事があるからと先にジムを出て行ってしまった。秋奈に聞いてみても世界チャンピオンになれるレベルだと話題になって来ていて、『恐ろしく強い』とだけ聞いたことがあるという。
会場で試合開始を待つこと15分、待つのが嫌いな明が少々イライラし始めた頃、選手紹介があり二名の選手が入場してきた。初めて安威川を見て明は、「良い身体してんな」とだけ呟いた。
対戦相手は外国人選手で、何でも『冷徹漢』トミー・ドラゴと引き分けたことがあるらしい。安威川は選手紹介で『浪速の風雲児』と称され、短髪で爽やかな印象が持てる選手だった。試合を見に来るのが初めての明でも今日の試合で女性の観客が多いことが分かった。
一通りルール説明があった後、両者コーナーポストに着き緊迫した空気が流れる。少ししてレフェリーが係りに合図をし、試合開始のゴングが鳴らされた。歩み寄る両者。まず安威川が相手にジャブを繰り出すが普通とは少し違って見える。
「『サウスポー』かよ」
『サウスポー』とは左利きの選手のことで、野球用語から転用された言葉であり、1891年にスポーツライターのチャールズ・シーモアが初めて使用したものである。米国野球の大リーグでは午後の試合でバッターの目に西日が入って眩しくないようにとホームベースを西に置いている。従って、一塁側は南、二塁側は東、三塁側は北となり、動物の前足をポー、後足をハインドポーと言うことから、南側の手で投げるのでサウスポーと言われるようになった。
明は五十嵐が左利きであるため見慣れてはいたものの、実際に左利きの選手と対戦するのはこれが初めてとなる。小刻みに、しかし豪快に繰り出される安威川のジャブは相手選手の動きを止め、反撃の余地もないように見える。
『バシンっ』
次の瞬間、強烈なボディーブローが相手選手の脇腹に突き刺さった。
「うわぁ、痛そう~」
秋奈の少し間抜けな口調に拍子抜けしそうになるも、明は試合の行方を見守った。相手選手はこの一撃でダウンし、カウント9で辛うじて起き上がった。だが傍から見ても既に闘えるような状態ではない。一応ファイティングポーズを取ってはいるがレフェリーが不安を覚えるほどの衰弱ぶりであった。
ファイトが続行され安威川が右足を一歩踏み込み、左手を大きく振り抜いた瞬間、観客の多くは思わず目を覆ってしまった。リングに転がり、少し痙攣した様子の相手選手。すぐにタンカが到着し、病院に向けて搬送されて行った。
あまりの惨状に、安威川に促されるまでレフェリーが勝利者宣言を忘れてしまうほどであった。非現実的な光景に会場は一気に静まり返ってしまった。
「行くぞ」
並んで座っていた明と秋奈の後ろに、いつの間にか五十嵐が座っていたようだ。いきなり声を掛けられ、二人とも少し身体をビクつかせる。
「ビックリさせんなよ。っていうか、来るの遅えんじゃねえか?いつから居たんだよ?」明は不満げにそう言い放つ。
「今しがた到着したばかりだ。それより、今回の相手は強いぞ。なんと言っても、日本チャンピオンを『9度も』防衛している男だ。そこらの『青二才』とは訳が違うぞ」
『青二才』が自分のことを指しているのか、いないのか。気にはなったが、聞かないでおくことにした。
「どうだ安威川は。俺が最強の刺客と言うだけのことはあるだろう」
「確かに強えな。だが、俺には『新必殺技』があるから大丈夫だ」
「『新必殺技』?いつの間にそんなものを思いついたんだ。一度見てみたいな」
「ローラースケートやってる時に思いついたんだ。まぁ慌てんなって。今度の試合の時にお披露目するぜ」
「ろーらーすけーと?最近の若い奴はハイカラなものをやっているんだな」
“どうして男はみんなローラースケートに対して同じ感想なんだろう?”
