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十二支之伝説  作者: 蠍戌
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序章『伝説の始まり』

 それはある年の暮れのこと。

 神様が動物たちへ、次のお触れを出した。

「元日に新年の挨拶に来なさい。

 その一番目から十二番目までの動物を、これからの年の呼び名にする」

 とは言っても、一つ一つの動物には数え切れないほど膨大な数の同胞がいる。それが全員で押し掛けられるわけにもいかないし、その多寡によって有利不利が左右されてしまうのを不公平だと考えた神様は、次の文言をお触れに添えた。

「挨拶には、動物たちの長が、一人で来るように」

 一年ごとに巡ってくる年の呼称に自分がなれることを素晴らしい名誉だと考えた動物たちは、それぞれの長に大願を託し、元日が来るのを今か今かと待ち受けた。某の年、と自分たちの名が冠されるその日を夢見て、幾年にも感じられる一刻一刻を過ごしていたのである。

 そんな風にほとんど全ての動物たちが浮き足立っていたある日、鼠の長である子偉しいの元を、猫の長である猫丸ねこまるが訪れた。

 子偉は全身灰色の毛並みをした、ごくありふれた外見の雌の鼠だ。

 一方の猫丸は、いわゆる鉢割れの毛並みをした、尻尾の長い雄猫である。

 長といってもそこは獣である。やることは他の獣たちとそうは変わらない。

 互いを認め合った両者はどちらからともなく駆け寄ってひとしきりじゃれ合い、そのまま遊びに移行する。鬼ごっこをすれば子偉がちょこまかと逃げ回り、かくれんぼをすれば猫丸が自慢の鼻ですぐに見つけ出すなどした後、顔をくっつけ合って昼寝をした。

 この頃は全ての鼠と全ての猫が、種族を違えど同胞のように仲良しだった。喧嘩もしなければいがみ合うこともなく、猫が鼠を襲うなどという惨事も、動くものに飛びついてしまう習性を抑え切れなかった猫がまれに起こしてしまう不幸な事故を除いて出来することはなく、当然、長同士も大の仲良しだったのである。

 やがて、そろそろ帰ろうかという頃合になって、猫丸が子偉に尋ねた。少年のようなあどけない声だ。

「ねえ、神様のところへ挨拶に行くのって、いつだったっけ」

「なによ猫丸、忘れたの?」

 一方の子偉は女の子のような甲高い声を、あまりの驚きに引っくり返らせて尋ねた。

 実は、猫丸の目的はそれだった。あれだけ覚えておこうとしたはずの日時をすっかり忘れてしまい、仲間の猫たちもそれを思い出せず、仲良しの子偉に教えてもらおうと、こうしてはるばる聞きに来たのだった。猫丸は申し訳なさそうに頷く。

「お正月ってのは覚えてるんだけど、お正月っていっても三箇日があるし、小正月もあるでしょ? いつ行けばいいのか、わかんないんだ」

「あのねえ猫丸ねえ…ちょっと考えればわかりそうなものじゃない」

 子偉は呆れたあまり小言を言ったが、その後に「元日よ」と答えようとしたのを寸前でこらえた。

「そうか、元日だったっけ」

 思い出したというように言った猫丸に、子偉は慌てて答える。

「何言ってるの、元日なんかに挨拶に行ったら迷惑でしょう? 二日の朝に行くのよ」

「そうだっけ? 二日の朝だっけ?」

「元日には人様の家を訪ねるなって昔から言うでしょう」

「知らない」

「言うの」

「相手は神様だよ」

「とにかく二日の朝なの!」

 怒号にも似た口調に気圧されたこともあったが、何より仲良しの子偉の言うことなので、疑うこともなかった。

「二日の朝か、ありがとう」

 もちろん、神様が指定した日時は元日である。二日の朝というのは子偉がとっさについた嘘だ。そんなことをした目的はただ一つ、競争相手を減らすためだ。

 元日に挨拶に訪れた動物の一番目から十二番目までを年の名にしてくれるといっても、動物の種類は山ほどある。競わなければならない動物もその数だけいる。どんなに遅れてもせめて十二番目に入るためには、敵は一人でも少ないほうがいい。子偉はそう思ったのだ。

「どういたしまして、じゃあまたね」

「うん。二日の朝に会おうね」

 子偉の別辞に応えつつ、猫丸は喜んで帰っていく。笑顔でそれを見送る心の中で、子偉は「しめしめ」とほくそ笑んでいた。

 そうこうしているうちに大晦日の夜になる。

 翌朝は早起きをして神様に挨拶に行くのだと意気込んでいた子偉は、暗がりの中をのそのそと進む一頭の牛を目にした。

 大きな全身に茶色い毛並みをまとい、頭上には湾曲した太く尖った角を伸ばし、腰には筆のように束になった毛を先端に備えた尻尾を生やしている。紛れもなく牛の長である牛貴ぎゅうきだった。

 鼠にとって、牛は猫ほど親しい動物ではない。しかし牛にとっての鼠も仇敵という間柄でもないため、避けたい相手でもない。何より鼠の長は人懐こい性格の持ち主だ。子偉は考えるより早く牛貴の前に飛び出していた。

「どこに行くの?」

「おお。子偉か」

 突然の子偉の出現に少し驚いた牛貴だが、先の理由にもよる社交辞令程度の笑顔を見せ、問い掛けに答えた。

「神様のところへ挨拶に行くんだ」

「行くのは明日でしょ?」

「俺は足が遅いから、今のうちに出ておこうと思ってな。それに」

 そこで牛貴は首を左右に振って周りを気にする。誰もいないことを確かめるや、柔和なそれを悪い企みを秘めた怪しいものへと変容させた笑顔を、ぐいっと下に伸ばした。鼻先が触れてきて子偉が思わず身を引いたところで、そっと囁きかける。

「今からなら、一番になれるかもしれないだろう? そうすれば、来年は早速、牛の年ということになる」

 十二番目までをその年にしてくれるといっても、来年から始まる一番がいいのは当然のことだ。十二という数に余裕を感じていたために、そう言われるまでそのことに気がつかなかった。

「………なるほどね」

 子偉は顔色が変わりそうになるのを何とか堪え、適当に相槌を打つ。しかしその代わりに間が空きすぎたのがまずかった。牛貴の笑顔はより不気味なものになる。

「先に行こうったって、そうはいかないぞ。まあ行ってもいいが、お前の持久力じゃあそのうちへばっちまうさ」

「………」

 子偉は心の中を覗き見されたみたいな不具合に顔をしかめた。しかしそれをそうだと悟られないように、その表情の変化をも利用して、心外だとばかりに声を大にする。

「私はそんなのにこだわらないもん。十二番目に間に合えばそれでいいの」

 そしてその場から立ち去った。

 牛貴とて子偉を疑わなかったわけではないが、その姿が首を回せるだけ回しても見えなくなるほど後ろのほうへと消えていったため、先を急いで進むことにした。こんなところで油を売っている暇はない。足の速い動物はたくさんいる。今のうちに差をつけておかなければ。

 そこで「ん?」と急に足を止める。

 背中に何かを感じたのだ。何か小さいものが乗ってきて、頭のほうへ這ってきた感じ。

 首を後ろに曲げてみたが、視界には何も入らない。土台、牛の体の構造では頭上を視認することもできない。それでも見える限りで異変がないことを確認すると、気のせいだと判断してそのまま歩いていく。

 夜のうちに出たといっても、遅々とした牛の歩みでは、目的地までが遠かった。ただでさえ真夜中である。季節も真冬の只中なので、吐く息は凍るように白く、時折吹きすさぶ寒風は、徐々にではあるが確実に体温を奪っていく。

 それでも牛貴はその持ち前の持久力を頼みに休まず歩き続けた。少しでも立ち止まったら一番目の座を明け渡してしまうと、恐れにも近い強さで信じ、けして留まらなかった。土の上に張った霜を踏みしめ、草の露に四肢を濡らしながら、歩みを止めなかった。それでもどうにも耐え切れず、何もかもを捨てても構わないほどめげそうになったときは、年の名を得た栄誉と同胞たちの歓喜を思い描いて、自らを奮い立たせて足を動かした。長たるものとしての矜持だけが牛貴を前へと誘った。

 その甲斐があった。やがて目の前に、忽然と現れたかのように、巨大な門が立ちはだかっているのを発見したのである。

 幅も高さも一丈ほどあるその木の門は、取っ手はなく、縁は黒い鉄で覆われ、上部だけが半円状に湾曲している。門の左右は同じように木と鉄の縁でできた塀が、やはり一丈ほどずつ伸びて、そこで直角に曲がっているのである。こここそが神様の御殿であり、今回神様が動物たちを招いた場所である。そして門の前には、誰もいなかった。

「これで俺が一番だな」

 夢見た情景が現実となる確約を得て、牛貴はにんまりと呟いた。疲れを癒すことも兼ねてようやく立ち止まり、門が開くのを待ち構える。

 しばらくして、東のほうから空が白み始めてくる。どこからともなく鶏の鳴き声が届き、門は静かに、そしてゆっくりと手前に開いていった。

「よし、行くぞ!」

 景気づけに叫んで歩き出そうとした、そのときだ。何かが頭上に這い上がり、眉間を滑り落ちていく感触を得たのは。

 その何かは牛貴の鼻柱の勾配を利用して滑り降りるように跳躍するや、その眼前を遠くひらめいて地面に降り立ち、一目散に門の中へと走り込んでいった。一匹の鼠だった。

 その姿を目にすれば、いかに鈍感な牛貴でも、何もかもを理解した。後ろ足を伝って背中によじ登り頭上に達するや、ついさっきまで優雅に眠りこけていたという詳細までは知らなくても、昨夜別れた後で背中に感じたものの正体はこれだったのだと。

「子偉!」

 思わず飛び出した叫び声すら追い抜こうとするように足を動かしたが、所詮は牛である。時すでに遅く、子偉はちょろちょろと門をくぐったところだった。


「いっちばーん」

 御殿の中に入った子偉は、両前足を高々と天に突き上げることで勝利宣言とし、誰にも踏み荒らされていない地面を悠々と進んでいった。

 そもそもこの場所がどんな所にあるものなのか、確かなことはわからない。

 神様といえば空の上にいるという説もあるが、空は頭の上のずっと高いところにある。空の上にいたとしても頭上に広がるのはやはり空だろうが、今足元に広がっているのは外から変わらず草一つない黄土色の固い土で、ここが空の上だとは言い難い。

 敷地は四方を塀に囲われているが、右の塀から左の塀までの横の幅が三丈強であるのに対し、縦の幅は門から同じぐらいの所で白い靄が立ち込めて、そこから先は立ち入ることを禁じられているみたいになっており、奥がどうなっているのかは窺い知れない。

 もしかしたら、無限に続く道があるのかもしれない。

 もしかしたら、そこから先はこの世ではないのかもしれない。

 もしかしたら、神様が住んでいる豪奢な建物があるのかもしれない。

 もしかしたら、やっぱり神様は空の上に住んでいて、そこにたどり着くことができる天空まで続いていく階段のようなものがそびえているのかも。

 何とはなしに考えていた子偉だが、まあこの際どうでもいいことなので、とりあえずそこから先には行かないでおこうと思って、靄の手前で立ち止まり、姿勢を正してひざまずいた。

「神様、あけましておめでとうございます。わたくし子偉、鼠を代表して、新年のご挨拶に参りました」

 すると天から声が響いた。姿こそ見えないが神様のものだ。声というのは便宜的な言い方で、実際のそれは、五感ではないものによってそれと感じることができる、不思議なものなのである。

(よく来たな、子偉。まずはこれを受け取れ)

 その言葉とともにどこからともなく何かが落ちてきて、地面でわずかに弾んで停止した。それは子偉の体長と同じぐらいの、直径三寸ばかりの大きさの、朝の光に灰色に輝く真ん丸の珠だった。

「これがホントのおとしだまね」

(違う)

「違うの? じゃあなーに?」

(触ってみろ。そうすればわかる)

 言われたとおり、子偉はしがみつくようにそれに触れた。刹那、珠は目もくらむような灰色の光を発して子偉を包んだ。

 驚くことも叫ぶこともできないままに、数秒を経て光が消えると、そこには珠も、子偉の姿もなくなっており、その代わりに一人の少女が立っていた。

 背丈は四尺ほど。腰から上は肌触りの良い柔らかい生地でできた、半袖で丸首の白い襯衣。腰から下は綾織りにした木綿でできた、千切れたみたいな膝までの長さの裾の青い細袴。足元には地べたにぴたりと接する低い靴もあしらわれている。

 しかし普通の人間とは若干異なっていて、二つ結いした灰色の髪のてっぺんに、やはり灰色の薄い毛に覆われた丸い耳が二つ生えていた。また、腰には細長い、くすんだ薄紅色の尾が伸びており、時折思い出したようにしなった。それらが、その少女が子偉であるという、何よりの証だった。

(お前に力を授けた、お前はこれで普通の鼠よりも優れた力を得たのだ)

 自分の姿を注意深く眺めていた子偉は、そう言われたこともあってすぐにその姿を気に入った。戻ろうと思えば一瞬で鼠の姿になれるし、また人の姿になろうと思えば一瞬で変身できる。それが楽しくて嬉しくて、何度だって繰り返す。やがて人の姿で落ち着くと、くるりと回って天を仰いだ。

「ねえねえ、どう? かわいい?」

(うむ、よく似合っているぞ)

「やっぱり?」

 照れも気後れも全くない笑顔を浮かべ、子偉は満足そうに何度も頷いた。


「かわいかねえよ!」

 真後ろから飛んできた怒号に子偉の笑顔は崩れる。

 口を尖らせて振り向くと、憤懣やるかたない牛貴がようやく門をくぐって、角を前に押し出した姿勢でこっちへ歩み寄ってくるところだった。

「子偉!」

 牛貴がすぐそばまで到達すると、子偉はゆっくり右の横っ腹に回り込んできた。

「お前!」

 そっちへ体を向けようとすると、尻尾まで回り込んできた。

「こそこそ俺の背中に…」

 のそのそと体を振り返らせたときには鼠の姿で腹の下を通り抜けられていて、やはり反転した尻尾の先に気配がした。

「ちょっと待ってろ!」

 ひとまず追跡を諦めることにした牛貴はもう一度反転してから靄の前まで進むと、食事のときみたいに深々と頭を下げた。

「牛の長、牛貴です。明けましておめでとうございます」

(よく来たな牛貴。お前にも力を授けよう)

 牛貴の前にも、色は茶色だが形と大きさは子偉のものと変わらない珠が現れた。片方の蹄でそれに触れた牛貴はやはり珠が発した茶色い光に包まれ、人の姿になった。

 牛貴は身の丈が七尺を優に越す大男だった。全身は大木のように分厚く、袖のない前開きの薄緑の襯衣と脛まで包まれた黒い細袴から覗く手足も、丸太のように太い。甲高の靴の長さも一尺はある。手には全体が鉄でできた、柄が自分の背丈ほどもある巨大な片刃の斧を持っており、黒々とした髪の毛を襟足まで生やした側頭部からは、天に伸びていく角がそれぞれ一本ずつ生えており、腰には尻尾が垂れていた。

 牛貴は自分の姿を眺めるのもほどほどに、物心ついたときからずっと持ち歩いていたように手馴れた手つきで斧をぐるりと振り回し、その先端を子偉に突きつけた。

「子偉! お前こそこそ俺の背中に乗って、最後の最後で俺を追い抜いて、それで一番を名乗れると思ってるのか!」

 子偉はむっと顔を曇らせると、絡めた両手で後頭部を支え、くるっと背を向けた。

「一番は一番よ」

「この卑怯者め!」

「気づかないほうが悪いの」

 そこで子偉は振り向き、それと同時に実に楽しそうにあっかんべーをした。

 片目をつぶり、もう片方の目尻に人差し指をあて、閉じた口から舌を垂らしたその姿に、牛貴の怒りは爆発し、野太い咆哮とともに巨大な斧を振り下ろした。しかし斧は地面にめり込んで辺りに地鳴りを起こしただけで、子偉はそこにいなかった。

「神様ありがとう、いつもよりずっと速く動けるわ」

「ああ、普段の何倍もの力だ。これならお前なんざ、すぐに叩き潰せる!」

 だが、次に子偉の声のしたほうに斧の刃先が落ちたとき、子偉はすでに牛貴の背後に回っており、牛貴はそれを膝の裏で響く癇に障る笑い声で知るのだった。

 動物の長たる者ともなれば、寿命などというものは有って無いに等しい。なのに牛貴は、その生涯でも指折りであろう屈辱を味わいながら、斧の刃先を届かせるためには自分が動かなくてはならない、しかし鈍重な自分の動きではすぐに逃げられてしまうだろうと考え、どうするべきかを思案した。子偉もそれをわかっているからこそ、こんなに余裕があるのだ。

 そこで意外な言葉が降ってくる。

(その斧は長さを変えることができるぞ)

「余計なこと言わないでよ!」

 子偉はぎょっとして天に叫ぶ。

(ちなみに百斤ある)

「何でそんな危ないもの渡すの!」

 一方的に文句を言っていたため、子偉は牛貴が斧の柄をひねって手斧ほど短くした瞬間を見ることができなかった。はっと気がついて振り向いて、恐怖を感じるほどの不気味な笑顔でこちらを見下ろす目と目が合って、ようやくそのことを知って悲鳴を上げた。

「イヤあああああああああ!」

「くたばれい!」

 牛貴は片手で斧を背後に振り下ろす。しかし斧を通じて伝わる手応えは地面を深くえぐった感触だけだ。思わず舌打ちする。

「どこに行った」

 牛貴はいつでも斧を伸縮させられるように柄に手をかけたまま、辺りを丹念に見回した。

 しかし敷地の奥にも周りの塀にも、見渡す限りに子偉の姿はなく、気配がしたと思って体を向けると、一頭の虎が門をくぐってきたところだった。


 それは虎の長の虎王とらおうだ。一見すれば他の一般的な虎と変わらない容姿だが、全身から醸し出されている雰囲気は、長たるものに相応しい荘重なものがある。

 虎王は靄の前まで歩んだところで、四つん這いの体勢から尻をつけて地べたに座ると、前足を片方持ち上げて胸につけるようにし、恭しく頭を下げた。落ち着いた、そしてどこか冷めている、抑揚のない男の声である。

「虎王、新年の挨拶に参りました」

(よく来た、お前にはこの力を授けよう)

 黄色い珠を渡された虎王は、光に包まれ、若い男の姿になった。

 最も特徴的なのは無表情にも映る、何事にも動じなさそうな超然とした顔立ち。一間弱の体格のてっぺんには、普段の毛並みと同じ黄色と黒の縞模様の丸い耳が生えている。服装はというと、上半身が白い長袖で、下半身は黒い裾長。頭巾のついた黄色い外套を着込んでおり、裾がはためくと腰から伸びる縞模様の尻尾が見え隠れする。毛皮に覆われた両手両足は黒い手袋と黒い靴に覆われており、外側からその毛並みを確かめることはできないが、それぞれの先端には狭い穴が開いており、そこから鈍く光る鋭い鉤爪を伸ばすことが可能だった。

