第一章 新人編
1983年8月、赤居 明は喧嘩に明け暮れていた。2年通った高校を暴力沙汰で退学になり、それからはバイトもせず人を殴ることだけが日課になっていた。目が合えば因縁を付け、気の弱そうな若者から金を巻き上げるのは明にとって気分の良いことであり、罪悪感など微塵も感じていなかった。
同級生が夏休みということもあり、毎日友人の家に泊まって朝まで遊んでいた。将来の不安を頭の片隅に押し込めて、明は日々を楽しく過ごしていた。そう、あの忘れもしない8月30日までは。
「今日は2万も儲かっちまったよ」
明の得意げに話す姿に、田中 慎也は少し呆れていた。
「暗い顔したメガネの奴でさ、話しかけただけで狼狽えやがって、ムカつくからいつもより多く殴ってやったよ」それを聞いて慎也は口を開く。
「お前さあ、俺は別にカツアゲを悪いとかは言わねぇよ。けど、中退してそろそろ3ヶ月経つんだし、フラフラしてばっかじゃなくて働き口でも探した方がいいんじゃねぇの?こんな親みたいなこと言われたらウザいかもしんねぇけどよ」
明も言われなくてもそんなことは分かっていた。けれど、この3ヶ月そういうことを言われなかった親友に言われると悲しさと苛立ちが込み上げてくる。
「なんだよ、お前までそんなこと言うのかよ。俺はこの有り余る力をどこにぶつけていいか分かんねぇんだよ。将来なんか関係ねぇ。俺はただ、強い奴をぶちのめしたいだけなんだ」
慎也はそう言われても親友のため、言うべきことは言おうと考えた。
「大輝の親父さん大工やってんだろ。人手が足りないから誰か雇いたいって言ってるみたいだぞ。今なら頭下げたら働かしてくれんじゃねぇの?」
明もこう言われると引き下がる訳にはいかない。
「うるせぇな。俺には俺の考えがあるんだよ。ちょっと煙草吸ってくる」
そういうと部屋から出て階段を降り、玄関から外へ出て行ってしまった。
少し気分が落ち込みながらも煙草に火を付け歩き始める。
「おい!」いきなり大きな声を出されたので明は驚いて振り返る。
「お前二十歳超えてるように見えねぇけどいくつだ?」
振り向いた先にいた男に大きな声でこう怒鳴られる。
さっき慎也に言われてイライラしていたものが、ここで一気に爆発する。
「うるせぇな。てめぇに関係ねぇだろうが。文句あるってんなら、やったろうじゃねぇか」
明は普段から目つきが悪く、喧嘩を売られることなどないので、これ幸いと男に詰め寄った。
「それじゃあ答えになってないだろうが。いくつだと聞いているんだ。年上の者に対しては敬意を払うものだと思うが」
男は全く怯む様子もなく明の目を真っ直ぐ見返した。明はこの状況で視線を外さない男に久しぶりに会ったことに対して、少し嬉しく感じた。
「ちょっと度胸があるかもしんねぇが、後悔させてやるよ」
そう言うと明は男に向かって思い切り拳を振りかざした。
「くそっ」
男がそれを難なく躱したので、明の気持ちが思わず声に出る。2発、3発と殴りかかるが全く当たる気配がない。
「てめぇ、なかなかやるじゃねぇか」
明はそういうと右足を男の顔目掛けて振り上げた。しかし男は軽く屈んでみせると、まるで何事もなかったかのように蹴りを躱した。
「動きが大きいんだよ。筋はいいんだが、お前のはただ闇雲に攻撃しているだけだ。それと、年上の者には敬意を払えと言った筈だが」
男はそう言い終わると凄い速さで拳を繰り出してきた。その右手を避けきれずにその場に倒れこんでしまう。初めて人に殴り倒された。そのショックが大きすぎて、明は言葉を失った。
「明日31日の午後4時。浅草にある米原ジムに来い。そこで本物の喧嘩ってもんを見せてやるよ」男はそう言うと振り返って立ち去ろうとした。
「待てよ!」自分でも驚くほど大きな声が出た。
「まだ勝負は終わってねぇだろうが、勝った気になってんじゃねぇぞ」
明は立ち上がって男に殴りかかろうとする。
「俺は『左利き』なんだ」男がそう言うと明は足を止めた。
「この状況で負けを認めないのはたいしたもんだ。だが、お前自身、実力の差が分からないほど喧嘩慣れしてないとは思えん」男は明を真っ直ぐ見ている。
「明日来るかどうかはお前が決めることだ。強くなりたいのか、弱い奴に勝って満足するだけの奴になるかはお前次第。待ってるからな」
そう言うと男は立ち去ってしまった。
明は生まれて初めての感覚に言葉を与えることができないでいた。その後何度も味わう、『悔しい』という感覚に。
遅れることは当たり前のことだと思っていた。学校にまともに行っていなかった明にとって、遅刻することなど気にも留めていなかった。だが、この日は違った。
“もっと早く来れば良かった”明は強くそう感じた。スパー終盤、3ラウンド目が終わるころになってようやくたどり着いてからは『その光景』にクギヅケだった。
「やっぱり遅れて来やがったか。まったく、まずはボクシングより礼儀を教えねばならんかもな」
リングから降りるなり嫌味を言う男に明は文句ひとつ言わない。普段なら悪態をついて殴りかかり、馬乗りになっているところだが、今は嫌味を言われたことなど気にも留めない。
「俺にもやらせてくれよ!」
明は初めてテレビゲームを見た少年のように無垢な笑みを浮かべている。
「ダメだ」男の予想外の返答に明の機嫌はみるみる悪くなる。
「なんでだよ。ここに呼んだのはお前だろ。やらせてくれたっていいじゃねぇかよ。なんでダメなんだよ」明の態度とは裏腹に男は冷静に受け答えをする。
「基礎のなっていない者をリングで闘わせる訳にはいかない。それと、礼儀のなっていない者もな」明は少しムキになって男に詰め寄った。
「じゃあ、その基礎ってのを教えてくれ。まあ俺ならすぐにできるようになるだろうけどよ」男は少し怒ったように明を見た。
