【短編版】昨日まで名前も呼んでくれなかった公爵様が、急に「愛してる」と言って溺愛してくるのですが、一体何があったのでしょう?
前半ヒロイン視点、後半ヒーロー視点になっています。
※連載版の書籍化&コミカライズ決定致しました!
「マリエーヌ! マリエーヌ! どこにいるんだ!?」
公爵様が……私の名前を呼んでいる?
何日にも渡って雨が降り続けて、ようやく晴れた日の朝。その声は屋敷の中に響き渡った。
声の主はこの屋敷の主であり、私の夫――アレクシア公爵様。
公爵様の声は、いつもの様に自分の部屋で一人、身支度をしていた私の耳にも届いてきた。
三日前から原因不明の高熱を発症した公爵様は、ずっと自室で寝込んでいたみたいだけど、熱はもう大丈夫なのかしら?
部屋の外からは、屋敷の使用人達がバタバタと慌ただしく走っていく足音が聞こえてくる。
「公爵様!? どうされましたか!?」
「うるさい! 僕に近寄るな! 今すぐマリエーヌに会わないといけないんだ! マリエーヌ! いるんだろう!? マリエーヌ!」
その声は段々と私がいるこの部屋へと近付いてくる。
でも、なんで私を探しているの?
昨日まで、公爵様に名前を呼ばれた事なんて一度も無かったのに――
私がこの公爵家に嫁いできたのは一年前の事。当時の私の年齢は二十歳。公爵様は二十八歳だった。
私の父は二年前、事業に失敗して多額の借金を背負った。
男爵の爵位が剥奪されるのも時間の問題と思われていた時、借金を肩代わりすると言い出したのが公爵様だった。
その代わりにと、私との婚約話を持ち掛けて来た。
『冷血公爵』
『人の血が流れていない殺人鬼』
『気に入らない者は拷問して殺す』
他にも身の毛のよだつ様な噂が後を絶たない公爵様と、結婚したがる貴族令嬢は見つからなかったらしく、借金に苦しむ私の家に目を付けたらしい。
話を受けたお父様は、私の意思を確認する事なく、喜んでこの話を受け入れた。
お父様は、既に亡くなっている私のお母様の再婚相手で、私を愛してなどいなかった。
多額の借金を清算しようと、結納金を多く納めてくれそうな人を、私の嫁ぎ先にしようと躍起になって探していた。
そこに舞い込んできた、公爵様からの婚約の申し出は願ってもいなかったに違いない。
そうして婚約した私達だったけれど、公爵様は結婚までの半年間、私に一度も会いに来る事は無かった。
結婚式も、ただ書類にサインをする形式だけの結婚式。参列者は私の父親と、屋敷に仕える数名の使用人だけだった。
結婚して一緒に暮らす様になってからも、会話をするどころか、顔を合わせる事も殆どなかった。
屋敷の中で偶然会っても、興味なさそうに顔を背けられ無視された。
食事は別々。私は食堂に案内された事は無く、無愛想な使用人が、冷め切った料理を部屋まで運んできた。
屋敷の使用人達も私とほとんど口を利く事は無く、公爵様に無視される私を見て密かにほくそ笑んでいた。
まるで私なんて存在しないかの様な振る舞いを見せる公爵様。
だけど、月に一度だけ私を寝室に呼んだ。
そういう時の公爵様は、決まってお酒の香りを漂わせ、虚ろな様子で少し不機嫌。
そして私と目を合わせる事無く、まるで作業の様に、子供を成すための行為をした。
愛される事なんて、期待しても無駄なだけ。
公爵様にとって、私は子供を産むためだけの道具にすぎないのだから――
その公爵様が、何であんなに必死になって私を探しているのか、全く見当がつかない。
何か怒らせる様な事をしたのかしら?
身に覚えはないけど、少し怖い。いや、やっぱり凄く怖いわね。
「マリエーヌ‼」
ダァンッ! と音を立てて、私の部屋のドアが物凄い勢いで開かれた。
私はビクッと肩を跳ねらせ、とっさにドアに背を向けた。
恐怖と緊張でドキドキと心臓がうるさく音を立てる。
とりあえず深呼吸して気持ちを落ち着かせる事にした。
もしかしたら、この屋敷から出て行けって言われるのかしら?