 虎王は自分に与えられた衣類を見回したり、手袋や靴から爪が出入りする様を眺めてその感触を確かめた後に、自分にしか聞こえないぐらいの声で呟いた。まるで人間みたいだな。

「虎王、子偉がどこにいるかわからないか」

 虎王は牛貴を見、ゆっくり二回まばたきする。

「そこにいるのが子偉じゃないのか」

 虎王の目線はたたでさえ高い牛貴のさらに頭上にあった。そこには牛貴の角の湾曲していく部分を羽交い絞めに抱き抱え、肩口に小さな足を投げ出し、肩車されているような格好の子偉がいたのだ。

「いい見晴らしね、気に入っちゃった」

 牛貴は視界の斜め下で楽しそうに揺れる小さな靴にようやく気がついて、斧を一閃させる。

 子偉は地面に降り立って攻撃を回避すると、後を追ってきた第二波も難なくかわし、虎王の外套に忍び込んでその後ろに隠れた。

 牛貴は、虎王を巻き込むわけにはいかないために振り回すことはしなかったが、柄を最大まで伸ばした斧を子偉に突き付ける。

 それでも自ずと切っ先を向けられる形になった虎王はというと、眉根一つ動かさず、子偉を庇うように手を広げるのだった。

「よせよ。何してるんだ」

「こっちによこせ。そいつはこそこそと俺の背中に乗って、それでここまでやってきたんだ。そんな卑怯者を生かしておくわけにはいかない」

「事情は知らないが、神様の御前だぞ」

「そーそー、失礼なことしないの」

 牛貴は子偉の挑発に歯を軋ませたが、虎王の言い分を理解して斧を下げると、塀にもたれかかって腰を下ろした。

 呆れたようにもほっとしたようにも取れるため息をついた虎王は、振り向いて目線を落とし、外套から顔を出して牛貴にあっかんべーをする子偉に尋ねた。

「なあ子偉、猫丸を知らないか?」

「んぐぁっ!」

 子偉が潰れた悲鳴を上げた。その名に思わずぎくりと体を震わせ、弾みで舌を噛んだのだ。

 いっぱいに伸ばした舌を両手であおぐ子偉に、虎王はさらに尋ねる。

「猫丸はどうした」

「ふぇっ…?」

 子偉は舌を出したまま涙目で虎王を一瞬だけ見上げると、それを引っ込めてからそっと目線を逸らした。

「猫丸が…なに…? どうかしたの…?」

「あいつはまだ来てないのか?」

「虎王が三番目だもん…私が一番で、牛貴が二番」

「本当は俺が一番だったんだ。そいつは俺の背中にこそこそ乗りやがったんだ」

 牛貴の主張には反応せず、虎王はかすかに顔を曇らせる。

「暮れに会ったときに猫丸が言ってたんだ、あいつと俺とお前が神様の挨拶にちゃんと行けて、猫と虎と鼠がみんな年の名前になったらいいなって。だから、とっくに来てるもんだと思ってたんだ」

「ふーん…そうなんだ…」

「確かに行くと言ってたんだけどな…いや、お前なら猫丸とも仲がいいだろう。あいつのことなら何か知ってるんじゃないかと思ってな」

「ううん…ぜーんぜん知らない…」

「そうか…」

 虎王は心なしか寂しそうに呟いた。子偉はその冷めた横顔をじっと見上げ、どうやら何も知らないらしいことにひそかに胸を撫で下ろす。と、その一方で不安が募る。

「虎王って…猫丸と仲良しなの?」

「仲良し? 仲良しなんかじゃないよ」

 そう聞いて子偉が安堵したのも束の間、虎王は深く吸い込んだ息を勢いよく言葉に乗せた。

「大っっっっっ好きなんだ!」

 子偉はまずその声量に仰天した。それからその内容を思い返し、尋ねるように虎王を仰ぎ見る。もっともそんなことしなくても、虎王は猫丸への思いの丈をとめどなく語り始めるのだった。

「俺は猫丸が好きなんだ。あいつ可愛いだろ。俺にとっては弟みたいなもんだからな。会いに行くといつも毛繕いしてくれるんだけど、ほら、俺の体を舐めるのなんて大変なんだよ。それでも一生懸命やってくれるのがいじらしくてさ」

「その辺にしておけ。引いてるぞ」

「ああ――悪い悪い。猫丸のことになるとつい熱が入っちまってな」

「かく言う俺も気色悪い。飯時以外で腹の中の物を戻したくないからやめてくれ」

「でも猫丸って可愛いんだぜ? いや猫全般が可愛いんだけど、あいつやっぱり猫の長だからひとしおで」

「わかったわかった。来るのを楽しみにしておくよ」

 牛貴と虎王が話している間、子偉は言葉を失っていた。牛貴は引いていると形容したが、実際には生きた心地さえしていなかったのである。なるほど、虎王と猫丸の関係は、確かに仲良しとは違うようだ。しかし、ある意味では、それより質が悪い。猫丸を騙したなんてことが知られたら、虎王に何をされるか、考えただけでも恐ろしくなる。寒くはないのに震えてきた。

 そうとは知らない虎王は、広げた外套を子偉に差し出し尋ねてやる。

「冷えるみたいだな。入れてやるよ」

「あー。ううん。大丈夫。ありがとう」

「顔色悪いぞ」

「そ、そうかな? アハハ…」

 虎王は尋常でない様子の子偉を外套の内側に包んでやりながら、牛貴とは向かいの塀のそばに移動し、そこに腰を落ち着けた。子偉は表情こそ浮かないが、どうやら震えは収まったらしい。子偉にしてみれば覚悟を決めただけなのだが、そうとは知らない虎王は安心して話題を変えられる。

「今年は賑やかになりそうだな。元日から十二人も集まるなんて、これまでに一度もなかったもんな」

「これまでにって、前にも来たことあるの?」

「毎年のことだ。年始の挨拶をするのは当然のことだろう。お前は違うのか?」

「え。えっとお…」

「俺は足が遅いからな」

 牛貴が話に入ってきた。

「諸々片付けて出発しても、二日になったり三日になったりしちまうんだ」

「長ともなれば、暮れはいつも以上に忙しいものだからな」

「そうとも限らなさそうだぞ」

 牛貴が顎をしゃくった。その先にいる子偉は目を虚ろに泳がせていたが、やや遅れて牛貴に指し示されたことに気がつくと、慌てて抗弁する。

「わ、私だって、忙しいわよ。これでも鼠の長だもの」

「おかしいな」

「何がよ」

「暮れはいつも子偉に誘われて遊んでるって、この間猫丸が言ってたけどな」

「余計なこと言わないで!」

「挨拶に行こうって誘っても、面倒臭がって結局行ったためしがないって」

「虎王! もう黙ってて! 知ってるんなら聞かないでよ!」

「今思い出したから」

「今年みたいに褒美がなけりゃあ来ないのか。お前は神様に失礼だと思わんのか」

「ね、ね、虎王。元日っていつも虎王一人なの?」

「話を逸らすな」

「いや、俺の他にも誰かはいるものさ。それに必ず来る奴が一人いる。じきに顔を出すだろう」

「おい、お前ら」

「へえ、誰誰?」

「竜皇だ。あいつとは年に一度ここで落ち合い、力比べをしてるんだ」

「どっちが強いの?」

「どっちも強い」

「そこの鼠と虎。俺を無視すんな」

「さっきからうるさいなそこの牛。邪魔しないでくれない? 私と虎王は楽しくお喋りしてるんだから」

「別に楽しくはないが」

「楽しいの! 楽しいでしょ! 楽しいって言いなさいよ!」

「猫丸が来たら楽しくなる」

「そ…そう…」

 話を逸らしたと思ってもすぐ戻る。心なしかまた寒くなってきた。

「次は誰かなあ、猫丸だといいんだがな」

 そう言って門を見た虎王は、とりあえず次の誰かが猫丸ではないことを知った。


 門をくぐってきたのは、赤い目をして真っ白い毛並みをまとった、一匹の兎である。兎の長の卯后うごうだ。

 卯后は靄の前で居住まいを正し、ゆるやかにお辞儀をする。

「卯后でございます。兎たちの代表として、ここに参上しました」

(ご苦労、これを受け取れ)

 子供っぽい声でありながら大人びた声と口調で挨拶をすると、卯后の前には桃色の珠が転がり、それに触れた卯后は少女に変身した。

 幼い顔立ちは可憐というだけでなく、利口そうにも整っている。背丈は子偉と変わらないぐらい。上下が一つになった滑らかな桃色の上衣に、白い毛皮の肩掛けを羽織り、それを襟元で結んでいる。裾から覗く足元は白い靴下に包まれ、その先端は光沢のある黒い靴。腰には白くて丸い尻尾が生え、瞳は真っ赤で、つやのある黒い髪を肩まで伸ばした頭のてっぺんからは、毛皮に覆われた外側は白く内側は薄紅色という、兎特有の長い耳が伸びていた。

「お前が四番目だ」

「聞こえてた」

 牛貴にさらりと答えると、卯后はその近くに移動して、塀にもたれるように尻からぺたっと腰を下ろした。どこに隠し持っていたのか、葉っぱのないよく肥った人参を一本懐から取り出し、両手で持って先端に食らいつく。

 牛貴は卯后の前に歩み出るや、落ちるようにあぐらをかいて前屈みになった。それでようやく目線が合う。それから首を後ろに曲げて虎王のそばの子偉を睨んだ。子偉は素早く虎王の背後に隠れてから、にやにやとした顔を覗かせた。

「本当は俺が一番だったんだ。あいつは汚い真似をしやがって」

「背中に乗られたんでしょう?」

 驚いた顔を戻すと、卯后が口の中の人参を飲み込んでから答えた。

「聞こえてた」

 牛貴は目線だけで卯后の耳を仰ぎ、感心した様子で幾度か頷く。そしておもむろに尋ねた。

「どう思う。あいつは卑怯者だろう。俺が気の毒だと思うだろう」

 卯后は首を振った。牛貴は顔をしかめる。

「じゃあ、どう思う」

 卯后は吐き捨てるように答えた。

「バカ」

「何だと!」

 卯后は反射的に人参をくわえて耳の根元を握り締め、眉間にしわができるほど強く目を閉じて牛貴から離れた。

「お前俺をバカ呼ばわりすんのか!」

「そうでかい声出してやるな。耳がいいんだから」

 虎王に注意されたが怒りを収めることができないらしく、牛貴は歯を軋ませたまま卯后を睨んでいた。卯后は五尺あまり門のほうに離れたところで再び座り、口から人参を離してそれに答える。

「あなただけじゃない。そんな方法しか取れないほうも、それに気付かないほうも、どっちもバカよ」

「卯后、私は一番に来てたのよ」

 子偉は若干苛立った様子で虎王の外套から歩み出た。

「四番目に来たあなたなんかよりずっとずっとずーっと偉いんだから、ちょっとは口を慎みなさい」

「それじゃあ聞かせて頂戴。あなたはあなたがやったことで、これからずっと牛貴に憎まれることになる。それがいいことなの?」

「う…」

 思わず口ごもった子偉に、卯后は食事を中断させ、唇の端を吊り上げてとどめを刺す。

「ばぁか」

「うるさーい!」

 それしか言い返せなかった子偉は逆恨みに似た怒りに支配され、元の姿に戻って卯后に向かって駆け出した。鼠は小さな爪や牙しか持たないが、それでも兎とならば対等かそれ以上に戦える。そう確信したのだ。

 しかし、大きな耳で様々な音を聞きつけていることと、それらの情報から的確な予知を行なうことのできる本人の知恵とで、次に子偉がどうなるかがわかっていた卯后は、悠々と食事を再開した。そんな自分の姿を間近で見ているのに、すぐ先の未来の自身の災難に気がつかない子偉のことを、やはりバカだと思いながら。

 子偉は卯后から三尺も離れた所で真横から仰向けに押し倒された。きゃっと叫んで反射的に人の姿になって衝撃を和らげたものの、問いただす間もなく薄い胸板を黄色い毛むくじゃらの前足に押さえ付けられており、目の前のその顔は逆光で表情すら見えないが目だけがぎらりと輝いていて、頭上に高く振り上げられて太陽を遮ったもう片方の前足から短いが鋭く尖った鉤型の爪が伸び、それはもしも猫丸にあのことが露見したら自分に起こるであろう最悪の状況と同じだったわけで――とっくに卯后が人参をくわえて空いた手で耳を押さえていたのは言うまでもない――子偉は絶叫した。

 爪は、とっさに元の姿に戻って前足の隙間から抜け出した子偉の代わりに、地面をぱっくり切り裂いた。否が応でも一歩遅かったときの光景を想像させられて子偉は青ざめる。

「なななななななな何するのよ!」

「お前こそ何してんだ!」

 子偉は一気に避難した牛貴の頭にぶるぶる震えながらしがみついており、激しくどもった声で一頭の虎に叫んだ。牛貴が叫び返して首根っこをつかんで引っぺがそうとしたが、子偉は牛貴の角の根元にしっかりしがみついて後頭部に腹這いになったまま、大きく首を振り回してそれを拒絶する。

「あ…」

 元の姿に戻っていた虎王は我に帰り、再び人の姿になると、涼しい顔だがばつが悪そうに後頭部を掻いた。

「すまんすまん、小さいものにちょろちょろされるとな」

「………」

「猫の仲間の習性かな。どうも本能が刺激されるらしい」

「お願いここにいさせてえ!」

 恐怖に満ちた目で虎王を見つめたまま牛貴にしがみつく子偉は、その涙声一言で自分を引き剥がそうとする牛貴の手を引っ込めさせた。

 卯后はようやく耳を守っていた手を離し、食事に戻る。その際その耳が門のほうへ向いたのを見逃さず、虎王がすかさず尋ねた。

「猫丸か?」

「猫丸!」

「何怯えてんだ」

 問いただした牛貴や、悲鳴みたいな声に驚いてそれを見つめる虎王と同じく、異常な震え方をする子偉を訝しく思いながら、卯后は首を横に振る。虎王の頭が心なしか垂れた。

 子偉を肩に乗せたままの牛貴が卯后の隣に腰を下ろし、子偉の怯えた目に押し遣られた虎王がすまなさそうに向かいの塀にもたれて座ったころ、次の来客が訪れた。


 それだけで一丈以上もある長い顔を門の中に突っ込み、残りの何丈もある胴体を門の外に残したそれは、世界にたった一頭だけ存在する竜である、竜皇りゅうこうだ。その細長い髭や突き出た顎や硬そうな角には、明らかに竜皇の体の一部ではない、青い紐のようなものがまとわりついている。

「竜皇、只今参上致しまし邪魔だってば!」

 竜皇は口上の最中にも関わらず、角から角へ伸びて視界を遮ったその紐のようなものを、首を真後ろに勢いよく跳ねさせることで豪快に投げ飛ばした。

 紐は門の枠にくるりと巻き付き、その反動で戻ってきて竜皇の顔のそばに着地する。それは全長が一丈、胴回りも一尺近くある大蛇で、名を蛇地じゃちという蛇の長だ。紐にしか見えなかったのは竜皇の体がそれだけ巨大だからである。蛇地はくるくるととぐろを巻くと、先の割れた長い舌を出しながらぺこりと頭を下げた。

「同じく蛇地、参上しました」

(ご苦労、この力を受け取るがいい)

 竜皇と蛇地の前には緑色の珠と青い珠が一つずつ転がる。竜皇は口の下の細長い前足を伸ばして、蛇地はちろりと舌を出してから大きく開いた口でかじりつくようにして、それぞれ珠を受け取った。

 二人を包む緑と青の光が消えると、二人は人の姿になっていた。

 竜皇は腰から下の足が覗く赤い縁取りの切れ目の入った、地面に引き摺りそうなほど裾の長い詰襟の漆黒の服に身を包んだ、若い女。緑の長髪を腰まで垂らした頭の上には、茶色く細長い角を二本生やし、しなやかに伸びた両手の指先には、紅に鋭く尖った長い爪を持ち、背中には蝙蝠の羽を大きくしたような、外側が濃紺で内側が深緑という毒々しい翼が生えている。実質五尺半ほどの背丈は踵の高い真っ赤な靴のために、二寸は大きく見える。どこを取っても異形な居住まいだが、その上でもなお、次のような評価が与えられるだけの風貌である。

「人の姿になっても美人は美人だな」

 相変わらず先の割れた舌を出しながらそう言った蛇地は、一間あるかないかという背丈の男。青い髪を長めに生やした端整な顔立ちだが、その全身は青色の鱗で覆われ、大きな眼球の中央には縦長の瞳が刻まれている。頑丈な鎧のような鈍色の衣服を上下にまとい、平たい靴は指先だけが露出している。

「人の姿になっても蛇は蛇ね」

 竜皇は蛇地に言い捨てると、足早にその場を離れていく。蛇地は竜皇に追い縋るなり、後ろから抱き寄せた。

「何するのよ」

「人の姿で絡み合うのも一興だろう」

「一度もそんなことしてないでしょ」

 竜皇は蛇地を突き飛ばすと、もう追ってこられないように翼をはためかせて――瞬間卯后は耳を押さえる――二尺も浮かび上がれずに停止して絶叫した。足首を捕まれたのだ。

 女とはいえ竜ほどの猛者だ。触れてきたのが生身の手だったならもちろん、よしんば鱗をまとった蛇地の手だったとしても、そこまで仰天することはなく、振り払うことも蹴り飛ばすこともできたろうが、竜皇の素足に巻き付いていたのは五本もの細長い蛇だった。

 その正体は蛇地の五指だ。竜皇を留めようととっさに伸ばした片方の手の指全てが青い蛇となり、それが意のままに伸びて肌に巻き付いたのだ。

「神様どーも。この力のおかげで逃げられずに済みましたよ」

 蛇地は天に向かって礼を言いつつ舌を出した。何も嘲っているわけではない。喋ろうとすると言葉と一緒に出てしまう癖なのだ。

 どうにか落ち着きを取り戻しつつあった竜皇は、いつまでもこのままでいるわけにはいかないと、鋭く尖った爪を足首の蛇の群れに突き立てるために頭上に腕を振り上げた。その手にまた別の蛇が巻き付いた。あっという間もなく肘から上が、一本一本の指に至るまでが五匹の蛇に絡み取られ、その蛇を払い除けようとした腕にも蛇が這い、残った足にも蛇が絡み付く。鱗と蛇腹が締め付けるように擦れ合う、得も言われぬ感触。もはや嗚咽にも似た息がか細く漏れるだけである。

 竜皇の両手足を緊縛する五匹ずつ、合わせて二十匹の蛇は、蛇地の手足合わせて二十本の指が、主の意志によって変容し伸縮しているものである。蛇たちは蛇地と同様に時折舌を出しては竜皇を気味悪がらせていた。