「ではまずは年上の者に対しては敬語を使うように。それと俺のことはお前ではなく『五十嵐さん』と呼べ」明はそれを聞いてすかさず言い返す。
「誰がてめぇなんかに敬語使うかよ。俺は基礎を知ってボクシングがしたいんだ。てめぇの子分になりに来たんじゃねぇ」五十嵐は予想通りの返答に少しだけ笑みを見せた。
「ボクシングは身体だけでなく精神の強さも試されるんだ。敬語も使えないようなガキにできるような甘いものではないさ」明は馬鹿にした態度で言い放つ。
「てめぇ俺にのされるのが怖いんじゃねぇか。昨日のはたまたまで勝負に勝てる自信がねぇからビビッてんだろ」五十嵐は冷静さを保ちつつ、しっかりとした口調で話す
「そんな安い挑発に乗るとでも思っているのか。ボクシングは頭も使うんだ。バカのままだと、俺に一太刀も浴びせられないままリングに沈むぜ」
明も昨日の今日で五十嵐の実力を忘れるほど馬鹿ではない。
「すげぇ自信だな。まぁてめぇの強さがハッタリじゃねぇってこたぁ分かってる。ただ、てめぇも俺がボクシングをやれば天下を取れることが分かっててここに呼んだんだろ?このままじゃ来た意味ねぇじゃねぇかよ」
五十嵐はさっきとは打って変わって真剣な表情で明と向かい合う。
「お前の言うことは半分は正解だ。確かにお前にはボクシングの才能がある。今からボクシングを始めれば本当にチャンピオンになれるかもしれない。だが、本当にお前にボクシングを教えたい理由は他にある。今はまだお前に言うつもりはないがな」
明は否定されると思っていた手前、予想外の返答に少し戸惑いを覚えた。
「てめぇには全てお見通しって訳か?偉そうに言いやがって。一体てめぇはどれほどのモンなんだよ」
それを聞いて五十嵐は今まで明に見せたことのない不敵な笑みを浮かべた。
「俺の実力はお前がボクシングを始めれば自ずと分かるものさ」
明は眉間にシワを寄せると吐き捨てるように言い放った。
「俺は下手に出るのが一番嫌いなんだ。てめぇなら俺の力を少しは受け止められるかと思ったが、勘違いだったようだ。俺はもう帰るぞ」
明があまりにも思ったような人物なので五十嵐は嬉しさを噛み殺した。
「人に敬語を使うのが嫌なんだろう。それはよく分かる。どうだ一つ賭けをしてみないか?」
明は振り返るとさっきとは違い、見て分かるほどに怒りを露わにした。
「てめぇいい加減にしろよ。やるのかやらねぇのかはっきりしろ」
五十嵐はグローブを手に嵌めるとリングに上がった。
「本当はパンチングボールでもやらせたいところだが、そんな玉じゃねえよな。かかって来い。昨日のリベンジでも何でもいい、5分以内に俺の顔に一発でも入れることができたら礼儀の件は目を瞑ってやる」
明は拳を鳴らしながらリングに上がり、側に居た男にバンテージを巻いてもらってから、グローブを嵌めた。
「上等じゃねぇか。一発で済むと思うなよ」
その『姿』を見て五十嵐は少し可笑しく思うも、明の意外な一面に自らの気持ちが高揚しているのが分かった。
「なんだその構えは。そんな構えは見たことがないぞ。俺に勝つために考えて来たんだろうが、そんな子供騙しで俺に一発入れようなんて甘く見られたものだな」
明は左手を上に、右手を下にして脇を閉め、まるで刀を持った侍のような格好で構えていた。
「なんと言われようと喧嘩じゃ勝った奴が偉いんだ。格好なんか関係ねぇ」
真っ直ぐに見つめる明を見て、五十嵐は思わず笑みを漏らしてしまう。
「始めようか」
五十嵐は側に居た男にゴングを鳴らし、時間を計るよう頼んだ。
『カンッ』ゴングの音が辺りに鳴り響く。明はまず右手を力一杯振り抜き、五十嵐に襲い掛かった。五十嵐は避けることなく左手でそれを受け止め、次の一撃に備える。
明は自分の攻撃を五十嵐が避けるまでもないと判断したことに、ムキにならずにはいられなかった。すかさず左手で殴り掛かるが、少しタイミングをズラしてみる。
五十嵐は全く動じないばかりか明に対して間合いを詰めて来た。
まるで“お前の力はこんなものか。そんなんじゃ、何時まで経っても俺に拳を当てることはできないぞ”と言わんばかりに。明は小刻みにジャブを繰り出し続ける。
しかし、どれも五十嵐に受け止められてしまい、まるで相手になっていない。
昨日感じていた実力差よりも、本当は二人の力は離れているのかもしれない。
五十嵐がそう感じ始めると同時に、明が両手で同時に殴り掛かってきた。
「相変わらず出鱈目な奴だな。まぁ勝ちへの執念は褒めてやるよ」
五十嵐にそう言われ、明は「うるせぇ」とだけ言うと右手の拳を大きく後ろに引いた。そしてその拳をアッパーカットの体制で五十嵐に思い切り打ち込んだ。
“思ったより力があるな”そう思うほど明のパンチで五十嵐は身体が仰け反っていた。明は続いてボディに拳を打ち込もうとする。五十嵐はすぐさま身体を屈め、明のパンチを受け止めた。明はそれを見てニヤりと笑うと、思い切りリングの後ろまで下がり再び拳を引いた。
“この一撃で五十嵐の牙城を崩す”それだけが明の中にあった。
振りかぶった拳に全身の力を込めて振り抜く。
『パンッ』鋭い音がリングに響き渡る。素人同然の明のパンチなど五十嵐なら避けようと思えばいくらでも避けることができた。だが五十嵐は避けたくなかった。この一撃が今の明の力量。これを避けるくらいなら最初からスパーなどやっていない。
身体を大きく反らしながら、いつの間にか五十嵐の身体はロープに触れてしまっていた。ガードの外れた五十嵐に、明は間髪を容れず左手でアッパーをかます。五十嵐は鋭い眼光で明を見つめていた。『ゴッ』鈍い音が辺りに響き渡る。
「やったぜ」明がそう言うと同時にストップウォッチのタイマーが鳴り響いた。辺りにしばし沈黙が訪れる。
「良いパンチだった」
五十嵐はそう言うとグローブを外した。
「てめぇもしかして――」
明が話すのを遮るように五十嵐は話し始めた。