秋奈はそう思ったが、口に出すのは止めておいた。
「1ヶ月後、4月の第2日曜日に午後6時から兵庫県神戸市にあるサンボーホールで安威川とファイトだ。これは相当な正念場になるぞ」
五十嵐は心配半分、期待半分と言ったところであろうか。
「そうか。まぁ1ヶ月もあれば『新必殺技』も精度が上がるってもんよ」
明は余程手応えがあるのだろうか、試合を決めるのはこの『新必殺技』に頼ることにしていそうだ。
1ヶ月後、兵庫県伊丹市にある大阪国際空港から神戸市中央区にある三宮のホテルへ行き宿泊した。そして、試合当日の1984年4月8日、定刻まで2時間の余裕を持って明は会場に到着した。
対する安威川は、それより10分後の4時10分頃に到着した。二人は会見で顔を合わせてはいるが、まだ互いを知るほどは会話していなかった。 それから8時間経った午後6時、食事を済ませ、準備万端の二人は選手紹介を受け、軽快な足取りで入場した。
第38代JBC日本チャンピオン安威川 泰毅。兵庫県西脇市出身、近藤ジム所属で『インファイター』と『アウトボクサー』を両方熟せる『ボクサーファイター』タイプである。
「赤のコーナーからは、JBC日本チャンピオン安威川 泰毅選手の入場です」
168cm、117ポンド(約53.5kg)、19勝1敗0分8KO。 安威川は鮮やかに見える青のトランクスがお気に入りだ。身体の一部を使って打撃を防ぐ『ブロッキング』が得意な選手であり、カウンターに強い選手でもある。
「続いて青のコーナーからは、一路順風のチャレンジャー赤居 明選手の入場です」
紹介を受け、明はリングへと躍り出た。ボクシングではチャンピオンが赤コーナー、チャレンジャーが青コーナーから出て来ると相場は決まっている。リングではレフェリーがリング中央に立ち、ルールの説明を行っている。
「3ダウンでKO、キドニーブローとラビットパンチは禁止です」
『キドニーブロー』とは背中側から肝臓がある部分を叩く危険打のため、禁止されているパンチである。また、『ラビットパンチ』とは猟師が手負いの兎の首を切って介錯したことから来ており、後頭部を叩くことで後遺症が残りやすくなるという危険打であるため、同じく禁止されている。
明は安威川とレフェリーを交互に見て、いつもより鋭い表情を見せた。試合開始前、明が珍しく深呼吸をしている。
「どうした?今さら不安になって来たか」
「そんなんじゃねえよ。ただ、あの安威川って奴は今までの奴とは違う。そんな気がするんだ」
「その通りだ。だが安心しろ。俺の見立てではもう国内で活動している選手で、お前の相手ができるのは安威川くらいのもんだ。全力で倒しにかかれ」
裏を返せば安威川は米原会長のお墨付きの強さというわけだ。明の拳に力が入る。
「ファイッ」
審判の掛け声を受け、歩み寄ると言うより激突しそうな勢いで、両者前へ出て拳を交える。
「くっ」安威川の構えを見た明が、思わず声を漏らす。
“オーソドックススタイルか”
明はこの1ヶ月間、対安威川を想定して左利きを相手にするためのトレーニングを積んできた。しかしこの時、安威川サイドはそれを想定し、あえて右利きの『オーソドックススタイル』にチェンジして来ていた。
普段右利きの選手と対峙してはいるものの、練習で培ったものと試合本番での微妙な感覚の『ズレ』は精神的な動揺を誘うには十分だった。
安威川のジャブが、徐々に明に当たり始める。普通のジャブとは違い、左利きの選手の左手でのジャブは想像以上に重たいものであった。ペースを掴みつつある安威川に対し、出鼻を挫かれた明は、距離を取ることでそのイメージを払拭しようとした。
しかし、安威川は巧みなフットワークで明と絶妙な距離感を保ったままジャブを打ち続けて来る。焦る明。流れを変えようと右ストレートを繰り出した瞬間、安威川もそれに合わせて右ストレートを打って来た。刹那、明の右手は空を切り、安威川の右手が明の左脇腹に突き刺さる。先日の試合の、あの嫌な記憶が蘇る。
「うっ」
鈍い声を出し、明はリングに左膝をついてしまった。これはダウンとみなされ、レフェリーが1からカウントを始める。明は流石にタフであり、カウント3で立ち上がったが、多少覇気が薄れてしまったようにも見える。目も少し虚ろだ。
「赤居、後ろに下がるんじゃない。しっかりガードを固めて、相手と間合いを詰めてクロスカウンターを狙え」
明はちらっと米原の方を見ると、小さく頷いて見せた。ファイテイングポーズをとり、再び激しい打ち合いが始まる。間合いを詰めてみると、安威川は少し攻め難そうに左手を出して来るようになった。