 こうなっては竜皇もなす術がない。歯を食いしばった半泣きの顔をもげそうなほど振り回す以外に身動きが取れず、蛇地の望むままに操られてその目の前に移動させられてしまう。

「今日こそ楽しませてもらうぜ」

 笑みを浮かべた口元から二十一本目の舌を出し入れしながら、蛇地は竜皇を見据えて微笑んだ。竜皇は固く閉じた唇の隙間に蛇地の舌先が触れそうになる距離で、にわかに首を後ろに傾けた。蛇地の顔色が一変する。

「よせ、やめろ!」

 蛇地の制止を無視して竜皇が首を戻した瞬間、大きく開かれた口からは轟音とともに巨大な炎が飛び出した。

 しばらく蛇地の顔のあった場所を焼き尽くしたところで竜皇が口を閉じて炎を収めたとき、それを回避するために元の姿に戻って竜皇を解放していた蛇地はその場におらず、すでに牛貴と卯后の間に割って入って人の姿であぐらをかいていた。

 自由を奪還した安堵に大きく息をついてから、竜皇はきっと蛇地を睨みつける。

「いい加減私にまとわりつかないで」

「固いこと言うな。竜と蛇はきょうだいみたいなもんじゃねえか」

 蛇地は不興そうに舌を出す。

「それに何度も言ってるだろう。俺はお前が好きなんだ。これぐらいのことして何が悪い」

「そ…それは…」

 竜皇は途端に顔を赤らめて口ごもり、困ったようにうつむいた。翼を内側に丸めたその上に、もじもじと体を縒り合わせることで全身を半分ぐらいの幅にする。両手の人差し指を向かい合わせ、突付き合わせたり回したり。

「きょうだいというのは同感よ…私だってあなたを嫌っているわけではないもの…むしろ愛しているぐらいでその…何なら夫婦にだってなれるし…というかなりたいし…今すぐ式を挙げたっていいぐらいで…新婚旅行はどこがいいかな…子供は多ければ多いほどいいね…男の子と女の子と三人ずつぐらい…? いやもっといっぱいいてもいいかな…やだ私体持たないかも…でもしばらくは二人きりの生活を満喫したいし…」

 一人先走りながら心躍る口調でその想像を発する竜皇は、そこで上目遣いに蛇地を見るや否や顔を強張らせ、両拳を握り一喝した。

「けどね!」

 顔を上げてさらに続ける。

「私はあなたのそういうところが大っ嫌いなのよ!」

 蛇地は、蛇と化した片手を牛貴の頭上の子偉ににょろにょろ伸ばし、もう片方の手は生身のままで卯后の頭に置いて耳の根元を揉むようにさすっているのだ。

 子偉は五匹の蛇の一部と睨み合ったり、体に触れようとするそれらを引っぱたいたりしているが、卯后はどこ吹く風といった様子で、泰然と食事を続けている。蛇地はというと、竜皇をにやにや見つめたままで、両手の動きを止めようともしない。

「本当に私を好きだというのなら…今すぐそういうことをやめて…? 本当に私だけを見つめていて…」

 竜皇は悲痛な表情で縋り付くような哀願をした。真剣な眼差しでそれを聞き終えた蛇地は、にやりと相好を崩した。

「まあまあ、そう妬くなって」

「逃げて」

 誰にともなく告げた卯后の言葉は必要なかった。激昂した竜皇の業火が辺り一面を包んだとき、すでに自分を含めた全員が飛び退いていたのである。

 我を失った竜皇はなおも顔を振り回して炎を撒き散らしたが、経験上竜皇の攻撃を熟知している虎王はその後ろに回り込むことで、背後から迫り来る灼熱を聞きつけた卯后は持ち前の跳躍力で大きく跳ねることで、火だるまにされる恐ろしさから悲鳴をやませない子偉を頭に乗せたままの牛貴は、心底頭上が鬱陶しそうに、それでも目の前に現れた火柱を斧で真っ二つに切り裂くことで、それぞれ被害を回避した。

 本来の目標であるはずの蛇地はというと、とっくに大蛇の姿に戻って悠然と竜皇を眺めていた。

 ようやくその姿を視認した竜皇はしかと狙いを定めて火焔を放射する。

 しかし蛇地は風に吹かれる柳の如き軽やかな身のこなしで長い体を上下左右にくねらせて一撃一撃を完璧にかわしていく。

 竜皇の動きが速くなるにつれて蛇地の動作も速くなり、そのまま永遠にでも続いていきそうな攻防は、虎王が竜皇の背中に加減をした体当たりをすることでようやく収まった。

 炎の代わりにかすかに声を上げてつんのめった竜皇は、翼を利用しねじりを加えた回転によって転倒をこらえ、闖入者に対する敵意に満ちた顔を起こした。そこで驚いたように目を見開く。

「虎王、あなたも来ていたの」

「ついさっきな」

 虎王は頷き、蛇地をあごでしゃくった。

「もうやめておけ。お前が力を授かったように、あいつも力を授かってるんだ。いくらやっても無駄だ」

 蛇地は、騒動が終わったために元の場所に戻ってきた卯后の隣に居座って、蛇の姿にさせた指で卯后の耳のてっぺんから根元までをさすりながら、竜皇を挑発するようにちろちろ舌を出していた。卯后は変わらすその存在を全く無視しているみたいに、馴れ馴れしい手付きにも特有の感触にも動じることなく人参を食べ続けている。

 竜皇はそんな蛇地をじっくりと睨みつけたままで、虎王に答えた。

「これは私と蛇地の問題よ、邪魔しないで」

「そうはいかん」

 また別の声に目を向けると、斧を握り締めた牛貴が不愉快そうに佇んでおり、その頭上では左右の角にしがみついた子偉が恐々と自分を見据えているところだった。

「お前らの痴話喧嘩で俺たちを巻き添えにするな」

「そうよそうよ、よそでやってよ」

 子偉が言い終えないうちに牛貴は蛇地の隣に戻っていく。蛇地は再び蛇と化した指を子偉の体に這わせようとして、そのうちの一匹を「あんたのせいで焼け死ぬかと思ったじゃない!」と両手でがりがりと引っ掻かれた。それでも舌で癒すために元の姿に戻した中指以外の四匹は、必死に警戒する子偉の頭上を、飛びつく隙をうかがいつつ漂っていた。

 腹を立てても二の舞だ。子偉と牛貴の抗議ももっともである。蛇地の好色とて今に始まったことではない。竜皇は致し方ないといった様子で向かいの塀のそばに腰を下ろした。虎王がそれに続いて隣に座り込む。

 辺りに平穏が訪れた証明のように、蛇地が呟いた。

「それにしても、新年早々こんなところに来るとはな。去年までなら考えられん」

 中指以外の四匹の蛇の鎌首を両手で二匹ずつ、潰すほどに握り締めることでそれ以上の進行を防いでいた子偉は、その言葉に表情だけを緩めて蛇地に尋ねた。

「蛇地は挨拶に来てないの?」

「俺? 来るわけねーじゃんこんなとこ」

「そうなの?」

「例のお触れがなかったら今頃寝てるって」

「だよねー!」

「げらげらげら」

「げらげらげら」

「それか屠蘇でも飲んでるかな」

「うわばみだから一斗ぐらいいっちゃうんでしょ?」

「斗で収まるかよ石だ石」

「げらげらげら」

「げらげらげら」

「お前らもう帰れ」

 二人の大笑は、立ち上がり様の牛貴がそう言いながら、子偉の足を片手で掴んで蛇地に向かって叩き付けたことで終わりを迎える。ひしゃげた声を上げた子偉はしかし、頑丈な網と化した五匹の蛇に守られて傷一つない。

「ありがと」

「なーに、こっちこそ」

 子偉は満面の笑みで心からの礼を言ったつもりだが、返礼の意図をつかみ損ねた。そしてすぐに悟った。五匹の蛇が全身にまとわりついて身動き一つ取れないのだ。

「ね、ねえ。誰か助けてくれないかな」

 青ざめた笑顔で誰にともなく請う子偉だが、誰も何もしようとしない。牛貴は黙って冷たく見下ろしているだけだし、虎王はちっとも興味なさそうだ。卯后は聞こえよがしに食事中だし、竜皇はうつむきつつもこちらに上目を向けてはいるが、見ているのは蛇地のほうである。目に涙が溜まってきた。

「牛貴ぃ、謝るからさあ、ねえ」

 涙目で見上げられて名指しされた牛貴は、それを全く無視して竜皇のほうに歩み寄る。

「牛貴!」

「うるさいよ」

「じゃああんたかわあ!」

 名を呼ぶ絶叫が聞こえ、卯后の声がたしなめ、じゃああんた代わってみなさいよとでも言おうとしたのだろう反駁が不自然に途絶えたところで、牛貴は体の向きを変えて竜皇の隣に腰を下ろした。

 見たくなくても目に入る子偉の無様な姿。口までを一匹の蛇腹に塞がれており、目尻の涙を散らしながら蛇地を見つめてしきりに首を振っていた。

 それでは蛇地はというと、子偉のことなど見てもいない。顔は胸板に押し付けたその獲物を見下ろし触れそうなところまで時折舌を伸ばしているが、目線だけはこちらにあり、からかうように竜皇を見つめているのだ。

 さしもの牛貴でも、蛇地が本気で子偉をいたぶろうとしているわけではないことは察せられた。だが、そんな蛇地をそれでも気にかけている竜皇の真意までもは悟れない。もっともそれは、卯后の知恵をもってしても見抜けないことだった。

「あんな軽薄な男の何がいいんだ」

 牛貴は思うがままを吐き捨てる。卯后の耳が竜皇に向く。竜皇は目線をも伏せて、嘲笑気味に答える。

「私には蛇地しかいないのよ」

 それを聞いてもなお、卯后の思考は竜皇の心の底まで達せられなかった。牛貴などもってのほかである。組んだ両手ごと首を振り振り、塀に寄り掛かって考えるのを放棄してしまう。

「俺がいるじゃないか」

 思わぬ伏兵の出現に、さしもの牛貴も機敏に身を起こした。しかし、言った本人も言われたほうも、他意など微塵もないのだった。

「いつもの、行かないか。もっと大勢集まってからじゃ、面倒そうだ」

 一足早く腰を上げていた虎王は、先の発言に今なお不思議そうにしている竜皇を見下ろしてそう続けた。

 例年ならばそんなことを言われなくても理解できたところだが、今年は変則的すぎてようやく気がついた。そうだ、今日は元日。年に一度の力比べの日だ。

「いいわ、今年は神様から授かった力がある。手加減なしよ」

「毎年のことだろう」

 竜皇は楽しそうに微笑むと、颯爽と立ち上がって外へと歩き出した。虎王もつられて笑って後に続く。二人が門を出る直前に蛇地が声をかけた。

「虎王、俺の女傷つけるなよ」

 虎王は立ち止まって振り返り、目を細めて頷いた。しかし当の竜皇は歩を緩めることなく敷地を後にし、その直前に言い残しただけである。

「どうせなら虎王のほうを心配してあげなさい」

 二人はすぐに見えなくなる。地響きのような咆哮や空気を焼き尽くす火炎の轟音がひとしきり聞こえた後、気配は徐々に遠ざかっていった。

 さて、もはや諦念の底に埋没して喪失を覚悟し、抗うことさえ放棄していた子偉であるが、不意に全身にまとわりついている蛇が消えていることに気がついた。

 千載一遇の好機とばかりに蛇地のそばから離れるや、一目散に牛貴の元に駆け寄り、あぐらをかいているその太ももに倒れ込んだ。

「何だよ」

「怖かった」

「知るか」

 子偉の首根っこを鷲掴みした牛貴だが、びくりとこちらを見上げてきた子偉と視線が合った。懇願するように潤んだ瞳。いたたまれないように目を逸らし、それから子偉を持ち上げる。

 またしても蛇地目がけて放り投げられ再び全身をまさぐられる感触と、その先にある恐怖にまみれた恥辱の予感に、早くも固く目を閉じ強張らせていた子偉のその身はしかし、前半身を何か温もるものに押し付けられて停止した。

 恐る恐る目を開くと、先ほどまでの高さに目線があり、両手のそばには牛貴の角があった。程なく牛貴の頭上に腹這いになっているのだと気がつく。先ほどと同じ、肩車の格好。

「ありがと…」

 牛貴は何も答えない。けれども子偉は先ほどまでと同様に牛貴の肩口に足を投げ出し、牛貴の角を両手で抱え込むと、嬉しそうな横顔を牛貴の頭頂部に寝かせた。牛貴はなおも答えない。

 子偉が拘束を解かれるより早く、自分の頭上や耳に絡みつく蛇地の指が離れていることに気がついていた卯后は、この間ずっと、蛇地を見上げて思考に耽っていた。

 蛇地の表情は、竜皇が近くにいたときとは違う、真面目に引き締まった重厚な横顔である。時折舌を出す仕草も、滑稽なものに見えてこない。もしかして、と思う頃に、蛇地が尋ねてきた。

「竜皇はどうだ」

 卯后は、やっぱり、と思って大きく頷いた。そして、しようのない男だと思った。それから、頷いたのを蛇地への返事ということにして、答えてやる。

「いい勝負。さすがにどっちも強いね」

 そこまで答えて卯后ははっと門に目を向けた。蛇地が心配した様子で声を出す。

「どうした。何かあったか」

 本当にしようのない男だと思ったが、今度は首を横に振る。

「七番目。蹄鉄の音がするから馬天だわ」


 卯后の言葉が終わらぬうちから、物凄い速度で高らかに響いてきていた蹄鉄の音はしかし、卯后以外の全員がようやく聞き取れるほど近づいてきたときには、ぴたりと収まっていた。すでに一頭の牡馬が靄の前まで訪れていたのである。

 真っ黒いたてがみと尻尾をたなびかせ、それよりもさらに濃厚な漆黒の毛並みによって精悍な肉付きを一層際立てているこの馬こそ、馬の長の馬天ばてんだ。

「馬天、参りました」

(ご苦労だった、これを授ける)

 両前足の間に鼻先を突っ込むほど頭を下げた馬天の前に、黒光りする珠が転がってきた。馬天は軽い口調で感嘆を漏らす。

「縁起がいいなあ、神様からおとしだまもらえるなんて」

(…おとしだまのつもりではない)

「違うんですか? まあいいや」

 蹄鉄でそれに触れた馬天は、黒っぽい光に包まれ、一人の男の姿になる。

 肌は日焼けしたように浅黒く、背は七尺ほど。裾と襟が赤く縁取られ、上下一続きになった、橙色の服を着込んでいる。人間のような耳の代わりに黒い毛並みの馬の耳が天に向かって生えていて、後ろで結ばれた真っ黒の髪は腰まで達しており、その腰からも、黒く長い尾が足首を覆い隠す裾の近くまで伸びていた。

 馬天は自分の体を丹念に見回すと、先客たちのことも誰ともなく、不審がらせるほど念入りに見回して、それからたった今外で見かけた二人を思い返しながら、もう一度自分の体を確認した。

「ねえ、ちょっと神様ぁ。文句言うようで何なんですが、どうして俺の足だけ元のまんまなんですか? これじゃ不便じゃないかなあ」

 そう言うとおり、馬天の袖と裾から伸びた手足は馬の足のままだった。黒く短い毛皮に覆われ、先端には蹄があり、その底には普段と変わらない蹄鉄がはまっているのである。物をつかむことさえ難しそうだ。

 釈然としない様子の馬天に神様が種を明かす。

(お前の速足を損ねたくなかったのだ)

 何かの呪文をかけられたみたいに、馬天の表情が晴れ渡る。

「そういえばいつもより体が軽いな」

 それと見える実体があれば、神様は頷いていたに違いない。

(日に万里は走れるぞ)

「万里…そりゃすごい!」

「危ない!」

 卯后の制止のほうが速かったのだが、試運転とばかりに早速外へと走り出した馬天がそれを聞きつけたときにはもう遅い。馬天は突然「うおっ!」と声をあげてつんのめった。

 すかさず蛇地が蛇に変えた片手を宙に倒れた全身に巻き付かせてやったので、細身の巨体が地面に叩きつけられる事態は免れたが、馬天はその体勢のまま、直前に耳を塞いだ卯后がさらに顔をしかめるほどの絶叫を響かせる。

「やめろお! うわ! うわあ! 気持ち悪ィ! いやだあ! ギャー!」

 叫びの途絶えた一瞬を逃さず、卯后が固まっている蛇地の腕を叩いた。持ち主が驚いた拍子に五匹の蛇は元の五指となり、拘束を解かれた馬天は脛ほどの高さから地面に落ちて軽く声を上げる。

「ごめんね。でもうるさかったから」

「気にすんな。だがそんなつもりじゃなかったんだがな」

 卯后が詫び、蛇地が答える。卯后は馬天を救った功労者である手のひらを、けれども悲しげに眺める蛇地を認めると、慰めるようにその体を撫でてやった。しかし蛇地には伝わっていないらしく、何の反応も示そうとしない。それでも卯后は祈るような気持ちで蛇地への慰撫を続けた。

 馬天は馬であり、それも長であるのだから、まさか何もないところで転んだわけではない。そんな馬天が足を取られたところにあったのは、鋭く深い窪みだった。子偉が牛貴の頭上で詰るように言う。

「あれ、さっき牛貴が作った穴じゃないの?」

「誰のせいだ」

 言いながらも、牛貴は腰を上げて穴に歩み寄り、塞ぐ作業に取り掛かる。子偉も牛貴の頭上から降り、身を屈めて手を伸ばした。

「邪魔だ」

「なによー手伝ってあげてるんじゃない」

「余計なところ掘ってるじゃねえか」

「えーちょっとぐらい遊んでもいいじゃん」

「てめえ遊びって言いやがったな」

 子偉と牛貴がせめぎ合うのを尻目に、すでに体勢を整えていた馬天は服装を直しながら蛇地の前に現れ、屈託のない笑顔で言うのだった。

「いやあ悪い悪い。あんまり気持ち悪かったから、つい叫んじまった」

「………」

 詫びにしても礼にしても、全く謝意の感じられない口調と内容である。蛇地は黙って馬天を睨むが、その意味合いは毛ほども通じていない。

「でもさ、ホントに気持ち悪くて、冷たくて、メチャクチャ気持ち悪くてさあ。思わず出ちゃったんだよ、あんな声」

「言われ慣れてるから気にすんな」

「やっぱり? 俺だけじゃねえよなあ」

「………」

 自覚していることとはいえ、こうまで遠慮なしに言われると、感情というのは不思議なものである、とっくに立腹を通り越した。沈鬱に項垂れて手のひらを眺めている蛇地を、卯后はなおもさすってやっていた。

 蛇地の心境など知ろうともしない馬天は、蛇地と挟む形になる具合に、卯后の隣に腰を下ろす。作業を終えた牛貴も蛇地の隣に移り、子偉は多少蛇地を警戒の目で見下ろしながらも、牛貴の頭上に落ち着いた。