だけどそれもいいかもしれない。
ここで公爵様や使用人達から冷遇された生活を死ぬまで続けるよりも、ずっと良い人生を歩める気がする。
よし、覚悟は決まったわ。
「はい。お呼びでしょうか、公爵さ――」
私は開き直る様に笑顔を作って振り返り……その光景を見て声が詰まった。
白銀色の髪を乱し、ハァハァと息を切らした公爵様が、なんとも切なそうな表情で目を見開いて私を見つめていた。
開いた口元はただ震えるだけで、何の言葉も発してこない。
ルビーの様な深い赤色の瞳が揺らいだかと思えば、ポロポロと大粒の涙が流れ出した。
「あ……あ……。マリ……エーヌ……ほんとに……君……なのか……?」
旦那様は一層切なそうに眉を寄せて、絞り出すような声を出しながら私に手を伸ばしてきた。
縋る様なその姿に、見ているこちらの方が胸を締め付けられた。
公爵様のそんな姿なんて、一度も見た事は無い。
他人に隙なんて見せ無い。周りは全て敵だと思っている様な……そんな公爵様だから。
それなのに、こんなに涙を流している姿を人前に晒しているなんて。
何かよほどショックな事があったのかしら? もしかして私のせいで?
って、いけない。ボーっとしてる場合じゃないわ。
私は開いていた口をグッと閉じ、気が抜けていた表情を引き締めた。
そして公爵様の目の前まで駆け寄り、深々とお辞儀をした。
「はい。正真正銘のマリエーヌでございます」
というか、公爵様って私の顔も知らなかったの……?
一緒に住み始めて一年になるのに?
でもありえるわね。今まで私とまともに目を合わせてくれた事なんてなかったのだから。
それはともかく、屋敷を追い出されるだけならいいのだけど、私が何か大きな失態をしていて、その代償を払えと言われたらどうしよう。
震える手のひらをグッと握りしめて、私は公爵様の言葉を静かに待った。
とりあえず、謝る準備はしておいた方が良さそう。
「マリエーヌ……君を愛している」
「はい、もうしわけありま…………は?」
「な!?」
突拍子もなく言われた公爵様の言葉に、私だけでなく、集まってきていた使用人達も驚きの声を上げた。
あいしてる? 今、あいしてるって言ったの……? きみ? わたしを?
公爵様。
きっとまだ熱が下がっていないんだわ。
熱が高すぎておかしくなってしまったんだわ。
私はその熱を確認しようと、公爵様の額に右手を伸ばした。だけどそれが額に触れる前に、公爵様に手を掴まれた。
「!?」
「ああ、マリエーヌ」
公爵様はそのまま私の手のひらに自分の頬を擦り寄せてきた。
涙で濡れた頬は、冷たいと思ったのは一瞬で、すぐに尋常じゃない熱を帯びている事が分かった。
「公爵様。あの……まだお熱が高いようです。すぐにお部屋で休まれた方が良いと思うのですが」
「ああ、それはきっと君の手に触れたから、嬉しさで僕の体温が舞い上がってしまったようだ」
…………いや、公爵様? 絶対、熱、あると思いますよ?
私が怪訝な顔で見つめていると、公爵様は切なく顔を歪めながらも、今までに見た事が無い程の優しい表情で微笑んだ。
そんな風に微笑まれて、私はドキッと音が出てしまったかと思う程に大きく心臓が跳ねた。
公爵様は、性格は恐れられていたけれど、その容姿は一級品。
初めて見た時は『容姿端麗』という言葉以上の表現を探してしまうくらい、その怖く思える程の美しさに言葉を失った。
そんな公爵様に優しく微笑まれて頬を染めない女性がいるだろうか。いや、絶対いないと思う。
公爵様は、私の右手を握ったまま跪き、私を見上げた。
「マリエーヌ。どうか僕ともう一度、結婚してくれないだろうか?」
そう告げた公爵様はとても真剣な表情で、私の答えを待っている様に見える。
どうしよう……やっぱり熱でおかしくなっちゃってるんだわ。
「えっと……私と公爵様は既に結婚していますので……もう一度結婚するというのなら、一度離婚をしませんと――」
「それは駄目だ!」
公爵様は勢い良く立ち上がると、私の両肩を力強く掴んできた。
「きゃ!?」
「あっ……すまない! つい……君が離れて行ってしまうと思ったら気が気じゃなくなって……本当に申し訳ない」
公爵様は慌てて手を放すと、今度は優しく包み込む様に私を抱きしめた。
あの公爵様が……謝った?
決して自分の非を認めない。人に謝罪する事など無いと有名な公爵様が、今謝りました?