“そう言えばコイツ左利きなんだよな”明はそう考えると安威川が不慣れな左手でのジャブを打って来ているという状況を冷静に分析できるようになった。
“少しかましてみるか“明はそう思い、今まで打ったことのなかった『左ストレート』を安威川にお見舞いしようと考えた。タイミングを伺い、ジリジリと間合いを調節する。
“今だ”
そう思うやいなや全身の力を込めて左手を振り抜く。明の拳は安威川の右頬に突き刺さり、鋭い音を立てた。気を失いそうになる安威川。
だが、流石は五十嵐が認めた男、そう簡単に倒れてはくれない。安威川は右膝をついた後、明と同じくカウント3で立ち上がり、ファイティングポーズをとってみせた。
「泰毅、もうええやろ。奇襲作戦は終わりや。『サウスポー』にスイッチしろ」
市川会長の言葉に、安威川は振り向いて軽く頷いた。審判が試合を再開させようとした瞬間、ゴングが鳴り、第1ラウンドが終了した。両者コーナーへ戻りセコンドの指示を仰ぐ。
「おっさんとやりあった時以来だな。こんなに追い詰められんのは」
「まさかこの試合のためにあんな作戦を仕込んで来るとはな。市川会長は相当な策士と見える」
「次はどうするかな」
「コークスクリューはどうだ?相手が右手でジャブを打って来るなら、左手側に隙ができる。そこを突かない手はないだろう」
「そうだな。狙えるようなら狙ってみるよ」
明は米原にセコンドについてもらってから半年ほどであったが、もう何年も連れ添っているかのような安心感があった。
「もうそろそろ時間だな。安ずるな、行ってこい!」
けたたましくゴングが鳴り、猛獣たちはゆっくりと歩み寄った。強烈なオーラを放ち、安威川は明に歩み寄って来る。
“まったく、嫌な野郎だぜ”恐らく安威川も同じことを感じているだろう。
二人ともまだ経験はなかったが、世界戦のような『プレッシャー』がそこにはあった。ジャブが重なり合い、いつも以上にストレートを気にするこの二人のせめぎ合いは、見ている方も息を飲むような攻防であった。
“パワー、スピード、テクニック共に申し分ないな。敬造がもし、先に安威川と出会っていたら奴の指導を買って出ただろうな”
米原はそんなことを思いながらも、明を応援せずにはいられなかった。ボディ狙いの安威川と顔面狙いの明。互いの強打は先程忘れ難いほど鮮明に記憶されたわけだが、それを恐れては真の強者にはなれない。
先に動いたのは明だった。ジャブの嵐を掻い潜り、強烈な一撃を相手にブチ込んだ。だが、渾身のコークスクリューは外れてしまった。この隙を安威川が見逃す筈がない。鞭のように撓らせた強烈な左フックが明の顎を捕らえる。
そこからのパンチの応酬は凄まじいものであった。7秒間に28発もの連打で、まるで今、試合が始まったかのような動きで明をマットに沈めにかかる。明の顔は風船のように腫れ上がり、額が切れて血が吹き出して来た。崩れ落ちる明。
レフェリーが素早くカウントを始めるが全く起きる気配がない。最早これまでか。
3、4、5――。無情にも時は過ぎ去って行く。誰もが安威川の勝ちを確信し始めていた。
「明くん立って!!」
観客が一斉に見る程の声で、秋奈が明に呼びかける。
6、7、8――。その声援が通じたのか、ゆっくりとではあるが明が身体を起こし立ち上がって来た。目が眩み、身体が鉛のように重い。安威川が3人見え、慌てて頭を振って視力を取り戻す。
“負けられねえ。俺は絶対コイツに勝つんだ”燦々と輝いた明の瞳は、闘志を忘れてはいなかった。10秒後、このラウンドはゴングに救われる形となった。
1分間のレストを挟んでの第4ラウンド。流れに乗っている安威川は、強烈な『エルボーブロック』で、明のアッパーを防いだ。
“鉛のように重いパンチだな”安威川にそう思わせたこの攻防は痛み分けとなり、骨が割れそうな程の衝撃が、両者の腕に襲い掛かった。息つく間もなく、残像が見えそうな勢いで、拳を繰り出して来る安威川。
“体力持つのかコイツ?まあ、そんなバカな訳ねえよな”明がそう考えている間にも、安威川は手を休める様子はない。
“思い付きで行動しよるけど、その全てが当たってる。勘の鋭い奴やな”対する安威川は、攻めあぐねながらそう考えていた。
“足が止まり易い野郎だな”そう感じた明は、ここで一発『クロスカウンター』を決め、ダウンは奪えなかったものの、主導権を握った。
二人の実力はほぼ互角。いざという時は『地が出る』ものであり、日頃どれだけ鍛錬を積めているかの差が如実に現れる。安威川の体重が右に傾き、追い打ちを掛けるように明は攻勢に転じた。