「お前には本当は人として大切な礼儀の部分を教えたい。だが今はそれよりもボクシングを教えたいと思ったんだ。どうだ、明日からこのジムに通ってみないか?」
明は少し返答に困った。
「俺は今、高校を中退してフラフラしてるような状態だ。月謝を払うようなアテがねぇんだよ」
「まぁそんなことだろうと思ったさ。月謝は暫くは俺が立て替えてやる。お前は俺が見込んだ男だ。出世払いにしといてやるよ」
「五十嵐!俺は人の施しを受けるのが嫌いなんだ。欲しいものは奪い取る。それが俺のやり方だ」
「では、お前は強くなりたくないのか?」
「俺は――強くなりたい」
明は悔しそうに顔を歪め、五十嵐は諭すように少し優しめの口調で言う。
「では、こうしよう。お前がプロになって活躍することを見越して、ジムの費用は俺が立て替えてやる。その代りプロになった暁には、それまでにかかった代金をお前自身で稼いだ金で払え。これならどうだ?」
明はなんとも言えない渋い顔をしている。
「なんか腑に落ちねぇな。結局てめぇの世話になってんじゃねぇかよ。まぁそこまで言われたら断るのもなんだか悪いし、今回は話に乗ってやるよ」
五十嵐は不敵に笑うとこう切り出した。
「ラーメンでも食いに行くか」
「なんか企んでんな。まぁいい、行ってやるよ。てめぇの奢りでな」
「良いだろう。そうと決まれば善は急げだ。さっさとシャワーを浴びて着替えろ」
五十嵐はそう言うと身体の向きを変え、明を残してシャワールームに行ってしまった。
15分後、明は少々不満だったが、国道6号線を五十嵐と一緒に歩いていた。ラーメン屋は思ったよりも近くにあった。
“ここは行ったことないな”地元にずっと住んでいた明が、知ってはいたものの立ち寄らなかったラーメン屋。大きく『雷鳴軒』と書かれた大きな看板を掲げたその店は、とにかく豚骨の臭いが強く、店の前を通っただけで癖のある味だというのは容易に想像できた。
「おい!てめぇ。ここは臭いがキツいことで有名だろうが。俺はこんなもん食わねえぞ」
明が帰ろうとすると、五十嵐は意外なことを言われたといった表情で立ち止まる。
「俺はここのラーメンが大好きなんだ。俺の弟子になると言うのなら、このラーメンを食べられるようになってもらわないと困る」
五十嵐にそう言われても、明は全く食べる気がしない。五十嵐はそれを察したのか、明にこう提案した。
「チャーシュー5枚に煮卵も付けてやる。大サービスだぞ、どうだ?」
明は納得行かないといった態度だが、渋々五十嵐に着いて行った。もちろん五十嵐はそんなことはお構いなしだ。
「へい、らっしゃい」
大将が元気よく声を掛けると、五十嵐はチャーシューメン大盛り2つ、煮卵も追加と言いカウンターに座った。
「お前をここに連れて来たのは、1つお前に聞きたいことがあったからなんだ」
「っていうか、てめぇ名前くらい聞かねぇのかよ。俺も喧嘩馬鹿だが、てめぇもボクシングのことしか頭にねぇんじゃねぇのか?」
「お前に礼儀のことを言われるとはな。すまなかった。俺は五十嵐 敬造だ。お前の名は?」
「赤居 明だ。1966年9月30日生まれの16歳。身長168cm、血液型はO型」
明の勝ち誇った表情を見て、少し可愛げのあるやつだと思いながらも五十嵐は話を続ける。
「そこまで詳しく言われるとはな。案外礼儀のある奴かもしれん。まぁいい。ここで本題だがお前欲しいものはあるか?」
「欲しいもの?」明は不思議そうに五十嵐が言った言葉を繰り返す。
「ねぇよ。俺は欲しいものは力ずくで手に入れて来た。それはこれからも変わらねぇ」
予想していたとはいえ、明の答えを聞くと五十嵐は少しばかり虚しさを感じずにはいられなかった。
「では、今のお前に手に入れたくても手に入れらないものを教えてやる。ボクシングで世界チャンピオンになると何が貰えるか知っているか?」
「知らねぇよそんなもん。メロンでもくれるってのか?」
「まぁ知らないのも無理はない。お前くらいの年頃の奴は、女のことしか頭にないもんだからな。教えてやるよ。ボクシングの世界では、チャンピオンになった者だけが腰にチャンピオンベルトを巻くことができるんだ。今日からそれが、お前の一番欲しいものになる」
五十嵐にそう言われても、明は一向に興味を示そうとしない。
「そんなの目指して何になるんだ?最強?伝説?勝手にやってくれ。そんなかったりぃことに付き合ってられるか」
五十嵐はこの時を待ち詫びていたかのようにこう切り出した。
「この俺が世界チャンピオンだとしてもか?」
明は啜っていたラーメンを思い切り咽た後、五十嵐の方を見る。
五十嵐は今まで見せた以上に不敵な笑みを見せている。
「てめぇフカシこいてんじゃねぇぞ。確かにてめぇの強さは本物だが、こんなところに世界チャンピオンが居るかよ」
「嘘だと思うならあれを見てみろ」
五十嵐に言われて振り向くと、店内にあったテレビからニュースが流れて来た。
「続いてのニュースです。28日に行われた、世界バンタム級タイトルマッチ、チャンピオンである五十嵐 敬造と挑戦者である古波蔵 政彦との試合は、15ラウンド、チャンピオンの必殺技『スマッシュ』が炸裂し、見事、勝利を収めました。途中『テンプル』蟀谷への打撃で勝ちを危ぶまれましたが、見事な逆転勝利と言えます」
映像付きで決定的な証拠を突き付けられ、完全に反論の余地がない。
「マジかよ――」それだけ言うと明は固まってしまった。
「目標がないとやり難いだろう。まずはライセンスの取得、それから、10月に行われる新人戦に出場するぞ。それに向けてトレーニングするように」
「するようにって、トレーニングはちゃんとてめぇが見てくれるんだろうな?」
「俺も自分のトレーニングで忙しいんだ。たまには稽古をつけてやるが、お前にぴったりの指導役を用意しよう」