しかも何故か抱きしめられてるこの状況。
頬に少しだけ触れている公爵様の胸元からは、物凄い速さで鳴り響く心臓の鼓動が聞こえてくる。
やっぱり熱は相当高いみたい。
「公爵様……病み上がりですので、まだお体が本調子ではないのでは? とりあえず、もう少しお休みになってから――」
恐る恐る近寄って来た男性の使用人が声をかけてくると、公爵様の目付きは瞬時に鋭く変わった。
それはいつも私を見ていたのと同じ。氷の様に冷たい瞳。
だけどその瞳は、今は私ではなく声を掛けてきた使用人へと向けられている。
「うるさい。僕は今、マリエーヌと話をしているんだ。口を挟むな」
ゾッとする程の不機嫌な声に、声をかけた使用人の顔は怯える様に真っ青に染まっていく。
更に公爵様の瞳は鋭くなり、憎しみを込める様な口調で言葉を続けた。
「ああ、なんだお前か。お前はもう明日から来なくていい。荷物をまとめて今すぐにこの屋敷から出ていってくれ」
「はい?」
突拍子もなく公爵様の口から出て来た解雇発言に、当人だけでなく、他の使用人達もざわつき出した。
それを気にする様子もなく、更に公爵様は他の使用人達へと目線を移した。
「あと、お前も。そこにいる侍女達も全員だ。ここにいない奴らにも後で伝えよう。一度しか言わないからよく聞け。今すぐこの屋敷を出て、二度と僕とマリエーヌの前にその姿を見せるな」
「な!?」
「なんですって!?」
「どういう事ですか旦那様!? 私達が一体何をしたというのですか!?」
使用人達が次々と抗議の声を上げるが、公爵様のひと睨みでシン……と静まり返った。
「分からないのか? お前達はこれまでマリエーヌを見下し、ぞんざいな扱いをしてきたのだろう? それを僕が許すはずが無いだろ」
「それは……だって旦那様だってそうだったじゃありませんか!? 奥様の事なんてこれっぽっちも気にかけた事がなかったのに! だから私達だって同じ様にしてきただけで……それなのに、なぜ私達がこんな仕打ちを受けなければならないのですか!?」
侍女の一人が声を荒らげて訴えかけると、公爵様は少しだけ顔を伏せ、唇をグッと噛みしめた。
その表情がなんだか苦しんでいる様にも見えて、少し胸が痛んだ。
「その通りだ。僕の罪も、決して許されるものではない。こんな僕が今更マリエーヌにどう償おうとも、償いきれないだろう」
そう言うと、公爵様は私と向かい合わせになる様に立った。
先程の苦しむ様な表情は一転し、何か強い意志を秘めた様な瞳を私に向けている。
「マリエーヌ。今までの僕の愚行、本当に申し訳なかった。僕を許さなくてもいい。だけど、君の側にいる事だけは、どうか許して欲しい。僕は君が幸せになるためならなんだってする。君は僕の全てなんだ」
真っ直ぐに私を見つめる公爵様は、まるで別人になってしまったかのよう。
「僕はこの先、何があっても君の事だけを生涯愛し続けると誓う。君の願いならどんな事でも叶えてみせる。例えこの世界を敵に回しても、君の事だけはこの命が尽きるまで、いや尽きたとしても必ず守り抜いてみせる」
公爵様は、初めて恋に落ちた少年の様に、私の事を愛しくて仕方がない様な表情で見つめてくる。
その言葉を、私はどう受け止めればいいのだろう。
だってこの状況、この言葉も全て、絶対に熱のせいでしょう?