しかし、安威川は得意の『エルボーブロック』で明の『コークスクリュー』を防ぐ。そこでできた僅かな隙を突き、明は左ストレートを炸裂させた。だが、故意ではなかったものの、足を踏んでしまっていたため、1点の減点となってしまった。倒れ掛かる安威川。絶好のチャンスだが、ゴングまで後20秒もあったにも関わらず、明は手を出さなかった。
不良時代には考えられなかった。卑怯なマネをして相手を倒しても、それは真の勝利ではない。そう考え、ゴングが鳴るまでの間、己の『武士道』を貫くことを止めなかった。
「おめえ、見上げた根性じゃねえか。日本チャンプ相手にフェアプレーを貫くとはよ」米原は心底感心したといった様子だ。
「正々堂々と闘わないのはスポーツマンじゃないぜ。皆藤兄弟と闘って、そう思ったんだ。それより、どうも相手のパンチと噛み合わねえんだ。上手く誘導されてるような――なんかこう相手のパンチを空かすような方法はねえもんかな?」
米原は少し考えた後、閃いたように僅かに口元を緩めた。
「それなら身体を左に傾けてみろ。右手のジャブも左手のストレートも避けやすくなる筈だ」
明は目から鱗が落ちたと言わんばかりに5回ほど首を縦に振ってみせた。ゴングが鳴り、第5ラウンドが開始されると、安威川のジャブを例の『傾き戦法』で封じにかかる。
「くっ」
自慢のジャブを無駄のない動きでひらりと躱され、安威川の気持ちが思わず声に出る。
“すげえな、伊達に世界チャンピオンのセコンドやってる訳じゃねぇぜ”明は米原の実力を改めて認識し直した。先程、門前の虎のように見えていた安威川も、今の明には借りて来た猫のようにさえ見える。
タイミングをズラし、安威川が左ストレートを繰り出して来ても、暖簾に腕押し、柳に風、今までのことが嘘のように簡単に躱せてしまうのだ。明は安威川の攻撃を何度か躱した後、ジャブを合わせ、右ストレートを放った。これがクリーンヒットとなり、安威川はこの試合初めてのダウンを奪われてしまう。
“このまま起きて来ないでくれ”明は心底そう願っていたが、ラスト2カウントを残して安威川はゆっくりと身体を起こし、立ち上がって見せた。ファイテイングポーズをとった安威川のグローブをレフェリーが丁寧に拭き、試合を再開させた。
刹那、明が気を抜きかけていたのを安威川に勘づかれ、強烈なアッパーを食らってしまった。蹌踉めいた明に、安威川が猛威を振るおうと距離を詰めた瞬間、第5ラウンド終了を告げるゴングが鳴り響いた。
安威川陣営セコンドの市川は明の底知れぬ強さに俄かに焦りを感じていた。彼は元消防団の団長であり、地元では鬼軍曹として名を馳せていた人物である。安威川はこの師を慕い、ボクシングにだけは妥協しなかった。
ただ好きなことを一生懸命に頑張るだけ。そう言っていた彼は、臆病ゆえに誰よりも練習を積んで来た。どうしても、どんな手を使ってでも勝たせてやりたい。そう思う市川は安威川の両頬を、乾いた音がするほど掌で張った。
「気持ちで負けたらアカン、最後は根性や」苦しくなる度に、いつも思い出して来た言葉。安威川は熱海合宿の時に言われた言葉を噛み締めるように自分に言い聞かせていた。レストタイムの間、互いに精神を研ぎ澄ませ、試合は怒涛の第6ラウンドを迎えた。
“クソっ、またかよ”
安威川は明の戦略を封じたいのか、またしても『オーソドックススタイル』に戻して来た。このラウンドは両者打ちあいに徹することとなった。明がストレートを当てれば安威川も負けじと当て返し、安威川がジャブを当てれば明もまた当て返すといった具合であった。二人は全くの互角。陰と陽のように混ざり合い、互いに一歩も譲る気配がない。ゴングが鳴るまで一瞬の間もないほどに打ちあい、熱を持ったまま第6ラウンドを終えた。
「クロスカウンターを打ってみろ。オーソドックススタイルには効果的な筈だ」
米原の言葉に、疲弊している明は頷くだけで返事をした。そして、息の詰まるような攻防の中、第7、第8ラウンドを闘い、二人の戦士は第9ラウンドを迎えた。このラウンド明はゴングの音が聞こえず少し出遅れてしまい、あわや審判に注意されるかと思うほどのことであった。
一方の安威川は多少余裕を持っているようにさえ見える。しかし、際どいラインを狙い過ぎたのか、安威川の右が空を切る。その決死の右ストレートに対し、必死で応戦しようとする明。しかしこれは罠であり、安威川は態とジャブを空振りさせたように見せ、その後の必殺技で仕留める算段であった。そしてその計画通り、明の渾身の『クロスカウンター』は外れてしまった。