「あなたは足を折ったら走れなくなっちゃうんだから、あんまり調子に乗らないようにね」

「そうだな、これからは気をつけるよ」

 馬天は卯后の助言に頷き、そのまま卯后をじっと見つめる。

 わずかな吐息を聞きつけてそれに気がついた卯后は、聞こえてくることから予想はついていたが、確認のためにちらりとそちらを見て、やはり馬天が物欲しげに人参を凝視しているのだと知った。唾を飲み下す音まで聞こえたので、そっと差し出してやる。

「食べる?」

「いいのか?」

 聞き返しつつも、すでに馬天は目を輝かせ、両手の蹄鉄でそれを挟んでかすめ取っていた。

「食べかけで悪いね」

「いい、いい。間接接吻。そっちのほうが断然いい」

 周囲の温度が氷点下に低下したことに、その原因である当の本人は全く気がついていない。

 牛貴と蛇地は後ずさるように馬天から離れ、子偉に至っては牛貴の角を握り締めてできる限り体を浮かせ、嘆くように呟いた。

「蛇といい馬といい…何で動物の長は変態ばっかりなの…」

「俺を数に入れるな」

「あんたはもっと悪質よ」

「俺のは遊び。あいつは本気だ。俺がその気になったら、お前なんか一呑みだぞ」

 三人が馬天から距離を置き、そのうちの二人が言い争っている中で、卯后は一人、その体によじ登るようにして、馬天に手を伸ばしていた。

「やっぱり返しなさい」

「くれるって言ったろお?」

 両手を頭上に掲げて奪還を阻みながら、馬天は今にも泣きそうな情けない声で反論する。

「独り身の俺はこんなことぐらいでしか、女と触れ合うことなんてできないんだよ。結婚もまだ…恋人もいない…女友達も零…いつになっても春が来ないんだぜ? ちょっとはいい思いさせてくれよお…」

 卯后はため息とともに腕を下ろすが、その眼差しは馬天を見上げたままだ。

「だから、もっと舐めておいてあげようと思ったの」

 またも空気が凍りつく。馬天に至ってはその姿勢のまま固まったほどだ。しかしやがて、瞬きもせずに卯后を見下ろしたまま、離れた三人にも聞こえるほどの音で、生唾を呑み下した。

「何やってんのかしら…」

 思わず子偉が呟いた。

 蛇地は一本の指を蛇に化して、馬天の目線の位置に移動させた。これでちょうど、馬天が目にしているのと同じように、卯后の姿を一望できる。程なく蛇地は口の端を上げて子偉に尋ねる。

「聞きたいか?」

「やめておく」

「すげー舌使いしてるぜ」

「どうせ言うなら聞かないで」

「真似してやろうか?」

「やってみろよ」

 青ざめた子偉を捉えている蛇地の視界に、身を乗り出した牛貴の面貌が取って代わる。憎悪にほど近い義憤に満ちた形相の向こうで斧の柄がきりきりと伸びており、さしもの蛇地も軽口を閉ざした。

「どうするの?」

 卯后は馬天を急くが、馬天はどうしていいかわからないでいる。

「あなたがしてほしいなら、直接口移しでもいいわよ」

「やっぱり変態だ…」

 子偉の泣き出しそうな呟きなんてどこ吹く風。馬天は操られているみたいにそろそろと人参を卯后の口元に近付けていく。そして卯后はというと、馬天の手を取るや、そこから突き出している人参を一口かじり、それを丹念に咀嚼してから、結んだ口を馬天に向けた。

 馬天は目を見開いたままのその顔を、つまらなさそうな卯后の顔に寄せていく。やがて卯后は静かに目を閉じ、一瞬戸惑った馬天もそれにならう。

 程なく両者の顔の高さは同じになり、馬天の半開きの口が真一文字の卯后の唇まであと一寸というところまで来たその刹那、鈍い打擲音が馬天の頭上から響いた。

「誘うな。断れ」

 言うが早いか、牛貴が二人目がけて斧の峰を振り下ろしたわけである。

 もっとも即座に危険を察知した卯后は耳を左右に開かせるや否や身を屈めてそれを回避していたので、それでも温情に満ちた餌食となったのは馬天だけであったのだが。

 痛みと衝撃で思わず人参を取りこぼした馬天だが、それを拾うことはできずに頭を押さえて「お…お…お…」などと呻くだけである。

 無様な姿に興醒めしたように卯后は馬天の体から離れて隣に腰を下ろし、それ以上の情事が進行しないことを確認した牛貴と蛇地は元の位置へと戻っていく。

 やがて痛みの引いてきた馬天は残念そうな顔で、それでも嬉しそうに言うのだった。

「そうかあ…卯后は俺のこと好きなのかあ」

「別に好きじゃないわよ」

「じゃあなんであんなことしてくれたんだよ」

「あんなことに慣れてるだけ」

「なんでだよ?」

「兎は性欲の強い生き物だから」

「よくわからんが…そうか…俺のこと好きなわけじゃないのか…」

「嫌いとまでは言ってないよ」

 卯后は多少申し訳なさそうに、がくりと項垂れた馬天を見遣るが、すぐにその耳が子偉のほうを向く。

「どしたの子偉」

「何かおぞましい」

 子偉は未だ牛貴の頭上にしがみついて青い顔のまま、かすかに震えてさえいるのだった。卯后は首を振り振り一人ごちる。

「仕方ないじゃない。そういう習性なんだから」

「発情する年齢ってあるでしょ。あなた私とそんなに歳変わんないよね」

「そういうあなたは幾つになったの。操守るには長すぎるでしょ」

「私は鼠だし、あなたとも違う。誰でもいいわけじゃないの」

「俺はそうでもないんだけどなあ…」

 馬天は寂しげに呟いて、足元の人参を拾い上げた。

「何でだろうなあ…そんなに高望みしてないんだけどなあ…」

 首をかしげながら人参を一口かじり、くぐもった声で続ける。

「なんか知らないけどさ、どんな女にもすぐ嫌われちゃうんだよ。俺ってそんなに魅力ないのかなあ」

「いきなり変なこと言うからでしょ」

「自分で気づいてないだけで、意外と理想が高いんじゃないか?」

「気持ちの伝え方が下手なのよ。きっと」

 子偉と牛貴と卯后が思い思いに口を開くが、馬天はどの意見に対しても納得できないらしく、首をかしげる。

「しょうがねえなあ」

 言葉とは裏腹に、蛇地が面白そうに身を乗り出した。

「助言してやるよ。どういう女が好みなんだ?」

「女なら誰でもいい」

「誰でもいいってことはないだろ。それじゃ助言のしようがねえぞ」

「本当に誰でもいいんだって。女ってのは、それだけで素晴らしいものだからな」

「知りもしないでよく言うな」

「俺はお袋の胎から生まれた。それで十分だ。子偉はどうだ?」

 力強く言った後で、馬天は子偉を見上げる。

「俺なんかじゃ駄目か?」

「駄目? って言われても…」

 驚いたように微笑んだ子偉は、満更でもなさそうに言葉を濁す。馬天はすかさず卯后を見下ろした。

「卯后は? やっぱり俺なんて好きになれないか?」

「あなたと私が吊り合うとでも?」

 無下に一蹴した卯后は表情こそ崩さないが、人差し指で頬を掻く。

「そうやって、いきなりってのが、よくないの」

「やっぱり私の言ったとおりじゃない。気持ちの伝え方が下手だって」

 子偉と卯后の返事は依然として拒否的であるが、その口調は誰が聞いてもはっきりそれとわかるほど、柔らかくなっている。双方を見回してともに同じ理由で色よい返事をできないでいるのだと解釈した馬天は、どちらにともなく告げてやる。

「本当に俺、お前らみたいなちんちくりんの乳臭いガキでも文句なんて言わないぞ?」

 瞬間、二対の鋭利な双眸が馬天の姿を見下ろし見上げる。それらに気がついた馬天は大事なことを思い出したというように力強く言い切った。

「もちろん、胸がなくても」

「牛貴、あっち行かない?」

「そうだな…」

 子偉はそっぽを向いて吐き捨てた。牛貴は力なく頷くと、向かいの塀へと離れていった。

 ちっとも理由が飲み込ず、眉根をひそめた馬天の顔が子偉に向いていた高さから降りてきたところで、さながら天秤のように、卯后と蛇地もすっくと立ち上がる。

「私、バカだけは好きになれない」

「お前に女ができない理由がわかったよ」

 それぞれ言い残した二人は先の二人を追うように歩いていき、向かいの塀で合流した四人は、同じ並びで腰を下ろした。

 一人残された馬天は首をかしげつつ、食事を再開する。卯后はその咀嚼の音さえ聞きたくないという意思表示のように耳を逸らせ、結果として外からの音をいつもより早く聞きつけることになった。


「あっ」

「どうした、何かあったか」

 門を見て声を上げた卯后に、竜皇の身を案じた蛇地が慌てて聞いたが、卯后は安心させてやるように首を左右に振った。しかしその表情はひどく浮かない。

「八番目…羊帝みたいよ」

 場の空気が一瞬で固まり、馬天は思わず人参を喉に詰まらせて蹄鉄で胸を連打した。強く叩きすぎたために思い切りむせ返ったが、気にかけてやる者はいない。

「参ったな…俺あいつ苦手なんだよ…」

「得意な奴なんていないでしょ…」

「羊か…広い範囲では俺の仲間だが…できれば会いたくなかったな…」

 残りの三人は思い思いに口を開き、頭を抱えたり、苛立ったような視線を外へ向けたり、あるいは逆にその姿をできるだけ目に入れないようにでもするように、反対を見遣ったりした。

 悶々とする一同をからかうかのように、しばらくの時間を経た後、ようやく門をくぐってきたのは、何の変哲もない、一頭の羊だった。これこそが羊の長、羊帝ようていである。羊帝は靄の少し手前で立ち止まり、ちょこんと軽く頭を下げて、丸みのある男の声を出す。

「新年おめでとうございます。羊帝です」

(よく来たな、これを授ける)

 白い珠が現れた。羊帝はそれに触れ、白い光に包まれて、男の姿に変身した。

 服装は、着流すように羽織った白い外套を、腰の茶色い革の帯で締めた具合。分かれていない裾からは、爪先が細長く上へ向かって湾曲するやはり白い靴が覗く。左の肩に弓を担ぎ、右の肩口から白い羽根のついた矢の頭が突き出す具合に矢筒を背負っている。虎王や蛇地と同じぐらいの身の丈を持ち、髪の毛は羊の毛と同じ少し灰を含んだ白い色、頭には螺旋状の角が二つ生えていて、大きな丸い眼鏡をかけていた。

 羊帝は自分の姿を一通り眺めた後で、軽く会釈をして神様へのお礼とすると、真顔なのに微笑んでいるような穏やかな顔を五人に向ける。

「何でお前なんかが来たんだ? って言いたそうだね」

 ほとんど全員が目を逸らしていて誰も答えなかったが、そのとおりだった。

「僕もそうさ。何でこんなところにいるんだか、自分でも不思議だ」

 そう言いながら、羊帝は髪をかき上げてため息をつく。絶えない笑顔のためにとてもそうは見えないが、どうやらここにいることが不当な罰か耐え難い屈辱かというほど不服らしい。

「本当はどうでもいいんだ。羊の年ができようができなかろうが、僕にはどうでもいいことなんだ。僕は君たちみたいに自己顕示欲が旺盛じゃないからね。だけど羊たちがどうしても行ってほしいって言うから、まあ、みんなのために犠牲になるつもりで、こうしてここまでやってきたのさ。しかしまあ、他がこんな顔触れとはね。一緒になってもちっとも嬉しくないけど」

「気にするだけ無駄よ」

 鼻で笑って踵を返した羊帝の背に誰かが何かをしかねないと察した卯后は、前もって声をかけておいた。牛貴はその一言で持ち上げようとした体を戻し、蛇地は蛇に変身させた十指を元どおりにし、馬天は一旦緩めた食事の速度を、憤りすらそれに変えてそれまで以上に速くした。

 馬天がいるほうの塀の、人気のない奥のところに到達した羊帝は、弓矢を下ろし、矢筒を枕に、仰向けになる。握り合わせた両手を胸の前に置いて目をつむり、幾度となく、その笑顔とは対照的なため息を連発させる。

 あえて言葉にするならば、来るんじゃなかった、とか、早く帰りたいな、などというつまらなさそうな吐息が、感情を含まない規則的な寝息となって卯后の耳に聞こえてくる頃、食事を終えた馬天がおもむろに立ち上がり、ほこりを払うように両手の蹄鉄を叩いて金属音を響かせた。

「腹ごなしに散歩してくる。乗せてやるぜ」

 万に一つの厄介事を避けるために、羊帝に背を向けて呼び掛けたが、背後では寝相一つ変わらない。しかし正面の四人にもこれという反応はない。馬天はあからさまに眉間にしわを寄せる。

「俺は日に万里を走れるんだぞ。乗ってみたいと思わないのか」

 沈黙。

 卯后が耳を塞ぐ。

 絶叫。

「万里の疾走だぞ!」

 初めて耳にする言葉に蛇地が顔をしかめた。

「何だそりゃ?」

 馬天はにこっと笑って答え、

「俺が名付けた。カッコいいだろ」

「やめておこう」

 うぐっと唸った。

「どうせまた、気持ち悪いって言われるんだろ」

「そりゃ言うよ気持ち悪いもん」

「俺は蛇なんだよ…こういう体なんだよ…」

「だからそれが気持ち悪いんだって」

「………」

「鱗と腹の感触だけでも耐えがたいのに、氷みたいに冷たいんだぜ?」

「お前さっきから喧嘩売ってんのか」

「本当のこと言ってるだけだろう」

 蛇地は溜め込んだ激憤を爆発させる頃合を見計らうように悠然と立ち上がろうとしたが、その正面に斧の柄が差し出されたので動きを止めた。

「その辺にしておけよ、馬天」

 牛貴が蛇地を見遣ってその暴走を防ぎつつも、名指しした馬天に対しては貫くような口調で窘めた。その頭上では子偉が怒った目で馬天を睨みつけている。

「あんまりひどいこと言う男は嫌いよ」

 しかし馬天は自身に向けられた糾弾に微塵も怯む様子を見せず、むしろ二人に反駁するのだった。

「じゃあお前ら、そいつの体に触れるのか?」

 子偉と牛貴は言葉に詰まったが、子偉はそのことを隠すかのように慌てて言い返す。

「それとこれとは、何の関係もないでしょ」

「じゃあ触ってやれよ」

「だから! 触る触らないの話じゃないでしょ!」

 一方の牛貴はそれさえもできない。決まり悪そうに黙ったままだ。そして二人の反応は、形こそ違えど意味は同じである。

 蛇地は自分への認識を悟ることができた。馬天の放言に怒る二人の心根は、ほかでもない馬天と同じなのだ。発散されるはずだった負の感情は、その重みを増してしまったせいで、持ち主の動きを鈍らせ、下向きに舌を出し入れする以外のことをさせなくなる。

 ただ一人卯后だけは、鱗に覆われた冷たい蛇地の手に、その小さな手のひらで触れていた。ただし蛇地がそれに気づいているかは疑わしい。気づいているが、真意までは測りかねているのかもしれない。その不快さをさえ耐えているのだと誤解されているのかもしれない。それを打ち消す言動は卯后にも思いつかない。

「つまり触りたくないんだろう?」

「そこまでは言ってない! そもそも触られるのはこっちなんだからね!」

「蛇地だから嫌なんだろ?」

「他の誰でも嫌よ!」

「その割には牛貴にしがみついてるな」

「こうしてないと虎王に襲われるの! そんなの蛇地に触られるより嫌!」

「やっぱり嫌なんじゃないか」

「違っ…! そういう意味じゃなくて!」

 子偉と馬天の、蛇地の心を幾度も針で突き刺すようなやり取りを聞くのを、まるで避けるように傾いていた卯后の耳が、不意に門のほうを向いた。

「乗りたそうなのが来たよ」


 子偉と馬天の会話はそこで途絶え、一同は門のほうに目線を注ぐ。やがて門をくぐってきたのは、四つん這いの猿だった。

「猿聖!」

 嬉しそうな声にそう呼び掛けられて顔を向けた、猿の長の猿聖えんせいは、馬天を見るなりたじろぐほど驚き、二本足で直立しているその姿を上から下までじろじろと見回した。

「お前、馬天か? そのナリはどうした?」

「神様に力を授かったんだ。これから一っ走り散歩に行こうと思ったんだが、乗るか? 俺は神様の力で日に万里を走れるようになったんだ。名付けて万里の疾走だ」

「万里の疾走…」

 猿聖の目がたちまち輝きを放つ。

「カッコいいな」

 そうかあ…?