期待しちゃいけない。
きっと明日になれば、公爵様は全てを忘れていつもの冷たい公爵様になっているはずだから。
そう思っていたのに――
明日になっても、その次の日を迎えても、公爵様が正気に戻る事は無かった。
この日を境に、公爵様からとめどなく溺愛される日々が始まった。
「おはよう、マリエーヌ。薔薇の花が綺麗に咲いていたから摘んで来たんだが……やはり君の美しさには見劣りしてしまうな」
公爵様は毎朝、庭で摘んで来たお花の束を綺麗に包んで私の部屋に持ってきた。
飾り気のなかった私の部屋は、瞬く間にお花で埋め尽くされた。
「マリエーヌ、贈ったドレスは着てみてくれたか? 君ならどんなドレスも似合うと思って選びきれず頼みすぎてしまった。だが、気に入った物がなければすぐに別の物を用意しよう」
連日、山の様にドレスが大量に送られてきた。宝石やアクセサリー等、色々と多すぎて全てを確認出来ていない。
空っぽ同然だったクローゼットにも収まりきらず、空いていた部屋の一室が私のドレス専用のお部屋になった。
「マリエーヌ、今日は天気がいいな。きっと君のおかげだ。今日は昼食を食べたら散歩に行こう」
良い事があればそれは全て私のおかげと言ってくる。
ここまでくるとちょっと意味が分からない。
「奥様って本当に公爵様に愛されてますのね! 羨ましいですわ!」
「そう……なのかしら?」
新しく私の専属侍女となったリディアが、私の髪を梳かしながら、はしゃぐように声をかけてくる。
公爵様の様子が変わった次の日には、仕えていた使用人達はシェフや庭師も含めてほとんどが屋敷を去って行った。
そしてその日のうちに、新しい使用人が次々と屋敷を訪れて来た。
新しく入った使用人達は皆、私にとても優しく接してくれた。
公爵様は連日、甘い言葉と共に私の部屋を訪れてきた。
仕事の合間にも、隙を見て私の元へやってくると、甘いささやきを残して戻って行った。
誰かに愛される事に慣れていない私は、彼から向けられる愛情表現に上手く応えられていない。だけど、戸惑う私にも公爵様は変わらず優しかった。
ずっと孤独だった。このまま一人寂しく一生を終えるのだと思っていた。
だけどあの日、一人ぼっちだった私に、公爵様は手を差し伸べてくれた。
公爵様の手は救いの手だ。
私を孤独という闇から救い出してくれた、唯一の光。
その時、正午を知らせる鐘の音が響いた。
「あ、そろそろ来られる頃ですね!」
リディアの声とほぼ同時に、ガチャリと部屋のドアが開いた。
「マリエーヌ、早く君に会いたかったよ。今日は天気がいいから中庭で食事をしようか」
幸せそうな笑みを向けて、今日も公爵様は昼食の誘いにやってきた。
公爵様は私の手をとり、その甲にキスを落とした。
「マリエーヌ、愛しているよ」
あの日以来、その言葉を何度聞いただろうか。
それなのに、公爵様はとても嬉しそうにその言葉を私に贈り続けている。
私もいつか、あなたにその言葉を贈りたい。
私もあなたを喜ばせたい。
私に幸せを運んできてくれたあなたを幸せにしたい。
その日はきっと遠くない。
名前を呼ばれる度に高鳴るこの鼓動の理由は、きっとそういう事でしょう?
だけど、どうしても分からないのです。
公爵様。
一体あなたに何があったのでしょうか?
side アレクシア公爵
「マリエーヌ……君を愛している」
その名を呼ぶ事。
その言葉を伝える事を、僕がどれほど切望していたか、君は知る由もないだろう――
僕は一度死んだ。
今は二度目の人生を歩んでいる。
前回の人生で、僕はある大きな不運に襲われた。
それは原因不明の高熱が治まってから、一週間後の出来事だった。
僕は馬車に乗り、隣町にある公爵領地の視察へと向かっていた。
だが、山中を走っている時に土砂崩れに巻き込まれ、馬車は大量の土砂によって押し潰された。
幸か不幸か、命は助かったものの、目を覚ました僕の体はピクリとも動かなかった。
目と口だけはゆっくり動かす事が出来た。だけど言葉は思うように発せられない。どう頑張っても、わずかに呻くような声しか出す事が出来なかった。
最低限の生きるためだけの機能を残して、僕は一人では何も出来ない体になっていた。
僕を診察した医師が、諦めた様に首を振り、
「恐らく脊髄と脳を損傷した影響で体が麻痺しているのでしょう。残念ですが、今の医療では回復は見込めません」
唯一の肉親である僕の弟にそう説明し、医師は早々に去って行った。
お金ならいくらでも用意するからなんとかしろ! このヤブ医者め!