安威川は相手の動きを見極め、寸前で躱す能力に長けているようだ。またしても隙を作ってしまった明に、安威川が猛威を振るう。
『ホワイトファング』
これは相手の顔に向けて、右手を上から、左手を下から放つ技で、狼が噛み付くように顎を狙い一発KOを狙う必殺技である。これが見事に顎に命中し、『ジョー・ブレイク・ファング』となって炸裂する。冷たい氷で射抜かれたような迫撃により、一瞬のうちにダウンを奪われる明。
6、7、8――。立った時には意識がなかった。無意識にファイティングポーズをとり、拳を握ったところで目が覚める。習慣とは恐ろしいものである。プロレスラーは寝ている時に肩を抑えられると咄嗟にフォール負けを避けると言うが、今の明もそういった状況なのであろう。
あっという間に倒される『フラッシュダウン』であったため、ほとんどダメージが残らなかったものの、強烈な技のインパクトに気圧されてしまう形となった。ここで安威川は左利きにスイッチして、腕を振り抜くようにパンチを繰り出して来た。情け容赦なく、ここで勝負を着ける気でいるのであろう。
まるで今試合が始まったかのように一気に攻勢に転じる安威川を前に、明は思わず圧倒されそうになる。顔が腫れ額が切れようとも、もう誰にも試合は止められない。明はこの時、一縷の望みに懸けようと決心していた。新必殺技『クロスクリュー』に。
まるで逃げられない檻の中に閉じ込められたような。二匹の猛獣たちは熱く滾ったその闘志を冷ますかのようにしてぶつけあっていた。スピード&ラッシュで来る安威川に対し、大振りで振り抜きカウンターをまるで警戒しない力業によって殴打する明。感覚が研ぎ澄まされ、互いに互いの限界を超えようとしていた。そして安威川が放った『ホワイトファング』に対し、明は渾身の『クロスクリュー』を合わせに行った。地震のような衝撃が起こり、無残に横たわる二人の人間。
「1、2、3、4――」
カウントは進んで行くが、二人とも死んだように動かない。
「5、6、7――」
大きな局面を迎えた試合の行方を、皆が固唾を飲んで見守っている。
「8、9――10!!」
戦慄のダブルノックアウトに凄然と静まり返っていた場内が騒然とし、凛として審判が説明を始める。
「ただ今の試合、互いに続行不可能であるため『引き分け』と看做します」
白熱の決戦も勝敗は着かない結果となってしまった。続けざまに審判が解説を加える。
「この場合、日本ボクシング協会の規定により現王者、安威川 泰毅選手の防衛成功となります」
つまり、明は『タイトルホルダー』となることはできず、無冠のままとなる。試合後、ほぼ同時に意識を取り戻した二人は、健闘を讃えるため互いに歩み寄って話をした。
「ええ技やったわ。俺もまだまだやな。次は完膚無きまでにブチのめしたるわ」
安威川はこの不撓不屈の強靭な意思で困難に立ち向かって来たのであろう。
「ああ、本当に良い試合だったと思うぜ。次に勝つのは俺だけどな」
対する明も堅忍不抜の強固な意思でここまで勝ち上がって来た。この長丁場を終えた二人は、良きライバルとして互いに健闘を讃え合った。その後、明は控室にて五十嵐と今日の試合を振り返っていた。
「あ~。今、座るとドッと疲れが出て眠っちまいそうだぜ。それにしても、しょっぱい試合になっちまったな」初めての白星でない試合に、納得が行く筈もない。
「実力は本当に互角だった。これから大切なことは、試合に勝ち続け、世界チャンピオンとなることだ。今回のことは残念だったが、気にすることはないぞ。ボクシングで言えば、お前は倒された訳ではない。最後まで立って王座を獲得する。これが一番大切だ」
怒られるかと思ったが、意外にも五十嵐は前向きなことを言ってくれた。
「そのためにはもっともっと練習しないとな。勝てない相手が居るってことが、こんなにも気分の悪いことだとは思わなかったぜ」
「お前は十分に強くなった。どうだ、これから『アジア』へ挑んでみないか?」
「アジアか――。そうだなあいつも今のまま立ち止まるようなヤワな奴じゃねえだろうし、先を越されねえうちに高みを知っときてえな」
急な提案に臆する者もありそうな話だが、明は恐怖など微塵も感じてはいなかった。
「次の目標は『東洋太平洋チャンピオン』だな。気合い入れて行くぞ」
「おうよ。これからもよろしく頼むぜ」
『最強』の、この人について行けば大丈夫。明はこの時、そう信じて疑わなかった。