そう言うと五十嵐は、またしても不敵に笑って見せた。明は少し不審に思いながらも「よろしく頼む」とだけ言い家路に就いた。
翌日、ジムに顔を出して、米原 忠次郎という男と話をした。この男は、スパーの時にグローブを嵌めてくれた後ゴングを鳴らした男で、このジムの会長であり、なんでも五十嵐の高校時代の同級生だという。小中学生の頃は大分で過ごし、知識は豊富だが、実戦経験はないらしい。
米原にガンを飛ばしつつも、サンドバックを叩いていると、一人の女の子がジムに入って来た。身長は150代後半、髪の毛はセミロングで黒、落ち着いているが、明るそうな子だった。
「やるじゃんキミ!」
「あ?誰だてめぇ。あたりめぇだろ。俺は天下の赤居様だ」
「へぇ~。赤居くんはどの階級なの?」
「階級?なんだそりゃ」
「階級だよ階級。フライ級とかバンタム級とか」
「んなもん知らねぇよ。そんなもんは関係ぇねぇ。誰が相手だろうと纏めてぶっ飛ばしてやる」
「あはは。赤居くんって面白いね。ボクシングはそんなに甘くないと思うよ」
「ならてめぇに何が分かるってんだよ。俺は今、ライセンスを取るので忙しいんだ。五十嵐の言ってたコーチもまだ来ねぇし。まったく何なんだよ」
そんな話をしていると、五十嵐がジムに入って来た。
「おう秋奈、もう来ていたのか。流石に行動が早いな。素人を見るなんて退屈だと感じるかもしれないが、コイツは骨があるぞ」
「なんだよ!おっさんの知り合いかよ。誰なんだよコイツは」
「姪の赤城 秋奈だ。お前のコーチさ。まだ若いがボクシングをしっかりと知っている子だ」
それを聞いて、明はあんぐりと口を開けたままフリーズしてしまった。
紹介を受けた秋奈は元気良く話す。
「秋奈で~す、よろしく。赤居くんはまずボクシングのルールから覚えないとね」
そう言われても明は納得がいかず、五十嵐に食って掛かる。
「おい!てめぇ。俺を世界チャンピオンにするって言ったよな?こんなガキに俺を教える力があんのか?」
「当然だ。武士に二言はない。この子はこう見えても、16年間この俺を見て来た子だ。お前がチャンピオンになる為に必要不可欠な存在だと踏んでいる。とは言えすぐに馴染めるほど、お前は人付き合いが上手くはないだろうな。まぁ少しずつお互いを信頼できるようになるといいさ」
「こんな年下に見えるような奴で本当に大丈夫かよ。まぁいい。ちょっと外の空気を吸って来る」
明はそう言いうと、少しムッとした表情の秋奈に「じゃあな」とだけ言い残し、散歩に出かけてしまった。
「明くんって本当に良い子なの?」秋奈にそう言われ
「今に分かるさ」そう答えると、五十嵐も一つ欠伸をしてジムから出て行ってしまった。
「引き受けない方が良かったかなぁ?」
独り言を言う秋奈は、この選択を肯定する要素が欲しいままだった。
30分後、ジムに戻って来た明に対し、秋奈は頻りに何か唱えている。
「ミニシナ、フラバン、バンゴミ、フェゴナ、ライムギ、ウェルブナ、ミドナミ、クルハム!」
秋奈が唱える謎の『呪文』を明は真剣に聞いている。
「みにしな、ふらいぱん、ばんとう、ふぇ、ふぇ――」
復唱するだけなのだが、明には少々難しいようだ。
「あぁ~もう!本当に脳みそ入ってんの?これで30回は間違えてるよ」
「うるせぇ、俺は勉強が苦手なんだ。だいたいてめぇのその変な『呪文』いまいち意味が分かんねぇんだよ」
『明くんに良いこと教えてあげる』
秋奈にそう言われて、繰り返そうとはするものの、意味の分からない言葉を口にするのは思いの外難しいものである。
「これはボクシングの階級を表してるの。ミニマム級は約47キログラム以下、フライ級は半で約50キロ以下、バンタム級は約53キロ以下、フェザー級は約57キロ以下、ライト級は約61キロ以下、ウェルター級は約67キロ以下、ミドル級は約73キロ以下、クルーザー級は約86キロ以下でヘビー級はそれ以上。これさえ覚えればすぐに階級別に体重が分かるんだよ」
秋奈は少し得意げに『呪文』の意味を語り始めた。明はライセンスを取るために、秋奈と二人三脚で勉強を始めたのだが、天性の性分なのか規定を覚えることがどうも上手くできないらしい。
「いくらボクシングのことだからって勉強は苦手なんだよ。もっと上手くライセンスを取れる方法はねぇのかよ。殴り合いのスポーツに知識もクソもねぇだろ?」
「ボクシングは頭を使わないと強くはなれないよ。相手を知って戦略を立てて技術を磨いて。五十嵐の叔父さんも頭を使うようになってから強くなれたって言ってたよ」
そんな話をしていると、ジムに五十嵐が入って来た。
「どうだ学習は進んでいるか?先生が良いからすぐに覚えられるだろう」
二人は無言で嫌な顔をした。
「そうか。やはり俺と一緒で勉強は苦手だったか」
「高校中退の俺にテストに合格する力があんのか?万年赤点で、できそこないと言われたこの俺に――」
「心配するな。ボクシングは頭は使うが、世間で言うお勉強の力は必要ない。お前のその拳一つで切り開いて行ける世界だ。少々厳しい戦いにはなるが、コーチもいるし大丈夫だろう」
「見込みがあるから言ってんだよな。あんたは何の戦略もなく話を進めるような人じゃねぇ」
「分かって来たじゃないか。赤居、お前筋トレしたことあるか?」
「筋トレ?ねぇよ、そんなかったりーもん。俺は強いから必要ねぇ」
それを聞いた秋奈は驚いて口を挟む。
「何のトレーニングもなしにあんなに力強かったの?自重のトレーニングくらいやってるのかと思った」
五十嵐はなんだか嬉しそうにしている。
「これから一ヶ月、一からお前を鍛え上げてやる。だいぶキツいだろうが根を上げたりしないだろうな?」
「誰に向かって言ってんだ。俺は途中で逃げ出すようなカスじゃねぇぜ」
「プロボクサーのライセンスは17歳以上。誕生日の9月30日に試験があるのは凄くラッキーなことなんだぞ」