そう罵倒してやりたかったが、やはり体は動かない。
あまりにも無力な自分に激しく苛立ちながらも、どうする事も出来なかった。
僕が必死になって守ってきたこの地位も、築き上げた膨大な財産も全て、今の僕には何の価値も無いものになった。
そしてこの時から、僕の地獄の日々が始まった。
「あーもー重たいな! くそっ!」
食事の時間に、僕をベッドから起こして椅子に座らせた使用人が、僕が座る椅子を蹴りあげ暴言を吐いた。
あの日から、使用人が僕の身の回りの世話をし始めた。最初は丁寧に接してくれていたが、それも長くは続かなかった。
三日後にはだんだんと口数は減り、笑いかけてくれる事も無くなった。
更に一週間後。僕の仕事を引き継いだ弟が自分の屋敷に帰ってからは、使用人達の態度は激変した。
不機嫌さを剥き出しにして、暴言や不満を僕に巻き散らす様になっていた。
朝、ノックもなしに男性の使用人が部屋に入ってきた。
何の声掛けも無く、無理やり起こされた僕は、すぐに食事を食べさせられた。
喉が渇いているのに、いきなり口の中にペースト状の何かをスプーンで押し込まれる。
その風味から、それが人参だと分かった。
なかなか飲み込めず、まだ口の中に残っているのにも関わらず、再び同じ物を乗せたスプーンが口元に迫ってくる。
「ほら、早く食えよ」
僕は昔から人参が嫌いだった。口に入れただけで、吐き気をもよおした。
男は苛立ちながら、それを無理やり僕の口の中に押し込んできたが、たまらず僕は口の中の物を吐き出した。
「うわぁ! あーもーきったねぇなぁ! 食べる気がないならさっさと言えよ!」
僕を罵倒し終えると、男は舌打ちすると残った食事を持って部屋から出て行った。
椅子に無造作に座らされたまま、服は吐き出した食べ物で汚れっぱなし。口元もベトベトで気持ち悪い。喉もカラカラだ。
だけど今の僕にはそれらをどうする事も出来ない。
惨めだ……情けない……。
僕の雇っている使用人達は皆、選りすぐりの貴族令息と令嬢だ。
彼らには相応の報酬を与えているし、仕事量も多くは無い。それなりに手厚く待遇していたはずだ。
僕がこんな体になる前は、確かに誠意をもって接してくれていた。
それなのに――声が出せない、体が動かせないというだけで、人はこんなにも態度が変わってしまうのか。
いや、僕も同じだ。
僕は自分に有益をもたらす人間以外、人とも思っていなかった。
生きている価値のない、無能な奴らだと蔑んでいた。
利用出来る人間ならば利用する。だが、どんな相手でも決して弱みを見せてはいけない。
僕をこの地位から引きずり落とそうとする者達は何万といるのだから。
誰かに優しくした事はない。
する必要も無いと思っていた。金があればヘラヘラと媚びを売って来る奴ばかりだから。
例え周りが敵ばかりになろうとも、それを押し返す程の力と財力はあったはずだ。
それなのに……今は自分に仕えている使用人にすら好き放題にされ、抵抗する事すら出来ない。
今の僕のこの状況は、今までの自分の行いが招いた報いなのだろうか――
目覚めてから一ヶ月が過ぎた頃。
「ねえ、もうあの人臭くて近付きたくないわ」
「ほんとよね。最近体拭いたの誰? ちゃんと綺麗にしたの?」
「ねえ、なんで私達がこんな事をしないといけないの? 最初の話と違うわよ。明日から奥様に世話をさせましょうよ」
部屋を掃除する侍女達は、声の大きさを気にかける事なく、手を休めては会話を楽しんでいる。
僕がいるのにも関わらず、平気で僕の悪態をつく声は聞いていて非常に不快だ。
聞きたくない言葉が勝手に聞こえてくる。
いっその事、この耳も聞こえなくなれば良かった。
彼女達の口から出た『奥様』の言葉に一瞬、誰の事を言っているのか分からなかった。
そういえば、僕は結婚しているんだったな。
顔もよく思い出せない。興味が無い名前も忘れてしまった。
政略結婚。世継ぎを産むためだけの女。
使用人からは、僕のお金を思うがままに使い込み、男遊びも酷いと聞いている。
そんな奴が僕の世話をまともに出来るのか?