 卯后だけに聞こえる程度の声でそれぞれ呟き、子偉と牛貴と蛇地が首を傾けた。

「だが、ちょっと待ってくれ。まずは神様にご挨拶だ」

 猿聖は靄のそばでひざまずき、両手を地面に添えて額がつくほど深く頭を下げた。

「神様、あけましておめでとうございます。猿聖、猿の長として、只今参りました」

(ご苦労、この力を授ける)

 猿聖は目の前に現れた赤茶色の珠を両手でつかんだ。猿聖は赤茶の光に包まれ、それが消えると男の姿になっていた。

 元の体色と同じ赤茶色の短髪で、逆立ったそれを含めても、背丈はかろうじて五尺半。額には赤い布切れが両目を半分ずつ覆うぐらいの広さで巻かれており、上半身は淡い黄色の長袖だが、邪魔なのか、あるいは暑いのか、すぐに肘まで捲っていく。剥き出しになった手の甲や腕の外側は、元の赤茶色の毛皮に包まれていた。下半身を覆う服は鮮やかな赤が足首までの長さを持ち、裾から見える足は獣のときのそれと変わらず、木登りなどが得意そうな猿の素足である。鞘に納まった二本の剣を、一本は背中に負い、一本は腰に佩き、腰からは元のものと変わらない尻尾が伸びている。猿聖は二本の剣を両手で引き抜いてその光沢を眺めると、それで見えない敵と戦うみたいにしばし立ち回ってみた。縦に斬り横に薙ぎ前に突き、宙返りの着地とともに振り下ろす。自分自身でも初めてとは思えないほど自在に操ることができ、その力に感嘆の息をつくと、剣を納めて深く一礼した。

「それじゃあ行くか」

 猿聖の呼び掛けに馬天は馬の姿に戻り、猿聖は馬天の背中に飛び乗って鬣を握り締める。こうして二人が親しく遊んでいるということは、よく知られていることだった。

「馬天、蛇地が合図したら戻ってきなさいね」

「何だ合図って」

 聞いてないぞという具合に蛇地は顔をしかめる。卯后は窘めるように答えた。

「神様がお呼びになるかもしれない。そのときにそれをできるのはあなただけなの」

 卯后は指を鳴らし様に天を指し示した。難なく理解できた蛇地が頷いたのを見計らい、卯后は話す相手を変える。

「いいわね?」

 馬天は卯后に念を押されて頷くと、前足を高く上げていなないた。それが地面についたとき、二人の姿は消えていた。門の外へ伸びていく土煙だけが彼らの道標として舞っており、それすらもさしたる時間を経ずに消えていく。

「日に万里で走るって言ったよな」

 牛貴の言いたいことは卯后もわかっている。早速耳を澄ませてみる。

「振り落とされてるんじゃないのか」

「ううん平気そう」

 卯后は首を振った。

「猿聖って器用だわ、馬天のお腹に尻尾巻き付けてうまく乗りこなしてる。もう聞こえなくなっちゃった」

 その代わりに別の音を聞きつけた卯后は、わざわざしなくてもいいのだが、一つ確認してみたいことがあったので報告しておいた。

「終わったみたい」

「そうか」

 それまでじっとしていた蛇地は急に卯后の耳を撫でさすり、子偉へと指を伸ばし始めた。予想どおりだったし、何より生身のそれだった卯后はともかく、予期していなかった子偉はひっと小さく叫び、首筋に触れた蛇を引っぱたいた。

「何よ。何でいきなり触ろうとするのよ」

「いいだろ別に、減るもんじゃねえし」

「いやよ。増えるわけでもないんだから」

 卯后の脳内で立てられた仮説が徐々に証明されつつある、そんな会話と攻防を二人が交わしていると、虎王と竜皇が横並びに門をくぐって戻ってきた。

「しばらく会わないうちに、また腕を上げたな」

「あなたもさすがね。それでこそ私の好敵手に相応しい」

「ねえ、もうやめてよお」

 台詞回しを交換させてもなんら差し障りのない讃え合いをしていた二人は、その声で揃って右の塀を向いた。青い蛇となってまとわりつく蛇地の指を、子偉が必死で追い払おうとしているところだった。

 竜皇は子偉とよく似た表情になって足早に蛇地の前へと歩み出る。

「嫌がってるんだからやめてあげたら?」

「それなら代わってやったらどうだ?」

 蛇地は好色な笑みで舌なめずりし、卯后の耳の間から伸ばした指先を手前に二回傾けた。

「俺はそれでもいいんだぜ」

 竜皇はじっと蛇地を睨んだが、大きなため息を一つつくなりくるりと踵を返すと、向かいの塀の、羊帝からは離れた場所へ移動した。

 舌打ちした蛇地は竜皇に気を取られていたために、子偉に指を一本、蛇を一匹と言うべきか、ともかくそれを両手で鷲掴みされたことに、全力で噛み付かれたところでようやく気がついた。

「いってえ!」

 一瞬で蛇は元の軌道に沿って、まるで消滅するように縮んでいき、蛇地の人差し指に収まっていく。

 蛇地は腹立たしげに子偉を見上げ、血こそ出ていない牙の跡を割れた舌先で癒やした。子偉は取り戻した安息を味わうより先にあっかんべーを披露する。蛇地も舌を出し返す。子偉は片手で牛貴の角を握り締め、それを支えに体を下に傾け、蛇地の顔面に程近いところで再びあっかんべーをした。

 卯后が耳を押さえた。

 子偉の首筋に割れた舌が這った。

 子偉が甲高い悲鳴を上げて弓なりに身を反らした。反射的に元の位置に戻り首筋を押さえて振り向くと、五匹の蛇がその仕草を嘲笑うかのように舌を出し入れしていた。今にも泣き出しそうになりながら、子偉は拳を振り上げ、蛇地の片手の指と対峙する。

「今のはお前が悪い」

「だってえ…」

 牛貴が言い、子偉が答える。さすがに飽きたのか、蛇地も指を元に戻していくが、子偉は周囲の警戒を怠らず、未だ安穏とできずにいる。

 蛇地は他方、嫌がる素振りを見せない卯后には、今なお愛撫を続けていた。子偉へのそれと異なり生身とはいえ、卯后はけして歓迎しているわけではなのだが、それでも拒まない理由がある。

 卯后は、自分が立てた仮説の証明を図っており、それが真理へと昇華していく快感をひしひしと感じていたのだ。蛇地の手つきはおざなりだし、竜皇は顔だけをよそへやりながらも、ちらちらとこちらに視線を送っている。この二人もやっぱりバカだ。

「随分集まったな」

 周囲を見渡して頷いた虎王は、何とはなしに牛貴の隣に居場所を得ようとしたが、新たな災厄から離れようと牛貴の頭上で体を反らす、怯えと怒りを足しっぱなしにした子偉の睥睨を斟酌し、卯后の隣に腰を落ち着ける。

「まだ猫丸は来てないか」

「猫丸猫丸うるさいなあ」

 卯后に尋ねたつもりなのだが、どういうわけだか子偉から苛立った返事がやってきた。

「猫丸のことは放っておきなさいよ」

 虎王は肩をすくめて反論する。

「来てほしくないのか? 猫と鼠は大の仲良しだろう」

 子偉はぷいとそっぽを向いて答えない。虎王も首を傾げたが、それ以上は尋ねなかった。


 卯后の耳にバタバタバタというはためきと、ペタペタペタという足音が届いてきたのは、ちょうどその頃だ。

 二色の音はしばらくして、誰もが敷地の外に出所を確認できない代わりに、はためきぐらいは聞き取れるほど近付いてくる。

 やがて門をくぐってきたそれらの音の主は、自前の翼で羽ばたこうとするもすぐに力尽きてしまい、着地したところから数歩進んでまた羽ばたくという行動を繰り返している、一羽の鶏だった。真っ赤な小さい鶏冠に白い毛並みという普通の雌鳥だが、これが鶏洋けいようという名の鶏の長だ。

 靄の近くまで到達した鶏洋は、翼を小さく閉ざしたまま、くちばしを地面に垂直に向けることでお辞儀とするとともに、鼻にかかった声とゆったりとした口調で挨拶をした。

「鶏洋です~、おめでとうございます~」

(よく来たな、これを受け取れ)

 目の前に赤い珠が落ちてきて、鶏洋は感嘆の声を漏らす。

「まあ~、おとしだまですねえ~」

(………)

 もはや何かを言う気も起きない神様のことなどなんのその。鶏洋は両方の翼で大事そうにそれを包んだ。その中から発せられた赤い光が逆に鶏洋を包み込み、鶏洋は一人の女になっていた。

 鶏冠の名残か、頭に真っ赤な髪の毛を生やし、肩口からは垂らすと先端が地を擦りそうなほど白くて大きな横長の翼が生えていた。服装は羊帝のそれとほぼ変わらず、一枚の分厚く白い外套をまとっただけのものだが、羊帝のそれと異なって締める部分がないこともあり、裾に向かって大きく広がっている。そこから覗く足は、四本の黄色い指で構成された、鶏特有の細いが頑丈なものだ。おおよそ五尺強という身長に、安らぎだけで構成されたような母性の滲み出ている体付き。

 その年恰好はこれまでに現れた他の三人の女よりも大人びているが、柔和な顔立ちは若いというよりは幼く、美しいというよりはあどけなく、声と口調が示すように、何だか眠っているみたいに覇気がない。

「嬉しいわあ~、今までよりもお~、ず~っと、ず~っとお~、高く飛べそうだわあ~」

 鶏洋は元の姿のときとは比べ物にならないほど逞しい翼を眺めながら、くるりと回って感想を述べる。

「見えてるのか?」

 牛貴が訝るのも無理はない。元の姿のときからそうなのだが、鶏洋のまぶたは上を向いた曲線の形にぴたりと閉じられているのだ。それが表情に穏やかさをもたらしている一番の要因でもあるのだが。

「見えてるわよお~」

 鶏洋は答えつつ、ゆっくり動きを止めた。ちょうど蛇地と向かい合わせになる位置で、目が合ったので口元をさらに緩ませた。微笑み返した蛇地は空いているほうの手で鶏洋を招く。

「行っちゃダメ!」

 蛇地に歩み寄ろうとした鶏洋はびっくりしたように立ち止まり、悲鳴のような叫び声を顧みる。竜皇の表情は危機感で埋め尽くされており、鶏洋は瞳こそ見せないが、不安そうに顔を曇らせた。

「どうしてえ~?」

「むやみやたらと触られるわよ。女にだらしのない奴だからね」

 鶏洋は蛇地に向き直ると、自分に見せびらかすように卯后の耳を抱き寄せている姿を確認して、ますます顔を曇らせた。そこへすかさず竜皇が追い討ちをかける。

「蛇地の体は鱗と蛇腹…冷たくって気持ち悪いわよお…?」

 鶏洋はくるりと体を後ろに曲げると、

「相手の体のことを悪く言わない」

 一変、鋭く厳しい口調で竜皇を叱り付けた。

「蛇地は蛇なのよ? 蛇の体が鱗と蛇腹で冷たいのは自然なことでしょう。それを気持ち悪いだなんて言うんじゃありません」

「な、何もそんなつもりじゃ…」

 竜皇はびくびくと顔を逸らし、言い訳がましく呟いた。鶏洋はなおも竜皇を見下ろし佇んでいる。

 竜皇以外にはかすかに翼の揺れる鶏洋の後ろ姿しか認められないため、その表情がどのようなものかは測りかねた。しかし直前の叱声や、今なお顔を戻せずにいる竜皇の姿から、先ほどまでの鷹揚なそれとは異なることが窺える。

「でもお~、べたべた触られるのは~、嫌だなあ~」

 突如緩慢な口調に戻った鶏洋は、優しい微笑でそう振り返って蛇地を一瞥してから、竜皇に歩み寄る。

 竜皇は留まるべきか去るべきかというように迷いを見せたが、決めかねている間に好いたらしい微笑みが自分の隣にしとやかに腰を下ろしてきたので、今更退くわけにはいかないというように、そこに残った。

 鶏洋の二面性に、他の全員と同様にいささか驚いていた卯后だが、それも収まったらしい今、改めて竜皇と蛇地の関係について考察していた。

 竜皇と蛇地は、口ぶりや態度を見ている限りではそうだと言い切りがたいものの、本当は強く想い合っている。

 しかし、双方ともそれに気がついていない。

 現に蛇地は、竜皇がいないところではその心配をするくせに、竜皇の前ではこうやって他の女にちょっかいを出すことで竜皇の気を引こうとしている。一方の竜皇も蛇地への思慕を抱いているのに、蛇地の軽薄な態度が本心からのものでないことを悟れていないため、その感情を抑えようとしている。そしてそのことを蛇地は知らない。

 こうして卯后の仮説は真理となった。だが卯后にしてみれば感想は変わらない。どっちもバカだ。これではいつまで経っても祝言など挙げられまい。

 鶏洋は改めて向かいの顔触れ、こちら側の顔触れを確認し、頷くことで一つ一つ数を数えていく。途中でわからなくなったのか、大きく左右に頭を振る。それを二回繰り返し、三回目が失敗したところで諦めた。

「さっきい~、馬天とお~、猿聖とお~、擦れ違ったけどお~。私はあ~、何番目なのお~?」

「十番目よ」

「そっかあ~、そんな後だったんだあ~。もっと早く~、来たかったなあ~」

「来ればよかったじゃない」

「だって~、私があ~、鳴かないとお~、朝があ~、始まらないんだよ~? こけこっこ~っ、てえ~」

「あれはあなたの声だったの? 私はそれを聞いてからやってきたけど」

「竜皇は~、元の姿でも~、ちゃ~んと空を~、飛べるもの~。私は~、元の姿だと~、あんまり~、飛べないもの~」

 竜皇と鶏洋の会話はそこで途切れる。さしたる時間も経たずに鶏洋が口を開けるが、すかさず両翼で覆った内側から漏れる声は意味を持つ言葉ではない。

「ふわ~あ~あ~」

 見事な大あくびに竜皇は思わず目を向ける。

「眠いの?」

 鶏洋は目元を拭いつつ、こっくりと頷く。

「今日は~、頑張って~、いつもよりも~、早起きしたから~」

 元々眠たそうな声がさらに眠気を帯びて重くなっていた。鶏洋は答え終わると同時に足を崩し、地べたに伏せる。しかし冷たく固い土の感触に不満そうに「むう~…」と唸ってしかめた顔を上げ、そこで羊帝を見つけた。正確に言えば羊帝が枕にしている矢筒を見つけた。さらに言うならば、羊帝の顔のすぐそばの、頭一つ分の余裕を見つけたのである。

 膝を擦らせてそばに歩み寄るなり、鶏洋は羊帝の顔の真横にそっと横顔を落とした。柔らかいわけではないが、地べたよりはましだし、心なしか温もっていて心地よい。感想が自然に漏れる。

「これなら~…ちゃあんと~…眠れそお~…」

 が、そこで鶏洋は正面のものが浮かび上がる気配を感じ取る。

「ん~…?」

 首を持ち上げてみると、眼鏡の奥で薄目をしばたかせる羊帝がじっと見下ろしているところだった。

「もしかして~…起こしちゃった~…?」

「うん。いい迷惑だ」

 申し訳なさそうに顔を歪めて尋ねると、羊帝は楽しそうに、しかし冷たい言葉を言い放った。

「ごめんなさい~…」

 鶏洋はますます申し訳なさそうに顔を歪め、羊帝はさらに楽しそうに言う。

「謝るのはいいから。なんだい?」

「私も~…枕の~…代わりにい~…貸してもらおうと~…思ってえ~…起こさないようにい~…そおっとお~…やればあ~…平気かなあ~ってえ~…」

 羊帝は肩をすくめ、唾を吐くように悪態をついた。

「相変わらずよく眠るね君は。それで鶏の長が務まるんだから大したものだ。朝起きて叫ぶとき以外はずっと寝てるんじゃないのかい?」

「そんなことは~、ないよお~? ごはんだってえ~、食べるしい~…」

「他には?」

「ええっと~…」

「寝る。食べる。寝る。食べる。素晴らしい生き様だね」

「う~…」

 羊帝の毒舌に、いつしか鶏洋はしょんぼりと項垂れてしまっていた。ただでさえ嫌われ者の羊帝なのだから、これほどまでに不敵では、周囲が黙っているはずもない。特に場に居合わせなかったために、卯后の忠告を受けなかった二人では。

「羊帝、少しは口を慎みなさい。あなたのくだらない言い分を聞いているだけで反吐が出そうだわ」

「へえ、君が出せるのは火だけじゃないんだ」

「あなたね…!」

 竜皇は跳ねるように立ち上がり、すかさず虎王が声をかけた。

「やめろ竜皇、お前がそんなに腹を立ててちゃしょうがないだろう」

 竜皇は今にも羊帝に炎を浴びせかけそうだったが、どうにかそれは堪えたらしい。それでも怒りは収まらない様子で、落下という具合に腰を下ろした。ともあれ虎王は安心して羊帝を見遣る。

「なあ羊帝、鶏洋にも悪気はなかったんだし、許してやれよ」

「許すも許さないもないよ」

 羊帝は言う。

「僕は怒ってなんかいないし、鶏洋の行動を裁定することもできないさ。思うがままを言ってるだけだよ」

 羊帝は矢筒の位置を調整すると、再び横たわった。それから鶏洋に声をかける。

「ほら、鶏洋。これでどうだい?」

 顔を上げた鶏洋は、えっと息を飲んだ。両方のまぶたが目に見えて開きかけたほどだ。

「いいの~…?」

 羊帝は地面の上に右腕を伸ばしているのだ。左手でその中央よりわずかに肩に近い辺りをぽんぽんと叩き、そこに来るようにと促している。

「きっと~…痛いよお~……? うまく眠れないと~…思うよ~…?」

「一回起こしたくせに何言ってるんだ」

「む~…」

 少し考えてから、鶏洋はしずしずと羊帝に近づいていく。竜皇が苛立った様子でそれを制した。

「よしなさい鶏洋。そんな蛇地みたいな女たらしの言うことを聞いちゃだめ」

「俺を引き合いに出すな」

「心外だなあ。まるで僕が鶏洋に気があるみたいじゃないか」

「違うと言い切れるわけ?」

「もちろん。僕みたいな性悪の優男に好かれたんじゃあ、鶏洋が気の毒だよ。僕なんかはずっと誰からも嫌われながら生きていって、どこかで野垂れ死にするのがちょうどいいのさ」

 顔は笑っているもののこれ以上ないほどの自己卑下に、竜皇は返す言葉に窮した。ばつが悪いのを隠すように絞り出す。

「だったらそんな風に、勘違いさせるようなことをしないで」

「それはもっともだ。じゃあこうしよう」

 羊帝は半身を起こして矢筒を差し出した。鶏洋はゆっくり素早く首を振る。

「もっと駄目だよお~…もっと痛いものお~…」

 羊帝は構わず矢筒を放り、地べたに頭をつけて寝転んだ。さすがに心地悪かったのか、組んだ両手を後頭部に添えるが、鶏洋は慌ててそばに寄る。

「駄目だってば~…怪我しちゃうよ~…」

「いいことじゃないか」

 羊帝は目を閉じたまま笑みを深くした。

「せいぜい僕の手が傷つくだけだ。みんな喜んでくれるだろう」

「ん~…」

 しばらく考えた鶏洋は、はたと気が付いて、羊帝に微笑んだ。

「それじゃあ~、こうしましょう~」

 羊帝は不思議そうに目を開く。鶏洋は矢筒に横顔を添えると、自らの翼の片方を地べたにつけ、もう片方の翼を扇ぐように羊帝に見せた。

「これなら~、私も~、羊帝も~、気持ちよく~、眠れるよ~」

「羽毛よりも羊毛のほうが心地良いものだけどねえ」

 嫌味を飛ばしながらも羊帝は鶏洋の翼の上に横たわり、鶏洋はさらにその上に残った翼を覆わせた。程なくして、二人の寝息が静かに聞こえてくる。

「忌々しいわね。何なのこいつ」

 竜皇が誰にともなく吐き捨てた。性質が気に入らないというより、理解できないことが悔しいという具合である。

「いい奴じゃないか」

「いい…って言うの…?」

 虎王は目を細めて呟き、竜皇はそんな虎王を一瞥してから、煮え切らない言葉を漏らす。

「俺たちが誤解していることだけは確かだろう。そう悪い奴じゃないよ」

「まあね…」

 竜皇が絞り出すように賛同し、目立つ動作ではそれを明かさなかったものの、残りの面々も概ねそこに準じていた。

「何で嫌われるようなことするのかな。あんなに嫌なことばっかり言って。変なの」

「お前は黙ってても嫌われてるのにな」

「うるさいな」

 子偉が疑問を呈し、牛貴が子偉を仰ぎ、子偉が即答で返す。軽い笑いに包まれて、場は少し柔和になる。突然それをぶち壊してきた来訪者の正体は、卯后よりわずかに遅れて全員に知れ渡る。