「運も実力だろ?引き寄せられるのは、それに向かって努力してるヤツだけだしな」
「その通りだ。まあ誠心誠意、頑張ることだな」
それから明は、暇を見つけてはジムに立ち寄り、秋奈から知識を教わって行くのであった。
それから一ヶ月後の9月30日。明はライセンスを取得するため、ジムの会長、米原と東京都文京区後楽にある後楽園ホールへと足を運んでいた。午前8時、珍しく時間通りに会場についた明は米原から開口一番こう言われた。
「昨日はよく眠れたか?」
「あぁ、よく眠れたよ。あと40時間は起きていられそうだ」
「嘘を吐け。その目の下の隈は何だ。昨日は2時か3時まで寝られなかっただろう」
「うるせぇ! 今日はせっかくの試合なんだ。景気良くブチかましてやるぜ」
語彙の少ない明は『図星』という言葉をまだ知らなかったが、この状況をそのように捉えていた。明はそう言うと、方向も分からないのに歩き出してしまった。
『プロテスト』は10問程度の問題がある『筆記試験』と2分30秒×2ラウンドで行われる『実技試験』に分かれる。だが、実際は筆記はそれほど難易度は高くなく、ほとんど実技試験の結果で決まると言っても過言ではない。落ち着いて筆記試験を済ませ、実技試験に移る。
「俺の使っていないシューズをやろう。昔、買ったもので少し型は古いが、新古品ってやつだ」
五十嵐にそう言われて貰ったシューズの裏に、『マツヤニ』を付けて滑らなくする。
「今回対戦する、相模 腕です、よろしく」
話し掛けて来たのは身長180cm程はあろうかというわりと大きめの男であった。
「赤居 明だ。よろしくな。っていうか、なんでマゲ結ってんだ?」
相模は侍のようにチョンマゲを結って参加していた。
「僕は、思うように体重が増加しなくて、本当は相撲取りになりたかったんだけど、ボクサーとして頑張ることにしたんだ。これは武士としてのプライドだね」
“こんな奴に負けたくねぇな“明は密かにそう思った。
「そうか。まぁお互い頑張ろうぜ」
「ああ、頑張ろうぜ!」
急に馴れ馴れしくなった相模に対して明は少し驚いたようだ。
「バッティングとローブローに気を付けて、お互いに正々堂々と闘うように」
審判にそう言われて、タラバガニのように足を開いている相手と向き合って構えた。
『バッティング』とは勢い余って互いの額がぶつかってしまうことであり、『ローブロー』とはトランクスのベルト部分よりも下への攻撃を意味する。
赤居だから赤色がいい。そう言って買ってもらったトランクスの位置を気にしながら、試合開始のゴングを聞く。その試合の最初のパンチを『オープニンングブロー』と言うが、プロテストはほんの10秒でノックアウトしてしまった。晴れてC級ボクサーとなった明は、それからトレーニングを積み、10月15日から行われる新人戦に参加することとなった。
「バンテージにタオル、グローブは持った?水筒もトランクスも要るよ」
明の母はわりと心配性のようだ。
「持った持った。まったく、口うるさい母親だな。子供じゃねえんだからよ」
明は少しうんざりした様子で答えた。新人王トーナメントは4回戦、2ノックダウン制で行われる。どうやら、ライセンスを取得する時に対戦した相模も、今回のトーナメントに参加しており、小関 健という選手と対戦するようだ。
明の初戦の相手は、高校では番長だったという坂東 寵児となっている。会場は東京都渋谷区にある国立代々木競技場の第二体育館で行われる。試合開始30分前、初戦とあって、米原のアドバイスにも熱が入る。
「いいな、練習は本番のように、本番は練習のようにだ。大事なことだから忘れるんじゃないぞ」
「なんだよ、それ。切羽詰まったら、そんなの忘れちまうよ」
「まあ、土壇場では、頭ではなく、身体が覚えているものしか役に立たないからな。冷静になって、リラックスしろってことさ」
「分かった。それならできそうだ」
“これでようやく試合に集中できる”
そんなことを考えていると、控室に対戦相手の坂東が入って来た。
「突然お邪魔してすみません。バンテージを貸してもらえないでしょうか?」
「ああいいよ。ちょうど残り2回分くらいのがあるから、これを使うと良い」
米原が嫌な顔一つせずに答えたのに対し、“人が良過ぎじゃねぇか?”明はそう思いながら聞いてみた。
「いいのかよ。こういうのを敵に塩を送るって言うんだろ」
「スポーツというのは己の限界を知るために行うものだ。不戦勝などという不名誉な勝ち方では、自分を高める機会を逃してしまうことになるだろう」
“そういうもんなのかな?”明は少々モヤモヤした思いがあったが、会長の言うことなので聞き入れることにした。
「ありがとうございます。お互いに正々堂々と闘いましょう」
坂東は学生時代に番長として鳴らしたとは思えないほどの礼儀正しさであった。それから定刻となり、アナウンスを受けて入場し、リングへと上がった。双方のセコンドが審判の下に集まり、ルールの確認を行う。
因みに、セコンドが試合に関わるには『セコンドライセンス』が必要だが、『トレーナーライセンス』を所持している者は取得しなくても良いことになっている。
それから、ゴングが鳴り、まばらな観客の中、試合は行われた。試合内容としては、坂東は拳を耳の横から出す様が、電話を掛けているように見えるためそう呼ばれる『テレフォンパンチ』を多く繰り出す選手であったため、明の実力には遠く及ばなかった。
このパンチは繰り出すまでにロスが多く、先に相手の攻撃を食らったり、カウンターを受けたりしやすいことが弱点となるため、悪手であると言える。1ラウンド開始1分半で余裕を持って試合を決めた明は、少し物足りなさを感じていた。