手厚い待遇を受けていた使用人でさえこの態度だ。
僕が無視し続けてきた女は、一体僕にどんな酷い事をしてくるのだろうか。
怖い。逃げたい。
もう、死んでしまいたい――
次の日。
「公爵様、失礼致します」
部屋のノックと共に控えめな声が聞こえた後、しばらくして部屋のドアが開いた。
この部屋を誰かがノックするのはいつぶりだろうか。
腰まで伸びた亜麻色の髪を揺らせながら、彼女は少し緊張する様な面持ちで、部屋の中へ入ってきた。
窓が開いていたからだろうか。部屋に入り込んできた風が、心地良い温もりとなって僕を撫でた。
背を伸ばし、上品な足取りで僕のいるベッドの前まで来た彼女は、しゃがみ込むと、若葉の様な新緑色の瞳を僕に向けた。
「公爵様、お久しぶりです。マリエーヌです」
マリエーヌ……そうだ。確かにそんな名前だった。彼女は僕の結婚相手で僕の妻だ。
「今日から公爵様のお世話をさせていただく事になりました。どうぞよろしくお願い致します。もうすぐ食事を……いえ、その前に体を綺麗にした方が良さそうですね。少しだけお待ちください」
僕に優しく微笑みながら話しかけると、マリエーヌは部屋から出ていった。
僕の体はもうずっと前から悪臭が酷い。何日も体を拭かれていないせいもあるが、体のあちこちに出来た床ずれが悪臭を放っている。適切な処置も受けられていないせいで痛みも増すばかりだ。
「公爵様、おまたせしました」
お湯や大量のタオル、着替えなどを用意したマリエーヌは、僕の顔を濡れたタオルで拭き始めた。
温かい……。
体温よりも少し温度が高いくらいの温かさ。
絶妙な温度に調整されたタオルで拭かれるのは、なんとも気持ちが良かった。
今までの使用人は、少しお湯を足した程度のぬるま湯を使用していた。
そのせいで、拭いた後はすぐに体が冷えて寒くて仕方がなかった。
マリエーヌは温かいタオルで拭いた後、すぐに乾いたタオルで肌に残った水分を丁寧に拭き取ってくれた。
タオルの温かさと、その細かな気遣いに、冷えきっていた僕の心まで温められた様な気がして、泣きそうになった。
自分よりも一回りは体格差のある僕を、マリエーヌは一人で手際良く、丁寧な動作で体の隅々まで綺麗にしてくれた。
体のあちこちに出来ていた床ずれも念入りに洗い流し、薬を塗ってくれた。
その後の食事も、マリエーヌは一つ一つ何の料理か教えてくれながら、僕の口元へ運んだ。
僕が口を開けようとしなかったら、「これは嫌いなんですね」と言ってスプーンを下げ、無理に食べさせようとはしなかった。
体が不自由になってからは、常に空腹感があった僕のお腹は、この時初めて満たされた。
それから、マリエーヌは毎日僕の部屋へやって来て、僕の世話に尽力してくれた。
何日、何ヶ月経っても、マリエーヌの僕への接し方は変わらず、どんな時も常に優しく温かかった。
『屋敷の金を使い込んでいる』
『男遊びが酷い』
彼女の事をそんな風に言っていた使用人達の言葉は、根拠のないでっちあげだったのだと悟った。
今の僕に、どれだけ媚びを売っても何の効力もない。
だけど彼女は、何の見返りも求めず汗を流しながら、一日も休む事無く、僕の世話をしてくれている。
「公爵様、今日は天気が良いですよ。少しお散歩に行きましょうか」
「公爵様、中庭の花が綺麗に咲いてました。少し摘んできたので、お部屋に飾っておきますね」
「公爵様、この洋服とても素敵ですね! 今日はこれを着ましょうか」
何の反応もない僕に、マリエーヌは沢山声をかけてくれた。
彼女の口から紡がれる何気ない言葉の数々が、今の僕には嬉しくて仕方がなかった。
空が晴れているのがこんなに嬉しいと思える事も。
どこにでも咲いている様な花が、こんなにも綺麗で美しく思えるのも。
少しでも良い服を着て身なりを整えたいと思うのも。
全て、マリエーヌが側にいてくれるからだ。
マリエーヌは僕の女神だ。
彼女の手は救いの手だ。
先の見えない闇の中にいる僕に差し伸べられた、唯一の光だ。