「どこどこどこどこどこどこどこどこ!」

 卯后以外の耳にはそれぐらいの数だけ聞こえたわめき声を散らしながら門をくぐってきたのは、犬の長の犬聖けんせいだ。

 犬聖は普通の犬より遥かに大きく、虎王ぐらいは優にある立派な体格をしている。三角形の耳を持ち、銀色の長い毛並みがたなびいて、弧状の太い尻尾を千切れんばかりに振り回しており、ハッハッハッと息を切らしながら、ぬらぬらと鈍く輝く大きな桜色の舌を垂らしていた。

「私としたことが、まさか先を越されたなんて!」

 犬聖は神様への挨拶もせずに、しきりに鼻をひくひくさせながら、そのまま首がもげていきそうな速度で何度も左右を見回して、唐突に止まった。

「いない…?」

 しっかり顔触れを確認するために、ゆっくり視線をなぞらせる。鼻も利かせてみるが、思うような結果ではないらしい。

 途方に暮れたように尻をつけて佇んだ犬聖は、しばらくしてから靄を前にしている自分に気がつき、姿勢を正した。

「犬聖、参上致しました」

(よし、お前にはこの力を授ける)

 犬聖は目の前に転がった銀色の珠に鼻を向け、じっくり嗅ぎ回す。その鼻先が触れると、犬聖は銀色の光に包まれ、背丈が優に一間に届く大柄な姿になっていた。

 人の姿になる際にそこだけがその形状に残って張り付いたみたいな、元の毛並みと色も質も変わらない、肩から胸元だけを覆う、銀色の毛皮のような袖のない上着と、膝まで見える裾の短い服を穿いている。左右の口の端からは、上から下に鋭く尖った八重歯が牙のように短く生え、腰からは尻尾が伸び、剥き出しの腹部は六つに割れており、手足は逞しく太く、肘から先と膝から先は銀の毛皮に覆われて、肉球のある手のひらや足の裏を元のままに残している。そこまで鍛えられているみたいに硬そうな、やはり銀色の髪の毛は四方八方に鋭く伸びていて、頭には同じ色の毛皮に覆われた三角形の耳が二つ生えている。

 しかし犬聖は人の姿になっても行動は変わらなかった。にわかに四つん這いになるや鼻先が地面に接するほど顔を下げ、必死に匂いを嗅ぎ回るのだ。

「やっぱり猿の匂いがする。あの憎たらしい猿…一体どこに隠れたの」

「猿っていうのは…猿聖のことか?」

 訝しげな牛貴の問い掛けに、犬聖は勢いよく顔を上げた。

「来てるの?」

「呼んでやるよ」

 蛇地は片手の指を蛇に変えて頭上へ伸ばし、もう片方の手で卯后の頭を軽く叩く。

「何て書いたらいい?」

「いい女がいるよって」

「よし」

 五匹の蛇は相当離れているところからでも窺える高さまで到達すると、複雑に絡み合ったり重なり合ったりし、字体の大きな文章を作る。

 馬天、卯后が会いたいって言ってるから、すぐ戻れ。

「言ってない」

「何か用か卯后?」

 卯后が蛇地に否定するのとほぼ同時に、馬天が嬉しそうにそう言った。

 万里の疾走恐るべし、と声も出ないほど驚いている一同に対し、犬聖は新たな気配に目線を送って怒鳴りつける。

「猿! 何であんたがここにいるの!」

 一瞬で御殿に戻っていることにやはり驚嘆している猿聖を、馬天の背に発見したのだ。

「犬? それはこっちの台詞だ!」

 同じく犬聖を認めた猿聖も目を剥いて怒鳴り返す。

「ちょうどいいわ。神様から力を授かったばかりだし、今こそ決着をつけてやるわ!」

 犬聖は立ち上がって拳を握り、食いしばった前歯を見せ付けるように、口の奥から手前まで整然と居並ぶギザギザの牙を剥き出しにして鋭い光を放たせた。

「いいだろう。俺だって力を授かったんだ、今の俺ならお前の首の一つや二つ、一瞬で切り落としてやる!」

 一方の猿聖は二本とも剣を引き抜き、そのうちの一本を犬聖に突き付けた。そして一旦それを立てる。

「だが、もしもお前が俺に詫びるというのなら、それで勘弁してやろう」

「ふざけてんの?」

 犬聖は呆気に取られたように顔をしかめ、またすぐに強張らせた。

「たとえあんたが私に詫びても、私はあんたを許さないわ」

「それじゃあ仕方ねえな…」

 猿聖は心底残念そうにため息をつき、改めて剣を構えた。

「行くぞ馬天、あいつを蹴り飛ばしてやれ!」

 しかし馬天は後ろ足だけで立ち上がり、それを遂げるとともに人の姿になっていた。

 前触れもなく居場所が揺れたのだ。驚いたのは猿聖である。大声を上げて後ろにひっくり返りそうになるのを、馬天の腹に尻尾を巻き付けてどうにかこらえた。そのため馬天と背中合わせに上下あべこべになる。両足が馬天の肩口から突き出し、後頭部は馬天の尻尾に埋もれるような格好だ。

「おい、何の真似だ」

「女と戦うのは気が引ける」

「あいつは女じゃねえよ」

「そうなのか?」

「ち、違うわよ!」

 犬聖が慌てて叫んだ。

「私はれっきとした女よ!」

 一人称と語尾こそそれなのだが、声は低いし図体はでかいし態度は荒いしなので、馬天が猿聖のついたささやかな嘘を信じかけたのも無理はない。知らなければ男だと言われても疑わないに違いない。言われたって疑う者もいるぐらいだ。

「そうなのか…?」

 誰にともなく尋ねた蛇地の言葉を耳ざとく聞きつけ、犬聖は歯を食いしばった顔を向ける。

「悪かったわね! こんな体で!」

 言われてみれば、声が低いといってもそれは中性的なもので、濁っているとか掠れているとかいうわけではない。女だと言われれば納得できる。だが男だと言われても納得できる。子偉にし、今なお卯后にしていて、鶏洋にもしようとしたような、蛇にした指をまとわりつかせるのは、遠慮しておくことにした。

「気にしてんのよ私だって!」

「いや、俺はいいと思うぞ」

 馬天が言い、さらに続けた。

「そういう女らしさのカケラもない奴ってのも」

 形容するならギャッハハハハハハ! という感じの品のない猿聖の笑い声が響き渡る。犬聖の額に血管がぴくぴく浮き出てきた。

「……あんた…私に恨みでもあんの?」

 とんでもないと言わんばかりに馬天は両手の蹄鉄を犬聖に向けて首を振った。

 蛇地が呟く。「あいつに伴侶ができるはずがない」

「褒めたつもりなんだけど」

 子偉も言う。「見えてる地雷踏んでるようなモンだからね」

「女を褒めるんだったらもうちょっとなんかこう、他に言い様があるものでしょ。キレイとか、カワイイとか」

 牛貴も続く。「地雷だって気付いてないのがタチ悪いな」

「俺は正直者で通ってるんだ。嘘はつきたくない」

 卯后がスパッと締めた。「バカだから正直と愚直を履き違えてるのよ」

「グルルルル…」

 逆説的にキレイでもカワイイでもないと言われた犬聖はそう唸って馬天を睨む。馬天はやれやれと言わんばかりに両腕を広げ、首を斜め後ろに曲げる。

「お前よっぽど嫌われてるんだな」

「あんたのせいよ」

「お前のせいだ」

 二人に同時に言われたものの、本当のことを言っているだけの馬天には怒られている理由が飲み込めておらず、両腕の位置が上昇するだけだ。それでも猿聖に告げる。

「何にしても、俺はお前の喧嘩に手を貸すつもりはない」

「これは喧嘩じゃない。殺し合いだ」

「なおさら悪い。まったく。お前ときたらいつまで経っても犬たちと仲良くしようとしないで――やりたきゃ勝手にやってろ」

 馬天は猿聖の尻尾を蹄鉄で縦に薙いだ。

 猿聖にしてみれば命綱を裂かれたようなものである。宙に投げ出されて悲鳴を上げたが、頭から地面に激突するのを素早く抜いた剣を突き立てて防ぎ、逆さになって停止した体を軽々と宙返りさせて立ち上がるや、その反動で剣をも引き抜いた。

「あっぶねえな! いきなり何すんだ!」

 安堵すら見せずに叫んだ猿聖だが、馬天はそんな叱責なんかに頓着せずに、そろそろと塀の奥に近付いていた。

 一同はもれなく、殺し合いを始めるはずだった二人までもが、馬天の豹変を訝しげに見つめる。今この瞬間に互いを気にする余裕はこれっぽっちもない。

「これ…鶏洋か?」

 馬天は猿聖を諭している途中の「――」の間にふと見つけたそれ、安らかに眠る鶏洋のそばに到着するなり、中腰になって鶏洋を見回し品定めする。

「うーん…鶏洋もいいなあ…」

 馬天はもっと近くで観賞するべく、元の姿に戻った。馬の顔は縦長である。元の姿の馬天が鶏洋の顔を間近で眺めるためには、口元を鶏洋のあごの下まで滑り込ませないとならない。それをすると鼻の穴は鶏洋の顔の真ん前に位置する。心なしか芳しい香りを感じ、馬天の胸は急速に高鳴る。

 鶏洋はというと、むずかるように身をよじらせていた。夢の深淵でも顔に吹きかかる荒い鼻息から逃れようとしたらしく、むうっと唸って手近なものにしがみ付く。それが羊帝であることなど知らずにその首筋に顔を密着させたところで停止する。

 両者とも眠りの中にあってそれに気がついていないのが、馬天にとってはせめてもの救いだった。それでも鶏洋に拒絶されたように感じてしまう。「――」の時点で幸福そうな寝顔のそばにあるのが羊帝の不快な寝姿ということは嫌でもわかっていたのだが、こうして改めて抱かせられた寂寥と不満が、人の姿になった馬天に、その時点では口に出さなかったことを今になって言わせた。

「何でこんな奴と寝てるんだよ」

「起こさないであげなさいね」

 大きめの声を発した馬天に、竜皇がそれよりは小さく注意する。声のしたほうを見た馬天の顔は幸せそうにほころび、感嘆の息を漏らす。

「竜皇もいいなあ…」

「わ、私は」

 不意の褒め言葉に戸惑った竜皇は返事に詰まり、何かを宣言してくれることを祈る気持ちで蛇地を見遣った。

 ところが、先ほどは自分のことを好いているとまで言ってくれた蛇地は、今はこの窮地をどう切り抜けるのかを楽しむかのように、にやにやと笑みを保ったまま卯后の耳を撫でるのを止めない。

 竜皇はそっぽを向いて吐き捨てた。

「私は男に興味なんてないの」

「何つまんねえ見栄張ってんだよ」

 思わず顔を上げると、馬天が叫んできた。

「なあ竜皇! お前蛇地のこと好きなんだろ!」

「な! 何よいきなり!」

「ほーら、顔真っ赤だぞ。好きなら好きだって言ってやりゃいいじゃねえか」

「ああああんたには! な! なんの関係もないでしょ!」

「お前がそうやってウジウジウジウジしてるから、いつまで経ってもあいつがああやって調子に乗るんだろうが! ええ?」

 そこで馬天の怒り心頭の顔が、元は前足だが今は片方の手に相当する蹄鉄とともに蛇地に向く。

「お前もお前だ! そうやって気のないことすんな! お前がそんなだからこいつが自信なくしちまうんじゃねえか! あんまり人の気持ち弄ぶな!」

 竜皇と蛇地を初め、居合わせた全員が目を白黒させていたが、卯后だけは一人真っ赤な目のままで、なるほど。愚直にもいいところはあるんだな、と頷き、

「そんなに余ってるんなら俺にも分けろ!」

 そうでもないか、と瞳を閉じた。

 至近距離でここまで声を張り上げられれば誰だって目を覚ますだろう。いかにも寝起きらしく弱々しく立ち上がった羊帝の首筋に寝息を立てたままの鶏洋ががっしりと絡み付いているのは、もはや奇跡である。

「騒々しいなあ…なに?」

 羊帝は眼鏡の隙間から指を入れて目元を擦り、馬天は、羊帝の首筋に顔を、あるいは唇まで触れているのではないかというほどくっつけている鶏洋を認めるや、泣き出しそうな顔になる。

 羊帝はあくまで真顔なのだが、この状況では勝ち誇ったようにしか取れない微笑の眼前に、馬天は震える腕と蹄鉄を突き付けた。

「お前はお前で! 元はといえばお前のせいで!」

「僕が何かした?」

「お、お、お前が! お前がそういうことするから!」

 別に羊帝が悪いわけでも他の誰が悪いわけでもないのだが、錯乱している馬天にそんな正常な判断力は期待できない。

 それ以上なかなか言葉を継げない馬天に対する意識は離れていった。羊帝は自然と体の違和感を覚え、眠ったまま抱きついてきている鶏洋にようやく気がつき大いに身じろいだ。両翼が首に巻き付いているだけではない、四叉の足指は服の上からその背に食い込んでいるのだ。そしてその激しい動揺の際にも鶏洋は体の一部のようについてきた。

「いつの間にこんなことに…」

 ため息交じりに呟くと、背中の足指を丁寧に外し、首にまとわりつく両翼を解き、腰を下ろして膝枕をしてやった。寝心地は一層よくなったらしい。鶏洋は嬉しそうな声を漏らし、羊帝の膝を抱き込んだ。

「羨ましいじゃないか!」

 一部始終を眺め、長い息をついてから、ようやく馬天は叫んだ。羊帝は肩をすくめる。

「そう? 僕は疲れたよ。そもそも鶏洋ってそんなに魅力があるかな? 鶏のくせに寝てばっかりで、それも長のくせに寝てばっかりで、とても恋愛対象にはなりえない気がするけどね。多分、鶏洋も誰かを好きにはならないんじゃないかな」

 悩みの見られない鶏洋の寝姿をチクチク突付いてから、羊帝は馬天を仰ぐ。

「君もまだまだ独り身が続きそうだね」

 グサッと的を射た。馬天は身震いするだけで言い返せない体を反転させる。

「クっソお! ムシャクシャしたらまた走りたくなってきた! 行くぞ猿聖!」

「どっちなんだよやれっつったりやるなっつったり…」

 うんざりとこぼしつつも、猿聖は剣を納めてその場で跳躍した。馬天は元の姿に戻って走り出し、猿聖は一瞬で真下に出現した馬天の背にまたがる形となる。

「犬、この勝負ひとまず預けた」

「逃げるつもり?」

 猿聖の言葉が終わるか終わらないかのうちに馬天は駆け出していた。犬聖の詰問は目の前から門の外に続いていく土煙に掻き消されて二人に届くこともない。

「そうはさせないわよ!」

 犬聖は威勢よく叫ぶなり元の姿に戻る。その目の前に人影が現れた。

「あいつとは仲が悪いのか」

 それは虎王だった。犬聖も人の姿になって答える。

「ええそうよ、全ての犬は猿を嫌ってるし、全ての猿も犬を嫌ってる」

「それは頭同士がいがみ合ってるからじゃないのか? 理由は何だ」

「名前に同じ聖という字が入っていることが許せないわ」

「それは偶然だろう」

「あいつはね、俺の名を盗んだろうって言い掛かりをつけるのよ。冗談じゃない。私は昔からその名前なのよ。何が悲しくてあんな奴の名前を盗まなきゃいけないのよ。盗んだのはあいつのほうよ」

 仲裁に入ったことを半ば後悔しつつ、虎王はその義務感だけでもう少し聞いた。

「他には」

「猿だからかしらね」

「それじゃどうしようもないだろう」

「どうしようもないのよ。私は犬だから猿を嫌うし、私は犬の長だから猿の長のあいつを嫌う。あいつも私と同じはずよ。いいからどいて」

 犬聖は虎王を押し退け、虎王はすかさず犬聖の肩をつかんだ。

「まあ待て、今の馬天は神様の力を授かってるんだ。お前に追い着けるのか?」

「日に万里を走れるんだって」

「万里の疾走だとさ」

「万里の疾走…?」

 子偉と牛貴が続けてやり、犬聖は顔をしかめる。

「ダサいわね」

「俺もそう思う」

 蛇地が頷き、犬聖は虎王に向き直る。

「やってみないとわからないでしょう」

「バカじゃなければやってみなくてもわかるわ」

 せっかくの決意を卯后が一蹴し、犬聖は敵意と一緒に牙を剥き出した。

「見てなさい。私だって足には自信がある」

 そして虎王を見据えた。

「放さないと咬むわよ」

「よほど元気が有り余ってるみたいだな」

 挑むように睨みつけられた虎王はしかし、何がそんな気分にさせるのか、今日ここへ来て初めて歯を見せて微笑んだ。

「よし、ここで会ったのも何かの縁だ、稽古してやるよ」

「稽古? 何様のつもり!」

 犬聖の怒りの矛先がくるりと変化した。だが虎王は構わず門へ歩いていく。それがさらに犬聖の神経を逆撫でした。

「卑しくも私は犬の長よ! 馬鹿にするにもほどがあるわ!」

 虎王は立ち止まり、首だけを振り返らせる。感情の読み取りにくいいつもの真顔から、面倒臭そうに言った。

「いいから来い。殺すつもりで来い。やれるのならばそれでもいい」

「そう…それじゃそうさせてもらうわ」

 門の外へ出て行った虎王を追って犬聖が走り去ると、少しの間だけ犬聖の咆哮が轟いた。

 それは本当に少しの間で終わった。

 聞くまでもないことなのだが、蛇地は卯后に確認してみる。

「どんな感じだ」

「虎王の圧勝。当然じゃない」

 それから卯后は具体的な戦況を話してやった。

「犬聖は元の姿で虎王の周りをくるくる走り回って惑わせてから、後ろから人の姿で飛び掛かって咬み付こうとしたんだけど、虎王は犬聖の腕を両手でつかんで仰向けに投げ飛ばして、その上にまたがって首を押さえ付けて、腕を膝で押し潰したの」

 そんな体勢で牙と牙の隙間から忌々しそうな吐息を漏らすことしかできない状況でも、首をつかむ手を振り払い、あるいはその手に牙を突き立ててやろうと、犬聖は必死で頭を振り回している。

 しかし両腕は、虎王の膝に乗っかられているとはいえ、微動だにしない。まるで初めからそこにないかのようである。苛立った様子で虎王は片方の手首を強く押さえ付けた。

「お前は爪があるのになぜそれを使わない」

 犬聖は目を丸くしてあがくのを止める。確かに犬聖の両手の先には、短くて、普段地面を捉えるために酷使されているせいで先鋭ではないにしても、それに耐えうるだけの頑健な爪が備わっている。

「お前の牙は立派なものだ。そしてその駿足も見事だ。随分鍛錬したんだろう、虎の俺より余程優れている。だが、折角の爪を遊ばせておくな。使えるものは惜しみなく、けれども無駄なく使いこなせ。そうすればもっともっと、戦いの幅が広がるはずだぞ」