そして、初戦から二週間後の10月29日。トーナメント二試合目、準決勝は東京都江東区にある有明コロシアムで行われる。試合の相手は大宮 潤との試合に勝利した、勅使川原 裂との対戦となる。
彼は魚屋の息子で、空手の県大会で2位に入賞したこともある実力者だ。少々余裕を見せている明に対し、米原は気を抜かないようにと釘を刺す。
「今回のトーナメントには『輸入ボクサー』は居ないようだな。大抵ロシア辺りから来た奴が一人くらいは居るもんだが」
「そんな奴が居たら面白いかもな。なんか楽勝な気がするんだよな、このトーナメント。さっさと優勝しちまいてえぜ」
「そうかもしれんが、気は抜くんじゃないぞ。試合に勝つことは、己に勝つことだからな」
「ああ、オシャカになっちまわねえように頑張るよ」
明はそう言い残すと、スタスタと会場まで向かって行ってしまった。試合開始5分前、秋奈と五十嵐は観戦のため、観客席に来ていた。どうやら秋奈は少し機嫌が悪いようだ。
「もう~。新人戦だからって、明くんの試合なんだから寝ようとしないでちゃんと見てよ」
「んん~。今のところ赤居の敵になるほどの奴は出て来ていないからな」
「せっかく来たんだから、応援すればいいのに」
秋奈の話を気にも留めず、五十嵐は会場の一点を見つめている。
「あれは――」五十嵐は誰かに気付いて近づいて行く。
「古波蔵じゃないか。どうした?こんなところで」
「五十嵐くん!いや~実は筋の良い子に出会ってね。生まれて初めて『指導』することにしたんだ」
「ほう~奇遇だな。実は俺も同じ状況なんだ」
「やはり、宿命と言うものなのかな~。その子は近い将来、間違いなく世界に名を馳す存在となる。今日は決勝戦での対戦相手を見ておこうと思ってね」
「これは次の試合は苦戦するかもしれんな。名は何と言うんだ?」
「与那嶺くんと言うんだ」
その言葉を聞いた秋奈は、顔から血の気が引くのを感じた。
「ヨナミネ?ヨナミネって『与那嶺 弘樹』のこと?」
「あいっ。友達かい?よく知ってるね~」古波蔵は嬉しそうにしている。
「なんだ秋奈?知っているのか?」五十嵐も同じ気持ちのようだ。
テンションの高い二人に対して、秋奈は冷静に言い切る。
「友達な訳ないでしょ。武蔵総連の初代総長だった人だよ。中学2年生の時に10人に絡まれて無傷で帰って来たって有名だよ」
武蔵総連とはメンバー50名以上、関東最強の暴走族である。
「ほお~おもしろそうな奴だな」五十嵐は全く意に介さずと言った様子だ。
「やめといた方がいいよ。『鬼殴り』って言って、殴りだしたら気絶するまで絶対に止めないんだって。ヤバいんじゃない?」
「大丈夫さ。赤居は俺が見込んだ男なんだ。古波蔵、悪いが今回も勝たせてもらうぞ」
五十嵐は自信満々に言い切った。
「五十嵐くんの教え子は赤居くんと言うのか~。覚えておくよ。だけど今回は前の時のようには行かないよ、なんたって彼には――」
古波蔵はそう言い掛けて言葉を飲み込んだ。その後、「決勝で会おう」とだけ言い残し、その場を後にした。明の試合は、殴る部分『ナックルパート』でない拳の内側で打つ反則打である『インサイドブロー』や、手を開いたまま打つ反則打である『オープンブロー』などクリーンとは言えない相手の攻撃に怪我の心配があったものの、2ラウンド中盤で得意のアッパーが決まり、決勝へと駒を進めることができた。
『オープンブロー』は縫い目などで相手が額をカットする危険性があること、殴った方が手首を痛める危険性があること、耳に当たると鼓膜が破れることから、かなり危険な反則打であると言える。そして、試合と試合の間の10分間の休憩を挟み、与那嶺の試合が行われたが、対戦相手の中垣 泰造は1ラウンド終了を待たずして速攻でやられてしまった。
「コンパクトで良いフォームをしていて、ヒット&アウェイが徹底している。『リターンブロー』も上手く狙っているな。若い頃の古波蔵を見ているようだ」
五十嵐は与那嶺の実力を相当高く評価したようだ。『リターンブロー』とは、相手の打ち終わりに合わせて打つパンチである。狙われているパンチをわざと打つ『捨てパンチ』を打ち、その後にこれを打つことも多い。
一方の秋奈は、その暴力的な内容の試合を見ていられなかったようだ。
1983年11月13日、先日プロテストを行った後楽園ホールにて、いよいよ新人王トーナメント決勝が行われる。控室では五十嵐が頻りに明に話し掛けている。
「拳は完全に握るな、少し開け。鞭を撓らせるようにして相手に叩きつけろ。それと、お前はどうも窮地に陥った時に真正面に構えてしまう癖があるようだ。これからは意識して斜に構えるようにして行け」
「なんだよ、急にアドバイスなんかし始めて。まるで俺が負けないように言ってくれてるみたいじゃねぇかよ。この俺がこんなところで躓く訳ねぇだろ」
五十嵐は不安を悟られまいと思っていたが、明が以外にも鋭かったので感心した。
「はっはっはっ。それはそうだが、勝負の世界に『絶対』はない。窮鼠猫を噛むと言うし、獅子は兎を狩るのにでも全力を尽くす。最後まで気を抜くんじゃないぞ」
明は不本意だが、これも勝利のためと割り切って聞き入ることにした。そして、この試合の為にJBC日本チャンピオンである安威川 泰毅が、『暇潰し』と称して訪れていた。
もちろんこんなことは異例だ。日本ランカーの試合でもないのに、チャンピオンが視察に来るなど多少仰々(ぎょうぎょう)しい話だ。その真意としては、五十嵐と古波蔵の愛弟子を見ておきたいとする意向があってのことであった。
当の明はと言うと、そんなことはどこ吹く風で涼しい顔でアップを始めている。それも今話題の狂犬、与那嶺 弘樹との試合を前にして。
対する与那嶺は、沖縄生まれ、東京都出身、光栄ジム所属で、試合になると驚くほどの闘志を見せる選手である。並外れた根性があり、クリーンファイターとしても有名だ。身長165cm、体重116ポンド、右利きで、一見穏やかそうだが、かなり好戦的である。戦績は4勝0敗0分4KOというKOファイターでもある。
