百八拾五
7月3日(火)0時00分
どうにか病室から連れ出すことに成功した俺は無人の稲穂学園に侵入し、サッカー場の真ん中にまできていた。
辺りに人の気配はなく、虫の鳴き声だけが聞こえてくる。
あいにくの曇り空で星は見えず、足元も覚束ない。
見つかり難いのは嬉しいが、これだと相当近づかないと何があるのかは分からないな。
ぎやまは未だにぐるぐると包帯を巻かれた腕を庇いながら、つねは両手に杖を付きながら。
ここまでの結構な距離を自力で歩いてきたから若干シャツが汗ばんでいる。
腕の傷と出血多量だったぎやまは手術と輸血でどうにか回復してきたようだが、腕の傷(手首から肘にかけての大きな傷)は一生痕が残るそうだ。
全身に裂傷や切り傷を大量に受けたつねの体にもやはり傷痕は残るらしい。
しかもより多くの呪いやら何やらを受けたせいで未だに癒着しない傷もあるのだとか。
本来集中治療室とまではいかないが、いつでも対応できる所で待機していなければいけないらしい。
俺たちの手を借りずに飄々とした態度を崩さないのはさすがだ。
ちなみに今はコンタクトでなく眼鏡だ。
本人は「トンちゃんが出せれば杖代わりになるのになー(‐ω‐)」とか何とか呟いていた。
「…零時になった。三日月さん、まだ来てないの?」
手元を覗きながらぎやまが聞いてくるが、俺もこの時間に稲穂学園に来るよう言われていただけで、もしかしたら場所が違う可能性もある。
改めて辺りを見渡そうと時計台の方を向いた途端、
「…え?」
唐突に先ほどまで闇に包まれていた校庭、校舎が鮮明に見えるようになった。
顔を上げると、いつの間にか空を覆っていた雲がちょうど稲穂学園の真上だけ晴れていた。
楕円形の雲の切れ間からはかすかな存在を現す弓状の月が見えた。
「あ、阿部君!」
隣で俺同様に空を見上げていたぎやまが何かに気づいたように言った。
「月が、満ちて…」
言われてよく見てみると、ほんの僅かずつだが月が満ちてどんどん満月へと近づいていっている。
「…二人とも、あっち」
今まであまり口を開かなかったつねが杖から手を離して、震える指先を俺たちの向こう側、校舎寄りのサッカーゴールの方に向けた。
そこには…
「三日月…さん?」
月光が一点に集中してスポットライトのように三日月のことを照らしていた。
月の光でできた円形の舞台の中心で、天女がゆっくりと舞っている。
あの厚手のローブは脱ぎ去られ、透き通った絹のような髪が舞に合わせて燐光を放つ。
そこだけ世界が切り取られてしまったようだ。
そのあまりにも神々しい光景に、修行で見慣れているはずの俺ですら息を呑んで見とれてしまう。
まるで舞に呼応するように満ち満ちて肥え太っていく月は、半月を越え、とうとう満月にまで膨らむ。
三日月は舞をやめ、顔を薄いベールのようなもので覆い隠した。
そこでようやく俺たちはハッと目が覚めたように動きだす。
無意識に息を止めていたらしい。若干呼吸が荒くなっていた。
もしあのままもっと長く続いていたら、そのまま死んでしまっていたかもしれない。
素直にそう思えるほどに、俺たちは魅了されていた。