それなのに、僕は彼女の名前すら一度も呼んだ事がない。
名前を呼んで、感謝を伝えたい。
彼女の喜ぶ顔が見たい。
彼女を幸せにしてあげたい。
どれだけ切望しても、今の僕には彼女を幸せにする事なんて出来ない。
僕が彼女の為に出来る事……それは――
僕が死んで、彼女を解放してあげる事だ。
それから僕は食事を拒絶するようになった。
食事を摂ろうとしない僕に、マリエーヌは「今日は食欲が無いんですね」と、無理に与えようとはしなかった。
だけど三日経った所で、なんとなく僕の意図に気付いた様だった。
彼女は食事を中断して、僕を車椅子に乗せて、中庭へと連れて行った。
天気が良い日は彼女と中庭で食事をする事があった。
ここなら食べるだろうと思って来たのだろうか?でも僕は――
「公爵様が今、死にたい程辛い思いをしているのであれば、私にそれを無理に止める権利はありません」
マリエーヌの口から飛び出した言葉に、動かない体がビクりと反応した気がした。
だけど、違う。そうじゃない。僕が死のうとしている理由は――
「だけどもし、公爵様が万が一にも私の事を思って死のうとしているのなら、それは余計なお世話です」
再び僕の体が跳ねた様な気がした。
どうしてマリエーヌはこんなにも、僕の気持ちに気付いてくれるのだろうか。
僕を見つめる彼女の表情はどこか寂しそうで、その頬には涙がつたっていた。
「公爵様が死んだら、私はまた一人ぼっちになってしまいます。食事が美味しく感じるのは、一緒に食べてくれる人がいるからです。天気が良い事がこんなに嬉しいのは、一緒に外の散歩を楽しんでくれる人がいるからです。公爵様が居てくれるから、私は毎日が充実していてとても幸せなのです。だから私は公爵様が死んでしまったら、とても悲しいです。その事だけは、どうか覚えていてください」
その言葉から、僕は彼女がこれまで屋敷の使用人達にどんな扱いを受けていたのかを悟った。
だがそれは恐らく、僕が彼女に冷たく接していたから起きた事だ。
それなのに、彼女は僕が死んだら悲しいと言う。
僕が生きている事が幸せだと言ってくれる。
彼女はこんな僕を、ちゃんと人として見てくれている。
気付くと僕の頬にも涙が伝っていた。
それを彼女はハンカチで優しく拭ってくれた。
マリエーヌが生きてほしいと言うのなら、僕は彼女の為に生き続けたい。
彼女が僕を許してくれる限りは……。
僕は三日ぶりの食事を噛みしめる様に食べ始めた。
マリエーヌはやはり女神の様な人だと、まるで神を崇めるかの様に彼女を尊い存在だと思った。
だが――本物の神はあまりにも無慈悲だった。
その日の夜、僕の屋敷は誰かに雇われた集団に襲撃された。
屋敷にいた使用人達は殺され、最後まで僕を庇おうとしたマリエーヌも、僕の目の前で殺された。
そいつらは僕の事は手にかける事なく、屋敷に火を放って去っていった。
血を流して横たわるマリエーヌの姿を、僕は動く事も出来ず呆然と見ている事しか出来なかった。
僕のせいだ。
彼女は僕のせいで死んでしまった。
誰よりも大切で、守りたかった唯一の女性。
後悔の念……叫び出したい程の激しい悔しさは涙となり溢れだした。
最期に彼女の傍に行きたい。
彼女に必死に手を伸ばそうとしても、僕の手は僅かに震えただけ。
彼女に触れる事すら出来ない。
燃え広がった炎はすぐそこまで彼女の体に迫っている。
そして僕の体にも。
神よ、僕の事はどうでもいい、この最期も僕の自業自得だろう。
だけどマリエーヌは違う。
彼女が一体何をしたというのだ?
家族から虐げられ、好きでもない男と結婚させられ、その男からも、仕える使用人達からも冷遇され続けてきた。
それなのに……彼女は憎まれても仕方が無い僕に、こんなにも優しくしてくれた。
僕を救い、生きていて良いと教えてくれた……それなのに……。
こんな結末はおかしいだろ!
マリエーヌだけは……彼女だけは幸せにならなくてはいけなかったはずだ!
誰よりも幸せになる権利を持っていたはずだ!