しっかりとしたボクシング哲学を持っており、『ジャブなくしてストレートなし』という名言を言い放ち、周囲を驚かせた。
一方の明は、相変わらずの喧嘩っ早さと一撃必殺のアッパーが特徴だが、その威力はまだ完成とは言い難いと五十嵐から言われていた。人の言うことを話半分に聞く癖もあり、試合前に「相手はストレートを打つことが多いが、フックの方が強いから注意しろ」と言われたことも既に忘れかけている。試合開始まであと2分と迫った時に両者は審判から呼ばれた。
白のトランクスの与那嶺は、周囲を急かすように試合開始を今か今かと待ち詫びている。開戦を前に、会場は異様な緊張感に包まれていた。
『カンっ』
ゴングが鳴らされると、明は真っ直ぐに与那嶺の所に向かいジャブを放った。対する与那嶺はそれを受け、スピードのある速いパンチを繰り出して来る。手数が多く、低めのパンチを多用している。顔の下で拳を構え、右手を引いた『オーソドックススタイル』のようだ。時折揺れるその両腕は相手を鋭く狙うカマキリに似た構えだ。
テンポよく拳を突き出す与那嶺は前傾姿勢『クラウチングスタイル』をとって来た。彼は突進型の『ブルファイター』であるようだ。因みに『ブル』とは牡牛を『カウ』は牝牛を『カーフ』は仔牛を指す。牡と牝は『オトヒメ』と覚えると思い出し易い。
どうやら彼は接近戦に持ち込むことを得意とし、リーチの長さを活かすファイターでもあるようだ。長いリーチを存分に使い、怒涛のラッシュで明をマットに沈めようと試みる。
明はというと少し緊張しているのか、練習の時よりも手数が少ないように見える。だが、決して与那嶺に気押されているという訳ではなく、良い緊張感を持って試合に臨めている。明が猛攻を掻い潜り、右ストレートを繰り出すと、拳が頬を掠めた与那嶺が少し眼光を強めた。怒っている訳ではない。明の只ならぬ素質と気迫に、与那嶺自身が気を引き締める為に気合を入れ直したといったところであろう。
グッと拳に力を入れた後、得意の左フックを腰を入れて撃って来た。明はそれを頬に食らったがビクともしない。与那嶺は少し驚いたが、冷静さを欠くことなくファイトを続ける。混戦の中ゴングが鳴り、第1ラウンドは終了した。
「フックに気を付けろと言っただろ。お前まさか柄にもなく緊張しているんじゃないだろうな」
「楽しみにしてたからちょっとボーっとしちまっただけだ。あんな奴3秒でKOしてやるよ」
「誰だって4回戦選手、『グリーンボーイ』の時は緊張で身体が強張るものさ」
「大丈夫だって、俺には自分が負ける姿が想像できねえよ」
「自信家だな。それはボクサーとして良いことだが、過信は身を滅ぼすぞ。まぁ今日の相手なら、俺はお前が勝つと踏んでいるがな」
第2ラウンド開始のゴングが鳴ると、今度は与那嶺が勢いよく明に迫って来た。明はそれを素早く躱すとボディーブローを一発お見舞いする。歯を食いしばる与那嶺。体勢を少し低くして守りを強化した後、両手での攻撃を緩める気配はない。4ラウンドだけとはいえ、体力には自信があるようだ。
明は負けじと応戦するが、一瞬鋭い痛みが襲って来る。思わず相手と距離を取る。右の拳を少し痛めたらしいが、それでもジャブは打ち続ける。撃つ度にチクりと痛みが走る。与那嶺が隙を見て大きく一発繰り出そうとした時、明はゴングに救われた。
「どうした、途中から動きが鈍って来たぞ、どこか痛めたのか?」
“鋭いな”明はこの時ばかりは感心した。
「そんな訳ねえだろ。俺はいつだって絶好調だ。黙って見ててくれれば、それでいいぜ」
「どの道少し痛めたくらいなら続行させるがな。今回はまたとない好機だ。良い相手と闘えるし、敬造が見込んだ程の実力のある男なら、新人戦くらい優勝してもらわないと困るからな」
「まぁあんたの期待に応えるならそうだろうな。新人戦なんて俺にとっては通過点にすぎねぇけどよ」
「どこまでも強気な奴だな。奴は『ステッピング』の中でも、『バックステップ』が得意で、後ろに下がりやすい傾向がある。そこに追い打ちを掛けて『アッパー』をお見舞いしてやれ」
明は「分かった、やってみるよ」とだけ言い、次のラウンドに備えた。
第3ラウンドのゴングが鳴ると、米原は左手で明の背中を押し出した。明は試合前に二つ米原と決め事をしていた。一つは手と足を止めないこと。もう一つは試合中に一回は必殺のアッパーを入れること。一つ目は今のところ達成できそうだが、アッパーに関してはガードの堅い与那嶺の手前、完全に攻めあぐねていた。
不意に与那嶺のフックが明の額を掠め、剃刀で切られたような痛みが走る。鮮血が吹き出し、試合は一旦中断された。ボクシングでは一度額に傷が入ると、攻撃を加えた方を減点するというシステムになっている。与那嶺は額の血を拭う明を見て唇を曲げ、不満を露わにした。
試合再開、明は先程のお返しとばかりに与那嶺の顔面に強烈な左フックをかます。与那嶺はその重たさに思わず身体を揺らしてしまう。これまでテンポ良く動いていた与那嶺に一瞬、僅かな隙ができた。明がその隙を見逃す筈がない。渾身の力を込め、握りしめた拳を振り上げる。明の手が与那嶺の顎を打ち抜いた瞬間、彼が白目を剥いたのを米原は見逃さなかった。
『ジョフレアッパー』
明が繰り出し、与那嶺の顎に1cm鋭く当たったアッパーは、『黄金のバンタム』エデル・ジョフレのアッパーに、その型が酷似していた。しかし、大きな虫を切り裂くような一撃が、明の左頬に突き刺さった。
“野郎、意識がねぇのに打って来やがったな”
倒れ際に出された与那嶺の『スージーQ』を食らい、首が捩じ切れそうになりながらも、なんとか体勢を保った。この技は『あの』ロッキー・マルシアーノも使ったという、高性能爆弾と言われることもあるフックである。