「………」

 虎王は困惑した表情の犬聖から降りると、元来た道を戻ろうとした。

「爪ぐらいで強くなれるはずがないわ」

 そしてその冷ややかな物言いに立ち止まって振り返る。

 犬聖は上半身を起こしただけの、足を投げ出した姿勢で前屈みになり、その股ぐらに無造作に両手をついていた。項垂れた顔の真下の地面が、とめどなく滴る円形の水を幾つも吸い込んでいる。犬聖は鼻をすすって首を振る。

「初めから虎の長のあなたに勝てるとは思ってなかった…だけどここまで簡単にあしらわれるとも思ってなかった…こんなんじゃ猿に勝れるなんて言えない…犬の長だなんて恐れ多くて名乗れない…」

 犬聖の手は拳を握ってぎりぎりと地面をえぐる。爪に鋭く掘り出された土は指の間からその一部をはみ出させていく。

「何で私は犬なんだろう…何で私はもっと強い生き物じゃないんだろう…」

 感触だけでなく、悔しく滲む視界でも悲鳴みたいに溢れ出る土くれを睨みつけていると、不意にその全身が影に覆われた。

「余計な世話かもしれないが」

 犬聖は上目遣いに虎王を見遣る。

「またこうして、稽古してやろうか?」

 濡れた顔が問いただすように持ち上がり、虎王は頷く。

「向上心のある奴はいくらでも強くなれる。いや」

 首を振って言い直した。

「俺が強くしてやる」

 犬聖は拳を開き、曲がった背中を勢いよく倒した。ゴツンとそれなりな音が出て、虎王はかすかに後ずさり、しかし犬聖は顔面を地面から離そうともしない。

「よろしくお願いします!」

 虎王は複雑そうに、もっとも傍から見れば無表情のまま、膝を曲げた。

「敬語なんか使わなくていいぞ」

「それでは私の気が済みません。これから虎王は、私の師なんですから」

「だがなあ」

 と、犬聖はいきなり顔を上げる。虎王はびっくりして身じろぎ、思わず両手と尻餅をついた。

「何だ?」

「匂いがします。誰か来るようです」

 そう答えた犬聖は、前に突き出した鼻をひくひくさせている。虎王も背後に視線を注いだが、地平線の果てまで乾いた平地が続いているのが見えるだけだ。

「これも神様の力なのでしょうか? ここまで私の鼻は利かなかったのですが」

「馬天と猿聖か?」

「いえ。二人はもっと遠くです。どうやら最後の一人です」

 虎王ははたと、傍から見てもそれとわかるほど目を見開いて犬聖に向き直った。

「猫丸か?」

「猫丸?」

「俺の弟みたいなもんで、猫の長だ。必ず虎の年と猫の年を作ろうって約束してたんだ。すんっっっっごく可愛い鉢割れの猫でな、みんなともすぐに仲良くなれるはずだ。なあ、そうだろう? 猫丸だろ? 猫丸なんだろ?」

「はあ…」

 強い期待のために滑らかな口調に圧倒されつつ、犬聖は目を閉じて鼻先に全神経を集中させてみた。それからすぐに顔をしかめ、やがて残念そうに首を振る。

「いえ…これは猫ではありません…猪の匂いです」

「猪?」

 虎王は我を失ったように畳み掛けた。

「そんなはずない、何かの間違いだ。犬聖、もう一度きちんと確かめてくれ、猫丸が来ないはずがない。俺はあいつと約束したんだ」

 犬聖は困ったように、それでも今一度鼻を利かせてみた。しかし、答えは変わらない。どんなに匂いを嗅いでみても、感じられるのは猪の匂いだけだ。

 いくら待っても犬聖の表情が厳しいままでいるのを見ているうちに、虎王の気持ちも静まってきた。

「猪か…そうか…」

 やがて虎王は、望ましくない現実を受け止め、大きなため息に引っ張られたように項垂れた。

「ということは…猪神か…」

「…そのようです」

「それじゃあ猫はあぶれてしまったわけか…猫丸の奴…何してるんだ…」


 肩を落とした虎王と、それに付き合ってうつむき気味の犬聖が御殿へ戻ってきてからしばらくして、一頭の猪が門の中へと飛び込んできた。猪の長、猪神ちょしんである。

 猪神は靄の前に赴くと、突き出た鼻をひしゃげるほど地面に押し付け、神様への挨拶とした。

(よく来たな、猪神。お前にはこれを授けよう)

 琥珀色の珠が現れ、それに触れた猪神は光に包まれて変身する。

 足元から頭までが一間にわずかに届かないぐらいのがっしりとした体躯を、上下茶褐色の袖と裾の長い衣服に包み、鋭利な槍を片手に握り締めた男。しかし首から上は一見して猪の名残を色濃く残しており、耳は顔の横で毛皮に覆われた楕円形に尖り、鼻は顔の中心に厚く突き出て大きな鼻孔を剥き出しにし、下顎の両端には鋭く尖った牙が天に向かって生えていた。そして、これは本人の個人的な特質に由来するものであるが、それだけで怒気を孕んでいるかのような、極めて悪い目つきをしていた。

(これで十二人揃ったな、それでは改めて話を始めよう)

 神様のその言葉とともに、重い低音を響かせて門が閉まり始めた。

「蛇地、二人を呼び戻して」

 卯后に言われ、蛇地が空に文章を作る。

 馬天! 卯后がお前に会いたいって

「言ってないぞ」

 蛇地は戻ってきたばかりの馬天に舌を出しつつそう告げた。

「嘘をついたのか…!」

 肩透かしを食った馬天は呆気に取られ、それから怒りで打ち震えたが、すぐに卯后がとりなしてやる。

「でも、神様の話があるらしいの」

「神様の? そうか。でもそれならそう言えばいいだろう」

「こっちのほうが速いと思ったからな」

「違いねえ」

「それもそうだ」

 蛇地が断り、猿聖が同意し、馬天も素直に納得した。

「でもな、卯后。本当に俺に会いたいっていうんだったら、俺もっと速く走れるぜ」

「黙ってて」

 門が閉じたところで、誰ともなく中央に集まろうとする。

 立ち上がった牛貴は斧を突き立てておいてから両手で子偉を持ち上げ、子偉も素直に受け入れて牛貴の足元に降り立った。蛇地は卯后とともに腰を上げ、卯后の耳からようやく手を放して竜皇のそばに行こうとしたが、ためらう素振りを見せられた後で結局避けられてしまい、つまらなさそうに舌打ちした。虎王と犬聖は連れ立って佇み、猿聖は馬天から飛び降り、馬天はそれを見計らって人の姿になり、猪神はわざわざ動こうとしない。羊帝は膝の上で眠る鶏洋を揺さぶった。

「鶏洋、そろそろ起きるんだ」

 強めに荒く動かしたが、しかめた寝顔を「む~っ…」と振るだけだ。肩をつかんで立ち上がって立ち上がらせて、がくがくがくがく前後させまくると、その回数分だけ「う……う……う……う……」と漏らしてから、ようやく前後運動に抗うようにのろのろと首が動いてきた。

 眉間にしわが寄っただけの、見た目は寝ていたときと変わらない曲線の目が羊帝を認めると、鶏洋は不満そうな声を発する。

「なあに~…? もう朝なの~…?」

 羊帝は侮蔑を込めて鼻で笑ってから答えてやる。

「とっくに朝だよ」

「とっくに~…?」

「そう。とっくに」

「大変だわ~…」

 鶏洋は一言呟いて、羊帝の前に歩み出た。正面では十人が横を向いて居並ぶところである。大きく息を吸い込む。寝ぼけた頭はここに来る前にすでに朝の知らせを叫んでいることなど忘却済みである。

 遥か彼方でコケッコッコーと聞こえたその声は、今日二度目ということを除けば、鶏の長を務めるに相応しい、世界の果ての隅々まで届いていくようなしっかりした声量だった。逆に言えば、近距離ではコケッコッコーとはとても聞き取れない、さながら爆音だったのである。

「すご~い…こんなに~…大きな~…声が~…出たのってえ~…初めてかも~…おとしだまの~…おかげかな~…?」

 自分自身でも思いの外という喉を押さえて独り言を漏らす鶏洋の目の前には、屍にも似た十人の変わり果てた姿がある。下手人が自分で、凶器となったのが朝の知らせであることには、微塵も気がついていない。

 子偉は仰向けの牛貴の腹を横切るようにうつ伏せており、虎王と犬聖は寄り添うように倒れていた。卯后と猪神は大の字に突っ伏し、竜皇と蛇地は、互いの場所は離れているものの、顔を向き合わせるように伏している。両手両足を上下に伸ばして天を仰いだ馬天の胸板には、猿聖の頭が乗っている。

 卯后以外は表情を確認でき、全員の目が渦巻きみたいになっている。地面と見合っている卯后だって彼らと同じで、しかし自慢の耳のせいで渦が回る速度とその大きさは他の誰とも比べ物にならないほど深刻なものだった。

 真後ろにいた分、目を回さずに済んだ羊帝は、笑っているのか怒っているのか判別しかねる顔付きで、それでも尻餅をついており、今更ながら耳を押さえていた。

「手分けしてみんなを起こそう!」

 一時的ではあるが声を大にしないと自分にも聞こえないほど聴覚の機能が低下していた羊帝は、そう鶏洋に叫ぶ。

「あれえ~…?」

 それでようやく目の前の惨状に気がついた鶏洋は、おもむろに首をかしげた。

「どうして~…みんな~…寝ちゃったのお~…?」

 なおも自分の仕業だということがわかっていないらしく、

「しょうがないなあ~…」

 再び息を吸い込んだ。胸が大きく膨らんだところで背中から抱き着かれ、朝の知らせが羊帝の手の中でくぐもる。

「それ以外でね」

 口調こそ優しいが、肩口に覗いた顔はついに笑っていなかった。


(私に選ばれた聖獣として、これよりお前たちは、十二支と名乗るがいい)

 神様の話はその言葉から始まった。

(暮れに約束したとおり、これから先の年の大将はお前たちだ。その証として、これから先の年には全て、お前たちの名を冠してやる。一番に訪れたのは子偉だったから、今年は鼠の年だ)

「やったあ!」

 子偉は嬉しそうな歓声とともに両手を突き上げてぴょんと跳ね、牛貴は忌々しそうにその姿を睨み付けた。

(来年は牛、その次は虎、その次は兎と続き、これを十二年ごとに繰り返す。異論はないな)

「こいつは俺の背中に乗ってここまで来たんです、そんな奴が一番でいいんですか?」

 牛貴が足元を指差して尋ねると、天からまず聞こえてきたのは困ったような唸り声だった。

(うーむ…方法までは定めなかったからな…すまないがその順番でやってくれ)

「はーい! わっかりましたあ!」

 子偉は再び嬉しそうな歓声とともに両手を突き上げ、牛貴は納得できずに食い下がる。

「そんな卑怯な手を許すのは不公平です。一番に来てたのは俺だったんだ」

(それじゃあお前を一番にしたとして、子偉は何番にすればいい? 初めからやり直すわけにはいかないのだぞ)

「ですが」

「牛貴、これ以上神様を困らせないの」

 子偉は顔に似合わぬ大人びた口調でたしなめながら、牛貴の膝をぺしぺし叩いた。それがそのまま牛貴を逆撫ですることになっているのを当然知りながら、それでも牛貴が引き下がるしかないことを知りながら、である。

 牛貴はぎりぎりと歯を軋ませながらも、神様の御前だということを念じ続け、爆発しそうな怒気を何とか抑えた。

(他に異論はないな?)

 到底納得できそうにない牛貴を除けば、誰も異を唱えようとしないようだった。そしてそれを確かめるや否や、口を開いた者がいた。

「本当にそれが目的ですか?」

 神様も含め、全員が卯后に注目する。卯后は続ける。

「私たちが授かったこの力は、どれも並外れたものです。人の姿になることができ、触れたこともない武器を自在に操れるようになり、元々優れている五感や特長がさらに研ぎ澄まされました。かく言う私もこれまで以上に遠くの音を聞けるようになりました。ですが私たちの名前をその年に冠するというだけのことならば、このような力は必要ありません。何か他に理由があるのではないですか?」

(さすがは卯后、察しがいいな)

「えっ…? そ…そうですか…? それはどうも…ありがとうございます…」

 卯后は面食らうと、照れ臭そうに笑みをこぼし、しどろもどろにお礼を呟いて指先で頬をぽりぽり掻いた。それからいつになく慌てふためいた様子で耳をさすって、しかし嬉しそうに話し始める。

「私はほら…生まれつきこんな耳ですから…遠くで起きてる色んなことをいっぱい聞けて…」

(卯后)

「それで色々なことを考えて行動することができますから…自然に頭も切れるようになったというか…」

(卯后)

「そりゃあ…物事を考えるのには自信がありますし…知識もいっぱい持ってるつもりですけど…そんな風に言われると…なんだかその…」

(卯后!)

「は、はい!」

(話を戻していいか?)

「あ…」

 そこで卯后は異形なものを見るような目が十一対も自分に向いているのに気がつき、顔を赤らめて頭を下げる。大きな耳の先端は垂れ下がって地面についてしまった。

「申し訳ありません…取り乱しました…」

 妙に長い間があり、卯后の耳には、あいつが笑ったところ初めて見た、一応笑えるんだな、しっ! 聞こえてるよ、などというひそひそ話が嫌でも届いてくる。卯后はたまらず催促する。

「早くしてください」

(あ、ああ…)

 神様もわずかに口ごもってから、何事もなかったように気を取り直した。

(お前たちには人間を守ってもらいたいのだ)

「人間?」

 十二人が口を揃え、聞き返すように天を仰ぐ。

(そうだ人間だ)

 神様は続ける。

(お前たちも知っているだろうが、今、この世では多くの妖怪がはびこり、様々な形で人間を苦しめている。奴らは元より異界のもの。その力は人間には脅威そのものだ。とても人間が太刀打ちできるようなものではないが、このままのさばらせておくわけにもいかない。そこでお前たちにはその力で、妖怪どもを退治してもらいたいのだ)

「任せてください!」

 勇ましく胸を叩いたのは猿聖だった。その勢いのままに威勢良く続けて叫ぶ。

「人間は俺たち猿の仲間みたいなもんだ! それを苦しめてる妖怪どもは前々から気に入らなかったんだ! いつか何とかしてやろうって」

 しかしそこで猿聖はふっと顔を曇らせた。握り締めていた拳をそろそろ開き、腰の横に下ろしていく。

「あー…でも、神様。別に、無理して殺さなくてもいいんでしょ? 要はあいつらを懲らしめて、悪さしないようにさせてやればいいんでしょ? それだったら俺たち、いくらでも」

「嫌です」

 思わず猿聖は口をつぐみ、他の面子がしたのと同じように、その声の主を見た。

 神様の頼みをはっきりと拒絶したのは鶏洋だった。先ほどまでののんびりとしたそれとは違い、まるで目が覚めたようなのは声だけではない。鶏洋の目は、もはや傍から見ても曲線ではなく、悲しげな色を浮かべた瞳を窺えるほど見開かれていた。鶏洋は自らを抱き締めるように両翼を内側に折り曲げた姿で、その理由を流暢に語る。

「人間はいっぱい鶏を飼います。人間はいっぱい鶏を食べます。人間はいっぱい鶏を殺します。自分の仲間をそんな風に扱う生き物を、どうして助けないといけないんですか? 私は人間が嫌いです。人間なんて助けたくないです。人間なんてどうなっても構いません。人間なんてみんなみんな、死んじゃえばいいんです」

 震える肩口に大きな手のひらが優しく置かれる。見るとすぐそばに牛貴が立っており、目が合うなり頷いてきた。

「あいつらは牛も食う。俺も同じだ」

 離れたところで子偉が賛同する。

「鼠もしょっちゅう追い出されちゃうしね」

「鼠はしょっちゅう迷惑かけてるからだろ」

「うるさーい!」

 牛貴は嫌味を投げ付けてやってから、残りの何人かを見回して誘いかける。

「兎だって馬だって犬だって、殺されるときは殺されるし、食われるときは食われるだろう。お前らはそれでいいのか」

「確かに人間の中に兎を食べる習慣もあるけど、それは人間だけの話じゃないわ」

「人間に飼われている馬は乗るためだとか、物を運ぶときの役割が主だ。食用の数は限られる」

「私たちと人間は仲良しが多いからね。家族同然で一緒に暮らしてる仲間もいっぱいいるから」

 牛貴は最後に言葉を発した犬聖をじっと見据え、告げてやる。

「人間は限りなく猿に近いだろう」

「それはそうだけど…」

「それを助けられるのか?」

「………」

 犬聖は猿聖を一瞥し、回答をためらった。目が合った猿聖は鼻で笑って顔を逸らす。

「お前がいなくても大して変わらねえよ」

 犬聖は剥き出しにした牙の間で短く唸ってから、しかし首を振った。

「猿と人間は違うわ」

「人間の祖先は猿だっていうわよ」

 ぎょっと犬聖は卯后を見遣った。

「そうなの?」

「そういう説もあるってこと」

「………」

 犬聖は改めて猿聖を見、頭を抱えて考え込む。まったくの他人事という態で蛇地が聞いた。

「卯后、お前どっちの味方なんだ?」

「私は本当のことを言ってるだけよ。どうせ誰もそんな学説のことなんて知らないだろうから」

「気楽なもんだな」

「お前こそどっちの味方だ」

「どっちでもねえな」

 牛貴に尋ねられ、蛇地は即答する。縋るような目で鶏洋に見つめられていたが、にやっと嘲笑うみたいに舌を出し入れしてみせてから、その理由を言ってやる。

「蛇の中には人間に殺される間抜けな連中も確かにいるが、毒牙で人間を仕留める奴もいる。俺だってこれまでに何人殺したかわかりゃしない。これといって好き嫌いがないから俺には関係ない。そもそも殺されるときは殺されるし、食われるときは食われるってのは、何も相手が人間に限られるわけじゃないだろう」

「そうね。やっぱり猿と人間は違うわ」

 最後の言葉が参考になり、腹を決めた犬聖がそう頷く。

「猿は犬より格下だけど、人間は犬より格上だもの」

「オイ、誰が犬より格下だって」

 犬聖は素知らぬ振りして答えない。猿聖は舌打ちだけして聞き流してやる。

 鶏洋は羊帝を向いた。

「羊だって、人間のこと好きじゃないでしょう?」

「羊たちは、ね。もしかたら、そうかもしれない。でも僕はなんとも思ってないよ」

「仲間が毛を毟られたり、肉を食われたりしてるだろう」

「弱肉強食だから、仕方ないんじゃない? 鶏や牛がないがしろにされるのも同じことさ」

 鶏洋と牛貴は絶句した後で、それぞれ思ったことを口にする。

「そんな言い方…ひどいよ…」

「それでもお前は羊の長か!」

「残念ながら」

 羊帝は悪びれずに肩をすくめた。

「お前たちの気持ちはわからなくもない。だが、これは神様直々の頼みだ」

 そう言ったのは虎王だ。竜皇も続く。

「そのとおりよ。私たちに拒むことはできない」

「無責任よ」

 鶏洋は素早く振り返って反駁する。

「虎は元々人間よりも強いもの。竜だって、人間には空想上の生き物だって思われてるんだから…」

 言いながら鶏洋はうつむいていき、牛貴は慰めるようにその背中に手を置いて二人を見遣る。

「悪いが出しゃばらないでもらおう。人間に畏怖されるお前たちに、人間に見下される俺たちの気持ちなど、わかるはずがない」

 そう言われてしまうと、虎王と竜皇は押し黙るしかなかった。

 鶏洋ははたと、最後の一人を仰ぐ。

「猪神は?」

「そうだ、お前も俺たちと同じだ」

 牛貴も思い出したように見遣る。呼びかけられた猪神はしかし、聞こえていないかのように、二人に横顔を向けていた。

「豚っていう動物は人間が猪を改良してできた生き物だろう。あいつらはそれを殖やして殺して食っているじゃないか。黙っていられるのか」

 猪神は頷き、どすの利いた声で言った。

「俺は神様に従う」

「猪神!」

 鶏洋の悲鳴に視線だけを送り、猪神は吐き捨てるように言う。

「嫌なら力を返して、役目を断ったらどうだ。やりたいって奴は他にいくらでもいんだろ。その代わり年に名をつけてくれるって話も、なかったことになるだろうがな」

 牛貴と鶏洋は口をつぐむ。このために昨晩から夜通し歩いてきたことと、朝早くから飛んできたことを考えた。しかし程なく結論が出る。

「牛貴」

 鶏洋が呼びながら向き直る。そして翼を広げて見せた。

「これを切り落として。人間を守るための力なんて、私はいらない」

「任せろ。その後で俺もこいつを返す」

 牛貴は頷いて斧を上段に構え、天を仰いだ。鶏洋は切られる激痛に耐えるために身を強張らせる。

(早まるな!)