僕の行き場の無い怒り、悲しみは、こんな最悪の結末を許した神へと向けられ、そして懇願した。
神様、どうか、僕にもう一度だけチャンスを与えてください。
もしも、もう一度……もう一度だけやり直す事が出来たのなら――
必ずマリエーヌを幸せにしてみせる。
一度も呼んであげられなかったその名を呼び、伝える事が出来なかった愛を……惜しむ事なく彼女に伝えよう。
君にしてあげたい事は山ほどある。
君が僕にしてくれた事を、何倍にもして君に返そう。
そんなありえるはずがない事を考えていた。
だけど、幸せそうに笑い合う僕達の姿を想像するだけで、死の恐怖と苦しみは紛れていった。
最期の時まで、マリエーヌは僕を救ってくれたのだ。
それが前の人生の僕の最期だった。
そして僕は目を覚ました。高熱でうなされていたあの日に時間を戻して。
一体何が起きたのかと理解するよりも早く、僕は部屋を飛び出してマリエーヌを探し始めた。
「マリエーヌ! マリエーヌ! どこにいるんだ!?」
扉を片っ端から開けまわって彼女の姿を探した。
とにかく無我夢中で、一刻も早く、その姿を確認したかった。
会いたかった。謝りたかった。お礼を言いたかった。
頭の中はぐちゃぐちゃなまま、僕の足は導かれる様に彼女の部屋へと向かっていた。
その扉を開けた瞬間、懐かしい、暖かい風にあおられた様な気がした。
少し震える様に背を向けた、見覚えのある亜麻色の髪の女性。
マリエーヌだ。
しばらくして振り返った彼女と目が合った瞬間、僕の中でせき止めていた彼女への想いが一気に溢れ出した。
「あ……あ……。マリ……エーヌ……ほんとに……君……なのか……?」
今は話せるはずの言葉が上手く出てこない。
けれど、ずっと言えなかった彼女の名前をやっと呼ぶ事が出来た。
感動で震えてそれ以上の言葉が出てこない。
だけど、早く……早く彼女に謝らなければ。あと感謝の言葉も。
伝えたい事が多すぎる。だけどいきなり全てを伝えてもきっと混乱するだけだろう。
ならばやはり、まずは謝罪をするべきだ。
これまでの事を、彼女に謝らなければ……!
「マリエーヌ……君を愛している」
そんな僕の意思を全て無視して、口から飛び出したのは、抑えきれなかった彼女への想いだった。
今思えば、何の事情も知らないマリエーヌには到底理解出来ない事だったと思う。
それまで名前を呼んだ事もない、自分を無視してきた男がいきなり愛の告白をしだしたのだから。
マリエーヌはびっくりしただろうが、僕も後戻りをする気はない。
前回、僕が事故にあったあの日。今回も同じ場所で土砂崩れはあったが、僕はその日の視察を延期にしたため無事だった。
やはりあの出来事は、ただの夢などではなかった。
執務室で仕事をしていた僕は、机の上の書類を種類ごとにまとめて、それぞれ別の封筒に入れていく。
僕は元々、執念深い人間だ。
マリエーヌを虐げた使用人達も、ただ解雇するだけでは済まさない。
マリエーヌが使ったと嘘をついて、勝手に屋敷の金を横領した奴らの罪を、白日の下に晒して罰を受けてもらう。
その地位も財産も全て奪われ、これまでの行いを後悔しながら生き続けるがいい。
マリエーヌや僕を殺した連中も野放しにする訳にはいかない。
あの時、奴らは生きている僕の前でベラベラと雇い主の事を話していたからな。誰の差し金かは分かっている。
コイツには死んだ方がマシだと思える程の苦痛を与えてやろう。
まとめた封筒を補佐官に託して、時計を見ると間もなく正午を迎える所だった。
危うくマリエーヌとの食事の時間に遅れる所だったな。
僕は部屋を飛び出して早足で彼女の部屋へと向かう。
仕事場である執務室から彼女の部屋までの距離がもどかしい。
今度の休みには彼女の許可をもらって部屋をもっと近くに移動するか。
いや、彼女の部屋はそのままにして、執務室を移動させよう。
そんな事を考えているうちに彼女の部屋に到着した。
ドアを開けると、愛しのマリエーヌが目を見開いてこちらを見ている。
今日会うのはもう五回目になるが、何回会ってもマリエーヌは変わらず可憐で美しい。
「マリエーヌ、早く君に会いたかったよ。今日は天気がいいから中庭で食事をしようか」
そう告げて彼女の手を取り、その甲にキスを落とす。
すると、マリエーヌは真っ赤に顔を染めて戸惑う様な可愛い反応を見せた。
その反応に期待をせずにはいられない。
少しでも僕に好意を持ってくれていると嬉しい。
だけどそれはもう少し先の事になりそうだ。
僕はいつもの言葉を、愛しくて仕方が無い彼女へ伝える。
「マリエーヌ、愛しているよ」
君の名前を呼べる事を、君に愛を伝えられる事を、僕がどれほど幸せに感じているかを、君は知る由もないだろう。
僕は知っている。
今この瞬間の幸せが、決して当たり前では無い事を。
ある日突然、当たり前の日々が変わってしまう事も。
だからこそ、今この瞬間を大切にしたい。
一分一秒でも長く、マリエーヌと共に生きていきたい。
これからも、僕は何度でも君の名を呼び、愛を囁き続けるだろう。
死が二人を分かつまでは――
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