人が膝をついて崩れ落ちる姿を、明は初めて目の当たりにした。不良時代はただ単純に殴り合うだけの世界に居た。相手を殴り倒しても、崩れ落ちるような鋭さを持ったパンチを食らわすことはなかった。唐突に感じる武者震い。
“俺は強くなった”
もう学校をふけて煙草を吸い、弱いものを痛ぶっていた頃の自分とは違う。本当の強さを。男としての逞しさを身に着けることができた。この時、明は遅まきながら初めて五十嵐に感謝した。
1、2、3、4――審判がカウントを始める。
“まさか起きては来ないだろう”明はそう思った。
7、8――9カウントまで行った時、与那嶺は苦しそうに身体を持ち上げた。審判の確認に顔を強張らせながらファイティングポーズを取る。そこには先程までの余裕と冷静さはない。明は起き上がって来たその根性に、畏敬の念を抱いた。
試合再開、与那嶺は2回ほどその場でジャンプし、明に襲い掛かって来た。しかしキレの落ちたストレートは、明の顔を捕らえることはなかった。明が4発ほど与那嶺に食らわせたところでゴングが鳴り、第3ラウンドは終了した。
米原は切れた瞼の処置のため、剃刀で切って目の上の傷口を目尻の方に逃がし、深く掘れることを避ける処置をした。そして『アビテン』と呼ばれるアドレナリン軟膏を丁寧に塗り、その上で氷嚢を用いて腫れを引かせ、止血をした。
「極度の興奮状態に陥るとアドレナリンが大量に分泌され、止血作用を施すと言うし、後1ラウンドくらいは大丈夫だろう」
処置の最中ではあるが、明は先程の豪快なダウンに気を良くしており、米原の言葉などまるで聞いていない。
「どうだ、おっさんが見込んだだけのことはあるだろ」
「あぁ。お前はもしかしたら俺が思っていた以上の逸材なのかもしれないな。ますます今後が楽しみだよ」
「ありがとよ。俺は絶対勝って見せるぜ」
「そうだ、その意気込みが大事だ。あと1ラウンド、最後まで気を抜かずに闘えよ。もちろんKOしてくれてもいいぞ」
“人に褒められると素直になるんだな”そう思いながら、米原は明を奮い立たせるように鼓舞した。
第4ラウンドのゴングが鳴ると明と与那嶺は互いの右手を合わせ、最後のラウンドを全力でクリーンに闘うことを示し合った。与那嶺はこれまで勝った試合は、全てKO勝ち。そのジンクスを守り通し、この相手には勝ちたいと考えた。
“こいつは将来、俺にとって大きな障壁になる。ならばこの場で捩じ伏せて完全に自分が強いことを印象付けておきたい。自分もそのイメージを持つことで今後、明と闘い易くなる”そう考えた。
与那嶺の中にある焦りとは対照的に、明はこのラウンドを楽しいと感じていた。右手の痛みなどとうに忘れ、ただ打ち合いができることに喜びを覚えていた。スポーツ選手にとってその競技を楽しいと感じている時は、大抵上手く行っている時である。
拳を突き出しながら苦しそうに顔を歪める与那嶺。終始笑顔を見せ、まるで軽くスパーリングしているかのような余裕を見せている明。両者の中でこの試合の感想はまったく異なっていることであろう。明は合計21発ものパンチを与那嶺に当て、このラウンドを終えることができた。ゴングが鳴り、マウスピースを外し、互いの健闘を称え合うように二人は歩み寄った。
「負けたよ。判定を待たなくても分かる。まさかこの俺が二つも年下の奴に負けることになるとはな。もう闘う相手はいないかと思っていたが、間違いだったようだ。また一から鍛え直すよ」
与那嶺は試合が終わると穏やかさを取り戻し、悔しさを噛み締めながらも明を認めたようだ。
「おめぇも強かったぜ。2ラウンド目までは、正直どっちが勝つか分からなかったからな。気が向いたらまた楽しもうぜ」
与那嶺は目を見開いて、少し驚いたような表情を見せた。
「楽しもうぜ――か。どうやら俺はボクシングの根本的なところを間違っていたようだ。相手をKOすることしか考えていなくて、いつしかボクシングが義務のようになっていた。今日の試合は凄く為になったよ」
「ボクサーは皆、喧嘩が好きな奴だと思ってたけど、そうじゃねぇ奴もいるのかもな。まぁなんにせよ俺は好きなことは楽しい筈だと思うぜ」
与那嶺は小さく頷くと、明に右手を差し出して来た。
「握手なんて柄じゃねぇけどな」
明はそう言ってはみたものの悪い気はしていなかった。三名の審判が判定を伝え、レフェリーがそれを読み上げる。
「只今の試合の結果、42対27、43対29、40対28で赤居 明選手の勝利!よって今回の東日本新人戦、バンタム級は赤居 明選手の優勝です!!」
判定は3対0、フルマークでの判定勝ちとなった。結局は与那嶺のガラスの顎、『グラスジョー』が命取りとなる結果であった。強さの余り殴ることしか知らなかった彼だからこそ、殴られることには滅法弱かったのであろう。エキストララウンドに持ち越されることもなく『完封』と言える試合内容であった。
「やったあぁー!」
明より先に、明より大きな声で喜ぶ秋奈に、少し戸惑いながらも、明は新人戦での優勝を喜ばずにはいられなかった。
トーナメント終了後、『敢闘賞』が与那嶺に、『技能賞』が相模に、『最優秀選手賞』が明に贈られた。『最優秀選手賞』に選ばれたことに対して明は「当然だろ」とだけコメントした。
その後一ヶ月間、試合をするつもりで調整を行ったが、試合中に痛めた右拳の怪我が思いの外悪く、治るのが間に合わなかった。結局は棄権という形になり、西の新人王である『桜山 拳一郎』が特例としてA級10位にランクインすることとなった。
「全日本新人戦は東軍が赤で西軍が青のトランクスを履くから丁度良かったんだがな」
五十嵐は名残惜しそうにしていたものの、明は世界チャンピオンにまた一歩近づけたことに対して嬉しく思っていた。