 振り下ろされた牛貴の斧は、鶏洋の右の翼の根元に触れたところで停止した。一本だけ奪い取られた羽根がひらひらと舞い、鶏洋の足元に落ちる。

(牛貴、鶏洋。お前たちの言うとおりだ)

 神様は呟き、さらに続ける。

(人間は動物にとって必ずしも味方とは限らない。彼らを快く思っていない者もいるだろう。これまでもこれからも、仲間が迫害されたり、殺されたり、食われたりする者もいるだろう。しかし、それでもやってもらいたいのだ。そのためにお前たちに力を授けたのだ。どうか私の代わりとなり、妖怪の手から人間を守ってくれ)

 十人がそれぞれに了承を示す中で、牛貴と鶏洋だけはじっと動かなかった。それだけが二人にできる、承諾の形だったのだ。

 牛貴は慰めようとするように鶏洋の肩に手を置き、それによって鶏洋の目を離れた雫が足元の羽根を濡らした。

 こうして十二支が誕生したのである。


 御殿を後にした十二支は、御殿を訪れた順に、そして奇しくも、やがて暦とともに用いられるようになっていった方角と同じ形に円座になって、これからについての話し合いをすることにした。

「とにかく十二人もいるんだから、それを一つにする役目が必要よ。そこで十二支の筆頭として、誰かがまとめ役になるべきだと思うの。どうかしら?」

 子偉の提言は珍しく内容のある良いもので、異論を唱えるものはいない。念を押すように子偉が全員を見回すと、みなそれぞれと目が合ったところで頷いた。鶏洋の目はすでに曲線のそれに戻っており、「いいと思うよ~」と柔らかな返事を付随させた。

「じゃあ、我こそは筆頭に相応しいと思う人は、せーので手を上げてね。それじゃいくよ? せーの、はいっ!」

 その掛け声とともに微動だにしなかったのは、羊帝、猿聖、犬聖、猪神だった。残り八名は全員が高らかに手を突き立てており、牽制するように互いを見合っていた。

 どうせこいつらに任せていたらいつまで経っても、あるいは、大袈裟ではなく永遠に水掛け論が続くだろう。羊帝はそう思い、口を開いた。

「一人一人その理由を聞いていこう。どうして自分が筆頭ならいいと思うのかをね。それじゃあまずは」

「強いからよ」

 羊帝の進行を全く無視したのは竜皇である。

「妖怪から人間を守る十二支。その筆頭となるべき存在ならば、その中で一番強いということが肝心でしょう。そうなると必然的に筆頭は、私か虎王。このどちらかになる」

「同感だ。虎や竜に勝れる動物はこの中にはもちろん、世界中を探したっているはずないからな」

 竜皇の言葉に虎王も同調して頷き、すぐに不服そうな反論が出る。

「戦ってもいないのに勝手に勝敗を決めるな。お前らに百斤あるこの斧を受け止められるのか」

「俺にも万里の疾走がある。誰にも捕まらずに蹄鉄の傷痕を残してやるのは容易いことだ」

「俺は指を蛇にして際限なく伸ばせるんだぞ。その一匹一匹が俺と同じように強力な毒を持っている。俺の毒にかかりゃあ、十二支だろうとひとたまりもないぜ」

「竜と蛇がきょうだいだと言ったのはあなたでしょう。他の連中ならともかく、私にあなたの毒なんて効かないわよ」

「毒が効かなくても身動きを取れなくすることはできる。さっきみたいにな。後は口も塞いでやりゃあ火も吐けないだろう」

「あれは予期していなかっただけ。もう二度とあんな醜態をさらすことはない」

「試してみるか?」

「いいわよ」

 その言葉を合図に、好戦的な五人がそれぞれ牙を剥く。地響きが起こり、野太い咆哮が轟き、分厚い炎が走り、数多の蛇が這い、辺りを土煙が舞っていった。斧と蹄鉄が触れ合う金属音や、肉が肉を打つ打擲音が時折響く。そんな喧騒をよそに羊帝が言った。

「誰かが怪我でもしそうになったら」

「すぐに止めるわ。わかってる」

 とっくに目を閉じて耳を澄ませていた卯后が遮り、羊帝は奪われた言葉の代わりを放つ。

「続けよう、君はどうして自分が筆頭だと思うんだ?」

「私が一番初めに来たからよ」

「なるほどね。君は?」

「誰よりも~、早く~、起きれるからよお~。私が~、鳴かないと~、朝が~、始まらないのよお~」

「そんな理由じゃ筆頭なんか務まらないわよ。だいたいねえ、雌鳥のくせに鳴くんじゃないわよ。鳴くのは雄鶏の役目でしょ」

「でも~、いちばん~、大きな~、声で~、鳴けるのわ~、私だも~ん。だから~、私は~、鶏の~、長なのよ~?」

「それじゃあ君は?」

「こういうバカどもの下で働きたくないだけ」

 卯后は五人の戦闘と、子偉と鶏洋のやり取りと、羊帝の問いかけを器用に聞き分けており、しかめっ面でぶっきらぼうに答えてから目を開き、逆に羊帝に尋ねた。

「あなたはどうしてやりたがらないの?」

「地位に興味がないからさ」

 羊帝もまた彼らを嘲るように吐き捨てる。

「僕は別に誰かの上に立ちたいとは思わない。羊の長であることだってそれほど嬉しくはないんだ。もしも誰もやりたくないっていうなら仕方ないからやってあげるけど、こんなにみんながやりたがってるなら喜んで身を引くよ。君にも聞いておこう、どうして君は筆頭に相応しくないと思うんだ?」

「言うまでもないわ」

 犬聖は笑って答えた。

「私は虎王の足元にも及ばないし、虎王と力比べをしてる竜皇にも勝ち目はない。蛇地のような強力な武器もなければ、馬天ほど足が速いわけでもないし、鶏洋みたいに空を飛ぶこともできない。そりゃあここにいる誰よりも鼻は利くけど、それで何かを考えることはできない。卯后みたいに賢くないからね」

「それを知ってる分だけあなたは賢いわよ」

「ありがと」

 卯后と微笑みを交わし、犬聖は続ける。

「私がこうして十二支の一員になれたのは、すごい幸運なんだと思う。私はその一員であることを誇りに思ってる。それだけで満足なの。だから私は十一番目で十分」

「ちょっと待て、十一番目ってのはどういうことだ? まさかその次が俺だって言うんじゃないだろうな」

 身を乗り出してきた猿聖を冷ややかに一瞥した途端、犬聖の口調は横柄に変わった。

「あんたと私を比べて私が目上になるのは当然のことよ」

「撤回しろ。俺だってお前と似た理由で筆頭に相応しいとは思わないが、お前に劣るということはない」

「猿が犬に勝てると思ってるの?」

「そういえばさっきの勝負…預けたままだったなあ…」

 猿聖は片膝を立てて犬聖を睨みつけ、背中と腰の剣に手をかける。犬聖も目を剥いて立ち上がりかける。

「今やるって言うの? 私は虎王のおかげで爪で戦うことを覚えた。絶対に負けやしないわよ」

「黙れオス犬」

「オ…オス犬ですって…! このチビ猿!」

「てめえ! 世の中には言っていいことと悪いことがあるんだぞ! 人が気にしてること言うんじゃねえよ!」

「だったらオス犬は言っていいって言うの! このチビ猿! チビ! チビチビチビ!」

「オス犬! メスのくせにオス犬!」

 猿聖は舌打ちして剣を引き抜き、犬聖はグルルルルと爪を見せつけた姿で身構え、卯后は耳を押さえる。その直後猪神が二人より早く立ち上がると同時に叫んだ。

「いい加減にしねえか!」

 その怒号に全員が動きを止め、驚いて猪神に注目する。猪神は辺りを見回して一人一人に鋭い目線を、特に初めの二人には重点的に留めながら、滔々と話した。

「牛貴、鶏洋、俺だって人間を憎からず思ってるわけじゃねえんだ。仲間が都合のいい家畜にされるのを黙って見てることしかできなかった………あの屈辱は忘れてねえし忘れられねえ。だが今はもう、そんな個人的な恨みや憎しみは捨てた。お前らだってそうだろう。だから十二支になったんだろう。俺たちは人間を守るためのものに生まれ変わったんだ。誰が偉くて偉くないかなんて関係ねえ。みんな仲間なんだ。力を合わせて助け合っていかなきゃならねえ。それなのに地位なんかを争ってどうすんだ。情けねえと思わねえのか!」

 迫力に気圧されただけではなく、一つの齟齬もない正しい言い分に全員が黙り込み、決まり悪くしかめた顔をうつむかせた。ただ一人、いつも以上に微笑みを豊かにした羊帝は、何度も頷いてから尋ねた。

「それじゃあ君の意見を聞こう。誰が筆頭ならいいと思う?」

 猪神は頷き返し、真剣な表情で言い放つ。

「子偉だ」

 名を呼ばれた本人も含め、全員が仰天した顔を上げた。

「一番初めにやってきたのは子偉なんだろう? だったらそれでいいじゃねえか」

「そうでしょそうでしょ? 猪神はわかってるねえ」

 ただ一人狂喜する子偉を残し、残り全員が即座に猪神の周りに集った。

「バッッッッッカじゃないの!」

「お前俺が言ったこと聞いてなかったのか」

「悪いことは言わないからそれだけはやめるんだ」

「気は確か?」

「もういい。あいつじゃなければ俺は降りても構わない」

「その目的を達成することができなくなるぞ」

 ほぼ全員が何かを言い、猪神は十人一色といった顔を見回して表情を曇らせる。

「実を言うと俺…最後に来たからよくわからねえんだ…あいつのこともそんなに知らねえし…」

「そりゃそうよ。知ってて言ってたら大バカよ」

「そこまでヤベエのか?」

 十人が揃って頷き、子偉は口を尖らせる。

「失礼なこと言わないでよ、ちゃんとみんなをまとめてみせるわよ」

 十人が揃って不信の目を子偉に向けたが、羊帝はその疑念をいち早く捨てることにした。

「それじゃあ手始めに、これからどうしたらいいか、指示を出してくれ。僕らはどういう風に妖怪たちと戦っていけばいい?」

「それは簡単」

 子偉は胸を張り、十一人は次の言葉を待つ。子偉はおもむろに卯后に顔を向けた。

「卯后、考えなさい」

「………」

「………」

「………」

「………」

「………」

「………」

「………」

「………」

「………」

「………」

「………」

「それを私が良いか悪いか判断するから」

 何かがプツリと切れたように、卯后の耳が真後ろに傾き、そのまま体と一緒に倒れていく。図らずもそれを抱き止める形となった猪神は、頬を軽く叩いて呼びかけたが、返事はなかった。

「コイツ気ぃ失ってるぞ」

「仕方ないさ、僕だってもう正気を保っていられそうにないもの」

 羊帝はぶるぶる震える手で矢を一本つまんだところで、その手をそっと押さえつけられた。振り返ると竜皇が目線を外さずに首を振っていた。

「あなただけに手を汚させるわけにはいかない」

 それは竜皇と同じように力強く羊帝を見つめる仲間たちの総意だったが、羊帝は笑顔で首を振り返した。

「咎められるのは僕だけでいい」

「でも…」

「ねえ、みんなして何怒ってるの?」

 その一言で、それすらできない卯后とそれを支えている猪神を除く残り九人の何かが壊れた。

 彼らは一斉に子偉に襲い掛かり、子偉はそれでもなぜそうなっているのかが理解できていないようで、人の姿で獣の姿であっちへこっちへと逃げ惑いながら、「なんで? なんでえ?」とその理由を悲鳴の合間にしきりに聞いていた。そして誰もそれに答えようとはしない。

「俺のせいか…?」

 一寸先さえ見通すことのできない、それどころか卯后の耳でもかすかな音すら聞き取ることのできないような、そんな茫漠とした暗闇が、自分たちの前には広がっているに違いなかった。そしてこれからその奥へと、能天気な先導に従って足を踏み入れていかなければならない。そんな絶望めいた不安を全面に漂わせた卯后の困憊した表情を眺めて、猪神は思わず呟いた。

「猪神! そんなのどうでもいいから! 早く助けなさい!」

 子偉から名指しで要請されたが、猪神は卯后の介抱という、そのどうでもいいことに専念することにして、それを全く無視した。十一支になることをどこかで期待もしていた。

「あなた筆頭の命令が聞けないのキャアアアアアアアアア!」

 それからしばらくは悲鳴の合間に助命の言葉が繰り返され、それはだんだんと高飛車な命令から懇願に変化していく。そして止むことはなかった。

 やがて猪神の腕の中で覚醒した卯后は、若干の躊躇を見せたものの、後一息で虎王の爪が切り裂いていたというところで、子偉へのタコ殴りをやめさせた。

「一応は、仲間だからね」

 それから一番初めの指示として、目的を達成するまでは、いかなる理由があっても仲間内での戦いや諍いは避け、時には助け合い、けして傷つけ合うことのないようにということを告げ、泣き腫らした子偉が誰よりも早く、かつ熱心に賛同した。

 そして十二支はまだ見ぬ妖怪との戦闘に備え、また同胞たちに神様からの言葉を伝えるために、それぞれのねぐらへと散っていった。


 翌日の朝早く、神様の御殿の門を叩く者が現れた。

 訝るように門が開き、中に入ってきたのは、猫丸だった。神様はひどく驚いて問いただす。

(猫丸、一体どうした。何をしに来たのだ)

「何をって…新年のご挨拶に来たんですよ」

 呆れて答えてから、猫丸は腰を下ろす。

「神様がそうしろって言ったんでしょ?」

(何を寝ぼけているんだ。呼んだのは昨日だぞ)

「昨日?」

(そうだ)

「でも、元日に人様の家を訪ねるのは失礼だって」

(私は神だ)

「ぼ、僕もそう思ったけど…でも、子偉がそう言ったから」

(どういうことだ?)

「えっと…」

 猫丸は口ごもり、しかし正直に答える。

「僕…いつ来ればいいのかを忘れちゃって、それでこの間、子偉に聞いたんです。そうしたら二日の朝だって言われたから…」

(うーむ…)

 神様は頭を抱えるみたいに言った。それからおもむろに続ける。

(猫丸、お前は騙されたんだ)

 猫丸の目がぎょっと見開かれた。神様はさらに言う。

(子偉にな)

「嘘だ!」

(私が嘘などつくものか)

「だって、子偉は大の仲良しで、大切な友達で、僕に嘘なんてつくはずがないよ」

(だが私は元日に来いと言った。昨日にはちゃんと子偉を初めとした十二人がここを訪れた。私は彼らを十二支と名付け、これから先に訪れる年に名を冠してやる約束をし、妖怪から人間を守る使命と、そのための力を与えてやったのだ)

 猫丸は呆然としたまま言葉を出せない。

(子偉は牛貴の背に隠れて乗ってきたともいうことだし、それしか考えられないだろう)

「で、でも! でもそんなことしていいの?」

(私も方法までは定めなかったからな)

「そんなのずるいよ!」

(気の毒だとは思う)

「何とかしてください、僕だって、その、十二支っていうのになりたい。お願いします」

 猫丸は猫背をさらに丸めて土下座みたいに頭を地面につける。見える形でその場にいたら、神様は首を振っていたに違いない。

(十二支はすでに決まったのだ)

 顔を上げた猫丸の表情は目に見えて歪んでいく。

(子、丑、寅、卯、辰、巳、午、未、申、酉、戌、亥とな)

 猫丸は目を剥き、歯を食いしばり、今にも飛び掛からんほどの迫力を帯び、

(猫を入れてやる余地はないのだ)

 そこでそれが言葉となって炸裂した。

「僕は子偉に騙されただけだ! 全部子偉のせいだ! 僕が悪いわけじゃないじゃないか!」

 それきり静まった場に、呼吸を整える猫丸の荒い息遣いだけが聞こえていた。それが収まるぐらいの頃、神様の厳しい口調が響き渡る。

(私に言われたことを忘れるお前にも問題がある)

 猫丸は泣き出しそうな顔になって口をつぐんだ。

(子偉を責める前に、己の非を責めろ)

「………」

(話すことはない。もう帰れ)

「………」

 猫丸はそれ以上言い返す言葉を見つけることができず、すごすごと御殿を後にした。

 帰路の間に一升ほどは泣いたろうか。

 あんなに仲良しだったのに。あんなにいっぱい遊んでいたのに。その子偉が自分を騙すなんて。

 そう思うと悲しいやら悔しいやら情けないやらで涙が止まらず、そのうちに段々と子偉に対する怒りと憎しみが込み上げてきて、それは十二支たちに対する逆恨みにも形を変えて広がっていく。

 猫丸はすぐに仲間たちに事の顛末を伝え、全ての猫の間に全ての鼠は敵だという考え方が植え付けられた。しかし子偉もすでにそのことを鼠たちに広めていたらしく、それまで良好だった猫と鼠の仲は一気に険悪になり、猫と見れば鼠は逃げ出し、鼠と見れば猫は追い回すようになった。

 特に猫丸に至っては、いつか子偉を見つけ出し、自分の手で復讐を遂げてやると、強く決意したのだった。

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